宮沢賢治が最期に取り組んだ仕事は、炭酸カルシウムを使った土壌改良剤の販売であった。
そもそも作物と呼ばれるものは、たいてい酸性に傾いた土壌を嫌う。存分に根を張れず、茎葉の弱い個体になってしまう。だから、アルカリ性物質で土壌を中和してやる必要がある。それにはカルシウム化合物がよく使われる。貝殻を土に入れたり、苦土石灰を入れたりする。
岩手の陸中から陸奥にかけては、石灰岩で大地ができていると言ってもいいくらい。陸中の東山町(今は一関市に合併)に東北砕石工場が創業し、石灰石の採取がはじまったのが大正13年(1924)。げいび渓周辺にそそり立つ岩山を掘って石灰岩を採取していた。この石灰岩から生成される炭酸カルシウム(タンカル)は農場や農家の助けになる。事実、小岩井農場は岩手山の火山灰土をタンカルで中和し、事業に成功している。中和には十年以上かかったというけれど。
東北砕石工場を創業した鈴木東蔵は、花巻の肥料屋から、ある男の話をきかされた。その男は農民ではないが、岩石や土壌に詳しく、その土地にあった肥料の「設計書」なるものを作ってくれるという。農民と衝突したり少なからず苦労しているようだが、どうも大変な物知りらしい。
それが宮沢賢治だった。
東蔵は彼を技師として工場に招いた。昭和6年のことだった。
「石と賢治のミュージアム」は、賢治の最期の思い出が詰まっているところ。宮沢文学を好む人ならば、ぜひ一度は訪れてほしい場所。
石の展示がすごい。美術品になる石もある。地学に詳しい人でないかぎり、こんなにまじまじと石を見ることって珍しいんじゃないだろか。
賢治が岩石大好きだったのは周知の通り。宮沢文学には岩石の話題が欠かせない。
でも不思議と彼の語る岩石は埃っぽくないし、ごつごつしていない。むしろ透明で、みずみずしい。
そのみずみずしさを丁寧に再現してくれているのがこのミュージアムだと思った。
ほんとうの科学とは、どこかあたたかく、そして懐かしさを含んでいる。そんなことを教えてもらった気がする。
展示を見てから戸外に出た。やっぱり暑い。やっぱり眩しい。
さきほどの枕木の小径に降りた。
白く灼けた肋骨のような材をぽこぽこと並べてある。微かにクレオソートの臭いがした。
子豚のオブジェ
鉛色に光る甲虫。ヴァイオリン。
左手にトロッコが置いてあった。もちろんレールも伸びている。
乗れってか、これ。
すかさずBELAちゃんが乗る。心得たとばかりに子どもたちが押す。どうしてウチの人たちっていつもこういう役割分担になるんだろう。そんでもって誰も文句言わないし。
わいわい言いながら押していると後ろから声がかかった。
「はい終点ですよ」
BELAちゃんがあわてて降りた。
ご年配のボランティアガイドさん。
砕石作業を手で行っていたときの道具を見せてくれた。それから納屋を抜けてまっすぐ行くと・・・。あれ、これさっき車で通った踏切?
ちょっと頭が混乱してしまうが、何の事はない。「賢治と石のミュージアム」は線路沿いに建物が点在していて、僕らは車で奥まで行って、徒歩で戻ってきたことになる。
踏切の脇には岩山に張り付くように建てられた多角形の建物。やっぱり相当古い。
漆喰の塗られた板戸をずらして建屋の中に入れてもらった。ひんやりと涼しい。
地面に地板を這わせ、そこに直接柱が乗っかっている。かなり原始的な構造。もちろん土足。
薄暗い岩肌がそそり立つ。そこに無数の階段や渡し板が据え付けられている。そしてそれらの一切をぐるりとトタン屋根と板塀が取り囲んでいる。さっき見た外観がそれだ。なるほど。工場というよりは採掘現場だ。
奥に促された。
ぽっかりと石炭庫のような穴が開いている。奥からびっくりするくらい冷たい空気が流れ出していた。
「こちらが坑道です。気温はだいたい14℃くらい。」
外気との差、じつに20℃。Tシャツ一枚では寒すぎる。いや、寒いのは温度のせいだけではない。湿度が高いのだ。シャツが湿気で冷たく冷やされているのだ。
ガイドさんがスイッチを押す。坑内を明かりが奥まで走る。その瞬間に、なにか大きい物が飛んでいた。
「コウモリですね。」
ええっ?
コウモリけっこう大きい。
「天井から水が滲み出ているんです。この奥で掘っていたら水が出ちゃって、そんでこの坑道はこれ以上掘れなくなっちゃいました。まあこういうところです。」
掘りっぱなしの坑道。支柱も何も入れていない。岩盤堅いから?でも水滲みだしているし。
坑道から出ると少しむわっとした空気に包まれた。気温差で頭がおかしくなりそう。
建屋から出るといつもの蝉しぐれ。やっぱり夏でした。