この記事のタイトルを見ただけで、多くの人々は読む気をなくすに違いない。私も、だれもこれを読まないことを期待しながらこの記事を書いていますから。
私は、21世紀の科学技術のキーワードとも言われる自己組織化というテーマに関心をもっており、これに関する文献をいくつか読んでいます。しかし、自己組織化のしくみの中心となる概念は、時間に関するリズムと空間的なパターンであるとの教えにも何か身につくまでに理解したという実感をもてませんでした。
このようなときに、以前新聞で紹介されたことのあるチューリングの反応拡散方程式を思い出したのでした。新聞の記事によると、シマウマのしま模様、カエルの斑点、ヒョウの網目などのパターンが何故できるかの問題は、チューリングが提案した反応拡散方程式によってよく説明できるというものです。この方程式は、見かけ上は極めて単純なものであり、式の左辺は各物質の濃度をベクトル表現したものの時間に関する微分を表わしており、式の右辺は第1項と第2項とから成っています。第1項はこの濃度ベクトルに関して反応を示す関数を示しており、第2項はこの濃度ベクトルに関して空間的な拡散を示す第2次微分を表現しています。右辺が第1項だけなら、それはよく知られた化学反応速度を示す方程式に他ならないし、第2項だけなら、これまたよく知られた拡散方程式に他ならないという代物です。すなわち、チューリングの反応拡散方程式とは、周知の化学反応式と拡散方程式とを単に加えただけのものということです。しかし、このような単純明解な方程式を提案できるか否かが天才と凡人の違いということになるのでしょう。
私がこの方程式を思い出したのは、この式が自己触媒反応を含む化学反応に関する自己組織化を表現する一般的な方程式になっているのではないかと考えたからでした。ある種の化学反応モデルについての計算結果によると、触媒となる物質の濃度は、時間に関して周期的に振動することが示されています。これは、反応拡散方程式の右辺の第1項で表現されていると考えることができます。このような系の規則的な周期動作は、化学時計とも呼ばれ、生体内のクロックとして機能するのではないかと考えられています。
一方、系が非平衡であるために、触媒となる物質X,Yの濃度が時間的にリズムを発生させるだけでなく、物質X,Yの拡散によって空間的な振動も出現します。このような物質の空間的な拡散が反応拡散方程式の右辺の第2項で表現されていると考えることができます。もし物質X,Yの色が異なっていれば、空間的なパターンが形成されることが視覚的に確認できます。物質X,Yの濃度はリズム振動するとともに、物質の拡散により濃度の進行波となって空間を伝播して行きます。つまり、リズム振動が安定化したときも系は空間的に不安定な状態にあり、系内に生じたわずかなゆらぎをきっかけとしてこのような濃度の進行波が開始されます。空間の境界条件がこのような濃度波と固有振動の関係にあれば、時間的に定常な定常波を形成することもあり得るわけです。
チューリングの反応拡散方程式のおかげで、それまでもやもやしていた自己組織化におけるリズムとパターンという概念が統合的に理解され、自己組織化のしくみについて見通しがよくなったように思われます。
それでは、この反応拡散方程式は、ニュートンの運動方程式や量子力学におけるシュレディンガー方程式のように自然哲学の数学的原理を表現するか、あるいは象徴するものになるのでしょうか。現代の自然哲学の教えるところによれば、その答えは否を示唆しているようです。
反応拡散方程式は、運動方程式やシュレディンガー方程式と同様に、微分方程式であり、その解である時間発展は時間に関して可逆的であることを示しています。また、微分方程式というものは、決定論的な過程を記述するものです。平衡な系であれば熱力学的なゆらぎに対して常に安定ですが、非平衡な系では系に存在するゆらぎに対して不安定であり、わずかなゆらぎがその後系がたどる分枝を確率的に選択することになります。また、化学過程は、不可逆過程に対応しています。すなわち、系の挙動は、もはや微分方程式で表現できる範囲を超えてしまっているということです。
ここまでの説明を読まれて、微分方程式などという難しいことを考えることはないではないか、この世はやはり偶然に身を任せるような生き方が最も賢いのではないかと考えるのもありと思います。以前の記事で書いたように、原生生物の行動原理も単純明解な「ゆらぎと選択」であるし、人間の頭脳活動も「思考のゆらぎ」に基づいているので、結局偶然に身を任せることになるのではないか。しかし、ちょっと待って下さい。「思考のゆらぎ」に基づいて人間の認知速度をボルツマン式で表現したとき、その変数の1つが個人の能力を示すパラメータでしたよね。例えば、自己組織化のしくみを学習するとき、チューリングの反応拡散方程式を頭脳に記憶しておき、この記憶を参照するのとこの方程式を知らないのとでは、個人の能力に格差がつくのではないか、と考えたくなるのです。