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「なぜ世界は存在しないのか」を読む

2018-04-08 08:50:54 | ブログ
 マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を読んだ。この本は、哲学で言う「実在論」をテーマとする。

 哲学者の千葉雅也氏は、この本の概要として次のように要約する:ガブリエルは、メイヤスーのような哲学者とは異なり、量子物理学のような厳密科学だけを特権化せず、日常的な解像度での事物の取り扱いから文学やアートに至るまで、多様な「意味の場」があり、それぞれの「意味の場」に出現する事物がそれぞれ「実在的」なのだと主張する。しかし、無限に多様な「意味の場」を包摂する「世界」は存在=実在しない、というのだ(朝日新聞2018年3月13日朝刊)。

 哲学の専門家ではないので、ガブリエルの実在論について哲学的な議論をすることはできない。興味のある点は、「多様な意味の場は存在するが、包括的な世界は実在しない」という主張が本当か否か、物理学や数学の分野に現れるいくつかの「意味の場」について検証することである。

 相対性理論によれば、静止している物体およびこれと相対的に運動している物体は、各々の固有時間をもつ。しかし、両者に共通の絶対時間なるものは存在しない。「絶対時間」を世界とみるならば、世界は存在しないことになる。

 「宇宙の年齢は138億年です」と言うと、これは経過時間のことを言っているのだが、これをあたかも「絶対時間」であるかのように捉える人がいるためと思われるのだが、「宇宙開闢の前には何があったのですか?」という質問がよく出るのだろう。

 すべての関数式は、計算可能な関数と、「決定不可能な命題」という意味で計算不可能な関数とに分けられる。そして、この両方の属性をもつ関数は、論理的にあり得ない。ガブリエルによれば、世界とは、「すべての意味の場の意味の場」あるいは「すべての対象領域を包摂する対象領域」であるから、関数という領域において、そのような世界は存在しない。

 気体分子の運動がカオス的で、実質的にランダムになるために、不可逆現象であり、「時間の矢」の方向が決まってしまう。熱力学の第2法則(エントロピー増大の法則)が根拠とする現象である。

 そうなると、熱力学が適用される領域におけるカオス的な現象と量子力学が適用されるような現象とは両立しないのではないか、と考える。以下、いくつかの例を挙げてこの問題を検討しよう。

 自由電子は、熱力学的な温度にあるときには、気体分子のように熱力学に基づく運動をする。しかし、電子という量子場が絶対零度の環境に置かれると、量子力学に基づく現象を示す。例えば、トポロジカル絶縁体と呼ばれるものは、量子スピンホール効果と呼ばれる現象を示す。ここでは、絶縁体のエッジに生じる上向きスピン状態をもつ電子の流れと下向きスピン状態をもつ電子の流れとは、整列した流れになるとともに、互いに時間反転対称性を保ったまま共存する。すなわち、電子に関する不可逆現象と可逆現象とは、わずかなグレイ・ゾーンがあるかも知れないが、大局的には両立しない「意味の場」となる。

 D-Waveと呼ばれる量子コンピュータは、量子アニーリング効果という技法を利用して高速の計算を行う。この効果は、「量子トンネル効果」という量子現象であり、量子コンピュータが絶対零度近くの温度に置かれるとき生じる現象である。いくらか温度を上げると、ハードウェアを構成する原子や分子の熱運動のためにこの量子現象が壊れるであろう。ここでも、カオス的な現象と量子現象とが両立しないようにみえる。

 なお、トンネルダイオードでは、常温において「量子トンネル効果」が現れる。このダイオードは、pn接合の半導体であり、pn接合の障壁でn型半導体側の電子とp型半導体側の正孔が整列することで、電子がトンネルを通り抜ける現象という(Wikipedia)。これは、熱力学が適用されない領域における特殊な量子現象であろう。

 参考文献によれば、「カオス的な現象と量子現象とが両立しない」のか否か、あるいは「カオス的な気体分子の熱運動が原理的に不可逆現象」と言えるのか、については、議論の余地があり、まだ完全には理解し切れていない、との注がつくようである。この問題は、現実的あるいは実質的な問題というより原理的な問題であり、詳細については省略する。実質的な問題と原理的な問題とは、「意味の場」が異なるとも言える。

 対象領域の温度が1億度程度になると、通常の熱力学も適用されず、高温プラズマ物理と核融合の世界になるのだが、話題が発散するので、これ以上この領域に立ち入るのはやめよう。

 こうしてみると、「エントロピー増大の法則」がこの宇宙の究極の原理のように考えられた時代もあったが、今では限られた「意味の場」のなかにしか現象しない法則であることが明らかになっている。

 「エントロピー増大の法則」とともに、古典理論において究極の原理のように考えられていた「最小作用の原理」さえも、量子論の世界では厳密には成り立たないことになる。具体的には、作用の極小値からプランク定数程度の幅に収まる運動だけが許される。

 プランクスケール以下の領域を対象とする量子重力理論では、「距離の概念を伴う時間や空間」という構造そのものが意味を失うということであるから、最小作用の原理は無意味ということになるのであろう。

 ヒトという生命体は、熱力学的な存在であるとともに化学反応の舞台であり、かつ電気信号をやりとりするニューロンのネットワークをも有する。また、この生命体は、膨大な数の原子から構成される。原子の内部は、量子力学の世界である。これをもって、「生命体では、カオス的な現象と量子現象とが両立しているではないか」と議論する人もいるだろう。

 しかし、生命体をマクロにとらえたとき、熱力学や分子生物学の範囲の知識だけで充分説明可能であり、原子内の量子現象にまで立ち入る必要がない。つまり、大局的には生命体のマクロな領域とミクロな領域とは対象領域が別であるということである。ガブリエルは、例えば生命体のマクロな領域を対象として見るとき、原子内の現象のように見る必要がない領域を「消失対象」と呼び、対象領域から除外する。

 人間の脳は、決定論的に動作するとともに、カオス力学系の支配下にもあると説明される。脳は熱力学的な存在であるから、この説に異論はないであろう。脳に関する難問の一つとして、「自由意志」はどのようにして生じるのかという問題がある。

 この問題は、カオス力学系だけでは説明できないので、物理学者のペンローズなど、量子力学の非決定論に解決の道を求める人々が現れた。

 しかし、そうなると、カオス的な現象と量子現象とが両立できることになり、信じられない。ペンローズの説は、実証的な根拠が何もなく、観念論ではなかろうか。

 ここで科学の歴史をひも解けば、熱力学は19世紀中にほぼ完成の域に達していた。それとともに蒸気機関が発明され、いわゆる第1次産業革命が広く浸透していった世紀でもある。人間は熱力学的な存在であるから、この時代の世界観に親近感をいだきやすい。

 20世紀となり、物理学は、量子論と相対性理論を擁することになった。人々は、電気・電子を利用した製品の恩恵を受けるようになった。第2次産業革命である。さらに、コンピュータの開発と利用が普及し、第3次産業革命と言われるIT時代が進展することになった。

20世紀が過ぎて21世紀になっても、多くの人々は、まだ量子論と相対論が示唆する世界観を受け入れているようには見えない。これらの基礎理論の応用となるところの製品を利用しながらも、19世紀の世界観が支配的であり、20世紀の世界観に追いついていないのである。

 人々は、牧場で悠然と草を食む馬に親しみを感じる。また、ペットとして飼っている動物に愛着を感じる。あるいは、「ポーー」と汽笛を鳴らしながら通り過ぎる汽車に郷愁のようなものを感じる。すべて、同じ熱力学的で牧歌的な存在に親近感を覚えるのであろう。

 一方、千葉氏は、現代思想に20世紀の世界観が色濃く反映されている状況に鑑み、「おそらく現代人は、科学でも宗教でもない「別の真理の領域」を求めている。その候補が哲学なのだ。哲学に、この時代の不安を託そうとしているのである。」と述べている。

 上記したように、ガブリエルの哲学について哲学的な議論はできないが、20世紀の数理科学に20世紀の世界観の少なくとも一端を見たいと考えてこのブログを記載した。

 参考文献
 マルクス・ガブリエル著「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)
 松浦壮著「時間とはなんだろう」(ブルーバックス)
 甘利俊一著「脳・心・人工知能」(ブルーバックス)