退職女のアメリカ便り

オーストラリアンシェパード、ジュンタのマミーのアメリカ、セントルイス生活

#856: 40年前の今日, それは始まった。

2017-05-21 23:05:10 | アメリカ便り
先ほど、ジュンちゃんの食後のお散歩をしていたときに、“あ!!!”。

40年前の今日でした、私が土埃舞いあがるイリノイ州のとある田舎町に到着したのは。
そして、そこから“だめだったら帰ればいいや”という楽観的思考の元、私のアメリカ生活は始まったのです。

冷房のがんがん効いた空港というより飛行場といった感じの建物のなかで、どこまでも広がるコーンフィールドの向こうから、土埃を舞い上げながら真っ赤な太陽を背に迎えの車が来るのが見えたのを今でもはっきりと覚えています。

23歳まで家から離れたことがなかったのが、いざはなれるとなるとアメリカまで来てしまった。
中学校2年から23歳まで過ごした小さな小さな警察官官舎を後にし、羽田ーハワイーロスーセントルイスーイリノイと“初めての海外”という田舎ものには複雑、そして長時間の旅行でした。
成田空港はまだ開いてませんでした。

その40年の間に祖父母が亡くなり、父も亡くなり、3歳上の兄は心筋梗塞でほぼ寝たきり状態、89歳となった母も認知症やら心不全やら薬を10種類以上飲むようになってしまった。

23歳だった私が63歳となり、息子と娘が26歳と27歳。
私が異国の地で生活できていけるのもやはり、アメリカが自由の国であるということと私が教育を受けたことに負うと思います。
もし私みたいなごくごく一般のアメリカ人が日本で教育を受けたとしても、私みたいに生きていくのは難しいと思います。
やはり、それだけアメリカはオープンな国なのです(でした)。
しかしながら、教育の重要性はアメリカでは余計感じます。
特に移民にとっては教育しかないと思います、アメリカ人と張り合うのは。
それから“何とかなる”という私の楽観的な感覚、“日本人は世界で最高の国民である(つまりアメリカ人は日本人より劣っている)”と信じる事も大事です。
そして、自分を信じることです。

4年ほど前に自伝というほど大それたものではないですが、アメリカ生活36年を綴った本を出しました。
若い人たちに夢を持ってほしいという考えで。
だって中学、高校、大学(見たいなところ)で英語は3しかとったことがない私でもアメリカで生きてこれたんですから。
もちろん自費出版です。

植物園の写真です。
















ハブグレジュンタのマミー