常陸大宮里山日記

茨城県の北西。久慈川と那珂川に囲まれた、常陸大宮市のなんだか暖かい里山の暮らし。

馬頭観音

2011-12-31 22:32:49 | 歴史
常陸大宮では、馬に関する野仏や石碑をよく見かける。

山方地域の三太の湯に向かう途中、塚のうえにあった野仏。

一番左側から「男体山・・・供養・・」「(たぶん)馬頭観世音」の碑文がかろうじて読めます。
次は、子供を抱いているように見えるので子安観音でしょうか。
一番右が「馬力神」。

休場展望台からさらに奥の上山(「うやま」と読みます)の集落の入り口、
旧道の分岐点にあった野仏。

左側の二つは腕が六本ある仏さま。これは、馬頭観音の姿。
そして同じく馬頭観世音と馬力神の組み合わせ。

一番左側の馬頭観音は、頭上に馬の頭があった跡があり、斧を持っている。反対側には何を持っているのだろう?
観音様だけど、怒り顔のような気がする。


北富田でみかけた、やはり分かれ道にあった馬頭観世音。


農業が機械化されるまで、馬は常陸大宮の人々にとって貴重な労働力。
常陸大宮でも戦後まで農家には普通に馬がいた。
戦争中は、その大事な馬を徴用されてしまったこともあった。
大宮地域には軍馬の供養塔もあるらしい。
馬頭観音や馬力神は、大事な馬の息災や安全への祈り。そして愛馬の供養。
常陸大宮は馬頭観音や馬力神がとても多い。
ついこないだまで、人々のすぐそばに馬がいて、その絆は強いものだったのだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高沢城の大山祇神社

2011-12-26 22:26:43 | 歴史
美和地域の鷹子。国道293号線を栃木方面に向かう途中、
高沢城址の標柱があるところを左折して、山に入る道があります。
舗装道路はすぐ終わって、山道になるところで、木造の鳥居を発見。
でも、その鳥居のむこうは、斜面が見えるだけ。

不思議に思って鳥居をくぐって見上げると、斜面のはるか上に
小さなお社がありました。
傾斜は厳しいけれど、ジグザグの道があったので近づいてみました。

お社の中をのぞくと「大山祇神社」の札が見えました。
こんなキツイところなのにお社は壊れていないし、鳥居も新しい。
小さいけれど地域の人が大事にしている印象です。

調べてみると、この神社は山城「高沢城」の入り口。
このお社のある尾根をさらに登ると遺構があるそうです。
戦国時代末期、この辺りは、茨城の佐竹氏と烏山の那須氏の国境。
この城は、城というより見張りが主な任務の砦といったものだったらしい。
戦国時代、この辺りもしょっちゅう戦闘があった。

大山祇神社は、「オオヤマツミノカミ」が祭神。
この神様は、山の神でもあり、戦の神でもある。山城の神様。
今は、戦の神を祭っている神社があることに驚かされる、穏やかな地域。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

義民堂

2011-10-25 22:17:14 | 歴史
緒川地域の直売所「かざぐるま」のちょっと南。
国道沿いに「緒川十景 義民堂」の看板。


ちいさなお堂があって、看板があって、周囲はきれいになってる。

たくさんのお供え物が。


お供え物といっしょに、緒川十景と義民堂の説明の資料がありました。
ちょっと、びっくりしました。

明治のはじめ、風水害や冷害がつづき、さらに地租改正、つまり税金が重くなり、人々の生活は困窮。
明治9年、小舟村、上小瀬村でも、嘆願書を政府に提出したものの、とりあげられず、村人たちは騒然。
村人たちは派遣された巡査と衝突、殺害してしまう。
村人たちは、小舟村の名家の本橋次左衛門を指導者として農民隊を組織、一揆を起こした。
農民隊は、県庁に向かうが、藤井村(現城北町)で水戸氏族隊と激突。多数の死傷者をだした。
本橋はじめ多数の中心人物は捕縛、のちに死罪。
日本各地で同様の騒乱が発生し、地租が軽減された。

本橋次左衛門とともに戦った農民たち、殉職した警官、みんな二十代から三十代前半。
こんな若者たちが、命をかけて地域の困窮を救おうとした。
今の常陸大宮の温厚な人たちからは想像できない。
でも、もしかしたら、その時が来たら、立ち上がる人がきっといるんだ。
だって、地元を好きな人、いっぱいいるよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子安観音

2011-10-08 17:27:56 | 歴史
大宮地域の小場新町の県道沿い。
きれいに草刈りしてある道路に面した斜面に、いくつかの石碑とともに
子供を抱いた観音様が祀られています。






この観音様は、膝を立てた如意輪観音ですが、ふところに子供を抱いている姿です。
こういった姿の観音様を子安観音と呼び、常陸大宮、特に大宮地域では多く、
江戸時代の1700年代から明治時代まで作られました。
この観音様も1700年代に作られたもののようです。
子安観音を建立し、信仰していたのは、集落の女の人の集まりであった子安講。
かつては、出産子育ては命がけでしたから、
年に何回か、決まった日に、女の人が集まって、励ましあい、悩みを相談しあい、
安産や子育てのお祈りをしたそうです。
子安講は、どこの集落でも行われていました。
現代では失われてしまった子安講ですが、
今でいう子育てサークルや赤ちゃんの駅みたい。
昔も今も、町でも里でも、母親たちの苦労は変わらない。



かわいい三毛猫が、羽虫でもいるのか、遊んでいました。
私に気づくと逃げて行ってしまいました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上坪の梵天さま

2011-09-19 22:24:27 | 歴史
大宮地域の鷹巣の上坪。久慈川沿いの小さな塚の上に、梵天宮があります。
高長寺のそばで、岩崎の堰から引かれる用水路の傍ら。
のぞいてみると、何の変哲もない小さな祠が見えました。

その時は、春。
なんだか新しそうだし、これといって特徴ないし、紹介するつもりはなかったのですが、
ひょんなことから、この梵天さまの謂れがわかりました。

江戸時代、寛永年間に、湯殿山信仰が流行し、日光でも湯殿山権現を勧請したそうです。
そのとき、湯殿山権現が福島、茨城県の村々をまわりました。
それがきっかけで、この上坪の小塚に湯殿山権現が開かれました。
寛永元年1624年10月3日の記録があるそうです。

新しそうなお宮だと思ったら350年も昔から信仰されていた、
地域の大事なお宮だったんですね。
私が見つけた資料の古い写真では、石の祠ではなく、木造で朽ちかけていました。
そのあと、地域の方々が新しくしたのでしょう。


梵天さまの祭神はスセリヒメ。スサノウノミコトの娘でオオクニヌシの妻となる女神です。
スセリヒメは、蛇除けの神話があります。
久慈川の川辺は、マムシが多かったのかもしれません。
血清のない時代、不運な方もいたのではないかと思いました。
また、梵天とは、神祭用具で、棒の先に御幣という紙を垂れ下げたもので、神の依代のことだそうです。

祠の右側の椿が満開で、まだ浅い春の殺風景な景色に、色を添えていました。
女神さまに捧げられた春の花。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする