現代の文化にあって、あらゆる他の闘争を左右するような決定的な政治闘争こそ、人間の動物性と人間性のあいだの闘争である。
ジョルジョ・アガンベン [1]
安倍自公政権が推し進める戦争法案や原発再稼働に反対する私たちは、たしかに、戦争によって人を殺さないこと、人々の命が放射能によって脅かされないことを心に据えて闘っている。そのような意味では、私たちは「人間性」の側に立ち、自民党や公明党は「動物性」の側に立っていると考えてもあながち間違いではない。
しかし、ハンナ・アーレントの「全体主義」論、カール・シュミットの国家の「例外状態」論、ミシェル・フーコーの「生政治」論を参照しつつ、人間はどこまで人間であり得るかを考え続けているアガンベンが語ろうとしていることはそれとは少し違うようだ。
近・現代の政治は、統治される大衆(国民)を「生かさず、殺さず」、たんに「生き残らせる」ことに専心している。いわば、私たちの自然な生は「剥き出しの生」として扱われ、その人間性が貶められている、とアガンベンは考える。その極端な例はアウシュヴィッツである。そこにはもはや人間と名指すことすら困難な「ムーゼルマン」と呼ばれるまでに貶められた人々がいた。
それは、ナチス・ドイツに固有で特異な例外と考えることは難しい。今、私たちは、自公政権がナチスのひそみに倣うように憲法を無視する立法を行なおうとしていることや、自公政治家の言説の多くにナチスとの共通性を見ることができるし、イラクのアブグレイブ刑務所における虐待の例を待つまでもなくアメリカ合州国の政治権力もまた同じような性格を帯びていることを知っている。
私たちを「剥き出しの生」として単なる統計の要素として扱う「生政治」は、近・現代政治権力の避けがたい本質である。そうであるならば、私たちの政治的な闘いは、「動物性」の側に押し込めれられようとしている私たちの「人間性」回復の存在論的闘いである。党派性や政治イデオロギーの闘いではないのである。
[1] ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年) p. 138。
《2015年8月21日》
電力会社の保安部門の子会社に近親者がいるという人が、東電が福島第一原発で事故を起こしてから各電力会社が事故対応のため応援を出したとき、それは掻き集められた日雇い労働者であって、けっして電力会社の人間ではなかったのだという話をされた。
そのことは、原発事故が起きても事故に対処することができる人材も技術も電力会社にはないということを意味している。じつに、東電が事故を起こした原発を前にして右往左往することしか能がないという事実とよく対応している。そんな原子力技術に未来がないということはあまりにも当然なことであって、少なくとも国民の将来に責任のある政治家は次のような内容の報道に注目すべきである。
「熟練した技術者の引退が相次ぎ、若年の技術者が原子力発電という将来性の無い分野に進みたがらないことを考慮すれば、原子力発電からの撤退に時間をかけ過ぎること、あるいは撤退そのものをためらうことは、国家の将来にとってきわめて危険なものになり得る。」
フランス国立の原子安全研究所がこのように発表しました。
じつは、学生が原子力工学を見放し始めたのは最近のことではない。少なくとも、15年ほど前に東北大学の量子エネルギー工学(旧原子核工学)専攻の大学院担当教授が年々学生の質が落ちていると私に嘆いていた。その教授は私の後輩なので「たいへんだね」と応えたものの、原発のお守りぐらいしかない学問の将来ということで私自身は「それはそうだろう」と思って聞いていた記憶がある。
《2015年8月23日》
川内原発が再稼働してしまい、反原発、再稼働反対も絶対に手を抜けないのだが、参議院で審議が進められている戦争法案(安全保障法案)も喫緊の問題である。
戦争法案に限らないけれども、安陪首相は「息を吐くように嘘を言う」ということでとても有名になった。確信的に嘘をきっぱりと断言するというのが彼の特徴である。原発関連で言えば、福島の原発事故は「完全にコントロールされている」という嘘、「政府が先頭に立って収束に当たる」という嘘。
それと比べれば、戦争法案をめぐる中谷防衛相などの発言は、その場しのぎの答弁なので支離滅裂になったり、自己矛盾を生じてしまっているというに過ぎないように見える。役人の耳打ちですべて了解できるほどの人材ではないということを示しているだけだ。
安陪首相の虚言は際立っているというものの、政治家が嘘を語るということそのものはとくに珍しい現象ではないようだ。「政治の世界は虚々実々」などということは昔から言われている。
以前に読んだジャック・デリダの『言葉にのって』 [1] には「政治における虚言について」という1章が設けられている。そこでは、政治における虚言についてはプラトンをはじめとして古くから哲学の対象として論じられているとして、なかでもデリダはハンナ・アーレントの著述 [2] から多く引用している。その本は、私が読んだアーレントの著作には漏れていた。
プラトンまで遡るのは私の能力では不可能だが、せめてアーレントの著作くらいは読んでおきたいと思った。現代の日本の政治の舞台で溢れるように発せられる「嘘」を、その原因を個々の政治家の資質に求めるのではなく、政治の本質に由来する虚言としてとらえることが可能なのかどうか、考えてみたいのである。そうすることで、安倍晋三という個人の虚言の本質も見えてくるのではないか、と思う。たとえば、それは子どものでまかせの嘘そのもの……、あるいは、政治的効果が緻密に計算された虚言……などということが見えてくるかもしれないのである。
[1] ジャック・デリダ(林好雄、森本和夫、本間邦雄訳)『言葉に乗って――哲学的スナップショット』(ちくま学芸文庫、2001年) p. 134。
[2] ハンナ・アーレント(引田隆也、齋藤純一訳)『過去と未来の間――政治思想への8試論』(みすず書房、1994年)。
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