新国『コジ・ファン・トゥッテ』の初日を鑑賞。ダミアーノ・ミキエレット演出の「サマーキャンプ」コジの再演は11年ぶりだというが、この面白い演出を観てからそんなに時間が経っていたことに驚いた。2011年の初演と2013年の再演では、18世紀ナポリを現代に置き換えたエキセントリックな発想にただただビックリしたが、今回これが本質的に優れていることを改めて実感した。
モーツァルトの音楽が、テントやキャンピングカーやバーベキューグリルに全く邪魔されないどころか、逆に活き活きと輝いている。ミキエレットは2014年の二期会『イドメネオ』の上演のとき来日しているが、気鋭の若手演出家という印象で、コジもイドメネオもあまりに斬新なのでちょっと悪ノリしているのではないかと思ったが、そう見せかけておきつつオペラの心臓部をいきなり鷲掴みにしている。「そうか、あの人は天才だったのか」と冷や汗をかいた。
今回の再演のキャストが最高だった。フィオルディリージのセレーナ・ガンベローニもドラベッラのダニエラ・ピーニ(2011年の初演時にもドラベッラを演じた)も、大変立派な歌手で、カジュアルなタンクトップとショートパンツの衣装を着てもらうのが申し訳ないほど神々しい歌声。フェルランドのホエル・プリエトも根性の座った(!)美声のテノール歌手で、見栄えもよい。グリエルモは当初キャスティングされていた歌手が芸術的理由から降板とのことで、大西宇宙さんが演じたが、朗々たるバリトンとサービス精神旺盛な演技で見事な当たり役だった。登場の瞬間からホールを埋め尽くす迫力満点の声で、水遊びの場面で上半身をむき出しにするシーンでは、「つけ胸毛」まで付けていた。本気のグリエルモに嬉し涙が出た。
ドン・アルフォンソはサマーキャンプの仕切り役で、ミキエレットは万国共通の「夏のアルバイトで学生を啓蒙する説教おやじ」をイメージしたのだと思うが、今回は新しいキャラクターだった。この役を演じたフィリッポ・モラーチェはナイーヴな雰囲気を醸し出し、自分がけしかけた若者たちの動きを物陰からつねに覗いていて、自分はデスピーナから迫られると恋愛恐怖症の内気な男性のように怖気づいて逃げてしまう。「本物の愛なんて存在しない」という実験が成功することで、愛が怖くて踏み込めない自分を肯定したいのだ。こういう設定を、過去二回の上演ではちゃんと読み取ることが出来なかった。
デスピーナはお色気たっぷりの機知に富んだ女性で、15歳より年上の設定に見える。九嶋香奈枝さんが八面六臂の大活躍で、コケティッシュでコミカルで見事なデスピーナだった。にせの医者や公証人に変装する場面も最高で、毒を注ぐように姉妹に浮気をけしかける様子も魅力的なのだ。1幕の終わりではドン・アルフォンソとカップルになり(!)ここからドン・アルフォンソは癒されていき、2幕では男女カップル交換の実験には半分興味を失っているように見えた。
歌手たちはこの演出でたくさんのことをやらねばならず、木がたくさん茂っている岩山状態の装置はかなり高速で回転し、そこに登ったり降りたり、ジャストなタイミングで歌い終えて地面に戻ってこなくてはならない。変装したフェルランドとグリエルモの熱演は、他のどの演出にもないほどのヒートぶりで、ロックなバイク野郎に扮した二人は必死に自分の標的を陥落させようとする。愛の悪ふざけに苦しむフィオルディリージに、本来のカップルの片割れであるグリエルモがそっと毛布(?)をかけてやる場面にぐっときた。
コジはそれぞれのソロ、二重唱、四重唱が本当に美しく、モーツァルトは神の旋律を書いたと思わせる。歌手たちの扮装がロココから遠ざかれば遠ざかるほど、音楽の聖なる響きが際立っていく。今回のミキエレット演出がこんなふうに素晴らしく見えたのは、4人が完璧なモーツァルト歌手として真剣に歌ってくれたからだ。
音楽は聖堂で鳴っているようで、目に見えるのは俗っぽいサマーキャンプというギャップ。合唱も現代の若者たちの格好をしていて、一人一人の演技も細かい。恋人たちが戦争から帰ってきて、浮気の結婚がばれ、男たちの悪戯も明るみになるが、一度傷ついた心は簡単に癒されない。恋人たちはよそよそしく離れ、デスピーナも呆れてドン・アルフォンソは孤立する。前回は、二組のカップルがダメになったのを見て、ドン・アルフォンソが「やったぜ!」と喜ぶラストだったが、今回は全く違っていて、誰も幸福にならない結末だった。歌手たちは嫉妬に苦しみ、ヴェリズモオペラのようなアリアを歌い、最後はその愚かさに「笑えない」というゴールに辿り着く。
長いオペラがあっという間で、凄い密度だった。飯森範親さんの指揮は気品とドラマ性を兼ね備え、東京フィルも一瞬たりとも緩まない見事な演奏。演出家とオーケストラ、モーツァルト歌手たちへの尊敬が止まらない「神演」だった。
モーツァルトの音楽が、テントやキャンピングカーやバーベキューグリルに全く邪魔されないどころか、逆に活き活きと輝いている。ミキエレットは2014年の二期会『イドメネオ』の上演のとき来日しているが、気鋭の若手演出家という印象で、コジもイドメネオもあまりに斬新なのでちょっと悪ノリしているのではないかと思ったが、そう見せかけておきつつオペラの心臓部をいきなり鷲掴みにしている。「そうか、あの人は天才だったのか」と冷や汗をかいた。
今回の再演のキャストが最高だった。フィオルディリージのセレーナ・ガンベローニもドラベッラのダニエラ・ピーニ(2011年の初演時にもドラベッラを演じた)も、大変立派な歌手で、カジュアルなタンクトップとショートパンツの衣装を着てもらうのが申し訳ないほど神々しい歌声。フェルランドのホエル・プリエトも根性の座った(!)美声のテノール歌手で、見栄えもよい。グリエルモは当初キャスティングされていた歌手が芸術的理由から降板とのことで、大西宇宙さんが演じたが、朗々たるバリトンとサービス精神旺盛な演技で見事な当たり役だった。登場の瞬間からホールを埋め尽くす迫力満点の声で、水遊びの場面で上半身をむき出しにするシーンでは、「つけ胸毛」まで付けていた。本気のグリエルモに嬉し涙が出た。
ドン・アルフォンソはサマーキャンプの仕切り役で、ミキエレットは万国共通の「夏のアルバイトで学生を啓蒙する説教おやじ」をイメージしたのだと思うが、今回は新しいキャラクターだった。この役を演じたフィリッポ・モラーチェはナイーヴな雰囲気を醸し出し、自分がけしかけた若者たちの動きを物陰からつねに覗いていて、自分はデスピーナから迫られると恋愛恐怖症の内気な男性のように怖気づいて逃げてしまう。「本物の愛なんて存在しない」という実験が成功することで、愛が怖くて踏み込めない自分を肯定したいのだ。こういう設定を、過去二回の上演ではちゃんと読み取ることが出来なかった。
デスピーナはお色気たっぷりの機知に富んだ女性で、15歳より年上の設定に見える。九嶋香奈枝さんが八面六臂の大活躍で、コケティッシュでコミカルで見事なデスピーナだった。にせの医者や公証人に変装する場面も最高で、毒を注ぐように姉妹に浮気をけしかける様子も魅力的なのだ。1幕の終わりではドン・アルフォンソとカップルになり(!)ここからドン・アルフォンソは癒されていき、2幕では男女カップル交換の実験には半分興味を失っているように見えた。
歌手たちはこの演出でたくさんのことをやらねばならず、木がたくさん茂っている岩山状態の装置はかなり高速で回転し、そこに登ったり降りたり、ジャストなタイミングで歌い終えて地面に戻ってこなくてはならない。変装したフェルランドとグリエルモの熱演は、他のどの演出にもないほどのヒートぶりで、ロックなバイク野郎に扮した二人は必死に自分の標的を陥落させようとする。愛の悪ふざけに苦しむフィオルディリージに、本来のカップルの片割れであるグリエルモがそっと毛布(?)をかけてやる場面にぐっときた。
コジはそれぞれのソロ、二重唱、四重唱が本当に美しく、モーツァルトは神の旋律を書いたと思わせる。歌手たちの扮装がロココから遠ざかれば遠ざかるほど、音楽の聖なる響きが際立っていく。今回のミキエレット演出がこんなふうに素晴らしく見えたのは、4人が完璧なモーツァルト歌手として真剣に歌ってくれたからだ。
音楽は聖堂で鳴っているようで、目に見えるのは俗っぽいサマーキャンプというギャップ。合唱も現代の若者たちの格好をしていて、一人一人の演技も細かい。恋人たちが戦争から帰ってきて、浮気の結婚がばれ、男たちの悪戯も明るみになるが、一度傷ついた心は簡単に癒されない。恋人たちはよそよそしく離れ、デスピーナも呆れてドン・アルフォンソは孤立する。前回は、二組のカップルがダメになったのを見て、ドン・アルフォンソが「やったぜ!」と喜ぶラストだったが、今回は全く違っていて、誰も幸福にならない結末だった。歌手たちは嫉妬に苦しみ、ヴェリズモオペラのようなアリアを歌い、最後はその愚かさに「笑えない」というゴールに辿り着く。
長いオペラがあっという間で、凄い密度だった。飯森範親さんの指揮は気品とドラマ性を兼ね備え、東京フィルも一瞬たりとも緩まない見事な演奏。演出家とオーケストラ、モーツァルト歌手たちへの尊敬が止まらない「神演」だった。