Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

グアム慰霊の旅 1

2009-07-16 21:08:00 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

お正月の3日に「グアムに行きましょう。チケットの関係で返事は1両日中に下さいね。」と連絡がきた。海外は、あまり好きではないが、 行く事にした。

 年末の深夜、数日間NHKで戦争中の南洋諸島の事を再放送していた。

沖縄から移住した家族の話が、とても頭に残っている。女学生の作文に、「こちらに来て商売を始め、生活も楽になり、白いご飯が食べられるようになり、とても嬉しい...」と書いていたが、アメリカ軍が攻めてきて、山に逃げたが、艦砲射撃の玉に当たり、両親と兄弟は亡くなり、残った姉とお堂に隠れた。」とその後をナレーションした。又、幾人ものもんぺ姿の女性が万歳と言って手を上げて、断崖絶壁から飛び降りる姿のモノクロの映像を見た。嫌だ、何でこんなフィルムを放送するのだろう、見たく思いつつ目にしてしまった。つらい!

1月17日から3泊4日の女三人の旅である。飛行機を出ると外は、薄暗くなっているのに肌にネチャとまとわり着くほどの蒸し暑さだった。

ホテルの隣にはターザというウオーターパークもあったが、ビーチでの散策も、バナナボーもシュノーケリングなどのマリンスポーツも無縁の旅であった。たぶん、泳ぐ事はないだろうと思いつつも、意地汚く水着は持参していた。もし、していたら、背中に何体かしょってたろう。

その夜中、飛行機の疲れもでて休んでいたら、隣の部屋がドンドンとうるさい。「うるさ~い」と3人で大きな声で、怒鳴った。翌朝、「夕べは、お隣うるさかったですね。」と言うと、「隣の人じゃないわよ。隣は一緒のパックのおとなしそうな中年の男の人よ。」と、ノワタリサンが言う。私と、茨城からきた女性は「あれ!」と顔を見合わせた。

レンタカーを借り、北部から回った。グアムは雨季で、空が暗くなったと思ったら、5分もしないうちに豪雨になったが、在り難い事にお清めを始める頃には、雨はあがった。

 まず、最初にアンダーソン空軍基地を通り抜け、リディアン岬に行った。

すれ違う車にも殆ど会わず、返って人のいないのが不安にもなり、人気の無い所ばかり行ったので、男の人だけに会うのも、気持ち悪かった。

崖の上から水や粗塩をまき、般若心経と光明真言を唱え、ノワタリさんは歌を歌い、亡くなった人の冥福を祈った。不思議なことだが、何処に行っても、歌を歌いだすと、黒い蝶が群れを成して、飛んできた。また,道を探しながら、下のビーチに降りて、崖の下でもお清めした。

太平洋戦争戦没者慰霊公園

次に、太平洋戦没者慰霊公園に行った。上記の写真は合掌している手を表したものであるらしい。右側の写真の花はその園内のあちらこちらに植えてあった。白い花が清楚であった。奥のほうに、その連隊のいくつかの墓石があり、ビールとかタバコが供えてあった。そこと、小さな建物があり、その中には仏像が祭られており、お寺のようになっていた。各県人会からの折鶴や供え物が供えてあり。お参りに来ている形跡があった。そこでも、私達だけでゆっくり、お参りして、お清めした。

ガイドブックの地図はとても大雑把で、人の住んでいない所は、道が途中で消えていたり、(実際にも、道は舗装も無く、行き止まりになっている事が多かった)なかなか思うように海岸の岬にたどり着けなかった。食事もままならず、ゴルフ場のレストランで済ませた。雨季のせいか、客もいないが、冷房だけはむちゃくちゃ効いていた。

恋人岬に着いた時はもう夕方でここも閑散としていた。

夜は、慰労をかねて ディナーショーを楽しむ事にしたした。客は五分ぐらいの入りで殆ど中年日本人女性だった。(自分を含めて)

金髪美人のダンスと猛獣を使ったマジックショーだった。確かに、ダンサーは粒ぞろいで美人ばかりだったが、対照的に男性ダンサーは現地調達という感じで、明らかに脚も女性に比べて、上がらず、とってつけた様なダンスである。おまけにズボンは黒光りして、侘しさを感じ、ギャラも段違いに違うんだろうなと、そんな事ばかり、気になり、楽しめなかった。記憶違いかもしれないが、ウエイターも兼ねていたような気がする。

また、 ステーキは冷めて、硬く、他の料理も美味しいとは言えなかった。(期待する方がアホなのかもしれない。)

この旅行で、何処のレストランで何を食べたか、全く思い出せない。ショーの内容よりも、ただ、ズボンがテカテカと黒光りしていた事だけが記憶に強烈に残っている。

この写真もノワタリさんの撮影です。


ぎっくり腰

2009-07-15 16:44:34 | 日々のつぶやき

2003年の大晦日、寝床から 起き上がれない程、腰が痛くなった。

4,5日前にぎっくり腰を起こして、近所の接骨院に駆け込んだが、28日からは休みでほっといたのが悪かったのだろう。このまま、寝床で 正月を迎えねばならないんだろうかと思うだけで、気が滅入ってくる。

ノワタリさんから、遠隔で治せるおじいちゃんの事をと聞いていたので、早速連絡を取って、教えてもらった。その人はノワタリさんの親戚の人が手遅れだと医者に見離された骨肉腫を 直されたと聞いた。

「一つだけ気をつけてね。同じ事を何度も、何度も聞かれるけど、丁寧に受け答えしてね」。と言われた。

藁にもすがるつもりで、電話をかけた。

「どうした?」「ぎっくり腰になりまして」「なんか治療はしたか?」「はい、接骨院に」「直ったか?」「いいえ」「直らないのに行くのか」「良くなると思って」「直らないのに金を払うのか」と言う具合で、幾度も、その問答の繰り返しだった。聞いてなかったら、たぶん途中で切れていただろう

時計が無かったので、どのくらいの時間が経ったかはわからないが、「出た! 出た!」とおじいちゃんは言い出した。何と表現したらよいのか、体の中から 脚を伝わって、どどどどっと何かが走る、足の裏がもぞもぞして重い。少し時間を置きながら、それを繰り返した。「それは何ですか?」とお尋ねすると、「痛みだ」と言われた。キューンと足がつリ、こむら返りを起こしたような感覚にもなった。

「直ったけど、1日2日は、脳が痛いと思っているから、すっきりしないが消えるだろう。」と言われ、「お父さんとお母さんはいるか?」「はい」と答えると、「あんたも出来るから、お父さんとお母さんにしてみるといい。」と言われた。「する?どうするんですか?」とお尋ねすると、「手を当てるだけじゃ」と言われ、狐につままれたような気がした。お陰で起き上がることは出来た。ちょっと引っかかるよな感触は残ったが。

言われた通り、お正月の2日にはすっきりして来た。

初詣に行こうと家を出た途端、風が出てきて雨もポツポツと降り始めた。神社の近くの商店街のアーケードを出ると、横殴りの暴風雨になった。

神社の拝殿の前に来た時、、あまりにも風雨が激しいので、神主さんが戸を閉め始めた。お正月なので人は普段より多かったが、みんな雨の中を走って避けていた。

急いで お参りを済ませ、お札を買って 帰宅した。

家に着くと、なにごともなかったように、ピタリと雨は止み風も治まっていた。

いったい、あれは 何!そんなに 私は禊ができてないのだろうか?と思った。

 

 

 


阿蘇の旅2003年 その2

2009-07-14 16:15:35 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

その翌日はうって変わって上天気で空の色が澄んでとても青い。

まず、高森町にある熊野座神社に行った。この神社は無人だが、歴史を感じた。薄暗い林の中に 古い立派な石灯篭が続く山道の上に岩山をくり貫いて向こう側が見えるところがあり、それが御神体だった。近くに立て札があり、由来によると、『阿蘇大神の荒人神、石君大将軍の八葉の兜の中に出現の二神は熊野大神なりという伝説により社殿建立、窟洞のあるところに一社建立熊野ホリ戸社と崇め、神殿は月潟山八合目にあり、石君大将軍と同じく南郷の総鎮守也。』と書いてあった。この写真の右上のもやは人の顔が斜めになっているように見えるのだが....何だろう?

奥に小さく白く見えるのがホリ戸の穴です。実際はもっと広い。

私達は下の社殿にお参りし、急な坂道を登って ホリ戸の下に行き、ノワタリさんはいつもの様に歌い、お清めして、下山した。途中、銀杏がたくさん落ちており、みんなでひらった。他の人は違うかもしれないが、私は 参道に入るときには、ちょっと足がすくんで怖かったが、下山する頃には全くそういう気は消えていた。

この2枚の写真は幣立神宮の中にある東御手洗です。由緒書きによると、『この池は太古から八大龍王の鎮まる所で、北辰妙見の大神が祭られています。又、神代の天の村雲姫が、水徳を預かられた霊地です。この水のかかる所に西御手洗の主基田を移したので、田迎えと称し大嘗祭の由基田の起こりとなっています。日本の重大聖地です。』と書かれていた。(下線の所の文字が見えずらかったので間違っていたらゴメンなさい)

下調べしている時に、『この神社の水が 東は太平洋に注ぎ、西は日本海へ注ぎ、やがて世界を包み潤す。』と書いてあったが、私達はそれぞれ、この御神水をペットボトルに汲んで、有難く頂いた。

この幣立神宮は五色人面、(と、言っても竹内文書を読むまでは 五色人など知らなかった)千穂木などあり、大変由緒のある神社だったが、私達がガラガラと鈴を鳴らして、お参りしていると、スーと戸が開き、神主さんがにっこり微笑みながら、紙垂で祓って下さった。大変みんな喜び、とても嬉しく思った。数年後、又訪れたときには祈祷をお頼みした。

その後、昼食もとらず、急いで高千穂町の天岩戸神社にお参りし、天安河原にも行きお参りして今回の旅は終わった。2006年に行った時は、宮司さんに案内して頂き、向かい側の東本宮にも行ったので、後日又書く予定です。今はない高千穂鉄道の横の食堂で、4時前に遅い昼食をとり、別れた。私ひとり、延岡経由で、外の景色を楽しんだり、先ほどまでの旅の余韻に浸たったりして、臼杵に着いた。

フェリー乗り場に着くと、2時間近くも次の出航まで時間があった。ぼーっとしていると、70歳半ばの老夫婦がバタバタと慌ただしくやってきて待合室を歩き回っていた。

に乗り込んでも、何だか様子がおかしい。お尋ねすると、「高松に住んでいる38歳の娘が小学生の子供がいるのに、心筋梗塞で危篤だという連絡が来たけど、待合室で、電話すると、もう亡くなったという。一刻でも、速く行きたいのに、四国に着いても明朝6時まで電車もない。松山まで行けば、5時に出る便が有るらしいんですけど。」と途方にくれていた。

この船はフェリー、車の人は沢山いるはずと思い、立ち上がって、「誰か、松山まで乗せてもらえませんか?」と大きな声で言うと、「急病人?」と隣に座ってた人が言った。奥さんは必死で泣くのをこらえ、その人に説明した。その運転手さんは大変良い方で、大型なので助手席に二人乗ることができ、高松まで送って行かれる事になった。

「明日、9時までに徳島に行けばいいから。」と話され、ずっと二人でお喋りしていたので、思いのほか速く四国に着いた。名前も知らない人だが、その運転手さんのお蔭で心が温かかった。

後で気づいた事だが、ノワタリさんは「始はよく上は試されるのよ。こんな事で、お前はできないのか。」と私に言われていた。昨日の悪天候、今夜のフェリーでの事...どうにかクリアしたらしく、年が明けると直ぐ、次の旅の連絡が来た。

 この写真もすべてノワタリさんの撮影されたものです

 


阿蘇の旅2003年 その1

2009-07-13 22:36:31 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

    阿蘇山上神社

12月の初め、ノワタリさんから「欠員が出来たから、阿蘇へいきませんか?」と誘われた。今回が本格的なノワタリさんとの旅の始まりである。まさかこれからずっと続くとは予想しなかった。

なぜか、新参者の私が予定を立てるとも思わなかった。

徐々に判った事だが、ノワタリさんは行く所と時期を神様からメッセージを受け取り動かれていた。

今回は、阿蘇山上神社→阿蘇神社→国造神社→熊野座神社→幣立神宮→天岩戸神社とナビを頼りにレンタカーで回った。

その日低気圧が近づき-40度の寒気が降りてきた為、悪天候で、たいそう寒かった。

私一人、別府からの横断バスで行ったが、湯布院に入った頃から、吹雪で行けるか心配したが、阿蘇に近づくほど、小降りになり1時間遅れで着いた。

ノワタリさんたちと合流して、阿蘇山上神社にお参りした。いつものようにノワタリさんと1,2人が歌われ、お清めして、隅にあった紙垂で祓ってもらった。

噴火口を見物したが、寒いのと硫黄臭いのでそそくさとで下山した。

 阿蘇神社

阿蘇神社で移した写真は上の物のようにオーブがたくさん写っていた。さすがに肥後の国の一宮らしく、広く立派だった。ここだけでなく、阿蘇の土地が良いのかどちらへ行っても、気持ちが良かった。

国造神社

国造神社に着いた時は、もう夕暮れだった。ここには立派な杉の御神木があった。また、御神木の木の株が建物の中にあったが、遅かったので、ガラス越しに覗いた。ノワタリさんは丁寧にご挨拶をされ、歌を歌われていたが、私達は境内の木々を見て回った。

宿に着き、に入り、食事すませ、みんなが集まってからが、へっと驚く事の連続であった。30歳くらいの男性は一人一人に水晶の柱を握らせ、その人のことを占ったりして飲みながら、盛り上がった。が、一番ショックだったのは、精神世界の話や中丸薫さんの太陽の会のレポートのコピーの内容だった。

他の人はわかるらしいが、私には初めて出てくる言葉ばかりで、????。

数冊のを重いのにわざわざ持ってこられ、説明された。私の知らない世界だ。世界観がひっくり返りそうだった。でも、皆さんはふん、ふんと頷きながら聞いていた。

竹内文書「 何、それ?」日月神事「何の事?」666「・・・?」空恐ろしい...

ノワタリさんは「帰ったら、その竹内文書の皇祖皇太宮に行きます。」と言った。

そんな話をワイワイと夜遅くまでした。

その後、友人のご主人が詳しく、本をお借りして読み漁った。

 上記の写真はすべてノワタリさん撮影です。


占い師さんのところで

2009-07-12 16:26:22 | 霊現象

ノワタリさんと東京で合流した夜、親しくされているという占い師さんの所へ 友人と二人案内して頂いた。

私の住んでいる田舎では 昔は手相を見るおじいさんとかはいたが、そういう職業の人は20年くらい前から居らず、タロットと霊感などという占いは初めてで、何を言われるか少し不安もあったが、ワクワクした。

その占い師さんは、足摺でちょっと見かけた方で、まだ30歳代で男性なのだが、中性的で大変優しい穏やかそうな人に見えた。

まず、友人から見て頂いた。

その間、私が以前お世話になった祈祷師さんのことを話し始めると、いきなりノワタリさんは、「痛い!」と言って頭を抱えた。「その人は大変力は強いけれども、良くないわね。」と続けて言った。うすうすそんな気はしていたが、やっぱりねと思った。話を替え、順番を待った。やがて友人が終わり、二人が待合室に出てきたとき、占い師さんの表情がちょっと変だった。

最初に、私が独り者である事を告げると、「う~ん、何故だろう...あなたは何時も不幸せになるほうを選択してきましたね。」と言われ、何故だか、私の事を分かってくれてるという気持ちになり 涙が出てきそうだった。

また、から私の先祖が昔で言う分限者であり、その家の繁栄が続くようにと神社を作ったが、残せなかったと詫びている。と言われた。確かに、先祖の元の家の敷地の裏に小さな神社はある。祖父が子供の頃、神事で来られた神主さんを家に泊め、接待していたとは行っていたが、自分ちのものとは言わなかった。そうすると、祖父が物心ついたころにはもう神社のある土地は手放していたのであろう。

「繁栄していたのは、幕末くらいまでの事でしょう?」と言うと、「残せずに悪かった。と謝っていますよ。」と言われた。その時は、何のおまじないか分からなかったが、セイジの葉の束を燻しながら 話を続けられた。最後に気をつけることをアドバイスして頂き、「他に聞きたい事はありますか。」と言われた。

以前、「土砂崩れで死ぬ」と書いたが、それだけでなく私の前世は請負師の妻でありその時も、事故が起き、土砂に埋もれて死んだと例の祈祷師に聞いていたので、その事を伝えた。

「確かに、あなたの目の前で事故は起きました。でも、亡くなったのは あなたではなく、他の人です。それは自然災害であるのに、責任を感じて、自分は幸せになってはならないと前世で思ったから、今世でそういう選択ばかりしたのですよ。」と優しくおっしゃられた。

それまでの生き方がリセットされ、本当の自分の人生が始まったような気がした。 後で、仲の良い友達に言うと、「他はわからんけど、不幸せな選択と言うのは当たってる。」と言われた。

料金を支払って、帰ろうとすると、占い師さんは「さっきね、先の人を診ているときに、大きなバタンというドアを開ける音がして、甲高い女の声がしたけど、うちに来る客にはそういう人はいないし、通り客が入ったのかなと思った。けど、出てみたら、二人しか居ないのであれ~?と思ったんだ。」と不思議そうに言われた。

お二人には私たちに見えないものや聞こえない物が分かるんだと思ったが、その正体って何なのだろう。

それから1ヶ月もしないうちにアドバイスで、気の向かないことはしないようにと言われていた事に反する事をした。当然、如実に結果はでた。