柔道の目的は何でしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・(以下、講道館サイトより転載します)
嘉納師範は、立派な人間をつくる道として「柔道」を創始しました。柔道修行者は、単なる運動技術習得だけでなく、その練習を通して、人間形成を図る天下の大道としての柔道を学んでいるのです。
人間形成を行う柔道では、礼の精神は欠かせないものです。相手を尊重して敬意を払う気持ちが礼であり、それを表現した作法が礼法です。礼の精神を養うことは、嘉納師範の唱えた「自他共栄」の精神を養うことにつながります。
柔道を通して礼の精神を身につけることが、これからの未来を担う立派な人間を造る一助となるよう願ってやみません。
・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
早い話、厳しい稽古を経て、人格を高め、その能力を世の中の益となるように仕える人物となりなさい。
ということです。
「柔道 逮捕」で検索してみると、内柴選手が出てきます。
・・・・・・・・・・・(以下こちらから転載)
内柴 正人(うちしば まさと、1978年6月17日 - )は、日本の元柔道家、格闘家・柔術家。アテネオリンピック・北京オリンピック柔道男子金メダルリスト。元九州看護福祉大学客員教授。人物[編集]
熊本県合志市出身、同県玉名市在住。9歳で柔道を始める。そのきっかけは「兄に喧嘩で勝つ為」だった。得意技は巴投。尊敬する選手は、元柔道家の野村忠宏。身長160cm、体重66kg。血液型はB型。
国士舘高等学校を経て国士舘大学体育学部卒業後、旭化成に入社した。2004年に開催されたアテネオリンピックや、2008年に開催された北京オリンピックでは、それぞれ柔道男子66kg級にて金メダルを獲得した。その後、競技生活も晩年に差し掛かる2009年より、指導者も務めるようになった。旭化成を2010年末に退社後、九州看護福祉大学にて客員教授に就任し、2011年1月から11月29日まで同職を務めた。
中学時代から頭角を現し、パワーとスタミナのある攻めを生かし男子60kg級で活躍。オリンピック金メダリストの野村忠宏を追う存在として期待を集めた。一方で減量に苦しみ、大事な試合で失格を繰り返したため、こだわっていた60kg級でのオリンピック出場を断念。
66kg級に階級を上げて臨んだアテネオリンピックで金メダルを獲得した。全ての試合をそれぞれ違う技で一本勝ちを収めるという珍しい記録を残している[1]。
週刊新潮が報じたところによると、北京五輪直前に酒に酔って俳優・渡瀬恒彦の運転手に暴行、後遺症が残る怪我を負わせたが、金メダル候補ということもあり内密に示談したという[2]。
北京オリンピックでは、柔道日本代表チームの主将に指名され、決勝でバンジャマン・ダルベレに縦四方固めで一本勝ちし、野村忠宏以来の男子柔道連覇を達成。同大会の日本人選手の金メダル第1号となった[3]。
現役時代は常に体脂肪率4%以下を維持していた[4]。野村忠宏が引退するまでは現役でいることをかつて出演したテレビ番組にて発言していたが[5]、2010年10月、野村より自らが先に現役を引退することを決意したことが報道された[6]。
引退後[編集]
現役時代の2010年4月より九州看護福祉大学女子柔道部コーチを務めていたが、現役引退に伴い同年末で旧所属の旭化成を退社し、2011年1月に同大学の客員教授に就任した[7]。
準強姦事件[編集]
詳細は「内柴事件」を参照
2011年11月8日に同大学の女子部員に対するセクハラ疑惑がマスメディアで報じられ[8]、11月29日に同大学は内柴のセクハラ行為に関する調査結果について、未成年女子部員の飲酒を黙認し、その後セクハラ行為を行ったとし、懲戒解雇処分を発表した[9][10][11][12]。12月6日、準強姦容疑で警視庁に逮捕された。内柴は容疑を否認[13]。12月27日、東京地検は同罪で内柴を起訴[14][15]。
2013年2月1日に東京地裁(鬼沢友直裁判長)は懲役5年の実刑判決を言い渡し、2014年4月23日に最高裁判所で上告を棄却され、懲役5年の実刑判決が確定した[16]。
準強姦罪で起訴されたことを受け、全日本柔道連盟は2011年12月27日付で内柴の指導者登録を停止処分にしたことを2012年1月10日に発表した[17][18]。続いて2013年2月5日、刑事裁判で有罪となったことを受け、会員登録永久停止処分(永久追放)とすることを理事会で決めた[19]。
一審裁判中の2012年12月には離婚したと報じられた[20][21]。
実刑判決が確定後、静岡刑務所に収監され服役。釈放、現在[編集]
2017年9月15日に仮釈放された[22][23][24][25][26][27]。
総合格闘技「リアルファイトチャンピオンシップ」の主宰者山田重孝のバックアップに依り、仮釈放後に神奈川県座間市の柔術道場「アラバンカ柔術アカデミー」で訓練を重ね、2017年11月26日に神奈川県高座郡寒川町の寒川総合体育館で開催された柔術大会「ジャパンオープン2017」に出場し、柔術家のデビュー戦に至った。今後の活動は、プロ転向せず柔術のアマチュア大会で活動する。
経歴[編集]
1978年
6月17日、熊本県菊池郡合志町(現合志市)に生まれる
1994年
3月、一の宮町立(現・阿蘇市立)一の宮中学校卒業
4月、国士舘高等学校入学
1997年
3月、国士舘高等学校卒業
4月、国士舘大学体育学部入学
1999年
1月9日、嘉納治五郎杯男子60kg級で優勝
オーストリア国際男子60kg級で優勝
全日本選抜柔道体重別選手権で減量に失敗、計量を前に道端で倒れ出場辞退
2000年
ロシア国際男子60kg級で2位
世界大学選手権男子60kg級で優勝
全日本選抜柔道体重別選手権男子60kg級で3位
2001年
3月、国士舘大学体育学部卒業
4月、旭化成に入社
8月、ユニバーシアード男子60kg級で優勝
11月、講道館杯男子60kg級で優勝
2002年
1月、日本国際男子60kg級で優勝
2月、フランス国際柔道大会男子60kg級で3位
4月、全日本選抜柔道体重別選手権男子60kg級で優勝
6月、ギドシニエ国際男子60kg級で優勝、トレトリ国際男子60kg級で優勝
9月、釜山アジア大会男子60kg級で銅メダル
11月、講道館杯男子60kg級で2位
2003年
ドイツ国際男子60kg級で3位
3月、結婚[28][29]
4月、全日本選抜柔道体重別選手権で減量に失敗、体重オーバーで失格。引退を考えるも再起をかけ階級を66kg級に上げる。
11月、講道館杯男子66kg級で優勝
2004年
2月、ドイツ国際男子66kg級で優勝
4月4日、全日本選抜柔道体重別選手権男子66kg級で優勝。アテネオリンピック代表候補に決定した。
5月16日、カザフスタンアジア選手権男子66kg級で5位、アテネオリンピック出場枠を獲得。
6月、第1子(長男)誕生[30]
8月15日、アテネオリンピックの男子66kg級で優勝、金メダル獲得
9月、熊本県から県民栄誉賞、合志町から町民栄誉賞、東京都から東京都栄誉賞を授与
2005年
9月、世界柔道選手権で銀メダル獲得
2008年
8月10日、北京オリンピックの男子66kg級で優勝、金メダル獲得、オリンピック2連覇を達成
10月、東京都から都民スポーツ大賞、2度目の東京都栄誉賞を授与
2009年
2月、フランス国際柔道大会男子66kg級で優勝
4月1日、九州看護福祉大学(熊本)の非常勤職員に着任。2010年4月に発足する同大学の女子柔道部のコーチに就任。
4月4日、全日本選抜柔道体重別選手権男子66kg級で優勝
6月、第2子(長女)誕生[31]
8月26日、世界柔道選手権3回戦敗退
2010年
10月、現役引退を表明
2011年
1月12日、九州看護福祉大学の客員教授に就任
11月29日、女子部員に対するセクハラ行為が判明し九州看護福祉大学を懲戒解雇
12月6日、準強姦容疑で警視庁に逮捕 この後、熊本県、県内自治体からの栄誉賞が全て剥奪される(後述)
2013年
2月1日、東京地方裁判所にて懲役5年(求刑懲役5年)の実刑判決。全日本柔道連盟から永久追放処分(講道館の段位・五段を剥奪)。
2014年
4月23日、最高裁判所にて懲役5年の実刑判決が確定。
5月、実刑確定を受けて紫綬褒章が褫奪、東京都から栄誉賞等が剥奪される(後述)。
2017年
9月15日、静岡刑務所から仮釈放。
11月26日、柔術大会「ジャパンオープン2017」(神奈川県高座郡寒川町)に出場、柔術家・格闘家として復帰。
12月14日、懲役5年の刑期満了。
栄典・賞詞(のちに剥奪)[編集]
2度のオリンピック金メダル獲得で下記の栄典・賞詞を受けた。しかし2011年の逮捕・2014年の実刑確定を受けすべて剥奪されている。
2004年
紫綬褒章(1度目) 2014年4月の実刑判決確定により同年5月10日付で褫奪(ちだつ、剥奪の意)[32]。
熊本県民栄誉賞[33]
合志町町民栄誉賞(市町村合併後は合志市市民栄誉賞)
東京都栄誉賞
2008年
紫綬褒章(2度目) 2014年5月10日褫奪[34]。
熊本県民栄誉賞特別賞
東京都栄誉賞、都民スポーツ大賞[35]
阿蘇市市民栄誉賞[36]
合志市名誉市民[37][38]
・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
転載先がwikiなので長いですが、他のまとめサイトはかなりバイアスがかかっていますのであしからず。
個人的には柔道選手としてリスペクトしていますし。
五輪は天皇陛下の祭典で、この祭典である北京五輪男子柔道で金メダルを獲ったのが
66kgの内柴と100kg超の石井だけでした。
(パラリンピックでは日本人の正木が金とってますが)
二人とも国士舘大学出身の柔道の天才です。
しかし、内柴は性的に堕落して、不倫をし教え子と性的関係をもって全ての名誉を剥奪されてしまいました。
自分の富や名声を自分のために使うと、このように全て失ってしまいますね。
講道館柔道は、柔道を通して、人格を磨き、その力を世の中の益のために使いなさいといわれていますが、彼は自分のために使ってしまった。というか、自分のために使わされたのでしょうか?
柔道で実績を残すと世の中では得することばかりです。
欲望を我慢して世界の頂点にまで上り詰めたひとも、欲望に勝てないのでは、柔道の精神修行も当てになりませんね、、、、。
ホリエモンは新進気鋭のIT社長としてメディアをにぎわしましたが、最後は逮捕されてしまいました。
結局、お金でなく、性欲に負け続けて、最後は逮捕された内柴選手も「柔道界のホリエモン」と同じ運命をたどったことになります。
己の欲望に溺れ、落ちぶれていった
「柔道界のホリエモン」石井慧さんです。
Youtubeにて動画を見ていたところ、北京五輪の動画が出てきました。
石井 慧(いしい さとし、1986年12月19日 - )は、日本の男性総合格闘家、柔道家(六段)、北京オリンピック柔道男子100kg超級の金メダリスト。大阪府茨木市出身。ブラック・ハウス/レインMMA所属。ブラジリアン柔術茶帯。紫綬褒章受章。血液型はO型。出身道場は修道館(大阪府)。
ケイダッシュ系列の個人事務所アイダッシュに所属していたが、現在はブラック・ハウスとマネージメント契約を結んでおり、練習はレインMMAで行っている。
元妻は歌手の林明日香。
来歴[編集]
柔道家[編集]
茨木市立大池小学校5年生の頃、父親の指導で柔道を始め、本格的に取り組むべく清風中学に入学。高校1年生の時に、より柔道の強い環境を求め国士舘高校へ志願編入。その後、国士舘大学体育学部武道学科に入学。
2004年に講道館杯全日本柔道体重別選手権大会100kg級で優勝した。高校生の優勝は1998年の鈴木桂治、翌99年の高松正裕に次ぐ史上3人目で、翌年には連覇を果たした。2006年、全日本柔道選手権大会に初出場ながら鈴木桂治を破り、19歳4か月の史上最年少で優勝した(それまでの最年少優勝記録は山下泰裕の19歳10か月)。同年アジア競技大会(ドーハ)では100kg級で準優勝。
2007年全日本では準決勝で井上康生に勝利したが、決勝で鈴木桂治に敗れた。同年嘉納治五郎杯東京国際柔道大会より100kg超級に転向し、優勝。以後無敗で引退。
2008年2月のオーストリア国際で優勝を果たした。4月29日、全日本選手権決勝で三度鈴木桂治と対戦し、優勢勝ちで2年ぶり2度目の優勝をすると共に、北京オリンピック柔道男子100kg超級日本代表選手に選出された。
8月15日、北京オリンピック柔道男子100kg超級に出場、準決勝までの4試合はすべて一本勝ち、決勝ではアブドゥロ・タングリエフ( ウズベキスタン)と対戦、指導2つの優勢勝ちで金メダルを獲得、五輪での最重量級最年少王者となった。優勝直後のインタビューで「オリンピックのプレッシャーなんて斉藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」と発言し、新語・流行語大賞の候補60語にノミネートされた。
総合格闘家への転向
総合格闘家への転向[編集]
2008年10月6日、プロ総合格闘技への転向がスポーツ報知の一面で報じられ、明らかになった。また、出場予定だった当日の世界選手権団体も調整不足を理由に辞退した。翌日の10月7日の会見では、「卒業のことで頭がいっぱい。焦らずゆっくり考えたい」と進退の明言を避けた。10月31日、全日本柔道連盟に対して強化指定選手辞退届を提出[1]。11月3日に記者会見で「11月3日をもって柔道家をやめ、プロ転向を決めました。総合格闘技のチャンピオンになれるようにがんばります」 と、正式にプロ転向を表明した。このころから柔道選手時代のトレードマークであったスキンヘッド(写真)から、スポーツ刈りにヘアスタイルを変えている。
11月17日に個人事務所「Twill33」(ミーサン)を設立し、取締役である(マネジメントはケイダッシュ)。
12月16日に世界最大の総合格闘技団体UFCへの参戦意志を明言。同年12月27日にアメリカ合衆国で開催されたUFC 92を観戦し、同日深夜にUFCを主催するズッファ社と独占交渉契約を交わした(2009年1月末で独占交渉期限切れとなった)。渡米中には現役選手にしてUFC殿堂入りしているランディ・クートゥアらの指導を受けた。その後はアメリカン・トップチームで練習を積んだ。
2009年1月4日、戦極の乱2009のリングにUFCのTシャツ姿で上がり「これからアメリカで試合をすることになりましたが、いつか大きなお土産を持ってこのリングに立ちたい」と発言した[2]。
6月1日、記者会見で戦極(現SRC)と同日に仮契約したことを発表。戦極と契約した理由については「日本で育ち、日本で生まれた柔道に生かされてきた。その結果、オリンピック金メダルを手にしました。まずは、日本の格闘技界を盛り上げ、恩返しすることが私の宿命だと思った。自分の祖母は半分、片足を棺桶に突っ込んで、いつ亡くなってもおかしくない状況なので、祖母に生で試合を見せてあげたい」「日本にある団体の中で、『戦極』では、自分が最も尊敬する、世界のヘビー級で一番強い選手・エメリヤーエンコ・ヒョードルと(当時)対戦予定のジョシュ・バーネット選手がいます。もし、ジョシュ・バーネット選手が勝てば、最強はジョシュ・バーネット選手になるので、そういう選手がいるのが『戦極』なので、そういう面でも『戦極』に惹かれました。」と語った[3]。「本契約はファンの前でしたい」とし、6月4日に新宿ステーションスクエアにて本契約の公開調印式が行われた[4]。
3月から2か月半の間、ブラジルのパラー州ベレンにある、リョート・マチダの道場で武者修行を敢行した。
2009年9月、同年大晦日に行われるSRC(戦極)にて吉田秀彦との対戦が正式決定[5]。
9月、国士舘大学を卒業(単位が足らず、同年3月での卒業はできなかった)[6]。
11月25日、K-1とDREAMを主催するFEGとSRC(戦極)を主催するWVRが大晦日の格闘技大会を合同開催することを発表し、SRCの大晦日大会は中止となり、同大会で予定されていた石井慧vs吉田秀彦戦はFEG主催のDynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜で行われたが、判定負けを喫した[7]。
2010年3月20日、練習先であるハワイの興行「X-1 Champions 2」でササエ・パオゴフィーとエキシビションマッチ[8]で対戦し、1R2分50秒アームロックで一本勝ち[9]。
4月8日、4歳年下の女子大学生と入籍。同年1月にハワイで初めて知り合ってから3か月での結婚となった[10]。2011年1月、入籍から9か月で離婚。
5月15日、ニュージーランド・オークランドで開催されたXplosionでタファ"タンパー"ミシパティと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち[11]。
6月4日、ハワイ・ホノルルで行なわれたX-1: Nations Collideでマイルス・ティナネスと対戦。1R終了間際に左フックでダウンを奪い追撃のパウンドを繰り出すも、1R終了後の攻撃だったとして反則負けと裁定されたが[12]、その後ノーコンテストと裁定が変更された。
9月25日、DREAM初参戦となったDREAM.16でミノワマンと対戦し、3-0の判定勝ちで格闘家としての日本初勝利を収めた[13]。大会3日前の9月22日に参戦が発表されるほどの緊急参戦となった[14]。
11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 FINALに参戦。当初はアンズ・"ノトリアス"・ナンセンとDREAMルールで対戦予定だったが、試合2日前のドクターチェックでナンセンの古傷が治っていないことが発覚し、ドクターストップになったため、試合前日に相手が柴田勝頼に変更された[15]。試合ではアームロックで一本勝ちを収めた。
12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 にてK-1ファイターのジェロム・レ・バンナと総合格闘技ルールで対戦。K-1が本職で4年間総合格闘技ルールの試合をしていなかったバンナ相手に寝技で関節技を極めきれず、スタンドでパンチと膝蹴りを浴びるなど苦戦。3Rに抑え込んで判定勝ちを収めたものの、バンナからパウンドを浴びた際には石井が日本人でありながら日本の観客からバンナへの歓声と掛け声があがり、逆に判定で石井の勝利が告げられた際には観客から石井へのブーイングが飛んだ。試合後、石井は「バンナ選手の寝技が予想以上にうまかった。プロデビュー戦では負けはしたが、吉田秀彦さんからパスガードしてサイドポジションを奪うことは出来たし、今回の試合に備えてエメリヤーエンコ・ヒョードルに一本勝ちした柔術世界王者ファブリシオ・ヴェウドゥムと練習してきて、寝技スパーリングで僕はファブリシオからパスガードしてサイドポジションを奪って抑え込めていたから寝技には自信があった。しかし、バンナは寝技でもファブリシオと同じくらい足が利いていて、今までで一番パスガードするのが難しい相手だったし、アキレス腱固めやヒールホールドの防御のやり方も出来ていて、寝技で下から打ってくるパンチも強かった[16]」「ブーイングは応援の裏返しだと思うし、それだけ期待していただいていることだと思う。次は一本、KOで勝ちたいと思っています」と語った[17]。
2011年4月1日にカリフォルニアで開催のStrikeforce Challengers 15でスコット・ライティと対戦予定だったが、東日本大震災の影響でビザの取得が遅れるなど試合に必要な手続きが出来ないため欠場となり、Strikeforce参戦は頓挫した[18]。
9月14日、Amazon Forest Combat 1でパウロ・フィリオとライトヘビー級契約で対戦し、判定ドロー。
12月31日、元気ですか!! 大晦日!! 2011でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。1Rに失神KO負けを喫した
2012年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2012で元UFC世界ヘビー級王者のティム・シルビアと対戦。1Rはテイクダウンからサイドポジションを奪い、肘打ちで出血させるなど優勢に進めたが、2R以降はシルビアの首相撲に掴まり苦戦。判定勝ちするも、膠着し続けた試合に観客からのブーイングが飛んだ。また、相手のシルビアは試合前に「右膝を負傷しており、リアルファイトをするのは難しい。」と話していたことを同大会出場者が語っている。
2013年2月23日、IGF GENOME24で元UFCファイターのショーン・マッコークルと対戦。1Rにアームロックで一本勝ちを収めた。ただし、この試合は当初、石井がジェフ・モンソンと戦う予定であったが、モンソンが試合直前に怪我で欠場したため、セコンドとして来日していたマッコークルにIGFスタッフが交渉をして試合1日前に急遽決まった試合であり、マッコークルは準備期間たった1日で試合に臨んでいた。
3月21日、IGF GENOME25でケリー・ショールと対戦。左フックでダウンを奪い、腕ひしぎ十字固め(IGFの公式記録はアームロック)で一本勝ち。
5月26日、ペドロ・ヒーゾに判定勝ち。ストライカーのヒーゾとスタンドで互角以上に渡り合い、課題だった打撃技術の向上を見せた。
7月4日、歌手の林明日香と再婚していた事が発覚。林のファンだった石井は2012年8月に知人の紹介で知り合い、その後、交際がスタート。3月末にプロポーズし、大安だった7月3日に都内の区役所に婚姻届を提出した[19]。
10月21日、M-1 Challenge 42でジェフ・モンソンと対戦。1Rと2Rはスタンドで主導権を握りつつ、テイクダウンを奪うなど優勢に試合を進め、3Rにはモンソンのクリンチアッパーを中心とした攻めで盛り返されるも判定勝ち。
12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2013のIGFチャンピオンシップで藤田和之と対戦。判定勝ちを収め、王座を獲得した。
2014年4月5日のINOKI GENOME FIGHT 1でフィリップ・デ・フライと対戦。スタンドではデ・フライのパンチや膝蹴りに苦しんだが、再三テイクダウンを奪い判定勝ち。
8月23日のINOKI GENOME FIGHT 2でミルコ・クロコップと対戦。テイクダウンを奪うも、下からの肘打ちを受け出血。その後、スタンドでミルコと互角に打ち合ったものの流血が激しくなり、ドクターストップ負け。IGF王座から陥落した[20]。
12月31日大晦日のINOKI BOM-BA-YE 2014でミルコ・クロコップと再戦。リベンジを狙う石井だったが、2R終了間際にミルコの左ハイキックを側頭部に受けた後、打撃のラッシュを受けダウン。直後に2R終了のゴングが鳴らされたが出血が酷く、インターバルの最中も立ち上がれなかった為、TKO負けとなった[21]。
2016年8月7日放送の行列のできる法律相談所にて、林明日香と離婚したことを発表した。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160807-00000121-dal-ent
柔道界への復帰[編集]
2011年4月30日、アメリカフロリダ州オーランドで行われた全米体重別選手権のオープン参加クラスに参加し、全試合一本勝ちで優勝を果たした。試合後のインタビューで「全日本王者の鈴木桂治選手と闘いたい。彼にその度胸があればの話ですけど」と話した。アメリカ柔道連盟のナディング会長は石井について「将来的に米国代表になる気持ちがあるなら、可能な範囲でサポートしていきたい」と話した[22]。全日本柔道連盟の規定により、プロ格闘家に転向した選手は、プロ格闘家を引退してから選手は3年、指導者は1年経たなければ日本柔道界に再登録することができないが、アメリカ柔道連盟はプロ格闘家にも柔道の試合への出場を許可しているため、石井は「アメリカの永住権と市民権を取って、2016年のリオデジャネイロオリンピックにアメリカ代表として出場して金メダルを取る」と公言していた[23]。
2013年4月14日には全米選手権の無差別に出場したが、決勝では現地で柔道指導に当たっている元全日本強化選手の高橋徳三相手に指導2を先取して優勢に試合を進めていたものの、相手が内股を放った際に右脚を右手甲で防御したことにより反則負けとなり、2007年の全日本選手権決勝で鈴木桂治に敗れて以来柔道では約6年ぶりの敗戦を喫することになった。帯から下に触れることが全面禁止になった新ルールに対応できず、「マジでむかつくし、訳が分からない。おかしいよ」と不満をぶちまけた[24][25]。
7月にはアメリカ柔道連盟からの申請を受けた国際柔道連盟より、六段を授与されることになった[26]。
2014年5月5日、全米選手権の無差別級に出場し、準々決勝でまたも高橋徳三に反則負け。試合後には「高橋先輩は強かった。全然柔道をさせてもらえなかった。優勝して帰りたかったけど、両者指導の後、もう1回僕だけ指導を取られ気持ちが切れてしまった」と無念そうに語った[27]。
戦型[編集]
100kg以下級であったが、2007年秋に100kg超級へ転向した。左利きで、超級のクラスでは上背はないものの、その筋肉量、スタミナはトップクラスである。パワーとスタミナの強さから受けが非常に強い選手で、また試合の駆け引きがうまい。よって、旗判定が行われる国内試合に強い選手といえる。北京オリンピックにおいては金メダルばかりがクローズアップされるが、特筆すべきはその試合内容で、特に5試合通して失点ゼロである部分である。相手の技による失点だけではなく、反則ポイントも全く受けていない。これは反則が取られやすい国際ルールでは稀なことであり、石井の試合運びの上手さが体現されたと言える。
得意技は大内刈で、世界トップクラスの切れ味を持つ。全日本決勝で鈴木桂治を2度破ったのも大内刈である。他に技が少ないことが弱点となっていたが2007年あたりからは体落としを、2008年から大外刈や内股も出すようになってきた。寝技も得意。
練習の虫として知られ、特にウエイトトレーニングは寝る間を惜しむほど行い、ベンチプレス200kg以上を挙げることができる。非常に努力家であり、オーバーワークによる怪我を恐れてコーチが練習を止めると、泣いて「練習させてくれ」と懇願することもあったという。自身を「一本をとる技はない」「才能はない」と認めており、その分を人一倍の努力(練習による筋力増強と研究熱心さ)で補っている。全日本男子監督の斉藤仁も「世界一」と認める練習の虫である。その練習量の多さから、史上最強を謳われる柔道家木村政彦の弟子岩釣兼生は「(木村の)鬼の柔道を継げるのはあいつしかいない。山下泰裕君クラスに成長していく可能性がある。絶対に勝ってやるという、そのための努力の量と質が人とは違う」(『ゴング格闘技』2008年12月号)と発言している。
柔道だけでなく、レスリングやブラジリアン柔術の道場にも1人で出かけて腕を磨く。積極的に他競技の技術も学んでいる。ブラジリアン柔術では茶帯(黒帯に次ぐ位)を取得している。
一本勝ちにこだわるよりも確実に勝利することを信条としており、寝技の習得にも熱心である。立ち技での投げによる一本勝ちを狙うことを称賛する日本柔道界においては、その姿勢に対して前述のように全日本選手権で優勝した際にブーイングを浴びたこともあったが、「美しい柔道って言いますが柔道は芸術ですか?そんなに美しいものを求めるのなら体操でもやればいい」と発言した。北京オリンピックでは決勝戦以外は全て一本勝ちで優勝し、金メダルを獲得した。
人物・エピソード[編集]
中学・高校時代の指導員で、のちに清風学園柔道部監督になる魚澄豊治は、石井について「中学入学時の実力は、同期の部員の中でも下から数えたほうが早かった」と語っている。ちなみに、清風中学校にはスポーツ推薦ではなく、1日平均8時間の猛勉強をこなして、一般入試を受験し、合格している(そもそも、清風中学校は、スポーツ推薦に該当する入学試験は行っていない)。
中学・高校時代には体育教師をしている父・義彦(府立高校教諭・柔道六段、日体大柔道部出身)に、毎日弁当(朝練があるので2個)を作ってもらっていた。現在も人間として尊敬している人物は父だと明言している。
母親も体育教師で、父とは体育大学の同級生だったという。母はハンドボールの世界選抜に選ばれた経験があり、妹も水球のGKで全国優勝している選手。スポーツ一家[28]。
好きなスポーツ選手として亀田三兄弟、朝青龍、秋山成勲らを挙げており、理由は「強くて、バッシングを受けている部分に共感するから」としている。秋山は清風学園の先輩である。朝青龍には2008年1月の場所中に実際に会いに行き、励ましてもらっている。2008年4月の全日本選手権では朝青龍が観戦に駆けつけた。その後も朝青龍が泥酔暴行事件によって引退が決まった直後に石井が滞在しているハワイのクラブで密会する様子がテレビで報道されるなど親交が深い。亀田興毅とは雑誌での対談もあって親交を深め[29]、その後は亀田兄弟の父親である亀田史郎の指導も受けている[30]。
また柔道家としては小川直也を尊敬していて、高校生時代には小川からのアドバイスが欲しいがために小川がよく顔を出す明治大学の道場を訪れたりしており、そのため現在も小川とは親交がある。石井の北京オリンピックに向けた壮行会も茅ヶ崎市にある「小川道場」で開かれたほか、北京オリンピック後には「橋本真也の『破壊なくして創造はなし』の精神を継いでほしい」との思いから、小川から「真・破壊王」の称号を与えられた[31]。
北京オリンピック試合の翌日、日本テレビ『ズームイン!!SUPER』のインタビューで「金メダルは小川道場に寄付します。自分は小川道場の門下生なんで。あるいは、モハメド・アリのように川に捨てます」と発言し、2008年9月28日には小川直也が主催する小川道場を訪れ、北京オリンピックで獲得した金メダルを寄贈した。寄贈後に石井が大外刈りを披露すると、小川は石井の大外刈りを小川の必殺技「STO」にちなんで「STI(スペース・トルネード・イシイ)」と命名した[32]。
プロ転向会見にて、目標とする総合格闘家としてエメリヤーエンコ・ヒョードル、ヒクソン・グレイシーとBJペンを挙げている。2008年9月22日にエメリヤーエンコ・ヒョードルと初顔合わせする予定だったが、会見の約2時間前に中止となった[33]。「自分はヒクソンへのリスペクトの塊ですから光栄です。チョー会いたいです」「ヒクソンと一緒に生活したいです。取り入れているヨガとか教えてほしいし、精神面のアドバイスも もらえたらうれしいっス。確かヒクソンは日本に来ると山にこもるんですよね? 一緒に行けたら夢のようです」「ヒクソンに教えてもらえれば、自分はチョー(寝技の実力が)伸びます。ヒクソンの息子になりたい」(東京スポーツ 2008年12月2日販売号より)とヒクソンへの憧れを公言している。また、2009年にはハワイのBJペンのジムに出稽古に行った。
総合格闘技の存在を知る前はK-1のアンディ・フグやジェロム・レ・バンナらに憧れていた。
読書家で、戦国歴史物からイチローやイビチャ・オシムなど他のスポーツ選手についての著書や発言集に至るまで幅広く読み、心構えやトレーニング方法などを柔道に取り入れる。上杉謙信を尊敬し、一番の愛読書は海音寺潮五郎の「天と地と」。好きな言葉を聞かれた時にも「天と地と」をあげたことがある。
ZARDや羞恥心の楽曲を好む。また、フジテレビ『お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』に出演し、アニメソングを歌い世間を驚かせたいとの野望があるという(同局の『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』にVTR出演した際に語ったもの)。
2008年4月の全日本体重別選手権に怪我で出られなくなり、北京オリンピック選考に不利になったことで、気づいたら屋上の上に立っていて死のうと思っていたという(本人談)。
北京オリンピック代表選考会のあった4月に、ライバルの棟田康幸、井上康生のもとへ異例のアポなし出稽古にいくが、断られる。これで「自信を取り戻した」という。
歯に衣着せない自由奔放な発言することで有名であり、「(福田康夫首相と握手をして)すごい純粋さが伝わってきた。腹黒くないからこそ、人気が出ないのかもしれない」[34]「(福田首相(当時)突然の辞任について質問されて)僕は握手しただけで相手のことがすべて分かる。薄々こういうふうになるんじゃないかなと思っていた」「(2008年9月10日に母校・清風学園の朝礼(報告会)にて、人生を生きていくにあたりアドバイスを披露して(2008年9月10日))1つは絶対に保証人にならないこと。2つ目は煙草を吸わないこと。健康や財を失いますから。3つ目はネクタイをきっちり上まで締めること。それに人から安心、尊敬、信頼される人になることです」など多種多様な事柄についてコメントしている。また、発言の中には人気格闘技漫画グラップラー刃牙のキャラクターの台詞を真似たものもしばしばある(例: 北京オリンピック解団式インタビューにて「オスとして魅力を感じて室伏選手に握手を求めました。でも、僕のほうが握力強かったですね」)
しかし、笑いをとるために行った行動や発言がスベってしまうことも非常に多い。公開会見でSRCと本契約を結んだ際には、登場する際に「徹子の部屋」のイントロ曲を流しながら黒柳徹子ふうの頭髪カツラをかぶって登場し、会場に微妙な空気が漂った。2010年11月8日のK-1 WORLD MAX 2010 FINALの試合では一本勝ちを収めたが、入場曲にAKB48のBeginnerを使用した。試合後のリング上でのマイクアピールでは「『持ってる、持ってる』とみんなからいわれていて、この試合が終わってわかりました。自分は話を盛るくせでした」と、野球の斎藤佑樹投手の名言のパロディをしたが、観客にはその意図がまったく伝わらず、会場には気まずい空気が漂った[35]。また、以前からK-1ルール挑戦への意欲を見せていたにもかかわらず、同大会ではなくK-1ルールではなく総合格闘技のDREAMルールで参戦したことや試合前に「K-1ルールに出ないかわりに打撃で勝負します」と公言したにもかかわらず、寝技のみで戦ったことなどに対して、同大会に出場した一部のK-1ファイターが不快感を示し、長島☆自演乙☆雄一郎などは「僕らはK-1に誇りを持って戦ってるのに何でK-1MAXのリングでDREAMの試合をやるのかなって。どうせK-1に出るんなら打撃だけのルールでやればいいやないか。だったら、階級は僕の方が下だけど僕が大晦日に石井選手とK-1ルールでやりますよ」と怒りを露にした。
北京オリンピック金メダル獲得翌日の会見で「世界で一番強い男というのは、フィジカル、メンタル両方強くなくてはいけません。ヒクソン・グレイシーだとかエメリヤーエンコ・ヒョードルだとか、強い選手はまだいます。自分は全然まだまだです」[36]と発言し、その後も「自分にとってオリンピックは踏み台なんで」「次に戦いたい相手はミルコ・クロコップ、エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラです」、「(目標は)この地球上で、60億分の1になることです(総合格闘技団体PRIDEのヘビー級グランプリのキャッチコピー)」と語るなど、当初から総合格闘技への憧れを隠そうとしなかったため、転向が注目されていた。
北京オリンピックで金メダルを獲得した後、多くのマスコミが取材を申し込んだが、石井の奔放な発言に懸念を抱いた全日本柔道連盟がテレビ出演をすべて断っており、雑誌取材も『近代柔道』を除いて全て却下された。北京オリンピック後に飛び出した発言の多くは、各種の祝勝会や報告会の場におけるものである。石井は「喋りでも実力があるところを見せたかった」「(他のメダリストのように)生放送出演したかった」と残念がっているという[37]。
2008年11月6日、両国国技館にて行われたダライ・ラマ14世の講演に花束贈呈者として呼ばれていたが、質問コーナーで自分の格闘技の進路について「自分で決めるばかりでなく、時には長いものにまかれることも必要なのでしょうか?」と質問をし、「状況をよく見て考え、最終的には自分で決めるものだと私は思います。」とアドバイスを受けた。
2010年1月3日の報道によると石井は2009年12月31日のプロデビュー戦に先立ち、自身のブログにおいて「負けたら自殺」と豪語していた。しかし、試合は完敗、公言どおり自殺するのではとファンが心配する中、問題となっていたブログが3日までに削除されていたことが判明した。報道によると試合前にすでに削除されており、視聴者は安堵や落胆で騒然となった[38]。
男性用ブラジャーを使用しているとのこと
・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
勝負に徹してきた男ですね。
ですが、その才能を自分のために、目立ちたい、チヤホヤしてもらうために使ってしまい、落ちぶれました。
現役引退後、格闘家=芸能人となるために、芸能事務所と契約しています。
ケイダッシュ系列の個人事務所アイダッシュに所属していたが、現在はブラック・ハウスとマネージメント契約を結んでおり、練習はレインMMAで行っている。
芸能事務所ケイダッシュ、その後独立しました。
「11月17日に個人事務所「Twill33」(ミーサン)を設立し、取締役である(マネジメントはケイダッシュ)。」
早い話、やくざに取り込まれたというだけです。
格闘技などの興行と付くものは全てやくざが取り仕切っていますから、有名になりたければやくざを通すしかありません。
K-1石井館長もやくざがらみで失職しました。
・・・・・・・・・・・・(以下こちらから転載)
略歴[編集]
1953年6月10日[1] - 愛媛県三間町で3人兄弟の次男として生まれる[1]。父は画家・横山大観の弟子[1]。横山と一緒に中国本土へ渡り淡彩画を学んでいたが、終戦後その夢が閉ざされ、自転車屋を営むが家は貧しく、石井は新聞配達や喫茶店でアルバイトをしながら家計を助けていた[2]。中学時代に受けた知能テストではIQが140あり、野球部に所属[3]。放送されていたテレビドラマ『キイハンター』に主演していた千葉真一の大ファンとなり、その憧れから愛媛県立宇和島東高等学校に進学後、器械体操を始める[3]。
1969年1月13日[3] - 極真会館四国支部芦原道場宇和島支部に入門し[3]、芦原英幸の弟子となる。きっかけは近所の従兄弟が空手をやっていたことから関心を抱き、偶然に芦原道場をみかけたことから[3]。同年の入門に二宮城光(円心会館)、高見成昭(空手道 高見空手)らがいる。野球で鍛えた足腰と器械体操で培われた柔軟性で、僅か2年で黒帯(初段)を允許[4]。
大学受験に失敗したので大阪府に住む兄を頼って浪人し、アートスクールに通いながら東京芸術大学を目指すが、スクール生は画の上手い者ばかりだったため、進学を諦めて大阪の貿易会社に就職した[4]。
1975年 - 22歳の時に芦原の命で、大阪球場内の文化教室で極真会館芦原道場大阪支部を設立[4]。
1976年 - 昼はサラリーマン、夜は空手の先生と二足の草鞋を履く生活だったが、門下生の増加により芦原から空手指導に専念を頼まれて会社を辞める[5]。芦原の片腕として関西地区総責任者になり、道場拡大に手腕を奮い、神戸市・京都市・奈良市・堺市・岡山市に支部を拡大し、門下生10万人を指導する。この年、中山猛夫(極真会館主催第9回オープントーナメント全日本空手道選手準優勝、正道会館主催第1,2回ノックダウンオープントーナメント全日本空手道選手権大会優勝)や松本英樹(英武館)らが入門[5]。
1980年6月 - 独立し、大阪・岸里の西成産業会館内に新日本空手道連盟正道館、新日本学生空手道連盟を発足して館長となる。翌年に正道会館と改称し、大会を毎年開催。
以後佐竹雅昭・角田信朗・柳沢聡行らが他流派の空手トーナメントに参戦し、正道会館は「常勝軍団」の異名を取る。
1990年6月 - 全日本キックボクシング連盟の大会に参加したのを皮切りに興行の世界へ進出する事になる(それ以前からプリンスジムという名称でキックボクシングの試合に選手を細々ながら出場させていた。)
1991年 - 前田日明の総合格闘技興行「リングス」と提携し、興行のノウハウを吸収した。
1992年3月 - 様々なルールを取り入れた「格闘技オリンピック」を開催し、今ではK-1の前身として評価されている。
1993年4月30日 - フジテレビのイベント「LIVE UFO」の一環で「K-1 GRAND PRIX '93」を開催。
1996年 - 深夜放送からゴールデンタイムに昇格。以降は視聴率を取れる人気ソフトとして、フジテレビのみならず日本テレビ、TBSと民放各局で放送が開始された。
1997年4月12日 - 映画『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』に角田信朗、アンディ・フグと共に本人役で出演。
2001年 - 秋からニッポン放送でラジオ番組「allnight nippon-r」木曜日のパーソナリティを務めた。12月、「INOKI BOM-BA-YE 2001」にK-1軍を率いる総帥的立場として参加。のちDynamite!へと発展していく流れを生む。
2002年8月 - 日本格闘技史上最大規模の格闘技イベント「Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立」をTBS主催の元、PRIDE主催のDSE、アントニオ猪木らと共催。INOKI BOM-BA-YE 2001同様、実質的運営はDSEによって執り行われ、K-1としては協力というスタンスであったが、石井和義個人として総合プロデューサーを務める。11月、プロレスイベント「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を開催し、プロレスへ進出。
12月27日 - 法人税法違反の容疑で在宅起訴。
2003年2月3日 - 証拠隠滅教唆容疑で逮捕。5月22日に保釈金4,000万円を支払い保釈される。ケイ・ワン脱税事件により表舞台から姿を消したが、正道会館専門誌『正道』では宗師として登場している。
2004年1月14日 - 脱税と証拠隠滅教唆について東京地方裁判所は懲役1年10か月の実刑判決を下す。同年12月6日の控訴審でも地裁の判断を支持し石井の控訴を棄却。
2006年11月21日 - 最高裁の上告棄却により懲役1年10か月の実刑が確定したが、健康状態が悪かったため収監は先送りとなる[6][7]。
2007年6月11日 - 収監された[6][7]。
2008年8月7日 - 静岡刑務所を出所(模範囚であったため、刑期が短縮された)[8]。
・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
で石井総帥が、自身の半生を語っています。
・・・・・・・・・・・・・(以下こちらから転載)
朝青龍からヤクザとの関係まで 独占告白! 石井館長、K-1を憂う
2010年4月18日 18:00
2002年の全盛期には10万人の観衆を集め、大々的に行われた日本屈指の総合格闘イベントK-1。その創設者である石井和義(現在は教義に改名)氏は、周知の通り、脱税の罪により静岡刑務所に服役し、2008年8月に出所した。だが出所時のK-1は、多額の負債を抱え、視聴率も下落しているありさまで、現在もその流れは加速している。そんな状況と現在の格闘技興行を、創設者はどう見ているのだろうか?
──今回は正道会館の宗師ではなく、敬意を込めて、あえて"館長"と呼ばせていただきます(笑)。いろいろとお伺いしたいことがありますが、まずは現在の、石井館長とK-1、そしてK-1を運営するFEG(Fighting&Entertainme nt Group)との関係からお聞かせください。
石井 立場的には株主ですね。かつては株式会社ライツコム(旧ケイ・ワン)がK-1のイベントを運営しており、僕がケイ・ワンの筆頭株主兼社長でした。ごぞんじの通り(苦笑)、2001年に起こったケイ・ワンの脱税事件【註1】の影響で、テレビ局やスポンサーとは、それまでのようなお付き合いができなくなってしまった。そこで03年にFEGという興行運営会社が生まれ、K-1の業務運営を委託し、ライツコムが興行売り上げのロイヤルティを頂いています。そのFEGの社長が、僕が不在の間にK-1イベントプロデューサーとして奔走してくれた谷川貞治氏です。
──そうすると、館長の立場としては、FEGのクライアントであり株主でもあるという絶対的な立場にあるということですよね? (本誌でもネタにさせていただきましたが)実際のところ、谷川氏との不仲説は本当なのでしょうか?
石井 まったくないです(笑)。ただ、08年に僕が(脱税の罪による収監から)出所して、決算書を見ると、多額の負債を抱えている。金額は明確に言えないけど、債務超過になり、業績が明らかに落ちている。販売管理費が増大し、逆に各大会の利益率は下がっている。これはヤバいと思うじゃないですか。出所したらのんびり2〜3カ月ゆっくりしたいなあと思っていましたが、さすがにそういうワケにもいかず、会社の経営内容にも口出しするようにもなったわけです。しかし、谷川さんや現経営陣からすると、5年も現場から離れ、しかも出所したばかりの館長に何がわかるの? となるわけです。そんなやりとりが、第三者からは不仲に見えたのでしょう。もちろん谷川さんや役員たちの考え方もあるし、僕も、すべてが彼らのせいだ、と言うつもりもない。当然、僕が逮捕されたことによるマイナス部分も大きいでしょう。そこはお互いに話し合って「再びK-1を盛り上げよう」というところです。
──格闘技業界ではすでに話題に上がっていますが、館長がスイスで新しくK-1の関連企業を立ち上げて、グローバルに興行を展開するという話も聞いています。
石井 それは「国際K-1連盟」といって、いわゆる総合格闘技のアマチュア団体のことです。K-1というのはもともとイベントだったわけですよね、世界の猛者たちを集めて戦わせるっていう。でも、135カ国に中継されているメジャーイベントになった今、ひとつの競技にしていかなくちゃいけない規模になった。そのためには、選手にプロライセンスを与えたり、レフリーに公認審判の資格を与えたり、ジムを許可制にしたりする必要がある。その統括を僕がやろうかなって考えています。でもそれは日本じゃない。
──それがスイスなんですね。
石井 私用も含め、僕はよくスイスに行っていましたし、IOCもFIFAも本部はスイス。連盟をつくるなら絶対にここだ、という構想があったんです。もちろん税金の問題もありますが、スイスだと、英語、ドイツ語、フランス語など、4〜5カ国語を操る人材が多い。現在は準備段階ですが、国際K-1連盟のロゴも出来上がり、あとはタイミングだけです。
──海外ファンドを組んで資金を入れるという計画が進んでいるという話もあります。さらに、海外企業にK-1そのものを売却するという噂も耳にしましたが......。
しかし、このドルイド僧はこのように優れた知恵と知識とを有しながらも、実に数多くの悪事を行っていました。
人間のことを人間とも思わず、いつも多くの人々を苦しめ、ときに大量虐殺し、神(悪魔)への生け贄として捧げていたのです。
そのため、彼らはあるときから激しい迫害に遭い、一時的にこの世から姿を消してしまいました。
しかし、彼らの文化は決して消滅することなく、その後も「ハルシュタット文化」、そして「ラ・テーヌ文化」としてヨーロッパに広く浸透していきました。(出典はこちら)
○ラ・テーヌ文化 – Wikipedia
この「ラ・テーヌ文化」という名前は、スイスのある「ラ・テーヌ」という地名からつけられたものだそうですが、スイスというと「国際オリンピック委員会」や「国際サッカー連盟」など、「天皇派」のお祭りを主催している団体がいくつもある国でしたね。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
○FIFA幹部の逮捕劇は、「教皇派」から「天皇派」への反撃である可能性大。
このスイスは表向きは「永世中立国」とされていますが、実はロスチャイルドの拠点となっている国でもあります。
その証拠に、スイスの周りを取り囲む国々、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリアにはロスチャイルド一家がちゃっかりと食い込んでいます。
1764年・・・初代マイヤー・アムシェルがドイツ・ロスチャイルド商会創設
1817年・・・五男ジェームズがフランス・ロスチャイルド商会創設
1820年・・・次男サロモンがオーストリア・ロスチャイルド商会創設
1821年・・・四男カールがイタリア・ロスチャイルド商会創設
Map_of_Switzerland_and_neighboring_countries-2
このようにロスチャイルドがスイスの周辺国に食い込んでいるのは、彼らが太古の昔からドルイド僧としてスイス周辺に住み着いていたからです。
で、話を古代に戻しますと、ドルイド教の神官と思われる有名な人物の一人に、ピタゴラスがいます。
「ピタゴラスの定理」で有名なあのピタゴラスです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
スイスの建国について調べるとハプスブルグ家が出ていきます。
・・・・・・・・・・・・・・・(以下こちらから転載)
11世紀までにはスイス全域が神聖ローマ帝国の支配下に入った。12世紀には古ブルグント王国の領域の支配者は神聖ローマ帝国によって封ぜられたシュヴァーベン公からツェーリンゲン家へと引き継がれていた。ツェーリンゲン家はスイスを自らの勢力基盤として整備し、フリブールやベルンといった都市を築いた。1218年にツェーリンゲン家の血統が絶えたことでそのスイス支配は終わったが、その後を縁戚のキーブルグ家が継ぎ、さらにキーブルグ家の後を縁戚のハプスブルク家が継いだ。「ハプスブルク」という家名は、同家の祖がスイスのアールガウ地方に築いた城が「鷹の城」(ドイツ語: Habicht burg - ハービヒツブルク、後にSchloss Habsburg)と呼ばれていたことに由来している。ハプスブルク家はスイスでじわじわと力をつけていった。
13世紀になってザンクト・ゴットハルト峠が開通すると、ヨーロッパの南北を結ぶ交通の要衝、交易ルートとしてスイスの地理的重要性が高まった。特にその通路にあたるウーリ州は交易を利用して経済力をつけた。ツェーリンゲン家が絶え、家領の帰属が神聖ローマ帝国に移ったとき、ウーリは抵当権を自ら買い戻すことで自治権を獲得した。やがてウーリに隣接するシュヴィーツ州・ウンターヴァルデン州も自治権を手にした。ハプスブルク家出身で初めて神聖ローマ皇帝となったルドルフ1世の死後に行われた選挙で、ルドルフの子アルブレヒト1世は神聖ローマ皇帝に選ばれなかった。失意のアルブレヒトは自分の根拠地であるスイスの経営に専念したが、スイス人たちはこのアルブレヒトによって自分たちの権利が失われるのではないかと危惧した。1291年、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3つの州の代表者たちは集まって対ハプスブルク家自治独立を維持するための永久盟約を結んだ。これがスイス連邦の原型である「原初同盟」(盟約者団)の結成である。このシュヴィーツ州という地名こそが「スイス」の語源となっていくのである。有名なウィリアム・テル(ヴィルヘルム・テル)の伝説はこの時代を舞台としている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
ハプスブルク家⇒クーデンホーフ=カレルギー⇒フリーメーソン⇒青山みつ⇒青山学院大学⇒鹿島建設⇒原発
となり嘘つき集団が出てきます。(こちらを参照)
結局、武道をやっても、人格育成はできず、最後は芸能人になるしかありません。
とくに五輪に種目のある競技では、人格は磨くことは難しそうです。
強い体を作ることは素晴らしいことですが、やりすぎて、それ一本になって、天狗になり破滅する。
「不倫するな!えげつない金稼ぎするな!」
とはさすがに武道でも教えませんからね。
いずれにせよ、スポーツ、勉強も目的が明確で、自己の欲望を満たすためだけにやっていてはいずれ身の破滅
につながる危ないものだということを肝に銘じておかなければなりません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます