お正月の3日に「グアムに行きましょう。チケットの関係で返事は1両日中に下さいね。」と連絡がきた。海外は、あまり好きではないが、 行く事にした。
年末の深夜、数日間NHKで戦争中の南洋諸島の事を再放送していた。
沖縄から移住した家族の話が、とても頭に残っている。女学生の作文に、「こちらに来て商売を始め、生活も楽になり、白いご飯が食べられるようになり、とても嬉しい...」と書いていたが、アメリカ軍が攻めてきて、山に逃げたが、艦砲射撃の玉に当たり、両親と兄弟は亡くなり、残った姉とお堂に隠れた。」とその後をナレーションした。又、幾人ものもんぺ姿の女性が万歳と言って手を上げて、断崖絶壁から飛び降りる姿のモノクロの映像を見た。嫌だ、何でこんなフィルムを放送するのだろう、見たく思いつつ目にしてしまった。つらい!
1月17日から3泊4日の女三人の旅である。飛行機を出ると外は、薄暗くなっているのに肌にネチャとまとわり着くほどの蒸し暑さだった。
ホテルの隣にはターザというウオーターパークもあったが、ビーチでの散策も、バナナボーもシュノーケリングなどのマリンスポーツも無縁の旅であった。たぶん、泳ぐ事はないだろうと思いつつも、意地汚く水着は持参していた。もし、していたら、背中に何体かしょってたろう。
その夜中、飛行機の疲れもでて休んでいたら、隣の部屋がドンドンとうるさい。「うるさ~い」と3人で大きな声で、怒鳴った。翌朝、「夕べは、お隣うるさかったですね。」と言うと、「隣の人じゃないわよ。隣は一緒のパックのおとなしそうな中年の男の人よ。」と、ノワタリサンが言う。私と、茨城からきた女性は「あれ!」と顔を見合わせた。
レンタカーを借り、北部から回った。グアムは雨季で、空が暗くなったと思ったら、5分もしないうちに豪雨になったが、在り難い事にお清めを始める頃には、雨はあがった。
まず、最初にアンダーソン空軍基地を通り抜け、リディアン岬に行った。
すれ違う車にも殆ど会わず、返って人のいないのが不安にもなり、人気の無い所ばかり行ったので、男の人だけに会うのも、気持ち悪かった。
崖の上から水や粗塩をまき、般若心経と光明真言を唱え、ノワタリさんは歌を歌い、亡くなった人の冥福を祈った。不思議なことだが、何処に行っても、歌を歌いだすと、黒い蝶が群れを成して、飛んできた。また,道を探しながら、下のビーチに降りて、崖の下でもお清めした。
太平洋戦争戦没者慰霊公園
次に、太平洋戦没者慰霊公園に行った。上記の写真は合掌している手を表したものであるらしい。右側の写真の花はその園内のあちらこちらに植えてあった。白い花が清楚であった。奥のほうに、その連隊のいくつかの墓石があり、ビールとかタバコが供えてあった。そこと、小さな建物があり、その中には仏像が祭られており、お寺のようになっていた。各県人会からの折鶴や供え物が供えてあり。お参りに来ている形跡があった。そこでも、私達だけでゆっくり、お参りして、お清めした。
ガイドブックの地図はとても大雑把で、人の住んでいない所は、道が途中で消えていたり、(実際にも、道は舗装も無く、行き止まりになっている事が多かった)なかなか思うように海岸の岬にたどり着けなかった。食事もままならず、ゴルフ場のレストランで済ませた。雨季のせいか、客もいないが、冷房だけはむちゃくちゃ効いていた。
恋人岬に着いた時はもう夕方でここも閑散としていた。
夜は、慰労をかねて ディナーショーを楽しむ事にしたした。客は五分ぐらいの入りで殆ど中年日本人女性だった。(自分を含めて)
金髪美人のダンスと猛獣を使ったマジックショーだった。確かに、ダンサーは粒ぞろいで美人ばかりだったが、対照的に男性ダンサーは現地調達という感じで、明らかに脚も女性に比べて、上がらず、とってつけた様なダンスである。おまけにズボンは黒光りして、侘しさを感じ、ギャラも段違いに違うんだろうなと、そんな事ばかり、気になり、楽しめなかった。記憶違いかもしれないが、ウエイターも兼ねていたような気がする。
また、 ステーキは冷めて、硬く、他の料理も美味しいとは言えなかった。(期待する方がアホなのかもしれない。)
この旅行で、何処のレストランで何を食べたか、全く思い出せない。ショーの内容よりも、ただ、ズボンがテカテカと黒光りしていた事だけが記憶に強烈に残っている。
この写真もノワタリさんの撮影です。