もう少し「オンライン」について
僕はキンコン西野が絵本作家になってからのファンでオンラインサロンに対する考え方も好き(メンバーではないけど…
彼のオンラインサロンと最近のオンラインとは決定的に違うところがある。
そこが僕が違和感を感じるところ。
オンラインで授業をするだの、飲み会をするだのいう対処療法的なデジタル化はとても危険だと思う。(そんな危険だと思っている人はいないでしょう
塾や大学などの日本の教育界は新型コロナウイルスによって生み出された「新しい学習法」だと考えているのだろうか。
あの「ゆとり教育」や「アクティブラーニング」のように(アクティブラーニングはまだ進行形なのかな?
でも恐らく「時代の流れだから…」とスキルを学び、それをスタンダードにしていくのかもしれない。
でも僕はそれはまるで音楽をCDに記録して広がッタように、生音から音域を削除した無味乾燥化した教育がオンライン学習なのではないだろうか。
僕はかつて「学校の授業なんて意味ない」と口には出さない静かな優等生だった。頭では思っていたし、未熟な指導者に教わる生徒は犠牲者だ!とも思っていた。
しかし本当はクラスで集まって何かを勉強するって事は価値のあることだと思い始めている。
それは今、教室に集まることができず自宅待機をしている甥っ子姪っ子を想像したから。
勉強はあくまで口実でいい。
出来がイイのと悪いのが混在してイイ。
理解力なんて学生時代に無理やり押し込んで、大人の理想を口から押し込んでも吐き出すだけ
学校や集団学習の価値は、「隣に同じ境遇の人間がいてそれを肌で感じること」だと思う。
3年間、優秀な大学生達の悩みを100名以上面談して思う。
「自分はそのままで価値があるよ」
「お前めっちゃおもろいな」
「話せんでもお前となら何時間でもぼーっとできるわ」
そういう心の関係性
『肌で感じる人の温かさ』
それが集団学習の本質だ。
それなのに「知識を増やす事」を目的にすると、学力の差は大人達の苛立ちに変わる。
そして挙句、介入の多さに比例する。
過保護な保護者にも同じ事が言える。
周りの大人が大抵そう考えているから、正しい事は「知識が多い事」だと考えて20歳になる。
そして後遺症として「他人の評価が気になってたまらない」という症状が現れる。
そしてまた子供が生まれ、我が子に同じ価値観を押し付け、苛立ち、介入する。
これを聞いて、イヤイヤいやいや、と思うかもしれない。
研究も根拠もない。
でもオンラインで教育を行おうとすることは、その「学習はオンラインで出来る」という些細な閃きから連鎖している。
その些細な閃きが人類を進化させてしまう。
それとは別に、
少なくとも体験学習に価値観を高く持っていた自分だけはオンライン化を疑問視していたい。
知識(目に見えるもの)を大切にしている人達は特に意気揚々とオンラインが価値あるものだと言いたがる。
何故なら伝わると思っているから
何故なら目で見たものから学ぶと信じているから
火の熱さは伝わらない
雨の楽しさも分からない
森の匂いも
魚のヌメヌメも
星空の煌めきも
風の力も
崖の恐怖も
動物の不思議さも
全て何も伝わらない。
オンラインやデジタル化は学ぶ事と相性が良いようで破滅の方向に向かっている。
その事を僕はいつまでも心に刻み込みたい。