リカちゃん

2011-10-07 05:00:20 | Autobiography
おいらが小学校に入った頃…男の子の遊び≒野球。
そのころの女の子の遊びと言ったら、外での遊びは『ゴムとび』…とか。
ウチの中では『リカちゃん』でおままごと…とか。

三つ年上の姉貴がいたおいらは、自分よりもちょっと年上の女の子の遊びを見ながら大きくなった。

○○子…という名前が女の子の名前として普通だった時代…
『リカ』という、当時聞き慣れない新鮮な名前と、少なくてもおいらより年上の背恰好を人形から感じ取っていた。
実際に設定上でリカちゃんは5年生なのだそうで…。

女の子って、不思議…。
人形を抱っこして、着せ替えて…そんなことが楽しいのか?…という疑問。
それとは別に、どれだけ追いかけても追いつかない姉貴との三歳の歳の差…。
おいらが小学校1年生なら、姉貴は4年生…体力も知識も敵うわけが無く…それはおいらの『女の子感』に大きな影響を与えることになるわけで…。

そして…小1のそのクラスに、『りかちゃん』はいた。
りかちゃん…という『ふわり』とそらを飛ぶような軽やかな名前の響きにドキドキしていたわけで…。
同い年なのに、なんか妙に『おとな』なような気がして…。

初恋だったのかなぁ…と。

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トップバッター

2011-10-06 06:45:08 | Autobiography
おいらの小さかった頃…心に残るネガティブな部分ばかり書いてきたが、決して悪いことばかりだったわけではない。

『足が速い』ということに気がついたのは、幼稚園のマラソン大会の時だった。
たかが幼稚園のマラソン大会だ…何キロも走るわけでなく、セイゼイ数百メートルの話だった…と思うのだが…。

幼稚園児のマラソン大会なんて、そのくらいの子どもにコース全体を考えたペース配分が出来るわけもなく…。
『サッカーやろう!』って、ボールを蹴りたくて敵も味方も関係なく『ボールを先頭にしたほうき星』が出来るみたいな話。
『よーいドン!』からみんなで全力で飛ばし、息が切れて脱落していくのね。
偶々おいらは他の園児より長くダッシュできたわけ…マラソン大会とは言え、全力疾走バトル・ロイヤルなわけよ(笑)。

この勝負を制したおいらは、初めておいらの脚力に気がつく…。
以後、かけっこでは誰にも負けない時期がしばらく続く。
人間、得意なことがひとつでもあると、何となくそこから自分の世界が作れるわけだ。

その後まもなく、おいらは小学生となる… 1977 年の話だ。
当時の小学生の遊びといったら『草野球』…『遊ぶ』という言葉と『≒』だった。
放課後になると、玄関先にランドセルを放り投げてバットとグローブを持ってグラウンドに集合。
暗くなるまで遊んだ。

おいらのクラス『6組』の野球チームは…セイゼイ9人位のいつものメンバー…隣のクラスといつも対戦していた。
飛び抜けて上手なヤツがいるわけもなく『どんぐりの背比べ』な感じだったが、お互いに刺激し合い、ルールや技術・セオリーを蓄えながら遊んだような気がする。

セオリー…そう、俊足・左打ちの居場所が、野球にはあった。
さらにその年は王貞治氏の『756 号』もあり、左打ちの価値は仲間内でも高まっていた。

1番 ファースト 左打ち。
バットに当たりさえすれば、小学校低学年レベルの内野守備ではおいらを一塁でアウトにすることはできなかった。
やっと見つけた自分の居場所…その心地良さは『格別』だった。

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傷跡

2011-10-05 08:53:39 | Autobiography
『落ち着きがない』って、親父からもお袋からもよく言われた。

今にして思えば…
じっとしていることが『落ち着いている』訳ではない…それは『おとなしい』であって、思いつきで行動してしまう『衝動』が抑えられないことを指して『落ち着きがない』と言っている…と、なかなか理解できなかったと思う。

例えば、散歩中の犬が『何か』を見つけて走り始めるような、そんな感じ。
じっとしていても、ブンブンと嬉しさを隠しきれない犬のシッポみたいな、そんな感じ。

おいらは『ワンコロ』と同等だった。
そのくらい解りやすく自分の感情が態度に出た。
よくいえば、素直。
悪く言えば、落ち着きがなかったんだろう。

その日、おいらは何か嬉しくて部屋の中を走り回っていた。
お袋が『危ないから止めなさい!』と言うのを何回か聞いた気がする。
でも、犬のシッポのように動き始めた感情はそう簡単に収まらない。

お袋の不安は的中する。
畳表の織り目に沿って足を滑らせて、おいらは転倒。
タンスの角に後頭部を強打する。
目から星が飛ぶ。
『転んだ…痛い…。』そう思った。
でも、意識はハッキリしていて、なんかクラクラ・ズキズキする頭が重いと感じていた。

『ほら、痛い思いしたじゃない!』と言ったお袋が急に慌て始める。
タオルを何枚か取ってきたお袋は、おいらの頭にそのタオルをかぶせた。
傷口が開いて出血していた。

その後のことは、よく覚えていない。
外科医に行って、傷口の縫合をしたことだけ…たったひと針だったが、チクリと痛かったことだけを覚えている。

何しろ後頭部のケガだったので、傷口も、出血の具合も見ていない。
ただ、出来てしまった傷跡が、後々『ハゲ』というからかいの原因になってしまったのは事実。
見えないから余計に気になる。

『その怪我』の痛みは出血の痛みよりも精神的な痛みとなって、それから10年以上も『悔やみきれない思い』としておいらを苦しめることになるとは、その当時のおいらは知る由もなく…。

もう直ぐ小学生になろうかと言う頃の話。
不良品の左手と、頭の傷跡と…。

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猛威

2011-10-01 12:02:41 | Autobiography
幼稚園バスという船の送迎ルートは、おいらが行く送迎ポイントからスタートした。
だから、送迎ポイントに一番に行けば幼稚園バスの一番前の座席に座れ、道を眺めながら幼稚園に向かうことができた。

チャイルドシートは勿論、シートベルトの着用すら義務化されていなかったころの話。
親父のクルマは青いブルーバード…スーパーソニックラインと言われた名車『510』…親父は決して子どもらを助手席に乗せることはなかった。
クルマの安全なんて度外視されていた時代だったが、助手席に子どもを乗せたらどうなるかを親父は知っていた。
一般乗合の路線バスも、一番見晴らしの良い助手席位置の座席への子どもの乗車は禁止されていてた。

大手を振って最高の見晴らし位置を確保できる幼稚園バスの特等席は、おいらが幼稚園に行くモチベーションだった。
だって、それ以外に幼稚園に行ってもイイコトなんてなかったもの。

不良品の左手は…隠しておきたかった。

1976 年 9 月、その台風はやってきた。
記録に残る台風17号…それは、おいらの記憶にも残る。

その日は朝から大雨になった。
朝ごはんを食べて、テレビの角に出ているデジタル時計を見て『このタイミングで出れば一番の席はおいらのもの!』…そう思った。
大雨の中、お袋が止めるのを聞かずに傘をさして飛び出す。
案の定『いちばん』だ!…誰も来ていない!

土砂降り…傘はさしているものの、何の意味もない。
他の幼稚園児が来ない…。
幼稚園バスも来ない…。
次第に不安になってくる。

すると…お袋が走ってくる。
『台風で幼稚園お休みだって。』

雨が幼稚園を休みにするなんて思わなかった。
自然は、時に牙をむいて人に襲いかかる。
猛威…という言葉は知らなかったが、そういうことがあるんだって、思った。

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不良品

2011-09-30 15:19:24 | Autobiography
おいらは左利き。
家族にも、親戚縁者のなかにもおいらの知る限り左利きは居らず、おいらは変わり者だった。
いや、少なくともおいらはそう思っていた。
親父も、お袋も、左手で絵を描き、スプーンを持つおいらを苦々しく見ていたように思う。

事件は幼稚園に通うようになった時に起こる。

おいらは、ハサミが上手に使えなくて、からかわれるようになっていた。
今時のモノほど精度のよくない…かみ合わせがやや開き気味になる当時の紙切りハサミ…。



基本的にハサミというのは右利きの人が使うようにできていて、右手の親指と人差し指を使って『握る』動作をする時に歯の噛み合わせが閉じるように出来ている。
これを左利きの人が使うと、右手の時とは逆に、『握る』動作をする時に歯の噛み合わせがやや開き気味になるのだ。
その辺りの理屈が幼稚園児だったおいらに判るわけもなく、もちろん他の幼稚園児にも判るわけもなく…。

ただおいらには、ハサミが使えない…という事実があって。
『幼稚園に行きたくない…。』あれほど出たいと思っていた島の外、あれほど乗りたいと思っていた幼稚園バスという船…。

幼稚園児という小さな世界…助けを求めるのは両親で…。
でも、おいらの気持ちと違う方向に物事は動く。

『左手はダメだ。何をするにも…。』
親父もお袋もそう思ったんだろう。
かくして両親はおいらを何とか『矯正』しようとする。

うまく使えない右手に鉛筆を持たされ、ひらがなを覚えさせようとする。
『文字は右手の方が書きやすいように出来ているんだよ…』
文字を覚え始める幼稚園の頃の話だ…初めて書くひらがなは、右手で何とかしようとする。

でも…お箸は使えなくても食べる動作は左手でしているわけで…。
右手で食べるように仕向けられたのは、苦痛で苦痛で…。

結局、最後は『ムリなんだ』と気がついてくれて『完全に矯正すること』は両親が折れるのだが、
左利き用のハサミを用意してくれた両親が『これ、高いんだからねっ!』…と言ったことは、今も忘れない。

左利きは不良品。
頭の中にそう刻まれた幼稚園の日々。

文字を書く事だけは右手。
唯一、おいらが右手で出来ること。

『普通』のことが『普通』にできる。
これがおいらと、おいらの当時の『小さな世界』をつなぐ希望だった。

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団地島

2011-09-29 16:06:56 | Autobiography
幼い頃に過ごした『団地』は、昔懐かしい『絵に書いたような』5階建て。



自動車乗入れ禁止のその団地は、外周約 1.3 km の『島』だった。
クルマとの接触事故が考えられない島の中は子どもの格好の遊び場だった。

幼稚園に入園するまでの『おやくそく』は、島から出ないこと。
『入ってはいけません』と書かれた芝生は、子どもの夢の大地。
管理の人が回ってくると、一目散に逃げた。

おいらには3歳年上の姉貴がいて、この団地に来た 1973 年当時、姉貴は6歳、おいらは3歳。
幼稚園バスに乗って団地から『登園』する姉貴は、おいらが守らされている『おやくそく』と違っていて、ずいぶんオトナに見えた。
『おいらもあのバスに乗って、この団地から出るんだ。』幼いころ、そんなことを考えていた気がする。

団地の外周は、対向2車線のなんでもない道路。
交通量も決して多くなく、信号もなかった。
でもおいらには、それはそれは大きな『断崖絶壁』だった。

『幼稚園バス』という船に乗って、島から出ていくこと。

島の向こうに何があるのか…。
早く幼稚園に行きたかった。

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最初の記憶

2011-09-28 13:13:14 | Autobiography
1970 年生まれのおいら…。
今は新潟市江南区になった当時の中蒲原郡亀田町出身の親父、お祖父さんの都合で新潟県内を引越して歩き、新潟市内で青春時代を過ごしたお袋。
新潟にゆかりの両親だが、おいらは親父の仕事の都合で埼玉県南埼玉郡蓮田町(今は蓮田市)の生まれ。
三歳の頃、親父が『団地』を購入して埼玉県大宮市(今はさいたま市)に移る。

おいらの記憶に『蓮田時代』はほとんどない。
唯一の記憶は…夕暮れ時、親父の自転車の後ろに乗って、街の電気屋さんに『パントースター』を買いに行ったこと。

ごっつい実用自転車で、後ろの荷台にちょこんと乗せられ…でも、荷台が大きすぎて上手く跨げなくて。
東北本線(今は通称・宇都宮線と言う)の踏切を渡る。
『ゴツゴト』と音をたてて線路を乗り越えて…自転車が大きく揺れて…渡りきったら『カン!カン!…』と警報機が鳴って、赤い警告灯が点滅して…。
暗くなって、赤い遮断機の警告灯が尚さら迫力を増したのだろう…必死で親父にしがみついていたような気がする。

買ったのは青いパントースター…『チン!』と音がして食パンが跳ね上がる、昔懐かしいアレだ。

パントースターが珍しくて覚えていたんのではない。
多分…あの踏切の記憶。

電子音ではない鐘の音と、赤い警告灯と、暗がりと…。

親父はそんなことは忘れてしまっていて、
お袋もトースターが有ったことしか覚えていないが…。

あの強烈なインパクトが、おいらの人生の記憶の原点。

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