かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』 出光美術館

2015年11月11日 | 展覧会

【2015年11月11日】

 ジョルジュ・ルオーの作品は、出光美術館の膨大なコレクションばかりではなく、いくつかの美術館の所蔵作品として見ることができる。私の記憶では、損保ジャパン東郷青児美術館とパナソニック汐留ミュージアムが所蔵品を展示していたと思う。他にもあったかもしれない。
 パナソニック汐留ミュージアムでは一昨年、『モローとルオー』という美術展が開催されている。さらにその前年、損保ジャパン東郷青児美術館で開かれた『アンリ・ル・シダネル』展では、ル・シダネルの妹マルトと結婚したルオーの絵が別室に展示されていて、二人の画家の対照的な絵がとても印象深かった記憶がある。


《ギ・ド・シャラントネー像》1909年頃、水彩、グワッシュ、パステル・紙、
35.4×33.5cm (図録 [1]、p. 13)。

 会場に入ってすぐに目を惹いたのが《ギ・ド・シャラントネー像》だった。水彩でルオーら8しからぬあっさりした描写ということもあったが、「少し緊張した面持ちの少年」という解説文にあるように、たしかに少年の表情の緊張した感じに強く惹かれたのだ。
 大人と違って、幼いものの緊張した精神は多くの可能性の源泉だろうと思う。大望や希望に成長する緊張、喜びや悲しみに変化していく緊張、絶望や苦悩に落ちこむ前の緊張。さまざまな未来予持を抱えている少年の緊張感のようなものを感じてこの絵に惹かれたのだと思う。


《エクソドゥス》1911年、油彩・紙(カルトンで裏打ち)、63.3×84.0cm、
右下に署名 (図録、p. 21)。

 一昨年の『モローとルオー』展で《避難する人たち(エクソドゥス)》[2] というルオーの作品に感動して、次のような感想を書いたことがある。
 「エクソドゥスと称しながら、この絵はモーゼの民ではなく、二〇世紀の避難民を描いて いる。たとえば、いまやそれはシリアの民であり、フクシマの民である。現代の民は、モーゼの民のように神に導かれて海を渡ることができるのか。ルオーの描く民は神に導かれているだろうが、それでも彼らは黄昏れどきに脱出して、夜へ歩き出すのである。」
 この《エクソドゥス》にも次のような解説文が附されていて、《避難する人たち(エクソドゥス)》を見たときの感想にほとんど付け加えるべきものがないのである。

重い荷物を背負い、体を前に傾けながら、薄暗がりの中をあてどなく黙々と歩き続ける難民の家族。彼(女)らは、ルオーが幼い頃育った下町〈悩みの果てぬ古き場末〉の住人であり、なんらかの理由でそこを立ち去らざるえなくなつた人々、またはそこへと逃れて来る人々の姿である。〈逃れゆく人たちles fugitifs〉〈移住者たちles émigrants)〈貧しい家族pauvre famille)とも題され、以後も描き続けられていくこの主題は、ベルナール•ドリヴァルによれば、1909年のブロワの小説『貧しき者の血』の影響があるという。 (図録、p. 126)


【左】《「ミセレーレ」13 でも、愛することができたなら、なんと美しいことだろう》1923年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、バーニッシャー、
48.1×36.2cm(65.1×50.5 cm)、左下に頭文字と年記 (図録、p. 36)。
【右】《「ミセレーレ」42 母親に忌み嫌われる戦争》1927年、エリオグラヴュール、
シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、スクレイパー、バーニッシャー、
58.3×44.0cm(64.8×50.2cm)、左下に年記と署名 (図録、p. 45)。

 銅版画集『ミセレーレ』に収められた多くの作品の展示のなかで、《「ミセレーレ」13》に描かれた子どもの頬の丸みをとても珍しく思った。たぶん、それはルオーが描いたキリストの顔の描写との差異への驚きのような気分なのである。「でも、愛することができたなら、なんと美しいことだろう」という大きな希望と暖かさを象徴するような子どもの顔のふくよかさなのだろう。
 一方、まったく同じ構図ながら「母親に忌み嫌われる戦争」というネガティヴな主題の《「ミセレーレ」42》では、ぴったりと寄り添う《「ミセレーレ」13》の親子に比べて、二人の間には微妙な空間が存在する。あたかもこの隙間に戦争への親子の不安が漂っているかのように思える。

 

《「ミセレーレ」28 “我を信ずるものは、死すとも生きん”》1923年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、アクアティント、ドライポイント、
57.7×43.5cm(64.8×50.5cm)、左下に署名と年記 (図録、p. 41)。

 《「ミセレーレ」28》は、教会堂によって象徴される神の国を意味しているのだが、この絵は、多くの死者たち(骸骨)を描いた小山田二郎の《愛》や《母》という絵 [3] を強く思い出させる。
 小山田の《愛》に描かれていたのは、無数の人を包み込むであろうマリアの愛なのだが、その愛は無数の死者たちを包含することで成り立っているようなのだ。マリアから母親へと一般化した《母》もまた、背後に多数の死者が配置されているのだった。 《「ミセレーレ」28》に描かれた主題もまったく同様に、死者と救済という宗教の根源的な存在理由がそこには示されている。


【左】《「ミセレーレ」10 悩みの果てぬ古き場末で》1923年、エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、
ドライポイント、バーニッシャー、56.5×42.1cm(64.8×50.5 cm)、左下に署名と年記 (図録、p. 34)。

【右】《ひそやかな喜び》1930年代、グワッシュ、墨、エリオグラヴュール、アクアティント、エッチング・紙、
56.6×41.8cm(65.2×50.2cm) (図録、p. 53)。

 ルオーは、銅版画の主題を油彩やグアッシュでヴァリアントとして描いたという。そのなかで《ひそやかな喜び》は、《「ミセレーレ」10》版画の試し刷りを下絵として描いている。
 構図がまったく同じなのに、モノクロの版画と色彩がのった絵でこれほど印象が反転してしまうというのは驚きである。「悩みの果てぬ古き場末で」や「ひそやかな喜び」というタイトルの文言に感情が誘引されたこともあるだろうが、絵そのもの印象が「悩み」から「喜び」に反転しているのは間違いない。
 色彩による主題の反転が可能であることに、絵画芸術の持つ力、秘術を見るようで大いに感心してしまった。


「《受難》19 “…二つの宮殿に沿うこの荒涼とした道“」1935年、
油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、30.2×19.5cm(45.0×34.5cm)、
左下に署名、余白上部に書込み (図録、p. 75)。

 連作油彩画『受難』に含まれる多数の作品も展示されている。キリストそのものの絵、ゴルゴダの丘や磔刑、受難をめぐる聖書の物語が描かれているのだが、「《受難》19 “…二つの宮殿に沿うこの荒涼とした道“」が、妙に印象に残った。
 二つの建物の間の道を描いた小品で、小品ゆえに線描も色彩もごくシンプルなのに、遠近法で急に狭くなる道になぜかよくわからない惹かれ方をする。しばらく眺めていたが、いっこうに理由は分からないのだった。


《伝説の風景》1938年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、73.5×103.0cm、
右下に署名 (図録、p. 99)。


《たそがれ あるいは イル・ド・フランス》1937年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
101.7×72.6cm、右下に署名 (図録、p. 101)。

 《伝説の風景》はルオーらしい線を堪能できるし、《たそがれ あるいは イル・ド・フランス》では色彩の豊かさが十分に楽しめる。赤を主調とした夕景であるが、所々の鮮明な青の美しさが際立っていると思う。


【上左】《辱めを受けるキリスト》(部分)1912年頃、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、99.6×61.2cm、
右下に署名 (図録、p. 22)。

【上中】《「ミセレーレ」58 “我らが癒されたるは、彼の受けたる傷によりてなり”》1922年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、ルーレット、バーニッシャー、
57.9×47.2cm(65.5×50.5cm)、左下に年記と頭文字 (図録、p. 52)。

【上右】《“イエスがあなたを慰めに来たということは、ひたむきな巡礼者よ、それはあなたが許される
であろうということです”》1930年、墨、グワッシュ、パステル・紙、37.7×33.2cm、
左下に署名と年記 (図録、p. 61)。

【下左】「《受難》23 “思い、深いまなざし“」(部分)1935年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
30.0×20.0cm(45.2×34.7cm)、右下に頭文字、余白上部に書込み 
(図録、p. 77)。

【下中】《キリストの顔》1930年代、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、44.9×27.0cm 
(図録、p. 94)。

【下右】《キリスト(とパリサイ人)》(部分)1938年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
74.3×104.5cm、右下に署名 (図録、p. 98)。

 ルオーの作品にきわめて多いのが、キリスト像である。キリストの顔だけを描いた作品もたくさんある。そこで、1912年41歳から1938年67歳までの間に描かれたキリストの顔を並べてみた。
 成熟していく画家とその画家が描くキリストの表情の変化を見たいと思ったのだが、期待したほどの変化はない。たしかにルオーの絵(とくに油彩画)はいつも安定していて、ルオーそのものとしか呼びようのない絵ばかりなのである。
 とはいえ、上段の3枚と下段の3枚には違いがあるように思える。上段ではキリストは目を見開いてこちらを見つめているのに、下段では次第に目を閉じて最後には黙考するかのように変化している。それは、あたかも壮年時代の湧きあがるような信仰心から、老熟期の沈静へ向かうルオーの精神を映し出しているかのようではないか。


【左】《ピエロ》1953-56年、油彩・カルトン(パネルで固定)、61.2×47.2cm、
G.ルオーのアトリエ (図録、p. 111)。

【右】《アルルカン》1953-56年、油彩・カルトン(パネルで固定)、
70.0×52.5cm (図録、p. 112)。

 会場の最後の辺りで、とても目を惹いたのが並べられて展示されていた《ピエロ》と《アルルカン》の2作品である。このアルルカンは仮面をつけていないので、主題も構図もまったく同じに見えるのだが、会場に立ち止まって眺めたとき、とても大きな違いを感じた。ところが、図録を開いてゆっくりと眺めていたら、あんなに強く感じたはずの違いがどんなだったか、まったく思い出せないのである。
 二人の表情にその違いがあったのは確かなのだが、どちらをどう感じたかを思い出せないのである。強いて言えば、《ピエロ》の善良と《アルルカン》の悪意、ということかもしれない。これは後付けで考えたことなので、ただの牽強付会かもしれないのである。


《「ミセレーレ」44 わが美しの国よ、どこにあるのだ?》1927年、エリオグラヴュール、
シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、スクレイバー、バーニッシャー、
42.2×59.0cm(50.7×65.6cm)、左下に年記と署名(図録、p. 46)。

 最後に銅版画集『ミセレーレ』のなかから《わが美しの国よ、どこにあるのだ?》と題された1枚を挙げておく。
 この絵を、「美しい国」などといういつの時代にもありもしなかった幻想の日本をお題目として、この国を戦争ができる「普通の国」にしたがっている愚昧な政治家たちに捧げておく。

 

[1] 『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』(以下、図録)(公益財団法人 出光美術館、昭和27年)。
[2] 『モローとルオー――聖なるものの継承と変容』(淡交社、2013年) p. 175。
[3] 『生誕100年 小山田二郎』(府中市美術館、2014年)。

 

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