中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国の凧(1)中国の凧の起源と歴史

2021年09月01日 | 中国文化

伝統的な沙燕風筝

 

中国のおもちゃについて、今回は凧を取り上げたいと思います。今回も、王連海著『中国民間玩具簡史』(北京工芸美術出版社1991年)の内容を元にしています。

 

凧は日本でも平安時代頃までに中国から伝わったようですが、中国では凧はいつ頃生まれたのでしょうか。

 

古書の記述によれば、春秋戦国時代の紀元前5世紀ごろ、墨子(BC470頃~BC390頃)、公輸子(魯班のこと。BC507~BC444大工の始祖とされる)が「木鳶」mùyuān(木製のトンビのような鳥型飛行器具)を制作したという記述があります。

 

『韓非子・外儲説左上』に、「墨子は木鳶を作るに三年にして成り、一日飛びて落ちる」とあり、『墨子』には、「公輸子は竹木を削りて鵲と為し、之を飛ばすに、三日下らず」とあります。

 

これらの書物で、中国の最も古い飛行器具を「木鳶」と記録しています。「木鳶」は「紙鳶」zhǐyuān(紙で作った鳥型の飛行器具)の前身だと見做され、「紙鳶」は凧の前身、或いは古称です。したがって、「木鳶」がすなわち凧の起源であり、凧は墨子や公輸子が活躍した時代、春秋戦国時代に起源を発するとされました。

 

二つめに、凧は紀元前3世紀、秦末漢初に始まるとする説があり、その根拠は、劉備とともに漢を建国した将軍、韓信が凧を作ったとするものです。宋代の高承は『事物紀原』第八巻の凧の項目に、次のように書いています。

「俗に言う凧は、古今相伝して云うに韓信が作ると。高祖の陳豨を征する也、信は謀りて中より起ち、故に紙鳶を作り之を放つ。以て未央宮の遠近を量り、俗に地を穿ちて宮中に隧入する也。蓋し昔は此の如く伝え、理或いは然る矣。」

 

ただ、これらの説はどちらかというと伝説の域を出ず、何れの話も正史には出てきません。

 

今のところ、凧の起源についての最も有力な説は、6世紀の南北朝時代を起源とするものです。『南史・侯景伝』に、こうあります。

「掃討平定のこと、援軍を望む。既に中外が断絶するに、羊車で献策する者あり、「紙鴉」を作り、長き縄を以て縛り、勅を中に蔵す。簡文は太極殿前に出づ。西北の風に因りて放ち、書の達するを願う。賊どもは之に驚き、是は呪いの術だと謂い、また之を射落とさんとし、其の危急なること此の如し。」

 

「紙鴉」は「紙鳶」のことで、簡文とは南朝梁の簡文帝蕭綱のことです。梁の武帝の太清三年(西暦549年)、侯景が叛乱を起こし、梁王朝の南京台城を攻撃した時の記述です。

 

司馬光『資治通鑑』巻162にも、これとほぼ同じ内容が記述されています。

「武帝の太清三年、羊車で紙鴟を作るを献策する者あり。胡三省の注では、紙鴟は即ち紙鳶也。今は俗に之を紙鷂と謂う。」

 

1930年代に金鉄庵が『風筝譜』という本を著し、その中でこう言っています。

「凧の最も古い名前は紙鴟で、それが創出されたのは遠く梁武帝の時代である。」

また、葉又新は『風筝』と題した文の中で『資治通鑑』と『北史』を引用し、これらを根拠に次のように断言している。

「これらから、今から1500年前には既に凧が存在し、且つ人を載せる実験が行われたことが分かる。」

 

これらの凧の起源説の根拠は、限られた古書の記述に基づいているのですが、残念ながら今なお当時の凧の実物は発見されていません。しかし絵画や陶器の装飾紋の中には、当時の凧の形を見ることができます。

 

古代の凧の呼び方は様々で、時代が違えば、用いられる名前も異なっていました。歴代の名称を集めてみると、紙鳶、風鳶、鷂子、風鷂、紙鷂、紙鴟、紙鴉などがありました。これらの名前は何れも鳥の名前を借りたものであり、ここから、最初に凧を発明した人は、おそらく空を飛ぶ鳥から啓発を受けたのだろうと推察できます。

 

唐代末期、ある人が紙鳶に琴弦を取り付け、風に当たると音が出るようにしました。音は楽器の「筝」、日本語の琴が鳴るようであったので、ここではじめて、現代中国語で凧の意味である「風筝」の名称が現れました。高駢は「風筝」の詩を詠みました。「夜静かに弦声は碧空に響く、宮商は信任し往きて風来る、かすかに曲に似たり、初めて聴くに堪え、また風吹くにより別の調べに中らしむ。」この詩の意味を察するに、作者が詠んだ「風筝」は琴の弦を取り付けたものであったに違いありません。後に、またある人は凧に竹笛を取り付けました。明代、作者不詳『詢蒭録』にこう書かれています。「初めて五代漢の李業が宮中で紙鳶を作り、糸を引きて風に乗るを戯れとなし、後に鳶首に竹を以て笛と為し、風を入れて声を作すこと筝鳴の如し、俗に風筝と呼ぶ。」これは五代十国時代に竹笛付きの「風筝」が始まることを言っています。

 

凧が普及し娯楽用品になるのは、五代十国時代以降のことです。宋代、凧はようやく広くの間に普及しました。南宋の『西湖老人繁勝録』の「諸行市」の項目によると、「京都に四百十四行有り」、その中に「風筝」が含まれています。このことから、凧の制作は既に職業化され、その販売業者も確立していることがわかります。宋代の風俗の記述によれば、清明節に凧を揚げることは次第に風習として根付いていました。

 

 

明、清時代、凧の制作、揚げて飛ばす技術は何れも高いレベルに達し、凧は既に成熟段階に入りました。明代の凧の実物はもはや見つけるのが難しいですが、古い絵画、陶磁器、彫刻などの装飾図案の中に、明代の凧のイメージを見ることができます。台湾の故宮博物院収蔵の明代の斗彩酒杯には、盃の外側に子供が凧を揚げる図案が描かれています。凧の形は現在の「瓦片」、つまり屋根瓦(平瓦)の形に似ていて、長方形で、帯状の紙のしっぽが三本付いていて、極めてシンプルです。明代の青色絵付けの陶磁器「嬰戯碗」、「嬰戯罐」(子供が遊ぶ絵が描かれた碗や壺)には子供が凧を揚げる図案が描かれていて、凧の形は「屋根瓦」の形の角凧です。

宋・元磁州窯紅緑彩児童放風筝紋梅瓶

 

「瓦片」(屋根瓦の形)の形の凧(角凧)は民間で作られた凧のうちで最も広く普及したもので、俗に「屁股簾」と呼ばれます。三本の竹の棒で骨組みを作り、うち二本は方形の紙の上で交差させ、もう一本は上辺に横向きに置いて弓状に反らせ、下端には三本の帯状の紙のしっぽを付けます。凧のお尻に簾のようなしっぽが付いているので、「屁股簾」と呼ばれたのでしょう。角凧の出現は凧の発展の上で重要な意義を持ち、凧の成熟と普及を示すだけでなく、人々が凧が飛ぶ原理を十分に理解したことを証明しています。凧の飛ぶ科学的なしくみを十分に理解してはじめて、このような簡単な構造が採用されるようになったのです。今日でも角凧は変わることなく中国の子供たちの愛するおもちゃであり続けています。

 

凧はおもちゃとして幅広く普及し、中国社会の各階層で用いられ、一般庶民だけでなく、高官貴人や宮廷の貴族の間でも凧を揚げる風習が根付きました。文人達は凧揚げを気晴らしの行為とし、凧揚げを詠んだ詩や文章を数多く残されました。

 

明代の画家、徐渭の『青滕書屋文集』の中に、作者創作の『風鳶図詩』25首が掲載され、詩の中ではこのように書かれています。

「竹を縛り凧に糊付け鳥を作り飛ばすも、天気が崩れ雨でびしょ濡れになった。明日の朝は清明節なので、飴(麦芽糖)を柳市の西に買いに行こう。」

「揚子江の北も南も凧揚げをする人でいっぱいだ。高く揚がった凧、低い凧、それぞれ天空を旋回している。春風は古来気まぐれで、風任せに飛ばしたら笛を失った。」

 

清代、凧の数、品質、種類は史上最高のレベルに達し、凧はひとつの専門の手工芸技術になりました。凧の設計、制作には見栄えがたいへん重視され、様々な物に形を似せた凧が出現しました。

 

古典の名著『紅楼夢』の第七十回では、大観園の人々が凧を揚げる情景が詳細に描かれていますが、これについてはまた別の章で紹介します。『紅楼夢』の作者の曹雪芹は、彼自身が凧の設計や制作をしていたようで、関連する著作も発見されています。

 

凧を揚げる時期については、わりと強い季節性があり、その理由は自然や気候が凧揚げに強い影響力を持つからでした。宋代以降、春に凧を揚げるのが恒例になりました。清明節の前後に、都市に住む人々の多くが、郊外の広い空き地で凧を揚げました。宋の高承は『事物記原』の中で紙鳶を「季節の風俗」のひとつとして取り上げましたが、それは凧が季節性を持っていたからです。清代には、春に凧揚げが盛んに行われましたが、『紅楼夢』で、大観園で暮らす人々が凧揚げをした時期は「仲春」(陰暦の二月)でした。清の李声振が『百戯竹枝詞』(「竹枝詞」は七言絶句に似た漢詩の一種)の中で、「百丈に糸を遊び紙鳶を揚げる、芳郊の三女、禁煙の前」と詠んでいます。「禁煙」とは即ち清明節の前の寒食節(この日から3日は火を使わず、冷たいものを食べた)のことです。一方、これら北方の習慣とは異なり、南方各地には秋に凧を揚げる習慣があり、福建省では多く九月九日の「重陽節」に凧揚げをし、清末の風俗画家、呉友如の『紙鳶遣興』図の題詞に、「閩中の風俗に、重陽の日に人々は鳥石山の山上や崖で凧揚げを競うを楽しみとする」とあります。

呉友如『紙鳶遣興』

 

清の人々の凧揚げの情景は多く絵画作品の中に見られ、『呉友如画宝』の中にも子供が凧揚げを競うのを描いた絵が見られます。絵の中で、五人の子供が郊外の古墓の付近で一緒に遊び戯れていて、ひとりは地面にしゃがんで凧糸を結んでおり、別の二人の凧は既に上空に揚がっています。一方の凧は硬い翼(上下2本の竹を細く裂いた棒で翼の周囲を固定し支えている)の蝶々で、もう一方の凧は円形の(竹を裂いた棒を曲げて、円形の周囲を固定し支えた)平面形の凧。傍らでは二人の子供がそれを見物していて、その情景が生き生きとし真に迫っています。

『呉友如画宝』放風筝図

 

『北京民間風俗百図』の中にも凧揚げの絵があり、絵の端の題字にこう書かれています。「これ中国の凧揚げの図也。春季になる毎に、無事の人、竹ひごで胡蝶や様々な飛禽を作り、上に糸を一条結び、戸外の空に放ち、人は仰面して之を視るに以て空気を吸い、所謂衛生也。」

『北京民間風俗百図』

 

明清の両時代の文人や読書人、一般庶民は皆、凧をたいへん愛好しましたが、皇帝は人々が城内で凧を揚げるのを禁じました。その理由は、古代の伝説で韓信が凧を使って未央宮(漢王朝の宮殿)の寸法を測量し、地下にトンネルを掘って宮廷に侵入し反乱を起こそうとたくらんだことに起因していると思われます。このような伝説は、一般には伏せられていましたが、宋代に至ってようやく高承の『事物紀原』に記載されました。明清の両時代、皇帝は先例により似たようなことがまた起こるのを恐れ、明文をもって城内で凧を揚げるのを禁じました。明朝の人、劉侗、于奕は『帝京景物略』の中でこう言っています。「燕では昔、風鳶戯があり、俗に亳儿と言ったが、今は既に禁じている。」ここで指しているのは、城域内で凧揚げを禁じていることでした。反乱防止から始まり、明文をもって凧揚げを禁止した事情は、おそらく今日凧揚げをする人には思いもかけないことでしょう。

 

以上が、中国の凧の起源と、その発展の歴史です。それでは次回、中国の凧の種類や特徴について、紹介していきたいと思います。

 

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端午節の玩具・香包と布老虎

2021年07月24日 | 中国文化

布老虎

 

前回まで、粘土を焼いて作った中国各地の泥人形を紹介してきました。中国の伝統的なおもちゃにはもうひとつ、布で作ったおもちゃがあります。今回は、「香包」と「布老虎」を取り上げます。

 

香包

 

「香包」(におい袋)と「布老虎」(虎のぬいぐるみ)は何れも五月五日の端午節の季節の玩具であり、中国全土に存在します。端午節は中国語圏の伝統的な祝日です。端午節の起源にはいくつか説がありますが、その中でも、特に代表的なものは四つあります。ひとつは「屈原説」。端午節にちまきを食べ、ペーロン、或いはドラゴンボートの競争をするのは、戦国時代、楚の政治家で詩人であった屈原(紀元前4-3世紀)を哀悼して始まったものとされ、端午節は屈原の記念日とされています。ふたつめは「龍の祭り説」。ちまきを食べるのもボート競技も何れも龍が関係しており、五色の糸を腕に巻くのは、体を「龍に似せ」るための「入れ墨」の風習の名残であり、端午節は龍のお祭りであるとするものです。三つめは「悪日説」。端午節にヨモギや菖蒲を家の門に挿したり、入口に掛けたりするのは、夏の病を防ぐためで、昔の風習で旧暦五月を「悪月」と看做すのと呼応していて、端午節は「悪日」より来ているとするもの。四つめは「夏至説」。端午節の行事で、「闘百草」(グループで薬草採りをして、摘んだ種類の多さや内容を競う)、「薬草採り」、ちまきを食べるのは何れも古代の「夏至節」から来ており、端午節は別名を「中天節」と言い、その起源は夏至から来ているというもの。

 

闘百草

端午節は、季節の風俗として、古代からの長い歴史を通じ豊かな内容を持ち、人々の飲食、服装、住まいや生活環境、文化や体育活動など多方面に関わっています。

 

端午節になると、におい袋や虎のぬいぐるみを子供の胸元や袖口につけたりぶらさげたりするのは、中国全土で行われる風習です。その起源を見てみると、「五色の糸を腕に巻き付ける」古代の風習から来ていると思われます。

 

香包(におい袋)

『風俗通』という本の中で、こう記されています。

「五月五日に五色の糸を腕に巻くのは戦避けである。また病避けでもある。また屈原から来ているともいう。一名を「長命縷」(“縷”lǚは糸のこと)、また一名を「続命」、「避兵繒」(“繒”zèngはひもでくくること)、「五色絲」、「朱索」(“索”suǒは綱やロープのこと)などと言う。また腕飾りなど布で作ったアクセサリーもあり、皆互いに関係している。」

 

こうした風俗の記述は『抱朴子』、『荊楚歳時記』、『玉燭宝典』などの古書にも見られることから、漢代以降、人々は端午節に五色の糸を腕に巻いて邪鬼や戦を避けるのを習慣としてきたことがわかります。五色の糸は、青、赤、白、黒、黄の五種類の糸で、それぞれ東、南、西、北、中央の五つの方位を象徴しています。また、五色の糸を縫って四角の飾りを作り、胸元に付けることもありました。時代を経て受け継がれ、改良され変化してきました。北宋時代には端午の日に「百索」(端午節の縁起の良い飾りで、五色の糸を編んだもの)を売り、南宋時代には「百索を銅銭投げの賭けで販売し、子供は胸に掛けたり、髪の毛を縛るのに使ったりし、糸で結んだり、玉飾りを付け」たりし、宮廷の宰相以下の官僚たちは「百索」の色糸を結んで「経筒」(筒状の容器の中に経文を刷った紙を収めたもの)や「符袋」(御守り)を作って胸元に飾り、『抱朴子』に書かれた「赤い霊符を胸の前にぶらさげ」た故事に倣いました。

 

「百索」、五色の糸を腕に巻く

子供たちが手に巻いた「百索」

ここで言う「経筒」や「符袋」が今日の「香包」、つまりにおい袋のことです。宋代以降、五色の糸を腕に巻き、におい袋を身につける風習は益々一般的になり、今日に至るまで、におい袋の生産は盛んに生産され、全国各地で端午節の期間中は様々な香包、香袋、香嚢(何れもにおい袋の異なる言い方)が出回っています。

 

におい袋には様々な様式のものがありますが、概ね三つに分類することができます。ひとつは、十二支、獅子、双子(双魚)、盤腸(吉祥模様)、草花、珍禽、瑞獣、野菜、瓜などの形に似せたものです。

 

「盤腸」(吉祥模様)

 

ひとつはひし形、円形、方形、六角形、八角形、桝形、三日月形、扇形など幾何学図形。もうひとつは総合型で、いくつかのちいさなにおい袋を串状につなげたり結んだりして一組にしたもので、全国各地で内容は異なり、例えば北京では織物、麦わら、色紙、色糸で布老虎(虎のぬいぐるみ)、蓋簾(蠅帳)、ニンニクの茎と葉、箒、粽、クワの実、瓢箪などの形に作った小さなにおい袋を一列につなげました。陝西省北部では布老虎と、サソリ、ムカデ、蛇、蝎里虎子(鰐)、クモを一列につなぎました。西北地方では、カエル、十二支を使うのが喜ばれ、南方では大小大きさの違う粽が用いられました。どの地域のにおい袋にもそれぞれ異なった寓意があり、例えば北京のにおい袋のうちの「蓋簾」(蠅帳。はいちょう)は、夏に五穀を干して乾かすことを象徴し、箒は端午節の後、掃除に勤しむこと、瓢箪は毒気を抑圧することを象徴し、クワの実、粽は季節の野菜や果物を、ニンニクの茎と葉は毒を去って体を強くすることを象徴しています。

箒のにおい袋

陝西省北部のにおい袋のムカデ、サソリなどは五毒を象徴し、それに布老虎を加えることで「虎鎮五毒」、つまり虎が五毒を抑えるという意味になります。西北地方の十二支は、還暦を迎えてもまだまだ元気で、百歳まで長生きすることを象徴しています。

 

「虎鎮五毒」のにおい袋

十二支のにおい袋

におい袋は多くが木綿、絹、麻布などの織物を材料とし、裁断、刺繍、切り貼り、貼り付け、巻き付け、縄掛け、穴埋めなど様々な加工手段を用いて作られています。におい袋の中にはヨモギ、龍脳香、樟脳を入れ、中にはビャクダンや麝香など芳香を発する薬剤を入れたものもあり、子供の胸元や腕に掛けたり、枕元に掛けたりしました。古い習慣では、端午節が過ぎたら首に掛けていたにおい袋は捨てることで、疫病を除こうとしました。他人が捨てたにおい袋を見つけても、決して拾ってはならないとされました。さもないと不幸を招くことになるからです。現在、におい袋は子供のおもちゃや地方の旅行みやげとして盛んに作られていますが、におい袋を捨てることで災害を除く風習は今ではあまり見られません。

 

「布老虎」(虎のぬいぐるみ)は端午節の期間に盛んに売られる代表的な季節玩具です。「布老虎」の起源もたいへん古く、既に秦の時代には虎は神話に取り入れられ、『山海経』によれば、東海の度朔山dùshuòshānに二人の仙人が住んでいて、ひとりは神荼shénshū(しんと)、もうひとりは郁儡yùlǜ(うつるい)と言い、彼らは多くの鬼が出入りする門(「鬼門」)を守っていました。悪い鬼に出逢うと、アシの縄で鬼を縛り、虎に食べさせました。これより虎は神話の中で重要な地位を占めるようになりました。漢の時代、新年を迎える際に神荼と郁儡を家の門に描き、同時に虎も描きました。古代の人々は、虎は陰陽の陽で、「性、鬼魅(妖怪)を食す」ことから、虎を明るい所に描けば、鬼が驚いて逃げると考えました。民間の木版年画、切り紙細工、刺繍などの工芸美術品では、虎は重要な題材でした。例えば、山東省楊家埠(山東半島北部、濰坊市に属する)の木版年画(旧正月などに部屋に掛ける吉祥やめでたい気分を描いた絵)には「鎮宅神虎」、「威震山林」などがあり、その中には次のような詩句を題したものがありました。「虎は山を下りるとあちこち歩き回り、百獣たちの中でその力は諸侯に覇を称えた。良民や一般庶民の邪魔をせず、ただ悪党の手足や頭を食べた。」楊家埠の年画や福建省泉州の木版年画では、虎が「聚宝盆」(打ち出の小づちのように、取っても取っても尽きることなく宝物が出てくる鉢)を守る画題がよく見られます。絵の中に次のような詩句を題したものがあります。「猛虎は雄々しく威厳を持って山林に宿り、その咆哮は雷のようで鬼神を驚かせた。秦の始皇帝は山王獣に封じ、広く聚宝盆を守った。」また次のように書かれています。「鎮宅の神虎は多く清静、当朝の一品獣王に封じ、深山に立たず松林に合し、金銀聚宝盆を持守する。」民間の伝統的な観念では、虎は鬼を駆逐し家を鎮めるだけでなく、家財や富を守ることができました。このような寓意に基づき、「布老虎」が誕生したのだと思われます。

鎮宅神虎

威震山林

古い風習では、端午節のあいだ、人々は子供たちのために布老虎を作ったり、雄黄(鶏冠石ともいい、橙黄色で光沢のある塗料)を用いて子供の額に虎の顔を描き、それに「王」の字を書き入れたりすることが盛んに行われました。それは子供たちが虎のように勇敢で強く、健康に育つことを願ってのことでした。

子供の額に「王」の字を書く

端午節の「布老虎」種類は様々で、単頭虎、双頭虎(胴の両側に頭がついたもの)、さらに母虎、枕頭虎(胴が枕になったもの)、套虎(二頭、或いは何頭か、大小大きさの異なる虎がセットになったもの)などがありました。「布老虎」を作る材料、色彩、飾り模様、作り方には様々なバリエーションがあります。よく見かけるのは、綿布や絹の布を縫って作り、中には材木ののこぎり屑や穀物の糠を詰め、表面は上絵を描いたり、刺繍を施したり、切り紙を貼り付けたり、接ぎを施したりして、虎の目鼻、口耳や、体の模様を表現しました。

単頭虎

 

双頭虎

「布老虎」の造形は、頭が大きく、眼が大きく、口が大きく、銅は小さくして、虎の勇猛で威厳に富む様子を強調しました。同時に、大きく作られた頭や目鼻や口が、虎の天真爛漫であどけない様子を表現し、子供のように無邪気な様子を表しました。「布老虎」の作者は多くが農村の女性で、とりわけ老年の婦人が多く、作者は自分の子供が虎のように勇敢で丈夫であってほしいと願い、また虎が子供の友達になり、子供の健康や安全を守ってくれることを願いました。作者の創作の動機が虎の形や精神、性格の特徴を決定しました。「布老虎」一頭一頭に親の子供への期待や祈りが凝縮されており、そのため「布老虎」はこれほど人の心を動かし、人を惹きつけ、愛されてきたのだと思います。

 

河南省淮陽県では太吴陵廟会の期間、山東省莒南県では春節の期間、河北省新城県では元宵節(旧暦の1月15日)の期間、河南省浚県では「正月会」の期間、たくさんの「布老虎」が市場に出回り、人々の需要に応えました。こうした商品としての「布老虎」は、地域によってデザインや造り方で濃厚な地域性を見出すことができます。例えば北京地区の伝統的な「布虎」は多くが黄色い布を下地に用い、模様や目鼻、口、耳には黒、白、赤の緞子の生地を切って貼り付けています。山東省莒南県の「布老虎」は、赤、緑、茶色の染料で虎の紋を花の紋様に描いています。陝西省や山西省では、様々な縫い方を駆使して、刺繍で紋様を描きます。こうした「布老虎」は、邪鬼を追い払い、病や祟りを避け、幸福を祈るという寓意を持っています。

 

「老虎枕頭」(虎の形をした枕)は「布老虎」と同様、実用と玩具の性格を併せ持ち、虎枕には胴の一方だけが虎の頭の単頭虎枕、胴の両側に虎の頭が付いた双頭虎枕、枕に耳を保護する穴の開いた「耳枕」の区分があり、子供の寝具であるとともにおもちゃでもあります。

老虎枕頭

 

虎枕は、高承の『事物紀原』での考証によれば、西漢(前漢)の将軍、李広が虎を射た故事に起源を発するとされます。

 

この事件は晋代の葛洪『西京雑記』に見られます。

「李広と彼の兄弟たちはいっしょに冥山の北で狩をし、虎が横になっているのを見つけた。これを射て、一矢で仕留めた。その頭蓋骨を切って枕にし、猛獣をも屈服させたことを示威した。」

 

李広が虎を射殺して後、虎の頭を切り取って枕にした目的は、自分が猛獣を征服した功績を顕示するためで、この事件はやがて「虎枕の始まり」と言ってもてはやされるようになりました布製の虎枕の造形は、「布老虎」に比べるとより大雑把で簡単になり、虎の四本の足や尻尾は省略され、腰や背中はくぼませられ、横になって寝やすくされました。「耳枕」は腹ばいになって平たくなった虎の形に作られ、虎の背中の中央には穴が穿たれ、頭を横にして寝そべった時に耳が入るようにし、子供の耳が押されて圧迫されないようになっています。

耳枕

注目すべきは、「布老虎」は季節の節句の行事以外の人々の行事の中でも重要な役割を果たしていることです。華北地方や東北地方などでは昔から赤ん坊が生まれると「洗三」(赤ん坊が生まれて3日目に産湯を使わせること)の風習があり、昔はこれを「洗児会」と言い、赤ん坊が生まれて3日目に母方の親族が黒砂糖、卵、コメ、餅、母鶏などのお祝いを持って赤ん坊を見舞い、体を洗ってやりました。お祝いの品の中に必ず「布老虎」が含まれなければならず、この「布老虎」は子供の一生の中で初めてのおもちゃであり、貴重な誕生日の贈り物でした。子供が生まれて百日目、満一歳、或いは二歳の誕生日には、祖母、母方の祖母からも通常「布老虎」が贈られました。「布老虎」を贈ったり作ったりする習慣は、今日でもなお各地の農村で行われています。

洗三

 

 

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中国の泥人形(8)季節の泥人形、「兎児爺」

2021年07月10日 | 中国文化

兎児爺

 

中国の泥人形について、その歴史や各地の泥人形を紹介してきましたが、もうひとつ、季節の行事で使われる泥人形として、「兎児爺」を紹介したいと思います。

 

「兎児爺」tùéryéというのは、中秋節、お月見の時に使われる、粘土で作られた、首から下は人、首から上はウサギの人形のことです。毎年中秋節前に北京の街中で販売されました。

 

清代の富察敦崇は『燕京歳時記』の中でこう言っています。

「毎年中秋節になると、市井の手先の器用な人が黄土を捏ねてヒキガエルやウサギの像を作って販売し、これを「兎児爺」と言う。服を着て冠を被り傘を差したのや、甲冑を纏い旗を帯びたの、虎に乗ったもの、黙って座っているものがある。大きいのは三尺(1メートル)、小さいのは一尺余り(30センチ強)、職人たちが技巧の限りを尽くして飾りたてる。」

 

潘栄陛は『帝京歳時紀勝』でこうも言っています。

「都では黄砂を使って白い玉兎(月に住むという白ウサギ)を作り、色とりどりに飾り立て、様々な姿かたちのものが集まり、市が立ちこれを商う。」

 

ここで言う「黄砂で白い玉兎を作る」が指すのが「兎児爺」です。

 

各種の兎児爺

 

「兎児爺」は月の神への崇拝や月に関する神話、伝説に起源を発するものです。玉兎が月に住むという神話の起源はたいへん古く、屈原(紀元前4~3世紀、戦国時代・楚の政治家、詩人)は『楚辞・天問』の中で、「夜光は何の徳ぞ、死してまた育む。厥(そ)の利それ何ぞ、菟を顧みれば腹に在り」と書きました。東漢(後漢)の王逸の『楚辞』の注より、ここでの「菟」はウサギのことであるとされ、歴代そう解釈され、多くの研究者も認めています。ウサギが月に住むという神話は春秋戦国時代より前に生まれました。清代の林雲銘はこれに異議を唱えました。聞一多も「それはヒキガエルのことを言っており、ウサギではない」と断言しました。1970年代末に四川師範学院の湯炳正も「菟」は虎のこととする見解を出しました。しかしこう考える人もいます。月に最も古くは虎が住むとされ、後に虎がウサギに変化し、更にウサギがガマガエルに変化した、と。まとめると、月に関する神話は何れも三つの動物に関係しています。出土した画像磚や画像石を資料とし、イメージの考察を進めると、次のことが分かります。晋以降、ガマガエルと虎は次第に姿を消し、「玉兎」が独り月の図案の主流を占めるようになりました。例えば江蘇省丹陽県で1960年に南朝(5~6世紀、南北朝時代の南朝)の被葬者不明の陵墓で出土した「日月輪」画像磚で、「月輪」磚には一匹の薬草を搗く「玉兎」だけが描かれています。類似する図案は晋以降歴代の彫刻、絵画の中に見られます。それよりこう推察できます。ウサギが月に住むという神話はおおよそ晋以降になって流行したと。

 

「玉兎」が月に住むという神話は広範囲に伝播し、人々の心に深く入り込み、ウサギを月の象徴とするまでになりました。北周(6世紀南北朝時代の北朝の国)の庾信は『斉王進白兎表』でウサギは「月の徳」であると称え、唐の権徳輿はウサギは「月の精」であると称えました。それと同時に、ウサギで以て月に代えるようになり、例えば唐の廬照隣は『江中望月詩』の中に、「鈎(釣り針)を沈めれば兎影が揺れ、桂(金木犀)を浮かべれば丹芳動く(丹薬を搗く香りが広がる)」の句があり、「兎影」はすなわち月のことを言っています。この他、「兎輪」、「兎魄」などの言葉を用いて月のことを言う詩文がありました。ウサギと月が互いに双方を比喩する現象は、月にウサギが住むという神話が既に誰もがよく知る常識になっていたことを表しています。こうしたことが、おもちゃの「兎児爺」誕生の文化的な基礎となりました。

 

古い民間の風習では中秋節に月を祭る際に、太陰星君(道教神話の中の月の神)の位牌をお供えしますが、これがすなわち「月光碼儿」或いは「月亮碼儿」と呼ばれる一枚の絵で、太陰星君が描かれ、その下には必ず一匹の薬を搗く玉兎が描かれました。富察敦崇『燕京歳時記』によれば、「月光馬は紙に描かれたもので、上には太陰星君が菩薩像のように描かれ、下には月宮と薬を搗く玉兎が描かれ、二本足で立って杵を動かし、極彩色でたいへん美しく、市井では多くの人々がこれを買い求めた。長いもので7、8尺(2―2.5メートル)、短いもので2、3尺(1メートル弱)で、てっぺんには赤と緑、或いは黄色の旗が2本掲げられ、月に向かって供えられ、線香を炊いて拝礼をした。祭礼が終わると、千張、元宝(紙で作った馬蹄銀の形の張りぼて)などと一緒に火にくべて燃やした。」

 

月光碼儿(月亮碼儿)を掲げたお供えの机

 

月を祭る時、「月亮碼儿」は「月神」として尊ばれ、屋敷の中庭の母屋の前に掲げられ、お供えを飾る長机が置かれて拝礼が行われ、長机の前には枝豆の枝(飼葉を象徴する)、ケイトウの花(霊芝を象徴する)が供えられ、更に西瓜、桃、月餅、ダイコン、レンコンなどが並べられました。月の神は陰に属し、古い風習では男子は月を拝むのは良くないと言われ、民間では「男は月を祭らず、女は竈を祭らず」という言い方があり、それで月を祭るのは必ず婦女子が行いました。子供たちは、多くの場合女性が面倒を見たので、月を祭る儀式は子供への影響がたいへん強く、そのため子供たちが月を拝む習慣が形成されるようになり、「兎児爺」は子供たちにとって、月の神様の象徴となったのです。「兎児爺」が生まれた背景には、中国の神話、風俗、宗教といったものが、子供のおもちゃに強く影響したことを表しています。

 

昔の北京、家の中庭で月を祭る(1)

 

昔の北京、家の中庭で月を祭る(2)

 

「兎児爺」の古い記述は、明末、紀坤が著した『花王閣剰稿』に見られます。

「京師(都)では中秋節に多く粘土を捏ねてウサギの形にし、衣冠は人のようにして、子供や女がこれを拝む。」

 

最も古い「兎児爺」は、おおよそ明代に誕生し、清代に最も盛んに作られました。中秋節の前には、北京城内の街や横丁には数多く「兎児爺」を専門に販売する屋台が設けられました。

 

「兎児爺」を売る屋台

 

人形の絵柄や品種はたいへん豊富で、大きなものは高さが1メートルほどもあり、小さなものは3センチ足らずで、首から上はウサギ、体は人間で、衣冠をきちんと身に着け、多くは薬草を搗く杵を持ち、鎧を羽織るもの、赤い長衣の中国服を身に着けたものがありました。また虎や鹿、馬、麒麟にまたがるもの、蓮の花を手に持ち座るもの、流れる雲、花を持ち座るもの、更に背中に旗を挿したもの、頭に兜をかぶったものなど、各種各様で枚挙にいとまがありませんでした。

 

薬草を搗く杵を持ち、背中に旗を挿した兎児爺

 

「兎児爺」は、多くの場合、型で押して作られ、下地を塗った上に上絵を施し、着衣の華麗さと顔つき、目鼻立ちの表情を重視しました。

 

型押しで作り、下地を塗った上に絵付けをする

 

よく見られる表情は、両目をまっすぐ見つめ、上唇が縦に裂けたみつくちの唇を固く閉じ、頬にうっすら紅が施され、みめうるわしい中にも威厳があり、端正な中にあどけなさが残り、活発で生き生きとして見る者を惹きつけたました。

 

清代の兎児爺

 

「兎児爺」は実際には子供たちが月を祭る行事の中での神様とされ、子供たちの尊敬を受けました。買って帰ると、大人が月を祭るのと同様に、お供えして礼拝しました。清の乾隆年間に楊柳青(天津市西部、北京との境に近い鎮)で作られた木版年画、『桂序昇平』は、当時の子供たちが「兎児爺」を礼拝した様子を描いたものです。

 

木版年画『桂序昇平』

 

絵の中で、「兎児爺」はお供えを並べる机の上座の位置に置かれ、その前には西瓜、ザクロ、桃、月餅が供えられています。ふたりの子供がひざまずいて地に頭をつけるお辞儀を行い、もうひとりのやや年長の子供が馨(けい。古代の打楽器)を打ち鳴らして興を添えていて、絵の情景は見る者の心を動かします。こうした情景は中秋節の夜には随所で見ることができ、庶民の家々がそうであっただけでなく、宮廷内の皇族たちの間でもこうした風習が行われ、「禁中もまた然り」(徐珂『清稗類鈔』)とあり、故宮博物院には今でも清代の皇族の家庭の子供たちが月を祭った遺物が収蔵されています。

 

「兎児爺」は子供たちが使うものである以上、神様として扱われる以外におもちゃとしての機能も併せ持つ必要がありました。「兎児爺」は元々太陰星君(道教神話の中の月の神)の家来の侍従であり、且つ星君のような尊厳は持っていませんでした。つまり「兎児爺」は必ずしも子供が手を触れてはならないものではなく、「兎児爺」の実際の役割はよりおもちゃに近いものでした。拝んだ後は好き勝手に手に取って鑑賞し、遊び戯れてよく、たとえ不注意で壊してしまっても、あまり咎められることはありませんでした。こうしたことから、手足を動かしたり音が鳴ったりする「兎児爺」が出現し、例えば「口の動く兎児爺」は、中が空洞で、唇が動くようになっていて、糸でつながれ、糸が体の中から引き出されていて、糸を引っ張ると、兎の唇が激しく動き、カタカタと音がしました。また、「腕の動く兎児爺」は、糸を引っ張ると、両方の腕を振り回し、薬草を搗くような動作をしました。こうした「兎児爺」は神様の身分を完全に失い、完全におもちゃとして扱われました。

 

北京以外では、天津、山東省済南にも「兎児爺」や「兎子王」がありました。

 

済南「兎子王」

 

「兎児爺」が民間の季節の玩具であることは1950年代初めまでずっと続きました。1980年代初頭より、北京で「民間玩具研究委員会」が創設され、「兎児爺」の復活が提唱され、民間の作家に生産の復活が要請され、北京っ子たちに喜ばれました。今日、少数の工芸美術品メーカーが「兎児爺」の生産を続けていますが、製品の意味合いは大きく変化し、室内に飾る置物や旅行の土産として販売されており、人々の生活に潤いを与え、中秋節の雰囲気を盛り上げる役割を果たしています。

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中国の泥人形(7)北京の泥人形

2021年06月22日 | 中国文化

張玉亭作「吹糖人」(吹き飴細工職人)

 

北京は長い歴史を持つ古都で、金、元、明、清など五つの王朝がここに都を置き、都の歴史は金代より起算すると700年余りとなります。ここは歴代王朝の政治、経済、文化の中心であり、悠久の文化の伝統と、多彩な民間芸術の成果が多く残されています。

 

封建時代末期、清朝政府は貴族階級の享楽を満足させるため、全国各地から職人を徴用し、宮廷内で働かせました。その中には、鳥かごの制作職人、木製玩具の制作職人、キリギリスやコオロギの飼育繁殖者、泥人形の制作職人なども含まれました。天津の「泥人張」の創始者、張明山もそうした職人のひとりでした。今日、北京の故宮博物院には、清代の玩具が数多く収蔵されています。宮廷に入った職人たちは、皇帝や宮中の人々の審美眼、趣味に応じて数々の創作を行いました。そのため宮廷の玩具は、次第に独自の芸術風格を形作るようになりました。しかし清朝末期、多くの貴族の子弟たちが権力を失い、没落すると、多くの職人たちは生活の糧を得る手段が無くなり、民間向けの玩具の生産に力を注ぐようになりました。おかげで宮廷玩具の繊細で精巧、華美で贅沢な気風が民間にももたらされ、北京の民間の玩具は、宮廷玩具の色彩をも備えるようになりました。そのため清朝宮廷の気風が、北京の民間玩具の独特の風格を生み出しました。当時、北京の民間の玩具の販売経路は三つありました。

 

①北京城内の各地区で定期的に開かれる「廟会」(社寺の縁日)。白塔寺、隆福寺、護国寺など、北京の主な仏教や道教の寺院の「廟会」の開催時期は、一年を通じ決まっていました。

陳蓮痕は『京華春夢録』の中でこう書いています。

「都の寺院で市の立つ日は決められていて、毎月三日は土地廟、四日は花市、五、六日は白塔寺、七、八日は護国寺、九、十日は隆福寺である。」

こうした定期的な廟会は、1950年代中頃までずっと維持されていました。廟会では、玩具を専門に販売する屋台がたくさん並びました。

玩具を売る屋台

 

②街の通り沿いに並ぶ屋台と、街や横丁を天秤棒を担いで売り歩く行商人の両方がありました。玩具の売り方には様々な方法がありました。物々交換をする者は、銅や鉄くず、布や毛糸、ガラス瓶などの廃品を客が持って来ると、いろいろな泥人形や紙のおもちゃと交換しました。また「轉糖得彩」と言って、客はあめを買ってくじを引き、当たると景品としておもちゃがもらえました。また、あめや落花生を売りつつ、おもちゃも売るという行商人もいました。昔の北京では、あちこちにおもちゃを専門に売る店舗もありました。例えば、東安市場の「耍貨劉」(「耍貨」shuǎhuòはおもちゃのこと)、「耍貨白」は、何れも「耍貨舗」(おもちゃ屋)と呼ばれました。

 

③春節の「廠甸」chǎngdiàn。昔の風習として、毎年旧暦正月の一日から十日まで、和平門外瑠璃廠に、お正月の人出を見込んで大きな縁日が立ちました。これを「廠甸」と呼ばれていました。(この土地は、宮廷の瑠璃瓦を焼く瑠璃窯があったところで、瑠璃窯の前に広い空き地があり、この空き地に市が立ったので、「廠甸」と呼ばれました)「廠甸」の期間中、北京市内や北京近郊、河北省各地のおもちゃ職人たちがそれぞれ自分たちの製品を市に並べました。様々な泥人形や、おもちゃ類が、「廠甸」に並ぶ商品の呼び物でした。

 

北京城内に、こうした玩具の販売市場があったことが、民間の玩具の普及と発展に良い環境をもたらし、玩具職人たちの創作活動を促しました。

 

北京の泥人形は、その題材と機能で分類すると、大きく四つのカテゴリーに分けることができます。

 

一番目は実際の生活を反映した作品です。このカテゴリーの人形は、北京の市井の生活に取材し、北京の人々の衣食住や生活の各方面を描写しました。玩具市場でよく見かける馬車のおもちゃは、昔の北京の交通手段を描写したものです。1950年代以前は、北京城内では荷馬車、乗用馬車が盛んに使われ、荷物も運べるし、客を乗せることもできました。専ら客を乗せる馬車の場合は、客室、幌があり、客室内には敷物を敷いた座席が設けられ、昔の北京の主要な人の輸送手段でした。泥人形の作者はこうした生活の実態に基づき、簡潔に生き生きと造形をしました。馬車の車輪は型で抜いて成形し、その他の部分は全て手で捏ねて作り、馬の四本の足は針金や竹ひごで代用し、生き生きと真に迫っていました。色彩には黒い石灰、濃い褐色、群青を多く用い、含蓄があって重々しく、作者の深い芸術的な造詣を表現しました。今日こうした泥人形は、芸術的価値以外に、現在の人々が昔の北京の生活を理解する上での形ある資料ともなっています。

馬車に乗る人

荷馬車を牽くロバ

 

実際の生活を反映した泥人形の中には、生活習俗に取材した作品もあり、例えば、「嫁取り」、「死者の出棺」、「馬に乗る人」、「ラクダに乗る人」などがあります。「嫁取り」は数十人の小さな泥人形で構成され、馬車、執事、花嫁を婚家に送る隊伍が揃っていて、それぞれの人形の大きさは3センチくらいで、個々の人物の造形は簡略化されています。長方形の粘土片を小刀で切って両足にし、粘土を球状にしたのが頭で、ひとつひとつ捏ねたら、それぞれ必要な持ち物を身に付けさせ、衣服を絵具で描き、順番に配置すると、全体はなかなか壮観で、生き生きとして真に迫っています。馬に乗る人やラクダに乗る人も、昔の北京の生活を写したものであり、家畜の足や蹄は針金や竹ひごで制作しています。

婚礼の行列

婚礼の行列(その2)

 

泥人形の「三百六十行」(「行」は仕事の業種)も昔の北京の生活の縮図で、様々な業種の物売りの様子を粘土で再現したものです。おかずを売る人、水売り、布地売り、ワンタン売り(てんびん棒の一方に具材を入れた籠、もう一方にスープを沸かすコンロを担いだ)、散髪屋、糖葫芦(山査子飴)売りなど、市井の商人たちが表現されました。

冬瓜売り

水売り

糖葫芦(山査子飴)売り

散髪屋

 

1930年代、北京の玩具業界に新しい泥人形が現れました。当時のスター俳優に取材し、3センチあまりの小さな人形を作り、彩色して顔に眼や口を入れたら、全体に白蝋を塗り、人形4、5体を一組にして屋台に並べ、子供たちを招き寄せて販売しました。人物の造形はアニメの人物のように作られ、俗に「滑稽人」と呼ばれました。こうした小型の人形は全て型で作られ、人形の頭は針金で体に取り付け、頭部は動かして向きを変えられました。

 

北京の泥人形の二番目のカテゴリーは動物や鳥、花や果物です。このカテゴリーの作品は主に手で捏ねて作られ、巧みで精緻で、妙趣にあふれています。作った小鳥は枯れ枝の上に取り付け、花瓶に挿して鑑賞できるようにしました。鳥はノゴマ、オガワコマドリ、カナリヤ、イカル、コウテンシなどで、それぞれポーズをとり、一羽一羽が異なります。また、稲わらで巣を作り、木の枝に取り付けたものもありました。こうした鳥の人形を売る商人は、鳥を取り付けた木の枝を束で持ち上げ、「花瓶付きだよ、花瓶付きだよ」と呼ばわって販売しました。また別の鳥の人形は木の枝に取り付けず、それぞれの小鳥の足下に粘土で台を作り、一羽だけで飾れるようにしました。また、何羽かの小鳥で組になっているものもありました。

 

花や果物の造形は北京以外ではめったに見られません。粘土で小さな植木鉢や金魚鉢、菓子盆を作り、それから蓮の花、蓮の葉、リンゴ、ザクロ、桃などの花や果物を粘土で作り、ホウキギや竹ひご、木の枝などで鉢や盆に挿し、色を塗ります。これは北京の人々の実際の生活の中の情景を再現したものです。

 

三つ目のカテゴリーは芝居の人物です。このカテゴリーの作品は、恵山泥人の「手捏戯文」とよく似ていますが、人形の大きさは小さく、人物は7センチ足らずで、2―3人で一組になり、芝居の一場面を再現しているので、俗に「泥戯出」と言います。よく見かける題目は、「二進宮」、「蘇三起解」、「三娘教子」、「白蛇伝」、「梁山伯与祝英台」などです。芝居の人物には、更に「高足踊り」と言って、春に行われる「花会」という行事の中で行われる、竹馬を付けて芝居や伝説の人物が練り歩く様子に取材したものがあり、人形二体が一組で、「文武扇」、「漁樵問答」、「売薬算卦」、「打鑼敲鼓」などの場面を再現し、祝日の行事の賑やかな雰囲気が表現されています。

張玉亭作「三娘教子」

高足踊り

 

四つ目のカテゴリーは、動くおもちゃ、音の出るおもちゃです。このカテゴリーの玩具は、子供がいじったり動かしたりして遊べ、音響や動作を伴うので、遊戯性や娯楽性が強い玩具です。よく見かけるものとして、例えば「猪八戒念経」は、型で作られ、人形は座っていて、右側に木魚があり、全体がつながっています。八戒の体は中空で、腕と下あごをつないだ後で取り付け、体の中に紐を通して下あごと腕を引っ張って動かします。紐を引くと、八戒の手が木魚を敲く動作をし、口がぱくぱく動き、まるでお経を唱えるようになります。「小鶏喫米」や「鴿子喫緑豆」は、三四羽の粘土のヒヨコがラケット状の木の板に固定され、板の中央に穴が開いていて、ヒヨコの頭は動くようになっていて、ヒヨコの頭の後ろに紐が付いていて、紐は木の板を通り抜け、それぞれの紐は板の下で一つにより合わさり粘土の重りにつながれています。軽く木の板を揺り動かすと、ヒヨコの頭はおもりの作用で都度おじぎをし、まるで米つぶをついばむように見えます。「小泥車」は粘土を捏ねて作った自動車、飛行機、汽船、戦車、砲艦、金魚などで、下には粘土の車輪が取り付けられ、車を引っぱると、車輪が回るので、俗に「小泥車」と言います。「小人鑚壇子」(「鑚」は潜り込む。「壇子」は壺)は、粘土の壺の口のところを一本の針金が貫いていて、針金の中間に粘土の人形が取り付けられています。手で針金をひねって動かすと、人形は回転し、壺の入口から人形の頭と足が順番に出て来て、あたかも壺に潜り込んだり出たりするように見え、滑稽でおもしろいものです。この他にも、「不倒翁」(起き上がりこぼし)、「叫猫」、「皮老虎」、「王小打虎」などがあり、何れも北京地区の伝統的な玩具です。

 

今日、泥人形の生産は、主に工芸美術品の生産工場や玩具工場によりなされています。伝統的な民間玩具は、室内のインテリア小物や旅行の際の記念品に変化し、時には貴重な芸術品に変化しています。

小鶏喫米(写真は木製玩具)

 

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中国の泥人形(6)河南省

2021年06月16日 | 中国文化

淮陽泥泥狗

 

1.淮陽県の泥人形

 

淮陽県(周口市淮陽県)は河南省南部に位置し、古くは「陳州」と呼ばれていました。県内には太昊tàihào伏羲fúxī陵、伏羲画卦台、伏羲白亀池、神農五谷台、宛丘城遺跡など、多くの古跡があり、古くから古代の伝説中の伏羲氏と神農氏という二人の帝王の故郷と考えられてきました。当地の人々は、昔から「人祖爺」(人々の祖先)である伏羲は「太昊陵」に葬られたと伝承してきました。太昊陵は県城の正北1.5キロにあり、現存する御陵の建物は全て明代の遺跡であり、現在は公園になっていて、俗に「人祖廟」と呼ばれています。毎年旧暦の二月二日から三月三日まで、当地の人々は御陵の中で盛大な「太昊陵廟会」を行います。付近のおおむね50キロ内の人々は、廟会見物に訪れます。淮陽の泥人形は俗に「泥泥狗」と呼ばれます。御陵区域内で生産され、御陵の前の廟会で販売されるので、またの名を「陵狗」と言います。

 

河南省周口市淮陽県

 

「泥泥狗」は全て下地の色が黒色で、どれも呼び子が取り付けてあり、吹くとピーッと音が鳴るようにできています。大きさにより、「大花貨」、「中花貨」、「小泥餅」の三つに分かれます。「大花貨」は高さ約10―17センチ、「中花貨」は6-10センチ、「小泥餅」が最も小さく、2センチ以下の小さな陶器の呼び子です。「泥泥狗」の造形はたいへん変わっていて、多くが奇怪な禽獣のような姿かたちをしています。中でも猿の人形が最も変化に富み、「人祖猴」(「猴」は猿のこと)、「人面猴」、「抱膝猴」(膝を抱える猿)、「抱桃猴」、「搬腿猴」(足を持ち上げる)、「猫拉猴」(猫が猿を引っ張る)、「扛鋤káng chú猴」(鋤を担ぐ)、「打火猴」(火を付ける)、「兜肚dōudu猴」(「兜肚」は腹掛け)、「猴抱猴」などがあります。怪獣には、「八大高」、「草帽老虎」、「長毛」、「独角獣」(一角獣)、「多角獣」、「無眼獣」、「相駄tuó獣」(獣が別の獣を背負う。二頭の獣が一体になっている)、「双頭怪角」、「四不象」などがあります。

 

猫拉猴

 

鳥の像には、「斑鳩」、「子母燕」、「猴駄tuó燕」(「駄」は背負うこと)、「九頭燕」、「小燕」などがあります。水中の生物では、「八叉亀」、「神亀」、「神蛙」、「小泥鱉」(「鱉」biēはスッポン)などがあります。

 

これらは、淮陽の独特な泥人形で、他の地域では見られません。「泥泥狗」の造形は偶然にできたものではなく、この地域の文化的な背景が関係しているかもしれず、たいへん神秘的に感じられます。

 

「泥猴」(猿の泥人形)のカテゴリーで、最も典型的なものは、「人祖猴」です。一面の型で前面を押し出し、背面は手で捏ねて平らにしてあります。直立し、体の高さは13-17センチくらいです。「人祖猴」の口は突出し、両目は丸く目を見張っていて、頭のてっぺんには桃の形の装飾があります。中央には赤色で縦に立ったナツメの種の形が描かれ、それを何重も縦の曲線が囲んでいて、外を放射状の白い短い線が囲んでいます。こうした紋様は、通常はそれぞれ独立した紋様として亀や蛙、鳥の体の上に描かれることが多いものです。研究者によれば、猿の前面の装飾の図案は、女性の生殖器官を象徴し、上古の時代の生殖崇拝観念が伝承され、その名残であると考えられています。

人祖猴

 

鳥の像には、「子母燕」、または「子母駄」(「駄」は「背負う」こと)と呼ばれるものがあり、基本的な造形は、一羽の大型の鳥が背中に小鳥を背負うものです。こうした形と殷(中国では「商」)の遺跡で度々出土する玉や陶器でできた「子母燕」はたいへん良く似ています。

子母燕(子母駄)

殷時代、玉や陶器の「子母燕」

 

1979年淮陽県の県城の東南4キロで発見された新石器時代晩期の遺跡と殷時代の版築の城壁、並びに城壁の下から出土した陶製の下水管と食器は、現在の淮陽のあたりが、殷時代には既に城郭(中国式の町の周囲に築かれた城壁)があったことを証明しています。したがって、「泥泥狗」の「子母燕」との間にも、ひょっとすると一定の伝承関係があったかもしれません。それと似た事象が、多くの「泥泥狗」の造形にも反映されていて、研究者の中では、『山海経』(せんかいきょう。中国古代の神話、地理の書)の中で記載される様々な怪獣や怪鳥と関連付けて、「泥泥狗」に反映される神秘的な寓意について解釈する試みがなされていて、一定の成果を上げているそうです。

 

淮陽の泥人形やおもちゃの中で、「泥塤」ní xūn(土笛)も注目を引きます。「泥塤」はひょうたんのような形をした陶器の楽器で、大きさは様々で、穴の数は二、三、五、七と違いがありますが、オカリナのように吹いて音を出します。他に「双管塤」があり、吹き口がふたつあります。

五孔塤

塤の演奏の様子

 

「塤」は中国古代の重要な礼楽器で、湖北省曽侯乙墓やその他の「先秦」(始皇帝の中国統一以前の秦。一般に春秋戦国時代を指す)時代の古い墓から多数発見されています。古代の祭礼や式典などの行事で楽曲の演奏の時は必ず「塤」が必要でした。後に次第に伝承されなくなり、民間では見られなくなってしまいました。しかし、淮陽においては伝承され、今日まで残りました。

 

このような独特で古風な泥人形が、淮陽県城付近の金庄、武庄、白王庄、前丁楼庄、後丁楼庄、劉庄、段庄、張庄、趙庄で作られてきました。各村にはそれぞれ得意とする品目があり、優れた技能を持った職人がいました。金庄と武庄は大花貨が有名で、人祖猴、九頭鳥、子母駄など大型のものは、金庄の職人たちの得意とする品目でした。丁楼村は「泥塤」の生産で有名でした。

 

淮陽の泥人形の成形は手捏ねが中心ですが、一部は一面の型で押し出して作ります。全体は黒色の下地の色の上に、白、深紅、薄い緑、薄い黄色で彩色します。全体の工程は、「打泥」、「搓坯」、「成形」、「染色」、「画花」の5段階に分かれます。「打泥」は、よく捏ねた土を木の棒でよく打ち、むらなくなめらかにします。「搓坯」cuō pīは作るものに合わせて土の塊を製品に近い形にまとめることで、その後、ひとつひとつ捏ねて成形します。「泥泥狗」の下地の染色方法は、他の泥人形の産地が逐次色を乗せていくのと異なり、製品をまとめて「浸し染め」します。先ず、青(黒色染料)を大鍋で煮て調合し、成形し乾かした白地を大きな穴杓子の中に入れ、穴杓子を染料に浸し、すくい上げ、白地全体が均等に黒く染まったら、筵(むしろ)の上で乾かし、乾いたら次に「画花」、絵付けをします。絵付けの時は、毛筆は使わず、先を削ったコウリャンの茎の先に顔料を付け、線で輪郭を描いていきます。

 

2.浚県xùn xiànの泥人形

浚県泥咕咕(泥馬)

 

浚県は河南省北部に位置し、衛河が県内を斜めに通っています。漢代に黎陽県が置かれ、元代に浚州に改め、明代に浚県に改められました。現在は、鶴壁市の管轄となっています。県内に名勝古跡がたいへん多く、県城の南面には大山と浮丘山が東西に対峙し、これら二つの山の上には歴代の古跡、寺院、祠堂、石窟、石碑が400カ所以上に分布し、仏教、道教、儒教の三教が一カ所に集まった文化的名山となっています。毎年正月十五日から月末まで、二つの山の間では廟会が盛大に行われ、俗に「古正月会」と呼ばれています。廟会の期間中、大量に販売される民間工芸品として、南毛村の木製玩具「刀槍剣戟」(「戟」は矛のこと。)、張庄の竹柳製品「簸箕籠筐」(「簸箕」は箕(み)で、ちりとりのこと。「籠筐」は竹や柳の枝で編んだ籠(かご))、二郎高の花火と爆竹、そして最も特色のあるのが、楊圯屯の泥人形「唧唧咕咕」です。

河南省鶴壁市

浚県(鶴壁市)

 

「唧唧咕咕」は浚県の泥玩具の総称で、「泥咕咕」とも言います。吹いて音を鳴らすことから、こう名付けられました。「泥咕咕」を制作する職人は大部分が県城の東1.5キロにある楊圯屯で暮らしています。この村は、隋時代末期の農民蜂起軍の武将の名前から命名されました。『資治通鑑』によれば、隋末、李密を首領とする瓦崗軍が黎陽一帯で官軍と戦争になり、双方に死傷者が出て惨憺たる状態になりました。伝説によれば、李密の部下に姓が楊、名を圯という武将がおり、軍を率いて大山の下に駐屯しました。楊軍の中に泥人形を捏ねるのが上手な兵士がいて、沙場で殉難した戦友を記念するため、泥人形と泥馬を作って、死者に供養しました。これより後、土で像を作る技術が伝わり、発展しました。当時、兵隊が駐屯していた所に村が作られ、「楊圯屯」と名付けられました。「泥咕咕」の多くが馬に乗る兵士と双頭の軍馬で、これらは隋代より伝承されたといわれています。

 

浚県の「泥咕咕」の造形は大きく四つのカテゴリーに分けられます。珍禽瑞獣、家禽家畜、人物、軍馬です。最も代表的なのが軍馬で、大紅馬、大黒馬、小馬、双頭馬などがあります。

泥咕咕・泥馬

泥咕咕・泥馬

 

ここの馬の人形は、頭が大きく体が小さく、頭を振り上げ、たいへん勇猛な様子です。馬の人形の作者は、意識的に馬の頭や首を描写し、馬の元気さを誇張し、わざと馬の胴体と四本の足を小さくして、駿馬が勇壮で、威勢が良い様子を強調しています。この地方の伝説によれば、隋末の農民蜂起軍の軍馬の中には、手綱を垂らして主人を救け、死を賭して敵を迎えた良馬、義馬がいて、当時兵士たちは、こうした軍馬の主人を思う気持ちに託して馬の人形を作りました。今日、「泥咕咕」の中の軍馬は依然として当時の風格を保っていて、見る者に強い印象を残します。

 

珍禽瑞獣のカテゴリーの作品には、魔除け、一角獣、キジバト、座る獅子、燕、首を振る獅子、その他様々な縁起の良い動物が含まれます。家禽家畜のカテゴリーの作品には、鶏、アヒル、猿、豚、羊、ウサギ、牛、鳥などがあります。人物の像は比較的少なく、もっぱら一部の職人により作られました。主な作品は、関羽、西遊記、八仙、十二支の擬人像、三国志の武将などです。

キジバト

キジバト

首を振る獅子(獅子舞)

 

浚県の「泥咕咕」は多くが手で捏ねて形を作り、半分手捏ね、半分型押しのものもありますが、全て型で作られた作品は少ないです。「泥咕咕」は深い黒色のものが多く、また褐色や紫がかった濃紅色など濃い色を下地に塗ったものもありますが、下地に薄い色を塗ったものは皆無です。下地には松やにが擦りつけられています。下地が乾いたら、強火で生地を焼き、色を調合した松やにを下地の上に擦りつけ、松やにが熱で溶けて、下地の表面に薄い膜を作り、冷えると、つやつやとコーティングしたように光り輝きます。紋様の装飾は草花が多く、好んで白、ピンク、薄緑、卵色などを用いています。紋様の絵付けは直接いくつもの色で描き、筆のタッチの変化を重視し、点描の排列をよく考え、装飾性が強くなっています。

 

楊圯屯は700戸余りの人家のある大村落で、泥人形の生産が最も盛んだった時には、村の人家の90%が泥人形の生産に従事していました。ここでは俗にこう言われていました。「楊圯屯で飯を食ったら、泥人形を作れるようになる。」楊圯屯で短時間滞在するだけで、泥人形を作る技を覚えることができる。それほど、ここでは泥人形作りが日常あたりまえのことであったのです。

 

河南省の泥人形は、この他、瀋丘県、霊宝県、開封市、洛陽市などでも見られますが、生産規模は何れも淮陽、浚県に及びません。

 

 

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