今朝の中日新聞4面に「考える広場」“気分はもう戦前?今の日本の空気”というコーナーがあって、3人の著名な方々(火垂るの墓
の監督をした高畑勲氏、「ミッチー・ブーム」を書いた石田あゆうさん、そして政治学者の三浦瑠麗さん)の意見が載っていました。
三浦瑠麗さん以外の方は、日本社会の現況を捉えた上で過去(戦前)現実にあった出来事を対比しながら、ご自分が感じている危
惧を述べていました。それぞれ、専門的な研究から得た考えを事例を出して説明していました。
もう一人の方、三浦瑠麗さん(国際政治学者)の意見はというと、乱暴に一言で表せば「机上論に終始した詭弁」
彼女は、「戦前回帰を心配する方々が思い描く“戦前”のイメージに不安を覚え~」「大日本帝国が本当の意味で変調を来たし、人
権を極端に抑圧した総動員体制だったのは、1943年~1945年のせいぜい2年程~それ以前は、経済的に比較的恵まれ、今よりも
世界的な広い視野を持った人を生み出せる、ある種の豊かな国家だったと考えています。それをすべて否定するのは一面的で過去
を見誤っています。」と。
年表には、国家総動員法がその年に施行されたとは書いてありますが、現実社会は、たったそれ程の期間だけの国家総動員では
なかったのです。
それに 「たった2年程の期間」に どれほど残酷な悲劇が積み重なっていたかの事実を全く無視したかのような彼女の思考に浅慮さ
と共におぞましさすら感じました。戦争被害から72年経った今でも苦しみの日々を送っている人々が多くみえるという事実にすら目を
背けています。それとも確信的に無視しているのでしょうか?軽薄そのものの発言で、許しがたいものです。
(私は、その時代に生まれていなかったので、以降の事実は、祖父母、父母、叔父や叔母、近所のおじさん、おばさん、出会った
人々、戦前・戦中・戦後を生き抜いてこられた人の講演、その時代を生きた学者さんの講演等から得たものです。)
三浦さんは、「総動員体制」がたった2年で、それ以前は日本がある種の豊かな国家だったと考えているそうですが、これは、全く事
実誤認です。
1945年の敗戦に至るまで、およそ12~3年は、軍国気運の中で所謂庶民の生活は、決して経済的に恵まれていたわけでなく、貧困
であることが普通だったのです。(彼女は、二世代前の方々に直接お話を聞かれるとよいですね。)
当時の人々の思考は、権力を持つ為政者の考えに同化させられていました。「教育勅語」が教育の規範です。
学校に行けば、朝礼時「朕思うに~」と先生が唱えると、生徒は全員「直立不動」の姿勢になりました。少しでも体勢を崩すと理由の
如何に関わらず問答無用に竹刀で叩かれたのです。(民主主義の下では、あり得ない理不尽さです。)
差別や偏見を「差別・偏見」と意識する事すら出来ない教育と風潮の中で、庶民は、忍耐と貧困な生活を当たり前だと洗脳されまし
た。国家の為という大儀名分の下、あの時代の社会は庶民の「犠牲」の上に支配層が胡坐をかいていたと言っても過言ではありません。
三浦さんのいう「世界的な広い視野を持った人を生み出せる、ある種の豊かな国家」とは程遠いものです。
そして、「世界的な広い視野を持った人」とは、誰を指すのでしょうか?ナショナリズムと歪んだ征服欲に塗れた権力者や本はあり
ましたが、これは、世界的な広い視野とは言いません。自己愛に基づいた果てしない欲望を正当化した、稚拙で狭量思考そのもの
のあの頃のリーダーの面々をいうのでしょうかね。
本当の意味での世界的視野を持つ人々は、当局から弾圧されて彼らの思想を話すことすらできなかった筈です。
三浦さんの主張する「ある種豊かな国家」を満喫していたのは、一部の支配層だけだったのでしょう。私は、現実に聞いたことがあり
ません。あの時代を生きた善良なる人々は、一様に「あんな酷い時代に戻りたくない」と訴えていますよ。
更に 違和感を覚えたのは、時の支配層や為政者がアナキズムや共産主義を「脅威」と断じていた事を同じく彼女が「脅威」と述べて
いたことです。こういう言葉をさらりと言っている事にある種「意図的」なものを感じましたね。
(三浦さん)「あまりにも大きな犠牲を払った総力戦への反省に立脚するう平和主義は一国のものですか~日本が戦争をしないことに
しか関心がない考え方は、世界に向かって普遍的に説明できるものではありません。志が低い。矮小化された平和主義~支持を得
られなくなってきている~」
尤もらしく述べていますが、彼女の認識不足によって内容は誤りだらけです。
「矮小化された平和主義」 ?戦後、日本の人々が、実体験に基づいて訴えている「戦争放棄・平和主義」の事を言うのでしょうか?
戦争によって、あまりにも大きな犠牲を払った国の中の一つである日本は、その中でも最たるものでしょう。
あの戦争での犠牲が世界でも群を抜いて悲惨だったからこそ、「国際紛争の手段として決して戦争をしてはならない」と戦争を体験し
た人々やその人々の話を聞いたり戦争に関する文献を読んで、心底「武力行使の愚かさ」を訴えているのです。
「志が低い」のは、架空の脅威に対して「武力行使をしない」という世界的な議論を先導せずに 「武力容認の対処療法」だけを良し
とする狭量・浅慮です。
世界に先駆けた日本国憲法の「平和主義」は、矮小ではありません。壮大な人類共生の理念ですよ。
「矮小化された平和主義」とは、武器や兵器を他国に売り込んでおいて、国内では口先だけで「平和主義」と宣、『積極的平和
主義』のことです。
三浦さんが、ある方向性を持って詭弁を弄しているのは、哀しいほどよくわかります。
現実を見ていない、聞いていない、理想がない、そして机上だけの彼女の意見は、私にとって「脅威」で、こういう人がマスコミで闊歩
している現実こそ危機感を持つものです。
安倍政権になってから、メディアに登場する唾棄すべき コメンテーターのあまりの多さに驚くばかりです。
(ギャラ以外に何か途方もないメリットでもあるのでしょうかね?)
☆的を射たブログがありました!
https://blogs.yahoo.co.jp/kinakoworks/13112404.html?__ysp=5LiJ5rWm55Gg6bqX