小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『トスカ』(7/10)

2024-07-12 12:28:03 | オペラ
新国立劇場『トスカ』の二日目を鑑賞。アントネッロ・マダウ=ディアツの豪華な演出は2000年から新国で上演され、今回が9回目。個人的には5回目の鑑賞になるが、4年ぶりの新国トスカはゼッフィレッリ版より格段に豪華に感じられ、あらゆる瞬間が完璧な絵のようだった。若くて美しいジョイス・エル=コーリーのトスカ、勇敢で押しの強いテオドール・イリンカイのカヴァラドッシなど歌手陣も良かったが、この公演で最も心を揺さぶられたのはピットのオーケストラの美麗さだった。1952年生まれの巨匠マウリツィオ・ベニーニと東京フィルの強力な協調体制が、オペラを最高のものに仕上げていた。

今年はプッチーニ没後100年で、先月から二本の『蝶々夫人』のライブビューイング(ロイヤル・オペラ・ハウスとMET)、パッパーノ最後の任期となるロイヤル・オペラ・ハウス『トゥーランドット』など、立て続けにプッチーニ・オペラを観る機会があった。重層的でドラマティックなオーケストラ、ヴェリズモ的な歌手たちの演技にオペラの最高の完成形を見る思いで、こんなものを書いてしまう作曲家の脳はどのようになっているのか甚だ謎だった。

『トスカ』は1900年1月の初演で、プッチーニは1858年12月生まれだから、実際のところ40歳でこのオペラを書いている。その4年前には『ラ・ボエーム』、4年後には『蝶々夫人』を書いていて、『トゥーランドット』はその20年後…と記者会見で説明してくれたパッパーノの言葉を思い出した。指揮者は指揮台の上でスコアに敬意を評しつつ、心のどこかで「40歳でこれを書いた…!」と驚きを隠せないはずだ。
マエストロ・ベニーニと東フィルは何度目の共演だろう。冒頭の恐怖のモティーフから、雄弁で心理的な音が飛び出した。ピットの床を高めに設定しているのか、指揮者のやっていることがすべて見えるのが嬉しい。こういう見方をしていいものか分からないが、3時間の公演で、ほぼピットとマエストロに釘付けになってしまい、素晴らしいことが行われている舞台のまぶしさよりも、暗闇で行われていることに心を奪われていた。

堂守の志村文彦さんの、片足を引きずるような演技が今回も本当によく出来ていて、堂守が教会でぶつくさとつぶやく場面からピットは宝石箱の輝きで、セットの階段までもがオケの音によって造形されている感覚があった。リコルディの安い版のスコアを持っているので後から見てみたが、かろうじておたまじゃくしを追えるだけで、このびっしりと書き込まれた縦の線を指揮者が「音楽」にしていくのは素人の自分にとっては奇跡としか言いようがない。歌手たちは最高のオーケストラに包まれて、幸福な気分で歌っているように見えた。テンポも自然で、呼吸するような感じ。一幕でトスカとカヴァラドッシが無邪気に(!)で歌うデュエットでは、管楽器パートから小鳥や色とりどりの花を思わせる音が飛び出し、こんなにカラフルで陶酔的なオーケストラをプッチーニは書いていたのだ…と驚かされた。初めて聴くような世界だった。

スカルピアは健康上の理由で降板したニカラズ・ラグヴィラーヴァの代わりに青山貴さんが登板。悪役メイクで豪華な「テ・デウム」を歌い、2幕でのトスカ拷問も役になり切っていた。黒光りする迫力のバリトンで、青山さんの恵まれた声質が悪役でも生きていた。トスカ役のエル=コーリーは肉食系の濃い演技で相手役にぶつかってくるが、スカルピアは不動の威厳でエゴを通していく。精神の力を感じる修羅場だった。

ライトモティーフの組み立て方が、ワーグナーより洗練されている…というか、もっと無意識の次元に食い込んでいて、出来事・状況・心理といった全体の成り行きが、登場人物の輪郭を超えて交通している。アンジェロッテイ、堂守、スカルピアは全くの別人だが、あるモティーフを共有していて、マイナーになったりメジャーになったりしながら魔法のしりとりのように組み立てられていて、それは「夢の論理」とも呼びたい無意識層のロジックによって完成している。激越な表現となるカヴァラドッシの拷問、トスカの殺人のシーンはマエストロも炎のようになって指揮棒を震わせていた。最初から最後まで「一生懸命」な指揮で、心を込めてオケを導いているのがわかった。ベニーニは人生の中で何度「トスカ」を振ったのだろう。彼の人生のすべてが指揮棒に託されていた。

そのことを、オペラに関して百戦錬磨の東京フィルはすべて理解して、オーケストラの経験値を総動員して応えていた。日常的に劇場の響きを知り尽くしている強味を活かして、「この劇場で上演されるトスカ」の最高の響きを目指していたと思う。ピットの中で、お互いの音がどう聴こえているのかは分からないが、劇場全体に広がる調和は奇跡的で、今まで聴いたどのプッチーニよりも心に響いた。
ラストまで緊張の糸は切れず、歌手たちも事故なく過酷な役を歌い切った。「プッチーニとは何者か」という問いの答えが少しずつ頭の中ではっきりしてきて、それはありきたりのようだが「音楽で心理を表現するすごい天才」ということに尽きた。『蝶々夫人』も『トスカ』も残酷物語であるどころか、こんなに清潔な作品はない。音楽には美しかなく、寄木細工のようなオーケストラは一秒も退屈な音を鳴らさない。喝采の中、舞台に上がったベニーニが、チェロや管楽器を演奏するジェスチャーをして、ピットの奏者に敬意を評していた姿も素晴らしかった。歌手だけでなく、作曲家が書いたすべての音譜をすべての細胞で聴いた心地がした異次元の名演。












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