幸せになるために、皆さん、毎日、頑張って生きておられると思います。そして、現世で、いろいろ願いを叶えてきたことでしょう。しかし、その叶えたものは、この世を去るときは、すべて、置いていくものです。あなたの願いを叶えますよという宗教はたくさんございます。浄土真宗以外の神社仏閣には、たくさんのお札やお守りが売られているのはそのためです。願いというと、聞こえは良いですが、それは、煩悩・欲であります。お札やお守りを買って、世界が平和になりますようにという願いをする方は少ない。自分と自分の家族、自分にとって大切な方が幸せになりますようにというのが私たちの願いです。その願いは、皆さん叶いましたか?あなたの願いをすべて叶えて差し上げますという仏様はいらっしゃいません。願いがすべて叶うのであれば、世の中めちゃくちゃです。私が、もし、浄土真宗の僧侶で無ければ、自分の都合で、この人、自分に都合が悪い人だから、世の中から居なくなって欲しいと願ったかもしれません。病気の我が子がいれば、その病気が治りますようにと願う親心を欲とは言えません。それは、本当の願いです。でも、厳しいことですが、この世は、思い通りに行きません。でも、病気は、私たちの敵ではありません、生きているからこその自然なことです。病気は、私たちに謙虚さを教えてくれるものであります。健康であるということは、当たり前ではなく、病気や苦しみを通じて、いのちの尊さを実感するものであります。病気を経験することで、感謝の気持ちを持ち、日常の小さな喜びや幸せを大切にすることが出来るのです(赤い字の部分は、月刊住職の記事AIによる法話より)。私は、先月、奈良に行きました。平安時代に造られた国宝の仏像の多くは、薬師如来様でした。なぜ、薬師如来が数多く造られたのでしょうか。1000年以上前は、病気になっても、医者に診てもらうことも出来ない、薬もなかったのです。仏様にお参りする以外方法がなかったからだと思います。それに比べると、今の日本は、幸せです。病気になれば、診て下さるお医者様がいらっしゃる、薬もある、しかも、保険で全額負担でなくです。こんな幸せな国はありません。健康が当たり前の方に、幸せは感じません。手に入れた幸せは、永遠には続きません。皆さんも、一生懸命、手に入れた幸せが、いつのまにか、どこかにいってしまったものがたくさんあると思います。幸せは、永遠に変わらないものでなければ、本当の幸せとは言いえません。親鸞聖人が喜ばれたのは、本当の幸せに出会われたからです。それが、阿弥陀如来のご本願、すべての者を必ずお浄土に救うというものです。
私の住む地域では、毎週、金曜日に新聞のチラシと一緒に、タウンニュースが入ってきますが、私、毎週観るのですが、そこに載っている広告のほとんどが、葬儀社さんと霊園とお寺の樹木葬ばかりです。広告に載っている葬儀社さんの社員さんのお顔も知っている方ばかりです。この前、月刊住職に載っていた記事ですが、この数年のコロナ禍でも、葬儀会館は増加しているそうです。そういえば、確かに、気づくと、ここにも、ここにも、会館が出来ている、一体、どうなっているのでしょうか。その逆に、昔、結婚式場だった場所は、今、ほとんどが、葬儀場に変わってますね。何十年前に、結婚式をされた思い出の場所に行ってみると、葬儀場に変わっていたという話は、よく聞く話です。
私のカバンには、小さな三つ折り本尊が入っています。南無阿弥陀仏と書かれ、その下は、蓮台が描かれています。浄土真宗のご本尊は、南無阿弥陀仏の六字名号ですから、蓮台の上に書かれているのです。南無阿弥陀仏の六字名号をご本尊にされたのは親鸞聖人だけだと言われます。「南無せよ阿弥陀仏に(まかせよ、阿弥陀仏に)」南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の呼び声であり、今、私にはたらいている仏様です。私の口に、念仏となって現れ出て下さっています。念仏して助かるのではなく、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて助かるのが浄土真宗です。いつでも、南無阿弥陀仏が先です。私が先ならば、南無阿弥陀仏は、「助けてください」とお願いする意味になります。しかし、南無阿弥陀仏が先に、はたらいてくださるのを聞かせて頂くのですから、「助けて下さい」は必要なく、「ありがとうございます」と聞かせて頂くだけです。