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今週の読書! ミレニアム4(上)/透明な迷宮/書店主フィクリーのものがたり

2016年05月21日 | もう一冊読んでみた
 今週は、この3冊。
 ミレニアム4(上)/透明な迷宮/書店主フィクリーのものがたり

ミレニアム4(上) 蜘蛛の巣を払う女/ダヴィド・ラーゲルクランッ  2016.5.21

 ミレニアム1~3とは、物語の展開の仕方や登場人物の雰囲気が、少し違う感じがしないでもありませんが、これはこれで大変面白かった。

 「訳者あとがき」からの情報。

 『ミレニアム』第一~三部は早川書房から単行本で刊行されて大きな反響を巻き起こした。
著者のスティーグ・ラーソンは『ミレニアム』を十部作にするつもりで、すでに第五部までストーリー考えていたようだが、残念にも心臓発作で急死してしまった。
2014年12月、三部作の版元であるスウェーデンのノーシュテッツ社は、ラーソンの遺稿とは関係なく、まったく新しい手による『ミレニアム』第四部を刊行すると発表した。
新たな著者として白羽の矢が立ったのはダヴィド・ラーゲルランツで、前作を引き継ぐ形をとりながらも第四部が独自に創作されることになった。
ノーシュテッツ社は、同じ著者で二〇一七年に第五部を、二〇一九年に第六部を刊行することに決めている。


『ミレニアム』をこの先も、まだまだ楽しめそうです。

 暴力は、畏怖の念を呼び覚ますことができる。黙らせ、怖がらせ、リスクや脅威を遠ざけることができる。だが同時に暴力は、混乱を生んだり、望まぬ結果を連鎖的にもたらしたりもする。

暴力では、何事も根本的な解決には至らない、このことは歴史が証明している事実だとぼくは、信じています。
暴力は、暴力の連鎖を生むばかりです。

 『 ミレニアム4(上)蜘蛛の巣を払う女/ダヴィド・ラーゲルクランッ/ヘレンハルメ美穂 羽根由訳/早川書房 』



透明な迷宮/平野啓一郎  2016.5.21

 平野啓一郎氏の短編集『透明な迷宮』を読みました。
平野氏の小説は、初めてです。

順調な、淡淡とした、平凡な毎日、「明日は、昨日の今日」のように何事もなく平凡に過ぎていく、繰り返される毎日。
そんな日常のなかに▼(挟み込まれ)た異変。
それに気づいたとき、平穏な日常はきしみ、自らの人生は歪んでいく。

例えば、こんな事に気づいたとき。

 話者が感じる言葉の速さと、聴き手が感じる言葉の速さとは、一致していない。その違いを、無いかの如く振る舞わされている。ストレス因子として、この問題を真面目に考えてみた人間はいるのだろうか。

 気づくという現象は妙なもので、誰か一人が気づくと、関係のないあちこちの場所でも、一斉にみんな気づき始めるらしい。そして、どうして今まで気づかなかったと首を傾げ、よくよく思い返してみて、実は気づいていたと気づいたりする。

 私は、彼女との行為中、ただひたすら、火を見つめながら、そういうことを思い出していました。彼女を、火のメタファとして、言わば火の代理と見做そうと努めていたのです。
 (そういうこと→→母の本棚から抜き取って読んだ、どこぞの思想家の本の中に、こんな記述がありました。人間が火を熾すことを思いついたのは、性交時の摩擦熱を知っていたからだと。馬鹿なことを考える人間もいるものだと、私は吹き出して読んだものですが、その本は大まじめに、様々な傍証を引いていました。)


たまに理解に苦しむ表現もみられました。

 声がよく通ったので、抑制が効いた品のある演技が出来、その分奥まった色気があった。
肉体の遠近法の彼方に、何か淫らな消失点を持っている。

  『 透明な迷宮/平野啓一郎/新潮社 』



書店主フィクリーのものがたり/ガブリエル・ゼヴィン  2016.5.21

 この『書店主フィクリーのものがたり』は、2016年本屋大賞翻訳小説部門第1位になりました。
それで読んでみました。
「おとなの童話」のような作品です。
ぼくには、面白いものがたりでした。
この作品のなかで触れられている本のひとつひとつについて、その物語の情景まで思い浮かぶ愛読者の方には、さらに興味深い一冊になることと思われます。

童話のようなものがたりなのですが、登場人物の女性たちは、ベッドをともにするのがはやい。
セックスに関する感覚が、ぼくとは違う気がしましたが、外国の女性はこれが普通ですか。

 「これがおわって、あなたが植物人間になっても、あなたとセックスしてもいい?」と彼女は訊く。

 「セックスはしてみるべきだと思うの」イズメイは明言する。「あなたがお望みならだけど」「お望みです」とランビアーズはいう。「でもそれが、あんたを二度目のデートに誘わないということなら、いやだな。あんたを手に入れるやつの、練習台になるのもごめんだ」
 彼女は笑いとばし、彼を寝室に案内する。


本でも、ひとでも好きと嫌いについて。

 だれでも、自分の好きなものが好きなんだ。それはすばらしいことでもあり、ひどいことでもある。

 マヤ。ぼくたちが二十のときに感じたことは、四十のときに感じるものと必ずしも同じではないということをね、逆もしかり。このことは本においても、人生においても真実なのだ。

 愛というもののなんともやりきれないところは、ひとがひとつのものにくそったれな愛を注ぐと、あらゆることにくそったれな愛を注ぐはめになるということだ。

 いついかなるときも、この世の幸福と不幸の配分がイコールだとしたらどうだろう。もっとやさしくならなくては。四十を越えると憎しみが面にあらわれるとは、だれしもがよく知る事実だ。


この話には、声を上げて笑ってしまった。

 「あんたがきのう薦めてくれたこの本ときたら、私の八十二年の生涯で読んだ本のなかで最低よ。お金を返してもらいたいの」
 「この本になにか問題がありますか?」
 「おおありだわよ、フィクリーさん。まずね、これって、語り手が死神じゃないの!わたしゃ、八十二歳の老女よ、死神が語る五百五十二ページの大作を読んだって、ちっとも楽しくなんかありゃしない。まったく無神経なものを薦めてくれたもんだわねえ」


 『 書店主フィクリーのものがたり/ガブリエル・ゼヴィン/小尾芙佐訳/早川書房 』

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