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「澤木興道自伝ー聞き語り」

2024年02月23日 17時14分53秒 | 宗教的世界の様相

 最近、私は痛快かつ痛烈な本に出合った。「禅僧ー沢木興道の自らの人生を語るー聞き語り自伝」である。これは沢木興道師が収録者に語った肉声を文字にしたものである。本人の口から出た魂の旅路であり、稀有の自伝である。ゴミ溜めに蓮花である。蓮の花も泥の中から現れる。今の世の中を見回して、果たしてこんな人物はゐるのか?。師は幼くして実の父母を失った。昔で言えば親なし子である。兄も姉も妹も幼くして空っ風の吹く寒い世間に放り出された。普通なら、愚れて世の中の屑不良になった事だろう。だが、人という物は本来生れる以前からの聖なるものを持って生まれて来るらしく、愚れようにも愚れられない性質を持って生まれて来るらしい。そして興道師の養育先が、これまた最下等、最悪の扶養先だった。後の沢木興道を産んだのは、この最悪の育成環境だった。こんな所にも蓮花は生えるのである。親とも言えぬほどの酷い養父母である。よくもまあ、こんな親の下で凄い人物が育ったものだ。いや、返ってこんな親で、酷い環境だった事が幸いしたのだろうか?。沢木師が現在の義務教育の環境を観たら、何と言われる事だろう。真の禅者は最底辺の苦労をなめ尽くして初めて生まれるものなのだろう。

興道師の聞き語りという肉声を聴きながら、私は、彼の育った当時の大阪の最下等の社会を見る思いがした。こういう底辺社会がある事はまるで知らなかった。これは最下層社会を活写している。下層社会の研究、或いは人間研究に役立つだろう。17歳の頃に読んだ岩波文庫に、横山源之助の「日本の下層社会」という本があるが、横山はこの本を左翼的な観点から書いているが、彼に記述は或る意味では嘘である。社会が人間をつくるのではない、その逆だ、人間が社会を創るのであり、なぜこんな下等な人間に成った根因は何なのだろう?、下等な者はろくな社会を創れるはずがない。次々と興道師の人生を見て行くと、彼を求道に誘ったのは、近隣に本当の高潔な人物がいた為である。如何に人間を作るのには、高潔な人物が必ず必要な事を証明している。隣に居た森田岩吉(千秋)さんも興道師を導いた方であった。「世の中に金や名誉よりも大切なものがある」ことを知ったのは、千秋さんからだったと話されている。沢木師は禅者として、夙に名を馳せて居られた人物らしいが、私は人生の中で禅に触れたことは無かった。瞑想はお手の物だが、型に嵌った座禅はしたことがない。

日本の歴史の中で禅がシナより入ったのは鎌倉期であった。栄西が臨済禅をもたらし、臨済宗を創始した。またシナに留学した道元が禅をもたらし、道元禅の曹洞宗を創始した。どちらも禅である。違いが在るとすれば、座り方遣り方の作法の違いに他ならない。禅は元々インドに起こった仏教の地下根である。仏陀が始めたものが原始仏教であるが、それ以前に瞑想の下地があった。それがヨーガである、仏典にヨーガ師土論という瞑想とその獲得した智慧の論書が在る。原始仏教以前にそのヨーガは存在した。長い年月に様々な枝を出し変化して現在の仏教がある。逆に言うと現在の日本仏教はインド由来の原始仏教から派生した物とは異なっている。それは日本独特の加工が加わり、外国産の思想の日本的変容で突然変異と言って良い。禅は鎌倉期の武士の気質を捉えたらしい。明らかに浄土宗やその枝である浄土真宗の心性とは異なっている事は素人でも解る。

十七歳の沢木禅師が、余りに酷い育成環境に悩み、そこからいつ飛び出して家出をしょうかと悩んでいた次期が活写される。養父母から離れて、一体自分の人生をどう生きるか?深刻に悩んでいたころ、一度の家出に失敗して連れ戻され、坊主に成ろうと決心して永平寺を目指して着のみ着のまま、四日間のの旅をして永平寺にたどり着く。知り合いの真宗の僧侶に永平寺に向けて家出をするのに寄った所、生米二升と金二十七銭を呉れた。この辺の記録は切実だが面白い。たどり着くまで色々なことが在った。相当に苦しい思いをされたようだ。日露戦争の話もおもしろいものだった。沢木師は実戦の本当の実体を話されている。後日、師が伊勢志摩を訪ねると当時の人が生き残って居り、戦時に特務曹長をぶん殴って気合を入れた伝説は伝わっていた。

「九死に一生の帰宅」という項目は、実に沢木禅師の、もの凄い人生を活写している。色々と駄目な親の話は聞くが、これほど駄目な養父母は中々探しても見つかるまい。戦争で負傷し、首から入った弾は舌にぬけて重傷を負った師は担架で運ばれ、もうこれは駄目だという白い紙が貼ってあるが、白い札の戦傷者は一人二人と消えて行くが、興道さんは死なずに三日生きてゐると、若しかすると蘇生するかもしれないというので、ようやく治療を始めてくれたという。そんな九死に一生の負傷で、奇跡的に助かり、途中の戦傷者の内地への旅は酷いものであった。宇品に着いた後に、ようやく病院に入れた。

少し傷が癒えて家で加治療養しようとしていた矢先、家に帰るとまるで駄目な見本の様な養父の所業が露になる。養父は興道禅師が戦死する物とばかり思い、その戦死者に降りる手当を抵当に金を借り、それで博打をして酒を飲み、スッカリ使い果たしていた。養子が生きて帰った来たと成ると戦死手当てが下りないので、目算が狂い興道禅師に向かい怒鳴り散らして居たのだ。呆れるにも程がある。こんなのは親でもないし結縁でもない。養父とは謂えこんな駄目な親を持ったのは、幸いだったのか不幸だったのか。この養父は提灯張りを生業としていたが、幼い興道氏を引き取り、提灯張りの手代に使おうとして引き取ったのだ。食事と言えば麦飯でおかずは大根のしっぽと茄子のへただと謂う。新しい茄子漬けは自分の実子に与え、古茄子を興道に食わせる。よく病気にもならずに育ったものだ。賭博場の丁番、風呂屋の下足番、提灯の張替え、およそ今の若者がやる事の無い仕事である。禅師は思春期の頃には、此の侭ではいけない、「俺の人生はこんなもんで終わって仕舞うのだろうか?」と、悩みに悩み、此れでは、この世に生れた甲斐がないと煩悶し相当苦しんだと話される。何にに成ろうかと言ってもその展望がない。

禅師は、色々悩んだ挙句に、そうだ!、坊さんに成ろうと決心する。17歳か18歳の頃のことだ。人生のこの時期は、自分の将来について真剣に生きようとする者は誰しも煩悶する物だ。むしろ煩悶しない人間が居ることは不思議な事だ。興道師は一度の家出では連れ戻され、再び家出を決心する。二回目の家出が永平寺への必死の旅である。なぜ永平寺かというと、此れだけ遠ければ連れ戻されることは無いと踏んだらしい。まだまだこの聞き書は長い、沢木興道師の、その聞き書をよむことで禅宗と禅のこころに幾らかでも触れる機会を与えてくれた話者と編者に感謝する。今日は家内が遍照寺鮎ケ瀬智舜先生のお話を婦人部で聴きに行くという、先生はいつも人間は何を柱として生きなければ為らないかをお話されるので良いお話をお聴き出来るであろう。

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