常陸大宮里山日記

茨城県の北西。久慈川と那珂川に囲まれた、常陸大宮市のなんだか暖かい里山の暮らし。

第16回庭園フォーラム現地見学会その2養浩園

2019-06-23 15:48:15 | 歴史
美和地域高部地区の岡山邸の名園「養浩園」。
明治時代に作庭され、多くの文人が訪れた。
近年は忘れられ、荒れてしまったこの庭を、
全国の若い庭師さんが一週間、研修を兼ねて復活させてくれた。
当時、選び抜いて植えられた樹齢百年を超す樹木は剪定され、
雨に打たれて気持ちよさそう。
埋もれてしまった庭石もきれいに洗い出されて。
引き込んだ沢水が流れ、池には島もあり、東屋や苔むした灯篭、庭木や庭石は遠方から持ってこられたものもあって、ずいぶん凝った庭だと説明がありました。
大きなモミジの枝の剪定の実演では、見学者から「もったいない」と声が上がったけど、実際に枝が落とされると一気に庭がよく見えるようになった。
どの枝を落とすか、どのくらい落とすか、職人さんの技。

見学会に先立ち、市長さんから「養浩園」の「養浩」の意味の説明がありました。
孟子の言葉で「浩然の気を養う」から来ていて、浩然の気とは、「天地にみなぎっている万物の生命力、物事にとらわれないおおらかな気持ち」だそうです。
百年前、高部地区の活気が伝わってきます。

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第16回庭園フォーラム現地見学会その1「喜雨亭」

2019-06-16 21:02:17 | 歴史
文化庁が造園技術の継承のため、毎年全国の名園で開催する「庭園フォーラム」
なんと、常陸大宮市見和地域高部地区の「養浩園」が選ばれた。
一般参加できる見学会に参加してきました。
たった2時間くらいだったんですが、とっても面白くて何回か分けて紹介します。
高部地区のランドークとなっている「花の友」の管板がかかる望楼。
これは、養浩園を眼下に望むために造られたそうです。

初めて敷地の中から喜雨亭を見ました。
大雨で写真が暗くてよくわかりませんが、2階の様子を覘くことができました。
市の職員さん、ずぶ濡れになりながらの熱心な解説。
建築士さんの調査結果の報告もあって、
とても興味深いお話で、参加者も熱心に聞き入っていました。
「喜雨」とは、杜甫の詩「春の夜、雨を喜ぶ」から名づけられたこと。
3階は色ガラスが格子状に嵌められたオシャレなもの。
壁に、ちいさな桜模様の穴があって、光が漏れることを計算していたらしい。
水戸の好文亭をまねたのではないか、などなど。
喜雨亭は明治20年ごろ、当時、高部地区が街道の宿場町として、
和紙、材木、こんにゃくの産地としてたいへん栄えていたころに建てられた。
山奥のこの地域が高い文化を誇っていたことがわかります。

でも、なにより驚いたのは、今回の調査の結果、
喜雨亭を建てた大工さんが判明したこと。
そしてその大工さんは、いつも私に山の話をしてくれるおじさま、O氏の
ひいおじいちゃんだったこと!
O氏もほとんど毎日喜雨亭の前の道を通りながら、
ご先祖様が建てたと知らなかったそうです。
越後から杜氏と一緒に当地に来て、名士の娘さんと結婚して養子になったらしい。
当時の美和地域の繁栄が、高い文化が、
全国から才能ある人を呼び込んだのではないかと思います。
そして、私は、若く才能ある大工の棟梁と名士の跡取り娘のロマンスがあったんじゃないかと、勝手に想像しています。







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御城展望台~山方城址~

2018-01-07 21:15:17 | 歴史
山方宿近くの国道118号線バイパスを北上するときに山方トンネルの上に見え隠れする、お城。御城展望台。山方城址に昭和61年に模擬天守として整備されたそうです。
ず~っと気になりながら、初めて訪問。
118号線の岩井橋交差点から県道29号線に入って、水郡線をくぐってすぐ右側に駐車場があります。そこから嘆願橋をわたって登り始めます。

嘆願橋は、お城があった時代、農民はこの先に進むことが許されず、
ここで訴えをしていたことから名づけられたとのこと。
ちょっとした上り坂を進んでいくと、お城が間近に見えてきました。

入館料100円を払って、お城に入ります。
1階には山方城の歴史などを紹介する資料が展示されています。
山方城は佐竹氏の重臣で、鎌倉時代から戦国時代まで、
幾度の戦いを経ながら山方地域を治めていた山方氏の城。
佐竹氏が秋田県に移封されたときに一族でついていったため、地名に名残があるのみ。

展望台からは山方宿の様子がよくわかります。
西の内が久慈川の氾濫原に開かれた田んぼであったことや、
諸沢の山々が険しい岩稜で、広葉樹の森であることも。
きっと、この眺めは1000年くらい変わっていないと思う。

城の反対側は小さいけれど立派な梅園がありました。
梅の時期に行くのもいいかもしれません。

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常陸大宮市文書館カレッジ~佐竹の乱~

2017-09-18 21:34:58 | 歴史
先週、緒川総合文化センターで開催された常陸大宮市文書館カレッジ。

とっても面白かった。
歴史なんて人気ないんじゃないかな~なんて思っていたら、
とんでもない、ほぼ満席。大人気。

講義の内容は室町時代に常陸の国に起こった佐竹の乱について。
関東公方足利持氏と室町幕府の争いを背景に、
当時、常陸大宮市や常陸太田市などに地盤があった、
山入氏と常陸の国の宗主佐竹氏の争い。
戦国時代みたいに群雄割拠。目まぐるしく変化する情勢。
長倉城、野田城は何度も戦闘を経験している。
巻き込まれた農民はとても苦しい思いをしただろう。

時代は違うけど、大河ドラマの「おんな城主 直虎」。
戦国時代に大きな戦国大名の争いに巻き込まれながら必死に生き残る道を探る、
小領主であった井伊家の奮闘が描かれている。
佐竹の乱に関係する多くの小領主たちと直虎が重なる。
と、思い至ったら涙目に。政次ロス、重症です。

次回、12月のカレッジが楽しみです。


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河内館

2016-10-24 20:06:35 | 歴史
鷲子宿の善徳寺で、茨城大生のボランティアさんから、
河内館(「こうとだて」と読みます)のお話を伺いました。
善徳寺前を流れる緒川から鷲子宿を望むと国道の向こうに見える山。
ここに、戦国時代には山城があったそうです。

戦国時代はこの辺りは佐竹氏と那須氏の領地の国境。
街道を見おろすこの山に1400年代に築かれた山城は、
堅牢で立派な城であったことが現在も残る遺構からわかるそうです。
今はうっそうとした杉林で覆われていますが、
当時はここに城があって多くの武士やその家族が命がけの日々を送っていた。
そして、江戸時代。平和な時代になって、
鷲子宿は街道を往来する人と物資で繫栄する。
静かな山里の激動の歴史。
緒川は静かにさらさらと流れています。
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