私の長女は、幼稚園の先生をしておりまして、長女の話す子供の話は、とても、勉強になります。特に、よく話すのは、子供は、今を生きているという話です。だから、昨日、友達と喧嘩をしても、次の日は、もう忘れていて、普通に仲良く遊びます。未来の心配もしていません。私も、幼稚園児の頃は、過去を悔やんだり、未来を心配していなかったと思います、もう、ぜんぶ、忘れてますが。それは、親に守られている安心感があるからだと思います。親は、子供を産んだから親になるのではなく、子供の事を一番に考えるはたらきを親というのです。虐待する方を親とは言いません。自分の事を最優先にする方も親ではありません。子供の為といいながら、子供を操り人形のように、自分の思い通りにしようとするのもどうかと思います。為という字は、偽という字に似ています。〇〇の為というのは、実は、自分の満足の為なのです。私は、もう子育てを終えてしまいましたが、多いに反省すべき点が多いです。親は、子供によって、親に育てられるのです。阿弥陀如来を古来より親様と言われます。私は、阿弥陀如来から産まれた訳ではありませんが、私の幸せを願い、私の事を第一に考え、はたらいてくださる仏さまです。
今日は、樹木医さんがいらして、松を病気や害虫から守る薬を木に注入する作業をしてくれました。5年に一度なのですが、前回の時のこともよく覚えていて、あれから、早いもので5年たったのか、次回は、5年後だから私は、生きていれば60歳だなと思いました。木を診断するCTがあるそうで、木が今どのような状態なのか、主に、木の内部の空洞化がどのくらいすすんでいて、倒れる危険性を診断出来るそうなのですが、その診断が、難しいようです。人間と違って、木は、ここが痛いとか、ここが苦しいとか言ってくれないですから、この木は、それほど、空洞化がすすんでないから、大丈夫と診断したのに、倒れてしまうこともあるし、その逆もあるそうです。どんな仕事もそうですが、数値だけでない、経験や勘が大事なのでしょう。仏教の言葉で一番馴染みがあるのが、生老病死の四苦ですが、つらいとか苦しいという意味ではありません。「人間の思い通りにいかない」という意味です。生老病死は、つらいとか苦しいということではなく、生きているのですから、すべて、当たり前のことです。「いやいや、病気は苦しいじゃないか」と思われると思いますが(私も思ってました)、違います。病気自体は、生きているのですから、病気になるのは当たり前のことです、世の中に病気にならない方などいらっしゃいません。でも、それを、自分だけは、病気になどなりたくない、いつまでも健康でいたいという思いが、苦しみを生んでいます。誰が、自分を苦しめているのでしょうか?自分の思い通りにならないものを思い通りにしたいという思いが、苦しみを生んでいます。それを受け入れたら、生老病死は、解決です、でも、それが、人間には出来ないのです。それが、出来た方を仏様と申します。さて、まとめですが、生老病死は、平等です。特に死は最も平等です。今も病気や老いで苦しんでいる方がたくさんいらっしゃいます。どうして、病気になってしまったのだろうか?と悩むことも多いと思います。その理由は生きているからです。病気がわかったとたんに、生きる楽しみや慶びまでも、無くしてしまう方が多いと思います。病気になっても、生きている喜びを忘れないで欲しいと思います。病気を理由に、お寺の行事にお参りされなくなる方が多いのです。また、好きだった旅行も行かなくなってしまったり、趣味もやめてしまったり、友人と会うこともやめてしまう方もいらっしゃると思いますが、お医者様がダメですと言われない限り、自分のやりたいことをやって、人生を楽しんで欲しいと思います。
私たちは、人間であるかぎり老い、病み、死ぬものであることを知ってはいます。しかし、この私がそうなることを真剣に考えようとはしません。むしろ、考える事を避けているといってもいいでしょう。これは、自分のこととして考えるのが、恐ろしいからです。私の「いのち」は、明日かも知れぬ、無常の「いのち」です。きびしいけれど、この現実をはっきりと受け入れねばなりません。でも、受け入れられないのが人間です。そして、私の「いのち」が、そのような不確かな、無常の「いのち」であるならば、かぎりある人生をどのように生きていくかが、問題となるのです。しかし、浄土真宗のお説教では、あまり、どう生きればよいのかを聞いたことがありません。
昔、中国のあるところに大変尊敬される僧侶がいました。 ある方が、その僧侶に、仏教を一言で言えば、何を教えてくれているのか? と質問をしました。「良い行いをしなさい、悪いことをしない」ということです。 その答えを聞いて「なんだそんなことか、そんなの3歳の子供でも知っている。」がっかりしたと。僧侶は、「 そうです、3歳の子供でも知っていることなのに、大人になっても、本当にそれができる人はいなのではないですか?」といわれたそうです。
浄土真宗で、生き方を説かないのは、「善い行いをしなさい、悪い行いをしてはいけない」という、誰でも、知っている事が出来ない私たちなのです。阿弥陀如来のすくいのめあては、その人間にあります。それでも、みんな、頑張って生きて、幸せになりたいと願っています。しかし、自分が幸せになるためなら、何をしでかすかわからないのが本当の人間の姿でもあります。仏教の目指すものは、すべての者の幸せです。人間は、自分の家族の幸せは願っても、他人の幸せまでは願いません。仏様は、すべての者の幸せを願っています。お互い「生まれてよかった」といえる人生を送りたいものです
今日は、zoomでのオンライン会議でした。オンライン会議は、出かけなくて良いから、ほんと、有難い。議題は、コロナ禍まで、50年以上勤めてきた、子供の林間学校についてでした。ただ、ここにきて、見直す時期がきているようで、存続か継続かいろいろな意見が出ましたが、ご住職の思いは、それぞれで、今回もまとわらずに終わりました。現実問題とし、少子化で子供が集まらない、リスク管理、会場問題、スタッフ不足などいろいろあります。昔、お寺で、子供会を熱心に勤めておられた先生から言われました。それは「子供も死ぬぞ」でした。「阿弥陀如来の救いは、おじいちゃん、おばあちゃんためだけではないぞ、老少善悪のひとを選ばれない救いだぞ」私、その言葉を聞いて、背筋が凍り付きました。おじいちゃんもおばあちゃんも、中年も、青年も、子供も、みんな、明日を保証されていないいのち、そう思えば、みんな同じ歳です。住職は、みんな、社長のようなお立場ですから、上司も部下もない会議は、健全で面白い、上司の顔色をうかがいながら発言することもない、みんな、いいたいことを言える、でも、私は、今回も、みんなの顔色をうかがいながら、思っていることを、半分も言えなかったなぁ。もっと、他人に恨まれても、言いたいことが言えるようになりたいものだけど、私の宿業がそうさせないのだと思います。