川端康成が歩いた岐阜の街
篝火に誓った恋
『岐阜名産の雨傘と提燈を作る家の多い田舎町の澄願寺には門がなかった。』
『澄願寺』が加納新本町の
『西方寺』である。
『暫くしてみち子は、近道だと、小さい天満宮の境内へ折れていった。』
西方寺を出た三人は、国鉄岐阜駅前へ行くために中山道を歩く。
『東海道線の陸橋で、朝倉は二人を待っていた。』
『あそこに踏切が見えますでしょう。あの踏切を越えてお使いに行く時に、わたしよく東京へ行く汽車を眺めているんですよ。』とみち子は陸橋から遠くを見て言った。
三人は『港館』へ行くために電車に乗った。
『岐阜駅前から電車で長良川へ行った。』
南岸の宿
ホテルパーク
三人は『港館』へ行く。
ところが、九月二十五日、二十六日の台風で被害を受けて営業を休んでいた。
『南岸の宿に立っていると、おかみが出て、この間の嵐に二階も階下も雨戸を破られて休んでいると言った。』
明治二十七年、名古屋市で『明治館』としてスタート。大正六年に『港館』を現在地に創業。
昭和三十九年に『ホテルパークみなと館』
昭和六十三年に『ホテルパーク』として
現在に至る。
大正六年創業当時は、今と違って港館から上流への道は竹やぶで、日野へ抜ける道は無かった。
『港館』が台風の被害を受けて営業を休んでいたため、三人は長良橋を歩いて渡り、川向こうの『鐘秀館』へ行く。
『私達は長良橋を渡った。』
三人は長良橋を歩いて、『鐘秀館』へ来た。ここが川端康成と初代さんが結婚の約束をした宿屋である。
『南方の火』では次のように描写されている。
『長良橋を渡って北岸の鐘秀館へ行った。時雨がまた音もなく来ていた。通された二階の八畳は川面へ開いていた。廊下に出て川上から川下まで見渡さずにはいられぬ爽やかさだった。』
『鐘秀館』は大正元年に営業を開始、昭和五十年に営業を停止した。
現在は『じゅうろく長良川保養所』となっている。
模擬城の岐阜城
『金華山の緑が向う岸に雨の色で微白く煙っている。その頂きに模擬城の三層楼の天守閣が浮かんでいる。』
結婚の約束をした二人が宿屋の二階から鵜飼を見る場面。
『あ、あの篝火は鵜飼船だ!』と私は叫んだ。
『あら、鵜飼ですわ。』
『ここへ流れて来るんだろう。』
『ええ、ええ、この下を通りますは。』
中略
こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい。
篝火に誓った恋
『岐阜名産の雨傘と提燈を作る家の多い田舎町の澄願寺には門がなかった。』
『澄願寺』が加納新本町の
『西方寺』である。
『暫くしてみち子は、近道だと、小さい天満宮の境内へ折れていった。』
西方寺を出た三人は、国鉄岐阜駅前へ行くために中山道を歩く。
『東海道線の陸橋で、朝倉は二人を待っていた。』
『あそこに踏切が見えますでしょう。あの踏切を越えてお使いに行く時に、わたしよく東京へ行く汽車を眺めているんですよ。』とみち子は陸橋から遠くを見て言った。
三人は『港館』へ行くために電車に乗った。
『岐阜駅前から電車で長良川へ行った。』
南岸の宿
ホテルパーク
三人は『港館』へ行く。
ところが、九月二十五日、二十六日の台風で被害を受けて営業を休んでいた。
『南岸の宿に立っていると、おかみが出て、この間の嵐に二階も階下も雨戸を破られて休んでいると言った。』
明治二十七年、名古屋市で『明治館』としてスタート。大正六年に『港館』を現在地に創業。
昭和三十九年に『ホテルパークみなと館』
昭和六十三年に『ホテルパーク』として
現在に至る。
大正六年創業当時は、今と違って港館から上流への道は竹やぶで、日野へ抜ける道は無かった。
『港館』が台風の被害を受けて営業を休んでいたため、三人は長良橋を歩いて渡り、川向こうの『鐘秀館』へ行く。
『私達は長良橋を渡った。』
三人は長良橋を歩いて、『鐘秀館』へ来た。ここが川端康成と初代さんが結婚の約束をした宿屋である。
『南方の火』では次のように描写されている。
『長良橋を渡って北岸の鐘秀館へ行った。時雨がまた音もなく来ていた。通された二階の八畳は川面へ開いていた。廊下に出て川上から川下まで見渡さずにはいられぬ爽やかさだった。』
『鐘秀館』は大正元年に営業を開始、昭和五十年に営業を停止した。
現在は『じゅうろく長良川保養所』となっている。
模擬城の岐阜城
『金華山の緑が向う岸に雨の色で微白く煙っている。その頂きに模擬城の三層楼の天守閣が浮かんでいる。』
結婚の約束をした二人が宿屋の二階から鵜飼を見る場面。
『あ、あの篝火は鵜飼船だ!』と私は叫んだ。
『あら、鵜飼ですわ。』
『ここへ流れて来るんだろう。』
『ええ、ええ、この下を通りますは。』
中略
こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい。