私はキッチンにいた。
そのとき速報が入り、福島の災害を知った。
押し寄せる津波、それに飲み込まれるひと、建物、車。
アメリカ人アナウンサーも度肝を抜かれたみたいに解説していたが、その被害状況が刻々大きくなっていった。
さらに陸前高田市がほぼ全滅したことが告げられると、災害のひどさが手に取るようにわかってきた。
日が変わったらさらに被害のひどさが明確になってきた。
昨日の朝まで、食卓を囲んでいた家族、となりで一緒に仕事をしていた人達がが本当に一瞬でいなくなってしまった。
運命とはいえ、命とははかないです。
私は震災の翌年母を連れて、福島にいってきました。
父の唯一残されたいとこに会うためと、福島災害をこの目に残したかったからです。
飛行機から降り立った仙台空港は原野にぽつんと立っていました。
プレハブの仮小屋みたいなレンタカー店から車を借り、その日は仙台に住む私のいとこの子供と会って、松島の旅館に泊まりました。
そこには葬式帰りの人達が集まっていました。
震災後1年たっても直接的間接的に人は亡くなっているのです。
どこに行っても活気はなかったというのが第一印象でした。
あんな大災害から1年で活気を取り戻せなんてことは言わないけど、東北人間の底力がまだまだ開花していなかった感じでした。
私の父方は南相馬出身。
あの福島原発約30キロのところ。
父のいとこ達はしばらく疎開していたそうですが、私たちが行った頃にはもう自分の家に戻って表向きは普通どおり暮らしていました。
農家をしていましたが、原発のおかげで、もう農業ができなったと生きがいを失ってました。
あのおいしい手作りアンポ柿も食べれない。
父自体は生まれも育ちも北海道豊浦というところですが、小さい頃からあまりにも品行よろしくないため、中学のとき一時的に南相馬に住む、いとこの所に預けられたそうです。
父の葬式のときにはこのいとこ夫婦が夜行列車に乗ってわざわざ来てくれました。
突如たずねていった珍客を驚きと喜こびで迎えてくれました。
みんな元気で何よりでした。
生きていてくれただけでうれしかった、というのがそのときの実感でした。
そこで、お昼をご馳走になり、母と旅を続けました。
東北は父方母方の故郷。
災害のあとなおさら過疎化が進んでいるとのこと。
人口減少老化が激しい日本、避けられないことと思います。
さびしいです。
ハブグレジュンタのマミー
PS: あほ鳩山。根性なし二階。
そのとき速報が入り、福島の災害を知った。
押し寄せる津波、それに飲み込まれるひと、建物、車。
アメリカ人アナウンサーも度肝を抜かれたみたいに解説していたが、その被害状況が刻々大きくなっていった。
さらに陸前高田市がほぼ全滅したことが告げられると、災害のひどさが手に取るようにわかってきた。
日が変わったらさらに被害のひどさが明確になってきた。
昨日の朝まで、食卓を囲んでいた家族、となりで一緒に仕事をしていた人達がが本当に一瞬でいなくなってしまった。
運命とはいえ、命とははかないです。
私は震災の翌年母を連れて、福島にいってきました。
父の唯一残されたいとこに会うためと、福島災害をこの目に残したかったからです。
飛行機から降り立った仙台空港は原野にぽつんと立っていました。
プレハブの仮小屋みたいなレンタカー店から車を借り、その日は仙台に住む私のいとこの子供と会って、松島の旅館に泊まりました。
そこには葬式帰りの人達が集まっていました。
震災後1年たっても直接的間接的に人は亡くなっているのです。
どこに行っても活気はなかったというのが第一印象でした。
あんな大災害から1年で活気を取り戻せなんてことは言わないけど、東北人間の底力がまだまだ開花していなかった感じでした。
私の父方は南相馬出身。
あの福島原発約30キロのところ。
父のいとこ達はしばらく疎開していたそうですが、私たちが行った頃にはもう自分の家に戻って表向きは普通どおり暮らしていました。
農家をしていましたが、原発のおかげで、もう農業ができなったと生きがいを失ってました。
あのおいしい手作りアンポ柿も食べれない。
父自体は生まれも育ちも北海道豊浦というところですが、小さい頃からあまりにも品行よろしくないため、中学のとき一時的に南相馬に住む、いとこの所に預けられたそうです。
父の葬式のときにはこのいとこ夫婦が夜行列車に乗ってわざわざ来てくれました。
突如たずねていった珍客を驚きと喜こびで迎えてくれました。
みんな元気で何よりでした。
生きていてくれただけでうれしかった、というのがそのときの実感でした。
そこで、お昼をご馳走になり、母と旅を続けました。
東北は父方母方の故郷。
災害のあとなおさら過疎化が進んでいるとのこと。
人口減少老化が激しい日本、避けられないことと思います。
さびしいです。
ハブグレジュンタのマミー
PS: あほ鳩山。根性なし二階。