地図

2011-11-18 05:01:31 | Autobiography
小さな頃から地図が大好きだったおいらが『そのこと』に気が付いたのは小5の冬。

小学校の社会科は『身近な地域への関心』を題材にその幅を広げて行く。
1・2年生は理科との融合で身の回りを(今は生活科と名前が変わっているが、やっていることは変わらないと思う)、
3年生は自分が住んでいる『街(市町村)』を、
4年生は自分が住んでいる『県(都道府県)』を、
5年生は自分が住んでいる『国』を題材にする。

鉄道の路線図や国道網を眺めるのが好きだったおいらは、知らず知らずのうちに地域名や都市名を覚えていたらしい。
旧街道を基本線とした所謂『一級国道』を結べば大概の地方の中心都市は網羅されるし、国鉄(当時はまだ JR ではない… JR の発足は 1987 年のこと)の路線図は『一級国道』と似ていて微妙に異なる部分があったりして、その違いが面白かったわけで。

とってもマニアックな世界で、そのことを表だって話したりしたことはなかったのだが、
社会科の授業でプロジェクターに映し出された日本地図を見て地名を答えて行くようなシチュエーションで、誰も答えられない地名を次々に正解させて行くおいらは一躍社会科のトップランナーに躍り出る。

ちょうど『走り負け』て凹んでいた頃の話。
おいらは、走る以外に出来ることがあるんだ!

微かな希望が差し込むと『グッ!』と勇気が湧いてくるもので、
分かることがあると覚えたくなるもので…。

山脈と川や行政区画…姉貴の中学校の地図帳をこっそり持ち出して、いろいろな地図を眺めてはニヤニヤしていた。
そして勝手に持ち出したことがばれて、姉貴に怒られる。

そう、大宮復帰の最初の冬は、コタツとミカンと地図だったんだ。

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走り負け

2011-11-12 10:00:00 | Autobiography
大宮に戻ったおいらは、旧知の仲間との微妙な距離感に悩んでいた… 1981 年の秋の事。
小学校も高学年になれば習い事をやっているヤツもいて、『あの頃』みたいにみんなで集まって…なんて、できなくなっていたし。

おいらは転校したこともあり、文化圏が違ったこともあり、ひとつの事に打ち込めずにいた。
転校前の大宮時代は野球クラブ、泉ではテニスクラブに通った事もあったが、それぞれ転校やクラブの移転というおいら自身ではどうすることもできない理由で止めなければならなくてさ。

足が速いことだけは…まだ自信があった。

そんな時、市内駅伝大会の選手募集があった。
大宮公園内の周回コースを1人 1km で8人で走る。
2ヶ月びっちり練習して選手を選考するらしい。
対象は5・6年生で、1km 3 分 30 秒で走れる走力が基準。

十分走れるつもりでいた…のだが…。

実際に走ってみると… 4 分 15 秒位が精一杯。
5年生で限定しても、4 分の壁を切れるヤツが2~3人いたが… 3 分 30 秒なんてとんでもない。
上位の方は6年生ばっかりで、200m トラックを 5 周…周回遅れになる勢い。
これが悔しくってさ…でも、小学校時代の1年間の差は大きく、6年生に歯が立たないのはなんとなく理解できた。
そんなことよりも、同じ学年でおいらよりも速いヤツが 10 人以上いることが悔しくってさ。
練習したよ…かなり苦しかった。

結局、その年のベストタイムは 3 分 47 秒と記憶している。
多分ね…同じ学年の平均的な走力から考えれば『かなり走れる方』だったハズだが、学年という括りの中でも 11 位。
8人がレギュラー2人が補欠…補欠にもなれない…。

おいらが出来ることを『もぎ取られた』気分だった。

できないことはいっぱいあったけれど…自信のあることの挫折は…子どもながらに痛かった。

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北校舎

2011-10-28 08:29:04 | Autobiography
1981 年…おいらが小5の2学期初日。
大宮に舞い戻ったウチら家族…おいらは懐かしい小学校の校舎にいた。

おいらがいなかった3年ちょっとの間に木造2階建ての『中校舎』は取り壊され、『南校舎』がL字型に増築されていた。

新しいクラスは5年2組…『北校舎』の2階。
小1の時に使った教室の真下。
当時のままの校舎はこの北校舎のみで、昇降口から階段ホールに真直ぐ抜ける広い造りが懐かしかった。

教室に入ると…知っている顔が何人かいた。
凄く『ホッ』とした…あぁ、帰ってきたんだ。

南校舎が邪魔で教室から見える景色は面白いものではなかったが、ベランダが付いた校舎は久しぶりで、窓に落下防止の手すりがない分だけ気持ちよく窓に持たれて外を眺められた。
早くみんなと話がしたい…あの頃の様に…。

そわそわとした授業時間がおわり、
『待ってました!』の休み時間、知っている顔のところに話しに行く…だが…。

『…。』
あれ?なんか違うなぁ…。

他の人のところにも行ってみる…。

『…。』
やっぱり…なんか違う。

そして、やっと気が付いた。
おいらの持っている彼らの記憶は3年前で、それから彼らもおいらも成長しているってことを…。
5年生になって、2年生の服が着られるわけがない…。

記憶は立ち止まり、時間とともに美化され風化する。
あの頃と変わらないのは…北校舎だけだった。

知っているようで、知らない。
近い様で、遠い。

知っていることが、かえって難しい環境を作るなんて…そのタイミングでは、まだ分かっていなかった。

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U-turn

2011-10-25 08:58:56 | Autobiography
年は明けて 1981 年…おいらは小学校の5年生になっていた。

このころのハヤリモノと言えば『ゲーム&ウォッチ』で、ひとつ持っていいないと仲間内から相手にされない勢いだった。
当時のゲームは…今のと比べると随分『牧歌的』で、1ハードに対して1ソフトしか対応していないため、直ぐに飽きる…。
だから、仲間が別々のタイトルを買って、集まって交換してやる…おいらは『ヘルメット』をねだってねだって…何とか買ってもらった。

最近の子どもらは…集まって別々のゲームをしている…なんて言えない…。
おいらなんて、そのスタイルの『ハシリ』だもん。

そんなことをやっていた頃に、親父が姉貴とおいらにとある質問を投げかける。
『引越すなら、熊谷市と大宮市、どっちが良い?』
小5のおいら…熊谷と言う地名は知っていたが、行ったことも無く…。
大宮は泉市に引越すまで住んでいたからよく知っている。
悩むまでもなかった…『大宮!』と即答…姉貴も全く同じ反応だった。

この質問の真意は直ぐに理解できなかったが、答えは間もなくやってきた。
『夏休みに引越しだ。大宮のあの団地に戻る。』

親父の転勤だった。
仕事場は大里郡寄居町…随分悩んだんだと思う。
仕事を優先すれば近隣の『中堅都市』熊谷だろうが、自分の住処として購入した団地が大宮にある。
街の規模、利便性は圧倒的に大宮が上。
だが…そこから通勤するとなれば、片道 50km 時間にして1時間半はかかる。

結果的には、自宅を取る…という決断。

うちら家族は3年と1ヶ月過ごした泉市の借家を払い、大宮に U-turn する。

姉貴は泉市にいるうちに中学生になったのでそうではないが、おいらは入学した小学校に戻ることになる。
『あの、野球を一緒にした仲間のところに戻れる!』
泉市でできた友達と別れることよりも、旧友との再会が嬉しくて。

真夏の夕方。
家族を乗せたクルマが泉市を離れる。
集まってくれた何人かの友だちに、笑顔で『じゃぁね!』って言ったように思う。

『残る寂しさ』が理解できるようになったのは、それから20年も経ってから。
家族の都合とはいえ、おいらはいつも立ち去る方だった。

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クリスマス豪雪

2011-10-22 11:51:45 | Autobiography
二学期の終業式の日。
1980 年 12 月 24 日…昭和当時の話…今の様に学校が週休二日だったわけでもなく、天皇誕生日も4月だったし、成人式も 1 月 15 日で固定だったし、冬休みは年末の1週間と年始の1週間ピッタリで終わり。
寒波が押し寄せているとは小4のおいらにはわかるわけも無く…。
朝から雪は降っていたものの、特に問題なく学校に登校…だが…瞬く間に雪は降り積もり、帰りの時刻は腰の高さまで…。
小4の腰の高さだから、40cm くらいだと思うが、道に出来た歩行者の轍を一列になってかきわけて帰った記憶がある。

仙台近郊の地域は、普段あまり雪は降らない…。
全く降らないわけではないのだが、あまり積もらないのだ。
それよりも、凍って寒い…という地域。

泉市で迎える3回目の冬…今までに経験した事がない大雪が、ロマンチックなホワイトクリスマスにするハズだった。
だが、それだけでは済まなかった。







1980 (昭和 55 )年 12 月 25 日の河北新報朝刊に載ったこの写真は、仙台市内の道路が大雪と停電による交通信号まひなどで渋滞している様子を写したものです。

東北地方の南部太平洋側は24日、暴風雪に見舞われて、電力、交通、電話が大混乱。農林、水産も大きな被害を被りました。
台風並みに発達した低気圧によるもので、積雪は仙台市内で25センチを記録。
東北線は雪の影響としては戦後初めて全面ストップし、仙台市内ではバス路線がズタズタになりました。太平洋岸では、消息不明、座礁など海難事故が10件に達し、多くの犠牲者が出ました。
また、送電鉄塔の倒壊が相次ぎ、停電は東北6県で約61万戸。かつてないクリスマスイブとなりました。
(河北新報社 ニュースの記憶 より)

雪はやむ気配も無く降り続け、住んでいた団地内を東西に横断する送電線鉄塔が…折れる。
しかも、隣り合わせの3基が揃って…だ。
折れる方向が間違えていたら…と思うほどの距離に自宅があり、背筋が寒くなったのを覚えている。

その日から3日間、電気が止まった。
地域で10本の鉄塔が折れたのだそうだ…ライフラインの喪失で街は大パニック。
ガキンチョだったおいらは兎に角、年末の忙しい最中、大人たちは大変だっただろうと思う。

ホワイトクリスマス…の度に思い出す、豪雪の記憶。
雪は恐ろしい…と初めて感じた夜。

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あいアイ傘

2011-10-20 14:11:45 | Autobiography
小学校の4年生になるとクラスに『学級委員』という役職が発生した。

学年の小さな子は『自分を中心とした社会形成』が主眼であり、
学年が上がるにつれて『自分と社会の繋がり』『社会の中の自分』そして『社会に関わる自分』とレベルが上がっていく。
学校と言う小さな社会の中に『児童会』というミニ民主主義があり、その議会を構成するクラスの代表者が学級委員というわけだ。

学級委員になれるヤツは、ダイタイ決まっていた…と、今は思う。
勉強のできるヤツ。
スポーツのできるヤツ。
お笑いキャラのクラスの人気者…でも騒がしいだけじゃないヤツ。
…とか。

小4の1学期の学級委員は『マナブ君』…エレクトーンの名手で学業も優秀…絵にかいたような学級委員キャラ。
ソツ無く学級委員の大役を終えて、2学期の委員を選ぶ…条件は2期連続は無い…ということ。
で、男女1名づつ推薦で委員を選ぶワケ…と言っても、無記名の投票なんだけどね。

そんで、おいら…何故か学級委員に当選してしまうわけ。
考えられる理由は、クラスで一番足が速かったこと…くらい。

まぁ、何が大変なわけではなく、面倒くさい会議が月に1回あるくらいの学級委員だったが…後にも先にも委員なんてそれっきり。
覚えていることは、一緒に委員になった『ハルミちゃん』と話しているとからかわれたこと。
黒板に大きく『あいアイ傘』を書かれてさ。



『やめろよ!(怒)』なんて言いながら、実はちょっとドキドキしていたり…。

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アメとムチ

2011-10-19 14:10:54 | Autobiography
おいらには3つ年上の姉貴がいて、おいらが小学校の4年生になった 1980 年の春には中学進学。
中学校の制服が、手提げの学生カバンが、何ともオトナの匂いを醸し出すわけで…。

そんな姉貴、小6の時から NHK ラジオ第 2 でやっている『基礎英語』を聞いていた。
真新しい『ラジカセ』を買ってもらい、エアチェックしていたのを覚えている。

おいらもラジカセが欲しい…。
『英語やったらラジカセ買ってくれるの?』…と、お袋にそんなことを聞いた。

住んでいた地域に、英語教育に熱心な幼稚園があった。
幼稚園から英語を学び、小学校に行っているうちはスクール生として英語を学び、中1の夏休みにアメリカへ研修旅行に出かける。
仲間の内も、そこに行っているヤツが何人かいた…自宅隣の家の子もそうだった。
おいらは転校生だし、その幼稚園の出身でもないのでそこには行けなかったが、子ども心に英語・アメリカを『間近』に感じたのは事実だ。

毎日、朝6時に起きて、基礎英語を聞く。

念願のラジカセ。
英語。
アメリカに対する漠然としたあこがれ。

ちょっと(かなり?)背伸びをした小4の春。
『勉強する』という口実で、ラジカセを入手。

まさかこいつと、高1の冬まで過ごすと思わなかった。
深夜番組の笑いネタに、声を殺して笑った相棒との出会いだった。

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分裂

2011-10-18 13:37:45 | Autobiography
泉市に引越して2年…土地の暮らしに慣れ、おいらは進級して小学4年生になろうとしていた…1980 年の春。
山の上を削ったその新興住宅地は、次第に北側に伸び始め、人口もどんどん増えて行った。

そして、思いも寄らない出来事が起こる。

学校が、分裂する…。

新興住宅地の北側の延伸部は泉市ではなく、市町村境を越えた黒川郡富谷町
近隣に公立の小学校がないので、行政区画を越えて児童を受け入れていたのだが、おいらの行っていた小学校はもうパンパン…。
40名学級(本当はさらに+2くらい)で学年に8クラス、それが6学年。
同じ学年でも知らないヤツがいっぱい…おいらみたいな転校生なら尚更だ。

そこそこの児童数が揃う地域に小学校が無いのは自治体としてはイタダケナイ。
当然…と言えば当然なのだが、子どもにとってそんなことは関係ない。
同じ団地(正確には市町境から団地名は変わっていたのだが)の仲間が、一方的に線引きされて分断されるように感じた。

同じ団地の中、いつでも会えるさ…そう言って、お別れ会をしたのを覚えている。

画して、3年生の時は8クラスあった同じ学年が、4年生になる時に5クラスに激減する。
知っているヤツも…何人かいなくなっていた。
記録によると、6学年で 429 名の児童が新しい学校に移ったのだそうだ。
転校を経験しているおいらは、小学校と言う小さな社会の中で生活していると、その世界からなかなか出られない…うすうす分かっていた。

あいつらとは、もう遊べない…。

案の定、校区外になった団地の北側へは…次第に足が遠ざかっていった。
校区の向こうは誰かのテリトリー。
なんとなくそう思うようになっていく仲間たち。

見えない大きな壁が、市町境の細い道に作り上げられていく。
そんなことを感じていた。

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カルチャー・ショック

2011-10-11 07:55:32 | Autobiography
埼玉県の県南地域と言うのは、ある意味東京よりも訛りがない地域で…。
大宮辺りは埼玉都民なんていう言葉が存在するぐらい東京のベットタウンなわけで、この人たちの住む地域は…ここも他所もキレイな標準語の地域になってしまっているわけで…。

物心ついたときからそんな地域の人間。
然るに、おいらも標準語の民族だったわけで…。

親父やお袋は新潟の人なので、言葉の端々に新潟の言葉が滲んだが、姉貴やおいらはそうではなかった。

小2で泉市に引越したおいらは…そこに住んでいる人たちが聞き慣れない言葉を喋っていることに驚く。
アクセントは違うし…語尾は『~だっちゃ。』だし。

『標準語』と言う言葉の通り、おいらの喋っている言葉は標準的だったハズなのに、引越した先では『非標準語』。

それだけではない。
遊び≒野球…じゃない。

あれも、これも、それも、どれも…おいらの経験してきた物事とズレていた。
どう言ったらいいか…完全にズレているのではなくて、マス目一個分掛け違えている…というか…。

『え~?おいらが住んでいたところでは…。』
『またそれ?』

郷に入れば郷に従え

波風を立てれば孤立する…と、それを幼いながらも肌で感じたおいらは…必死で仙台訛りを覚えようとした。
お袋は『すぐに真似する』と渋い顔だったが…おいらには死活問題だった。

東京風を吹かせるヤツ。
東京に住んでいたわけでもないのに、そう思われるのが癪だった。

如何に周りに同化するか…。
真似する以外の手立てが考えられずにいた。

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赤チン

2011-10-08 05:13:06 | Autobiography
突然『引越し』を宣告される… 1978 年の5月の事だ。
それも、半端な距離じゃぁない。
埼玉県大宮市に住んでいたおいら…転居先は 300km も北…1ヶ月後には宮城県泉市(現仙台市泉区)に引越す…と。

転校は嫌ではなかった。
だって、おいらが通っていた小学校では転校生は『ヒーロー』で、転校初日から『ワー!』って周りをかこんで遊びたがったものだもの。
それなりにクラスでの居場所を見つけ、ドキドキするようなこともあったが、引っ込み思案な性格は幼稚園のあんなことこんなことで既に形作られていたワケで…転校は自己改造のまたと無いチャンスだったワケで…。

『ヒーローになるんだ!』…その思いだけが強くって。
引越しの日を指折り数え、住み慣れた団地を払って北に向かう。

引越した先の新居は…ボロだったけれど一戸建て。
山を削って作った新興住宅地で、どこの家もブロック塀で囲われた古臭い箱庭住宅だった。
そして…そのブロック塀が悲劇を生んだ直後だとは小2のおいらは全く知らず。

宮城県沖地震
ブロック塀の倒壊による被害が大きく報じられたこの地震があったのは、おいらが引越す2週間ほど前のことだった。

引越し直後、両親は家の片付けに追われ、転校手続きも未だで『ポツリ』とひとりのおいらは、ヒマを持て余し、ブロック塀によじ登る。
そして…それは崩れた…。

塀から転落する。
幸い転落した場所は土の上で大怪我には至らず…だが、一緒に落ちてきた塀の欠片であちらこちら傷だらけ…。



転校の初日は、顔・肘・膝…あちらこちらに『赤チン』を塗った、哀れな姿だった。

おいらは『ヒーロー』なる筈だった。
傷だらけで泣きたくなる気持ちを押さえて、みんなの前で挨拶をした。
時間が戻ってほしかった。

おいらは…新しい自分に生まれかわれなかった。

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