■いつか、虹の向こうへ 240624
伊岡瞬さんの『いつか、虹の向こうへ』を読みました。
本書は、2005年の第25回横溝正史ミステリ大賞&テレビ東京賞をW受賞した著者のデビュー作。
先日まで、伊岡さんの小説を読んだことがありませんでした。
『いつか、虹の向こうへ』のような、素敵なハードボイルド風の題名のミステリを読んでいなかったなんて不思議です。
それに、「このミステリーがすごい!」で、見たことがない気がします。
かれこれ20年近く経つのに。
面白いミステリには、アンテナを高くしてきたつもりなのですが。
二番目の同居人の石渡久典の人生が面白い。
「高校一年生のとき、英語の授業で翻訳という課題が出ました。英字新聞のコラムでもいい。ペーパーバックの一章でもいい。五百語以上の文章を自分で翻訳するという夏休みの宿題でした」
たった一杯のために、ふむふむ言いながら聞いていた。
「私は洋書店に行って絵本を買いました。比較的文字量が少ないけど、一冊全部翻訳した気分になれると思ったからです」
親爺が置いた泡盛をひと口ふくんだ。水と見分けのつかない液体が、喉を焼きながら落ちて行く。
「私はなんだか、その話が妙に気に入ってしまって、自分なりの絵本を作りました。それ以来外国の物語を翻訳して日本人に紹介する仕事がしたいと思うようになりました」
「なるほど。それが翻訳家になったきっかけですか」
「結果的に、そういうことになります」
ご馳走になった以上、もう少し聞かねばならない。
「どんな話ですか」
「『虹売り』の話です」
「虹? 空にかかるあの七色の虹?」
「そうです」
「あんなモノが売れるのかねえ」
「まあ、絵本の話ですから」
「今度是非読ませてください」
最後に社交辞令を言った。
「いいですよ、部屋にありますから」
この話はこれで済んだと思ったが、石渡氏は真面目に受け取ったようだった。
大事そうに抱えてきた。角や縁がだいぶすり切れている絵本を、私もうやうやしく受け取った。たいした文字数ではないので、我慢して読むことにした。
虹の話だというので、能天気に明るいハッピーエンドだと決めつけていたが、思い違いしていたようだ。彼が自分で描いたという絵も、どこか暗い感じだった。意外なことに、読みはじめると次第に引き込まれていった。
ある日、『虹売り』が町にやってきた。見たことのない変わった幌馬車に乗ったその男は、頑丈できらびやかな箱に『虹の種』をいっぱいに詰めていた。しかし彼は『虹の種』を売るのではなく、あるものと交換するために町を訪れたのだ。その『虹の種』というのは、土に埋めると、最初の雨が降った翌日、その場所から本物の虹が立つ。
とてもめずらしい種なので、みんななんとか売ってもらおうとする。しかし、男は金では売らない。男は種をもらいに来た人を馬車の中に招き入れて、ささやくようにこう言う。
『あなたが今までで一番悲しかった話を聞かせてください』
実は虹の種の材料は、人の悲しみでできていた。
だから話の中身が悲しいほど大きな虹ができる。男は、その悲しみの材料の中から、二割をもらってためておく。やがてそれをひとつにまとめて大きな大きな虹をつくり、お城でお祝いごとのあるときに売って金を稼ぐのが商売だった。
そして残りの八割を虹の種に変えて、話をしてくれた人に返す。
男は一週間ほど滞在した。みんな次々に悲しい話をしては、自分の土地に虹をつくってみた。
仲のよさそうな新婚夫婦の家から大きな虹が立ち上ったり、いつも泣いて愚痴をこぼしている老婆が、にんじんくらいしかない虹しかつくれなかったり、いろいろだった。
ある日、ひとりの少女が虹売りの幌馬車を訪れた。
『わたしにも虹の種をください』
両親を亡くして、親戚の家で育てられている少女だった。彼女はとても朗らかで、誰にも親切にして、皆から好かれていた。育てられている家の主人は町で大きな店を経営している金持ちで、やさしくていい人だという評判だった。少女はとても恵まれて幸せそうに思われていた。
だから、少女が虹の種をもらいに来たとき、みんなこう思った。
『今夜は雨だから、明日はきっと虹が見られる。あの子の腕くらいしかないかわいらしい虹がな』
次の朝、窓を明けた町の人々はとても驚いた。
さて、その続きは............
私の立つ空間だけ不思議な静寂が支配していた。今にして思えば、運命の女神などという洒落たものがいるなら、そのときその薄汚い路地に、性悪な女神がひっそり佇んでいたのかもしれない。
「なぜ、あんなことをしたんだ」
近川がぶっきらぽうに聞いた。
「あの事件のことか?」
近川はこくりとうなずいた。
「ずるい言いかただと思うだろうが。わからない、というのが正直な気持ちなんだ。ただ、人には魔が差す瞬間がある。まるで夢見るように、魅入られたように。行き止まりの道に進んじまうんだ。君も見てきただろう? 室戸だって、気づかないうちにいつのまに一歩足を踏み外しただけかもしれない」
近川は火をつけた煙草を吸いもせず、じっと見ていた。
『 いつか、虹の向こうへ/伊岡瞬/角川文庫 』
伊岡瞬さんの『いつか、虹の向こうへ』を読みました。
本書は、2005年の第25回横溝正史ミステリ大賞&テレビ東京賞をW受賞した著者のデビュー作。
先日まで、伊岡さんの小説を読んだことがありませんでした。
『いつか、虹の向こうへ』のような、素敵なハードボイルド風の題名のミステリを読んでいなかったなんて不思議です。
それに、「このミステリーがすごい!」で、見たことがない気がします。
かれこれ20年近く経つのに。
面白いミステリには、アンテナを高くしてきたつもりなのですが。
二番目の同居人の石渡久典の人生が面白い。
「高校一年生のとき、英語の授業で翻訳という課題が出ました。英字新聞のコラムでもいい。ペーパーバックの一章でもいい。五百語以上の文章を自分で翻訳するという夏休みの宿題でした」
たった一杯のために、ふむふむ言いながら聞いていた。
「私は洋書店に行って絵本を買いました。比較的文字量が少ないけど、一冊全部翻訳した気分になれると思ったからです」
親爺が置いた泡盛をひと口ふくんだ。水と見分けのつかない液体が、喉を焼きながら落ちて行く。
「私はなんだか、その話が妙に気に入ってしまって、自分なりの絵本を作りました。それ以来外国の物語を翻訳して日本人に紹介する仕事がしたいと思うようになりました」
「なるほど。それが翻訳家になったきっかけですか」
「結果的に、そういうことになります」
ご馳走になった以上、もう少し聞かねばならない。
「どんな話ですか」
「『虹売り』の話です」
「虹? 空にかかるあの七色の虹?」
「そうです」
「あんなモノが売れるのかねえ」
「まあ、絵本の話ですから」
「今度是非読ませてください」
最後に社交辞令を言った。
「いいですよ、部屋にありますから」
この話はこれで済んだと思ったが、石渡氏は真面目に受け取ったようだった。
大事そうに抱えてきた。角や縁がだいぶすり切れている絵本を、私もうやうやしく受け取った。たいした文字数ではないので、我慢して読むことにした。
虹の話だというので、能天気に明るいハッピーエンドだと決めつけていたが、思い違いしていたようだ。彼が自分で描いたという絵も、どこか暗い感じだった。意外なことに、読みはじめると次第に引き込まれていった。
ある日、『虹売り』が町にやってきた。見たことのない変わった幌馬車に乗ったその男は、頑丈できらびやかな箱に『虹の種』をいっぱいに詰めていた。しかし彼は『虹の種』を売るのではなく、あるものと交換するために町を訪れたのだ。その『虹の種』というのは、土に埋めると、最初の雨が降った翌日、その場所から本物の虹が立つ。
とてもめずらしい種なので、みんななんとか売ってもらおうとする。しかし、男は金では売らない。男は種をもらいに来た人を馬車の中に招き入れて、ささやくようにこう言う。
『あなたが今までで一番悲しかった話を聞かせてください』
実は虹の種の材料は、人の悲しみでできていた。
だから話の中身が悲しいほど大きな虹ができる。男は、その悲しみの材料の中から、二割をもらってためておく。やがてそれをひとつにまとめて大きな大きな虹をつくり、お城でお祝いごとのあるときに売って金を稼ぐのが商売だった。
そして残りの八割を虹の種に変えて、話をしてくれた人に返す。
男は一週間ほど滞在した。みんな次々に悲しい話をしては、自分の土地に虹をつくってみた。
仲のよさそうな新婚夫婦の家から大きな虹が立ち上ったり、いつも泣いて愚痴をこぼしている老婆が、にんじんくらいしかない虹しかつくれなかったり、いろいろだった。
ある日、ひとりの少女が虹売りの幌馬車を訪れた。
『わたしにも虹の種をください』
両親を亡くして、親戚の家で育てられている少女だった。彼女はとても朗らかで、誰にも親切にして、皆から好かれていた。育てられている家の主人は町で大きな店を経営している金持ちで、やさしくていい人だという評判だった。少女はとても恵まれて幸せそうに思われていた。
だから、少女が虹の種をもらいに来たとき、みんなこう思った。
『今夜は雨だから、明日はきっと虹が見られる。あの子の腕くらいしかないかわいらしい虹がな』
次の朝、窓を明けた町の人々はとても驚いた。
さて、その続きは............
私の立つ空間だけ不思議な静寂が支配していた。今にして思えば、運命の女神などという洒落たものがいるなら、そのときその薄汚い路地に、性悪な女神がひっそり佇んでいたのかもしれない。
「なぜ、あんなことをしたんだ」
近川がぶっきらぽうに聞いた。
「あの事件のことか?」
近川はこくりとうなずいた。
「ずるい言いかただと思うだろうが。わからない、というのが正直な気持ちなんだ。ただ、人には魔が差す瞬間がある。まるで夢見るように、魅入られたように。行き止まりの道に進んじまうんだ。君も見てきただろう? 室戸だって、気づかないうちにいつのまに一歩足を踏み外しただけかもしれない」
近川は火をつけた煙草を吸いもせず、じっと見ていた。
『 いつか、虹の向こうへ/伊岡瞬/角川文庫 』
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