信長公は岐阜の地で何を行ったのか?
1.岐阜の命名
織田信長公は永禄10(1567)年、斎藤龍興を破り、美濃を攻略しました。そして町の名をそれまでの「井の口」から「岐阜」へと改め、岐阜城に拠点を移して天下統一に乗り出したのです。命名については信長公が自ら命名したという説のほか、尾張の政秀寺の僧侶・沢彦宗恩が提案した、または崇福寺の住職・柏堂景森の進言によるものだったとの説も伝えられています。
2.楽市楽座・兵農分離
岐阜に入城した信長公は、戦乱で荒廃した町を復興させるために「楽市楽座」の政策を打ち出し、経済の活性化を図りました。これは特定の商人しか商売が許されなかった時代に、誰もが自由に商売ができるという画期的なシステムでした。また、「兵農分離」により、専業の武士団を組織して兵士と土地を切り離すことで、経済力、武力、生産力をそれぞれ向上させ、人が集まる城下町を作り上げました。
3.天下布武印の使用
信長公は永禄10(1567)年11月から中国の教えを引用した「天下布武」の印を使い始めます。「武力をもって天下を統一する」「天下に武を広める」となどという意味で捉えられる言葉ですが、「七徳の武を備えた者が天下を治める」という信長公の平和な国づくりへの願いが込められていたともいわれています。印そのものは、大量の文書をさばくためのツールとして用いられました。