村の笛吹きの、日々のこと。

茨城県東海村のこうやフルート教室の講師、市村明日美の、ちょっと思ったことなどを、ひそかに書いています♪

震災から10年も経ったとは。

2021年03月13日 | 日々のこと

 先日、長時間フルート吹き続けの仕事があり、いつもは全然大丈夫ですが、かなり、吹き続けだったので…そういえば、そういう時は銀の楽器を持って行くので、金で吹き続けは辛かった!!!重っ!!コンサートだと休符もあったり曲間もあtったり、自分で練習してると休みますしね。

 どのくらいの重さなのか、今度重さを計ってみよう。

 私の先生も最近金の楽器を、もう持てない、と、手放していらっしゃったので…

 私もちゃんと、鍛えないとなあ。

 

 そうそう、震災の話。

 震災は、自宅もこんなでした。

 

 平屋だったけど7部屋かな??面積が広くて、小さいころから、この家は、地震で壊れるんだろうなあ、って、中学生の時にも、地震保険に入ってくれと親にお願いした覚えが。

 真ん中の二間続きの和室あたりからつぶれるのかな、庭側は全部ガラスだし、なんて思っていましたが…まさかの。

 家に帰ったら、あれま!ログハウス!!

 外壁が無くなっちゃったのね!あらまあ派手に…

 大谷石の塀も消えていました。乗って遊んでると、塀が壊れる!と怒られたものですが、子供が乗って壊れるような塀なんてある方が悪いんじゃないか、フェンスで良いじゃん、なんて思っていましたが、やっぱり壊れた!

 ちょうど半年程前まで、祖父を在宅介護していて、西側の部屋には祖父のベッドがあり、祖父はそこで寝ていました。

 勉強好きでハードカバーの本を、ベッドサイドの本棚にたくさん入れていました。

 地震でそれが全部ベッドの上に落ちて、更にサッシの方まで飛んでいて、それでサッシがゆがんでしまうくらいの勢いでした。そこは、祖父が寝ていた場所。

 それを見て、みんな、

 「おじいさんが生きてたら死んでた!!」

 と、よく分からないことを言って、ちょっとホッとしてみたりして。でも、そこで祖父が本の下敷きになって死んでいたら大事件ですよ…。おじいさん、良いときに亡くなってたね、と、みんなでよかったよかったと言いました。

 でも、家は建て直しになりました。

 

 とにかく私は、家には危険すぎて入れない状態だったので、身の回りのものを車にのるだけ持って、結婚式後に住み始める予定だった、まだ空っぽだけど荷物を少しずつ運べるように鍵を既に頂いていた今の家に避難しました。何も無い!!という状態で、夫と暮らし始めました。

 あの時は、ニュース聞くのも怖かったし、携帯は通じない、余震はずっと続いているし、水道は止まって電気も無くて…

 でも、本当に、あの時は、ものすごく、大変でしたよね。

 なんか、大変でした。とっても。

 でも、たくさんの方々が助けて下さいました。

 そちら大変でしょ?!おばあちゃんあずかるから!迎えに行くから!と、真っ先に連絡を下さったのは、夫のお母様。まだ結婚もしていなかったのに、夫のお母様から見たらうちの祖母は会ったこともない他人なのに、そんなことまでご連絡をすぐに下さるとは、と、こっちの親は感動して涙を流していました。

 結局、そこまでお願いはできない、と、伯母の家にしばらく預かってもらいましたが、食べ物をたくさん持って遠い道を走ってきて下さったこと、本当に感謝でした。しかも、父は震災の時に北上川を通過中の新幹線の中。で、橋の上で緊急停止。翌日の昼まで足止めだったそう。橋の上で一夜を明かしたと。毛布などが運ばれてきたそうですが、余震と寒さの中、さぞ怖かっただろうと…結局翌日に、乗客みんなで歩いて本州側に移動したそうです。

 こんな場所歩けるなんて一生一度だー!と、みんな楽しんでいたぞ、と、言っていましたが…

 で、ようやくそこの公衆電話から電話が繋がり。

 実家は祖母の方の電話がアナログ回線にシンプルな電話機がつないであったため、停電していても全く普通に電話が通じていました。光回線やファックス付きは全く機能しなかったようですが。

 近所でもうちの被害はかなり大きい方でしたが、母は、かまどで(ガスも電気も無くても薪でごはんが炊ける)大量にお米を炊いておにぎりをたくさん作り、誰にでもいいからその辺の人に配って来なさい!みんな困ってるんだから!と、やっていました。ひえええ、すごい…

 夫も連日私の実家の作業を手伝いに来てくれていました。

 余震も続くし落下物も危なすぎるので、みんなヘルメットを被っていましたが、私のヘルメットは無かった。

 仕方ないので、厚手の布でできている、あっかんべーをしているおばけ帽子をかぶり、私もわたわた作業していました。いろんな方がお見舞いに来て下さり、私もご挨拶していました。誰にも何も言われなかったけど、私は相当に変な恰好だったと思う。でもそれどころじゃない感じ。

 家の中で寝るのは怖い、けど、家から離れるわけにもいかない、と、母は庭の車の中で寝ていました。

 それを聞いた知り合いが、すぐにキャンピングカーを持って来てくれて、こっちの方が良いから!遠慮しないで使って!って貸して下さったり…

 教室の生徒さんたちからも、大丈夫ですか?!とご連絡頂き、食べ物はありますか?水は大丈夫ですか?教室の片づけ手伝いましょうか?何かあったらいつでも行くので連絡下さい!と…

 本当に、皆さん、ありがたかったです。

 結婚式は震災の2週間後にする予定でした。できなくなってしまいましたが、5月に延期でできることになりました。

 こんな時期に茨城になんて怖いよね、と思いましたが、皆さん、ご参加下さり、新郎の、披露宴の最初のスピーチは、何を言うのだろう、と、思っていたら、

 「震災以来余震が続いています、大きな揺れを感じた場合は式場の方の指示にしたがって…」みたいな非常時の注意スピーチで、会場は大爆笑でしたが、夫は大真面目で、え?なんで?安全第一じゃん?と言っていました。

 

 大変な経験でしたが、たくさんの方々の優しさに触れ、普通に生活できることが本当にすごいことなんだ、ということを実感しました。いろんなことに、感謝しないといけないと。

 茨城でもこんなに大変でした。東北は、更にさらに大変ですし、命を奪われてしまった方や、大切な方を失ってしまったり…軽々しく私の考えなどを書けることではないですが… 

 オリンピックが東京に決まった時に、それでいいのかなあ、オリンピックしてて大丈夫なのかなあ、と、とても心配になり、とりあえず、東日本大震災に募金しに行きました。

 今はコロナもあり、また日本中大変、世界中大変なことになっていますが、みんなで前向きにがんばれたら良いなあと…

 

 震災後、動物たちも慌てふためいていました。

 イタチが道路を走り回っていたり、白鳥が大騒ぎしながら上を飛んで行ったり。うちのくーも、ノイローゼみたいになっていました。

 動物たちも怖かったですよね。動物たちにとっても、安心できる世の中であってほしいです。

 

 話が全然まとまりませんが…

 明日もがんばりましょう!!