今回は、多少やわらかいお話である。中国の著名人は過去も現在も、日本女性を伴侶としたがるが、それはなぜか。同じ日本人として、日本女性の美徳が称えられるのはうれしいが、多少美化され過ぎているような気がしないでもない。
中国名人為什麼願意迎娶日本女人?
2010年04月01日 来源:新華網
中国の著名人はなぜ日本の女性を妻にしたがるのか
■ 許多中国名人都娶了日本愛人,老一輩不説,如当過体育部長的乒乓(ping1pang1)球世界冠軍庄則棟、著名小提琴家盛中国等,這是為什麼呢?中国名人為何娶日本愛人?我看還是源于那句話:世界上啥(she2)最好?哪里是天堂?“天堂就是-美国的薪,中国的菜,英国的房,日本的妻。”
多くの中国の著名人が日本人妻をめとっている。昔の人はさておき、例えば体育部長を務めた卓球の世界チャンピオン、庄則棟、有名なバイオリニスト、盛中国等、これはどうしてだろうか。中国の著名人はどうして日本人妻をめとるのか。私はやはりあの一言に遡ると思う。「世界で何が最も良いか。どこが天国か。“天国とは、アメリカの給料、中国料理、イギリスの家、日本人の妻である。”」
■ 確実,日本女子的魅力,挙世聞名。她們櫻花般的艶麗、温順、嫵媚、典雅,蝴蝶夫人式的情意纏綿、生死相従,已経有許多藝術作品描絵過。20世紀以来,中国的許多文化名人,不僅曾在文字上表達対于日本女子的観感,而且在実際生活里,擁有日本愛人。
・挙世聞名 ju3shi4wen2ming2 世の中で誰でも知っている。[類似語]聞名于世 遐迩聞名[反義語]默默无聞
・嫵媚 wu3mei4 (女性、花などが)なまめかしい。あでやかである。
・情意纏綿 qing2yi4chan2mian2 情がこまやかである
・観感 guan1gan3 観察した後の印象と感想
確かに、日本女性の魅力は、たいへんよく知られている。彼女たちは、桜の花のように鮮やかで、従順で、あでやかで、マダム・バタフライのように情がこまやかで、生死を共にしてくれ、多くの芸術作品の中に描かれている。20世紀以来、中国の多くの文化人は、文字の上で日本女性の印象を表現しただけでなく、実際の生活でも、日本人妻を持った。
■ 徐志摩以《沙揚娜拉》一詩,将日本女子歌成極品:最是那一低頭的温柔,像一朶水蓮花不勝涼風的嬌羞,道一声珍重,道一声珍重,那一声珍重里有蜜甜的憂愁-沙揚娜拉!
徐志摩は《さよなら》の詩の中で、日本女性を最高のものとして歌いあげている。「あの低く頭を下げたしとやかさといったら、スイレンの花が涼風に持ちこたえられないようにはにかんでいる。一声、「お大事に」と言う。一声、「お大事に」と言う。あの「お大事に」ということばの中に甘い憂いがある。-さよなら!」
■ 另一位風流人物郁達夫的見識就豊富多了,他在《雪夜》里写道:“日本的女子,一例地是柔和可愛的;她們歴代所受的,自開国到如今,都是順従男子的教育。并且因為向来人口不繁,衣飾起居簡陋的結果,一般女子対于守身的観念,也没有像我們中国那麼固執。又加以纏足深居等習慣毫無,操労工作,出入巷里,行動和男子無差;所以身体大抵総長得肥碩完美,決没有臨風柳弱,瘦似黄花等的病貌。更兼島上火山礦泉独多,水分富含異質,因而関東西靠山一帯的女人,皮色滑膩通明,細白得像磁体,至如東北内地雪国里的嬌娘,就是日本也有雪美人的名称,她們的肥白柔美,更可以不必説了。所以諳熟了日本的言語風習,謀得了自己独立的経済来源,揖別了血族相連的親戚弟兄,独自一人在東京定住以后,于旅舍寒灯的底下,或街頭漫歩的時候,悩乱我的心霊的,是男女両性間的種種牽引,以及国際地位落后的悲哀。”
・肥碩 fei2shuo4 (果実が)よく実って大きい。(体が)大きく太っている
・滑膩 hua2ni4 すべすべしてきめの細かい
・諳熟 an1shu2 熟練する。熟知する
・揖別 yi1bie2 拱手(きょうしゅ。両手を胸の前で組み合わせておじぎをする、中国式の挨拶)して別れる
もう一人の風流人、郁達夫の見識はもっと豊富で、彼は《雪夜》の中でこう書いている。「日本の女性は、例えばやさしくかわいらしい。彼女たちが歴代受けてきたのは、開国以来今日まで、男性に従順であれ、という教育である。またこれまでずっと人口が多くなく、衣服や日常生活が粗末であった結果、一般の女性の身を守る観念が、我々中国のように執拗ではない。それに加え、纏足(てんそく)して家の奥深くで暮らすという習慣が皆無で、あくせく働き、町を出歩き、行動は男性と変わらない。したがって、体はたいていよく太って美しく、決して風にそよぐ柳のように弱々しかったり、菊の花のようにやせ細ったりということはない。また島国で火山や鉱泉が多く、水分にミネラルを豊富に含むことから、箱根の東西の山地の付近一帯の女性は、皮膚がきめ細かくつややかで、陶磁器のように白く、東北の内地の雪国の若い女性は、日本でも雪国美人の名称があり、彼女たちのふっくらと白く美しいことは、言うまでもない。したがって日本の言語習慣に習熟し、自ら独立する経済的な糧を求めて、親戚兄弟に拱手(きょうしゅ)して別れ、一人東京に住まいを定めて以後、旅の空でも、街をそぞろ歩いても、私の心をかき乱すのは、男女間の様々なかけ引きや、国際的な地位が低いことの悲哀である。」
■ 郁達夫的処女作也是成名作《沈淪》的主題,則是他対于日本女子的愛憎交織的複雑情緒。在他的小説里,日本女子若非“可望不可及”的良家尤物,就是玩弄中国学子感情的蕩婦。而日本男人几乎都是中国学子的情敵,奪他所愛,給他傷害。主人公対他們充満敵意,同時又陷入自卑感。郁達夫除了曾在日本嫖歌舞伎以外,従未享受過異国愛人的艶福。
・沈淪 chen2lun2 落ちぶれる。零落する
・可望不可及 ke3wang4bu4ke3ji2 遠くから眺めるだけで近づけない。望んでも到達できない。“可望不可即”、“可望不可親”ともいう。
・尤物 you2wu4 優れた人や物。美人
郁達夫の処女作で、有名な《沈淪》のテーマも、彼の日本女性に対する愛憎の交錯する複雑な感情である。彼の小説の中で、日本女性は「遠くから眺めるだけで近づけない」箱入り娘であり、中国人の学生を弄ぶ、尻軽女である。そして日本人の男性はほとんどが中国人の学生の恋敵であり、彼の愛したものを奪い、彼を傷つける。主人公は彼らに敵意を充満させ、同時に劣等感に陥る。郁達夫は日本で芸者を買ったことがある他は、異国の愛人の艶福を享受したことがなかった。
■ 中国名人娶日本妻子的例子很多,挙不勝挙。
・挙不勝挙 ju3bu4sheng4ju3 枚挙にいとまがない。=不勝枚挙
中国の著名人で日本人の妻子をめとる例はたいへん多く、枚挙にいとまがない。
■“名将之花”蒋百里迎娶日本妻子。軍事学家、前陸軍大学代理校長蒋方震(百里)的愛妻左梅(佐藤氏),原是日本駐華公使館的看護長,也是日本女子。在奉派看護蒋百里時,両人相互由敬慕生愛而結合。他們的女儿、鋼琴家蒋英留学徳国,后来成了銭学森的妻子。所以人們開玩笑説:銭学森是半個日本女婿呢。
「名将の花」蒋百里は日本人の妻子をめとった。軍事学者で、前陸軍大学代理校長、蒋方震(百里)の愛妻、左梅(佐藤氏)は、元日本駐華公使館の看護長で、日本人女性であった。蒋百里の看護に派遣され、二人はお互いに敬慕し合い、愛が生まれ、結ばれた。彼らの娘は、ピアニストの蒋英で、ドイツに留学し、後に銭学森の妻になった。したがって人々は冗談でこう言う。銭学森は半分は日本人の娘婿であると。
■ 蒋百里被誉為中国最有才的軍事学家,抗戦期間因労累過度在睡夢中猝死。当時,馮玉祥在香港報上発表文章,一口咬定,説蒋是被妻子打毒針致死的。女儿蒋華知道后,立即打電報堅決否認。左梅追随丈夫終生,跟従他抗日,早就断絶了与日本娘家親人的一切来往,也不教孩子們説日本話。蒋百里死后,她一直留在中国為蒋家守寡,1978年在京去世。
・猝死 cu4si3 突然死する
・一口咬定 yi1kou3yao3ding4 一言で断言する
・守寡 shou3gua3 後家を通す
蒋百里は中国で最も才能のある軍事学者であると称えられ、抗日戦争期に過労のため、睡眠中に突然死した。当時、馮玉祥は香港の新聞紙上に文章を発表し、蒋は妻子に毒薬を注射されて死んだと断言した。娘の蒋華はそれを知ると、直ちに電報を打ち、それを断固否定した。左梅は終生夫に付き従い、彼と抗日に従事し、とっくに日本の実家の親族とは一切の連絡を絶ち、子供たちにも日本語を話させなかった。蒋百里の死後、彼女はずっと中国に留まり蒋家の為に後家を通し、1978年に北京で亡くなった。
■日本郡主嫁給前清皇弟溥傑。嫁給前清皇弟溥傑的日本郡主嵯峨浩,是才貌双全的貴族。在溥傑出獄后仍回到婆家団聚,最后死在中国。她回娘家在日本的時期,堅決要求大女儿嫁一個中国丈夫:“你父親是中国人!你是中国人的女儿!応該按照中国人的礼節,遵父命嫁給中国人!”結果竟造成大女儿和日本男友双双殉情。周恩来得知后,還曾過問此事。
・郡主 jun4zhu3 王族の娘
・才貌双全 cai2mao4shuang1quan2 才色兼備
・団聚 tuan2ju4 別れ別れの肉親や親友が集まる。団欒する
・双双 shuang1shuang1 ふたりそろって
・殉情 xun4qing2 愛情のために命を絶つ
日本の王族の娘が清朝の皇帝の弟、溥傑に嫁いだ。清朝の皇帝の弟、溥傑に嫁いだ日本の王族の娘、嵯峨浩は、才色兼備の貴族であった。溥傑の出獄後も、実家に帰り肉親と再会したが、最後は中国で亡くなった。彼女が実家の日本に戻っていた時期、長女にある中国の男性に嫁ぐよう強く言いつけた。「あなたの父親は中国人です。あなたは中国人の娘です。中国人の礼節を守り、父親の命を守り中国人に嫁ぎなさい。」その結果、遂には長女は日本人の恋人と心中してしまった。周恩来はこのことを知り、
■郭沫若与陶晶孫的連襟情誼。1892年,郭沫若出生在四川楽山。1914年7月考取官費留学日本,進入東京第一高等学校預科。預科畢業后転入岡山第六高等学校攻読医学。安娜原名佐藤富子,1895年出生在日本仙台,父親佐藤右衛門是基督教牧師。安娜21歳那年,母親佐藤初没跟女儿商量便給她訂了親,安娜離家出走,来到了位于京橋区的東京聖路加病院,做了一名護士。在這所教会医院里相識,浪漫才子郭沫若与佐藤富子相愛同居。這段姻縁,中日両国人民耳熟能詳。
・連襟情誼 lian2jin1qing2yi4 姉妹の婿同士のよしみ
・攻読 gong1du2 専攻する
・耳熟能詳 er3shu2neng2xiang2 聞き慣れているので詳しく説明することができる
郭沫若と陶晶孫は姉妹の婿同士のよしみである。1892年、郭沫若は四川省楽山に生まれた。1914年7月、日本への官費留学の試験に合格し、東京第一高等学校の予科に入学した。予科卒業後、岡山第六高等学校に転入し、医学を専攻した。安娜の元の名は佐藤富子で、1895年仙台に生まれ、父、佐藤右衛門はキリスト教の牧師であった。安娜が21歳の年、母親の佐藤初が娘に相談なく彼女の縁談を決めたので、安娜は家を出、京橋区にある東京聖路加病院で看護士になった。このミッション系の病院で知合い、ロマンチストの才子、郭沫若と佐藤富子は愛し合い、同居した。この二人の縁(えにし)は、中日両国の人々はよく聞いて知っている。
■ 而陶晶孫作為郭沫若的連襟兄弟,他的異国情縁,則鮮為人知。陶晶孫在日本帝国大学跟郭沫若一起学医,娶了佐藤富子的妹妹佐藤操。陶晶孫是無錫北塘人,生于1897年,不到10歳就随父親去了日本。28歳畢業后担任帝国大学医学部教授助理,后来回国做了上海東南医学院教授。1930年父親要他回郷開設医院,謹遵父命,陶晶孫創立“厚生医院”。
陶晶孫は郭沫若の義理の兄弟になったのであるが、彼の異国での情誼の縁は、知る人が少ない。陶晶孫は日本帝国大学で郭沫若と共に医学を学び、佐藤富子の妹の佐藤操を娶った。陶晶孫は無錫北塘の人であり、1897年に生まれ、10歳にならぬうちに父親に従い日本にいった。28歳で卒業後、帝国大学医学部の教授助理となり、後に帰国し上海東南医学院の教授となった。1930年父親が彼に郷里に戻り開業するよう要求すると、父の命を守り、陶晶孫は“厚生医院”を創設した。
■ 陶晶孫多才多藝。他是中国現代預防医学与寄生虫研究的先駆;他在小説、音楽、美術等方面都有一定造詣,1927年出版小説集《音楽会小曲》;他精通日文和徳文,翻訳過一些文学作品。佐藤操受過良好的教育,喜愛文藝,她与陶晶孫相識的時候,在仙台一所女子学校当英語教師,他們的浪漫交遊由鋼琴開始。
陶晶孫は多才多芸であった。彼は中国現代予防医学と寄生虫研究の先駆者であった。彼は小説、音楽、美術等の面で造詣があり、1927年に小説集《音楽会小曲》を出版した。彼は日本語とドイツ語に精通し、いくつかの文学作品を翻訳した。佐藤操は十分な教育を受け、文芸を好み、彼女は陶晶孫と知合った時、仙台のある女学校の英語教師をしていたが、彼らのロマンスはピアノから始まった。
■ 郭沫若娶的姐姐佐藤富子,改称中国姓名為郭安娜;陶晶孫的妹妹佐藤操,改称中国姓名為陶弥麗。無論命運如何坎坷多難,她們一直成為家庭的支柱,忠于中国丈夫,并把中日聯姻的結晶-混血儿子女全都撫養成人,受畢高等教育。佐藤姐妹倆都是典型的日本式賢妻良母,可敬可佩。
・坎坷 kan3ke3 (道の)でこぼこ。不遇である。
郭沫若が娶った姉の佐藤富子は、改名して中国名、郭安娜となった。陶晶孫が娶った妹の佐藤操は、改名して中国名、陶弥麗となった。運命が如何に不遇であっても、彼女たちはずっと家庭の支柱となり、中国人の夫に忠実であり、また中日の国際結婚の結晶である混血の子女を成人に育て上げ、高等教育を受けさせた。佐藤姉妹二人は典型的な日本式の良妻賢母で、敬服すべきである。
■ 辜鴻銘与康有為的日本情縁。辜鴻銘認為:日本女子,即使是貧苦的下層女子身上,也有某種名貴的気質,她們柔弱、温順、純潔、敏感、真誠、高雅、甜蜜、勇敢、女人味十足;這種気質,本為古代(特別是漢唐)中国女子所有;可惜宋代以后,由于理学変得越来越庸俗,越来越小気,逐漸閹殺了這種可貴的気質。因此,若想找回能够体現中華文明的理想女子,只有到日本去尋求了。辜鴻銘対日本女子的賛揚并非紙上談兵,而有実践体験:他娶日本女子吉田貞為小妾,甚至到了没有她調理就不能入睡的程度。
・十足 shi2zu2 満ち満ちている
・理学 li3xue2 理学。性理学。宋、明代の唯心論哲学思想。朱熹などを代表とする客観的観念論と、王陽明を代表とする主観的観念論を含む。
・庸俗 yong1su2 俗っぽい。卑俗である。
・紙上談兵 zhi3shang4tan2bing1 机上の空論
辜鴻銘と康有為の日本での情誼の縁。辜鴻銘はこう考えていた。日本の女性は、たとえ貧しい下層階級の女性の身にも、ある種気高い気質があり、彼女たちは柔らかで弱弱しく、従順で、純潔で、敏感で、誠実で、高雅で、甘く、勇敢で、女性としての味わいが満ち満ちている。こういった気質は、元々古代(特に漢、唐)中国の女性も備えていたが、残念なことに宋代以降、理学が益々卑俗になり、益々ケチくさくなり、次第にこうした尊い気質を消し去ってしまった。したがって、中華文明を体現できる理想の女性を捜そうと思うと、日本に行って捜すしかない。辜鴻銘の日本女性に対する賛辞は机上の空論ではなく、実践体験がある。彼は日本女性、吉田貞を妾とし、彼女が世話をしてくれないと寝ることもできない程であった。
■ 康有為晩年娶了日本少女市岡鶴子為小妾。1911年6月7日,康有為応梁啓超之邀,従新加坡移居日本,次年春,搬至須磨“奮豫園”,適妻子何旃理懐孕,儿女又年幼,便雇了16歳的神戸少女市岡鶴子作女傭。1913年康有為回国不久,市岡鶴子也来到了上海。在辛家花園的遊存廬,鶴子正式成了康有為的第四妾。1925初,28歳的鶴子懐了身孕,這年康有為68歳。秋,鶴子回日本生下一女,取名凌子。有人伝言康凌子并非康有為的骨肉。鶴子甚至但求一死以表清白。堅貞壮烈不下于蝴蝶夫人。
・堅貞 jian1zhen1 節操を固く守ること
康有為は晩年、日本人の少女、市岡鶴子を妾にした。1911年6月7日、康有為は梁啓超の招きに応じ、シンガポールから日本に居を移し、翌年春、須磨“奮豫園”に引越し、ちょうど妻の何旃理が妊娠し、子供たちも幼かったので、16歳の神戸の少女、市岡鶴子を女中として雇った。1913年に康有為が帰国して間もなく、市岡鶴子も上海に来た。辛家花園の遊存廬で、鶴子は正式に康有為の四番目の妾になった。1925年初め、28歳の鶴子は懐妊したが、この年、康有為は68歳であった。秋、鶴子は日本に戻り一女を生み、凌子と名付けた。康凌子は康有為の実の子ではないとうわさする者がいた。鶴子は遂には一死を以って身の潔白を証明しようとした。貞節壮烈なこと、蝶々夫人にも劣らない。
■ 回顧歴史,孫中山、梁啓超、蒋介石、周恩来、汪精衛等留学日本的革命家都找過日本愛人,且許多人与日本女人結過婚,所以,“中日応子子孫孫友好下去”,此話意味深長呀。
歴史を振り返ると、孫中山、梁啓超、蒋介石、周恩来、汪精衛等の日本に留学した革命家は皆日本人の愛人をみつけ、その多くは日本女性と結婚したことがある。したがって、「中日両国は子々孫々仲良くしなければならない」という話は意味深長である。
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読んでみると、興味本位の内容ではなく、中国近代の革命家たちと日本女性のかかわり、その気質を称えたお話であり、非常に読後感が爽やかである。また、女性の描写表現も参考になると思う。
中国名人為什麼願意迎娶日本女人?
2010年04月01日 来源:新華網
中国の著名人はなぜ日本の女性を妻にしたがるのか
■ 許多中国名人都娶了日本愛人,老一輩不説,如当過体育部長的乒乓(ping1pang1)球世界冠軍庄則棟、著名小提琴家盛中国等,這是為什麼呢?中国名人為何娶日本愛人?我看還是源于那句話:世界上啥(she2)最好?哪里是天堂?“天堂就是-美国的薪,中国的菜,英国的房,日本的妻。”
多くの中国の著名人が日本人妻をめとっている。昔の人はさておき、例えば体育部長を務めた卓球の世界チャンピオン、庄則棟、有名なバイオリニスト、盛中国等、これはどうしてだろうか。中国の著名人はどうして日本人妻をめとるのか。私はやはりあの一言に遡ると思う。「世界で何が最も良いか。どこが天国か。“天国とは、アメリカの給料、中国料理、イギリスの家、日本人の妻である。”」
■ 確実,日本女子的魅力,挙世聞名。她們櫻花般的艶麗、温順、嫵媚、典雅,蝴蝶夫人式的情意纏綿、生死相従,已経有許多藝術作品描絵過。20世紀以来,中国的許多文化名人,不僅曾在文字上表達対于日本女子的観感,而且在実際生活里,擁有日本愛人。
・挙世聞名 ju3shi4wen2ming2 世の中で誰でも知っている。[類似語]聞名于世 遐迩聞名[反義語]默默无聞
・嫵媚 wu3mei4 (女性、花などが)なまめかしい。あでやかである。
・情意纏綿 qing2yi4chan2mian2 情がこまやかである
・観感 guan1gan3 観察した後の印象と感想
確かに、日本女性の魅力は、たいへんよく知られている。彼女たちは、桜の花のように鮮やかで、従順で、あでやかで、マダム・バタフライのように情がこまやかで、生死を共にしてくれ、多くの芸術作品の中に描かれている。20世紀以来、中国の多くの文化人は、文字の上で日本女性の印象を表現しただけでなく、実際の生活でも、日本人妻を持った。
■ 徐志摩以《沙揚娜拉》一詩,将日本女子歌成極品:最是那一低頭的温柔,像一朶水蓮花不勝涼風的嬌羞,道一声珍重,道一声珍重,那一声珍重里有蜜甜的憂愁-沙揚娜拉!
徐志摩は《さよなら》の詩の中で、日本女性を最高のものとして歌いあげている。「あの低く頭を下げたしとやかさといったら、スイレンの花が涼風に持ちこたえられないようにはにかんでいる。一声、「お大事に」と言う。一声、「お大事に」と言う。あの「お大事に」ということばの中に甘い憂いがある。-さよなら!」
■ 另一位風流人物郁達夫的見識就豊富多了,他在《雪夜》里写道:“日本的女子,一例地是柔和可愛的;她們歴代所受的,自開国到如今,都是順従男子的教育。并且因為向来人口不繁,衣飾起居簡陋的結果,一般女子対于守身的観念,也没有像我們中国那麼固執。又加以纏足深居等習慣毫無,操労工作,出入巷里,行動和男子無差;所以身体大抵総長得肥碩完美,決没有臨風柳弱,瘦似黄花等的病貌。更兼島上火山礦泉独多,水分富含異質,因而関東西靠山一帯的女人,皮色滑膩通明,細白得像磁体,至如東北内地雪国里的嬌娘,就是日本也有雪美人的名称,她們的肥白柔美,更可以不必説了。所以諳熟了日本的言語風習,謀得了自己独立的経済来源,揖別了血族相連的親戚弟兄,独自一人在東京定住以后,于旅舍寒灯的底下,或街頭漫歩的時候,悩乱我的心霊的,是男女両性間的種種牽引,以及国際地位落后的悲哀。”
・肥碩 fei2shuo4 (果実が)よく実って大きい。(体が)大きく太っている
・滑膩 hua2ni4 すべすべしてきめの細かい
・諳熟 an1shu2 熟練する。熟知する
・揖別 yi1bie2 拱手(きょうしゅ。両手を胸の前で組み合わせておじぎをする、中国式の挨拶)して別れる
もう一人の風流人、郁達夫の見識はもっと豊富で、彼は《雪夜》の中でこう書いている。「日本の女性は、例えばやさしくかわいらしい。彼女たちが歴代受けてきたのは、開国以来今日まで、男性に従順であれ、という教育である。またこれまでずっと人口が多くなく、衣服や日常生活が粗末であった結果、一般の女性の身を守る観念が、我々中国のように執拗ではない。それに加え、纏足(てんそく)して家の奥深くで暮らすという習慣が皆無で、あくせく働き、町を出歩き、行動は男性と変わらない。したがって、体はたいていよく太って美しく、決して風にそよぐ柳のように弱々しかったり、菊の花のようにやせ細ったりということはない。また島国で火山や鉱泉が多く、水分にミネラルを豊富に含むことから、箱根の東西の山地の付近一帯の女性は、皮膚がきめ細かくつややかで、陶磁器のように白く、東北の内地の雪国の若い女性は、日本でも雪国美人の名称があり、彼女たちのふっくらと白く美しいことは、言うまでもない。したがって日本の言語習慣に習熟し、自ら独立する経済的な糧を求めて、親戚兄弟に拱手(きょうしゅ)して別れ、一人東京に住まいを定めて以後、旅の空でも、街をそぞろ歩いても、私の心をかき乱すのは、男女間の様々なかけ引きや、国際的な地位が低いことの悲哀である。」
■ 郁達夫的処女作也是成名作《沈淪》的主題,則是他対于日本女子的愛憎交織的複雑情緒。在他的小説里,日本女子若非“可望不可及”的良家尤物,就是玩弄中国学子感情的蕩婦。而日本男人几乎都是中国学子的情敵,奪他所愛,給他傷害。主人公対他們充満敵意,同時又陷入自卑感。郁達夫除了曾在日本嫖歌舞伎以外,従未享受過異国愛人的艶福。
・沈淪 chen2lun2 落ちぶれる。零落する
・可望不可及 ke3wang4bu4ke3ji2 遠くから眺めるだけで近づけない。望んでも到達できない。“可望不可即”、“可望不可親”ともいう。
・尤物 you2wu4 優れた人や物。美人
郁達夫の処女作で、有名な《沈淪》のテーマも、彼の日本女性に対する愛憎の交錯する複雑な感情である。彼の小説の中で、日本女性は「遠くから眺めるだけで近づけない」箱入り娘であり、中国人の学生を弄ぶ、尻軽女である。そして日本人の男性はほとんどが中国人の学生の恋敵であり、彼の愛したものを奪い、彼を傷つける。主人公は彼らに敵意を充満させ、同時に劣等感に陥る。郁達夫は日本で芸者を買ったことがある他は、異国の愛人の艶福を享受したことがなかった。
■ 中国名人娶日本妻子的例子很多,挙不勝挙。
・挙不勝挙 ju3bu4sheng4ju3 枚挙にいとまがない。=不勝枚挙
中国の著名人で日本人の妻子をめとる例はたいへん多く、枚挙にいとまがない。
■“名将之花”蒋百里迎娶日本妻子。軍事学家、前陸軍大学代理校長蒋方震(百里)的愛妻左梅(佐藤氏),原是日本駐華公使館的看護長,也是日本女子。在奉派看護蒋百里時,両人相互由敬慕生愛而結合。他們的女儿、鋼琴家蒋英留学徳国,后来成了銭学森的妻子。所以人們開玩笑説:銭学森是半個日本女婿呢。
「名将の花」蒋百里は日本人の妻子をめとった。軍事学者で、前陸軍大学代理校長、蒋方震(百里)の愛妻、左梅(佐藤氏)は、元日本駐華公使館の看護長で、日本人女性であった。蒋百里の看護に派遣され、二人はお互いに敬慕し合い、愛が生まれ、結ばれた。彼らの娘は、ピアニストの蒋英で、ドイツに留学し、後に銭学森の妻になった。したがって人々は冗談でこう言う。銭学森は半分は日本人の娘婿であると。
■ 蒋百里被誉為中国最有才的軍事学家,抗戦期間因労累過度在睡夢中猝死。当時,馮玉祥在香港報上発表文章,一口咬定,説蒋是被妻子打毒針致死的。女儿蒋華知道后,立即打電報堅決否認。左梅追随丈夫終生,跟従他抗日,早就断絶了与日本娘家親人的一切来往,也不教孩子們説日本話。蒋百里死后,她一直留在中国為蒋家守寡,1978年在京去世。
・猝死 cu4si3 突然死する
・一口咬定 yi1kou3yao3ding4 一言で断言する
・守寡 shou3gua3 後家を通す
蒋百里は中国で最も才能のある軍事学者であると称えられ、抗日戦争期に過労のため、睡眠中に突然死した。当時、馮玉祥は香港の新聞紙上に文章を発表し、蒋は妻子に毒薬を注射されて死んだと断言した。娘の蒋華はそれを知ると、直ちに電報を打ち、それを断固否定した。左梅は終生夫に付き従い、彼と抗日に従事し、とっくに日本の実家の親族とは一切の連絡を絶ち、子供たちにも日本語を話させなかった。蒋百里の死後、彼女はずっと中国に留まり蒋家の為に後家を通し、1978年に北京で亡くなった。
■日本郡主嫁給前清皇弟溥傑。嫁給前清皇弟溥傑的日本郡主嵯峨浩,是才貌双全的貴族。在溥傑出獄后仍回到婆家団聚,最后死在中国。她回娘家在日本的時期,堅決要求大女儿嫁一個中国丈夫:“你父親是中国人!你是中国人的女儿!応該按照中国人的礼節,遵父命嫁給中国人!”結果竟造成大女儿和日本男友双双殉情。周恩来得知后,還曾過問此事。
・郡主 jun4zhu3 王族の娘
・才貌双全 cai2mao4shuang1quan2 才色兼備
・団聚 tuan2ju4 別れ別れの肉親や親友が集まる。団欒する
・双双 shuang1shuang1 ふたりそろって
・殉情 xun4qing2 愛情のために命を絶つ
日本の王族の娘が清朝の皇帝の弟、溥傑に嫁いだ。清朝の皇帝の弟、溥傑に嫁いだ日本の王族の娘、嵯峨浩は、才色兼備の貴族であった。溥傑の出獄後も、実家に帰り肉親と再会したが、最後は中国で亡くなった。彼女が実家の日本に戻っていた時期、長女にある中国の男性に嫁ぐよう強く言いつけた。「あなたの父親は中国人です。あなたは中国人の娘です。中国人の礼節を守り、父親の命を守り中国人に嫁ぎなさい。」その結果、遂には長女は日本人の恋人と心中してしまった。周恩来はこのことを知り、
■郭沫若与陶晶孫的連襟情誼。1892年,郭沫若出生在四川楽山。1914年7月考取官費留学日本,進入東京第一高等学校預科。預科畢業后転入岡山第六高等学校攻読医学。安娜原名佐藤富子,1895年出生在日本仙台,父親佐藤右衛門是基督教牧師。安娜21歳那年,母親佐藤初没跟女儿商量便給她訂了親,安娜離家出走,来到了位于京橋区的東京聖路加病院,做了一名護士。在這所教会医院里相識,浪漫才子郭沫若与佐藤富子相愛同居。這段姻縁,中日両国人民耳熟能詳。
・連襟情誼 lian2jin1qing2yi4 姉妹の婿同士のよしみ
・攻読 gong1du2 専攻する
・耳熟能詳 er3shu2neng2xiang2 聞き慣れているので詳しく説明することができる
郭沫若と陶晶孫は姉妹の婿同士のよしみである。1892年、郭沫若は四川省楽山に生まれた。1914年7月、日本への官費留学の試験に合格し、東京第一高等学校の予科に入学した。予科卒業後、岡山第六高等学校に転入し、医学を専攻した。安娜の元の名は佐藤富子で、1895年仙台に生まれ、父、佐藤右衛門はキリスト教の牧師であった。安娜が21歳の年、母親の佐藤初が娘に相談なく彼女の縁談を決めたので、安娜は家を出、京橋区にある東京聖路加病院で看護士になった。このミッション系の病院で知合い、ロマンチストの才子、郭沫若と佐藤富子は愛し合い、同居した。この二人の縁(えにし)は、中日両国の人々はよく聞いて知っている。
■ 而陶晶孫作為郭沫若的連襟兄弟,他的異国情縁,則鮮為人知。陶晶孫在日本帝国大学跟郭沫若一起学医,娶了佐藤富子的妹妹佐藤操。陶晶孫是無錫北塘人,生于1897年,不到10歳就随父親去了日本。28歳畢業后担任帝国大学医学部教授助理,后来回国做了上海東南医学院教授。1930年父親要他回郷開設医院,謹遵父命,陶晶孫創立“厚生医院”。
陶晶孫は郭沫若の義理の兄弟になったのであるが、彼の異国での情誼の縁は、知る人が少ない。陶晶孫は日本帝国大学で郭沫若と共に医学を学び、佐藤富子の妹の佐藤操を娶った。陶晶孫は無錫北塘の人であり、1897年に生まれ、10歳にならぬうちに父親に従い日本にいった。28歳で卒業後、帝国大学医学部の教授助理となり、後に帰国し上海東南医学院の教授となった。1930年父親が彼に郷里に戻り開業するよう要求すると、父の命を守り、陶晶孫は“厚生医院”を創設した。
■ 陶晶孫多才多藝。他是中国現代預防医学与寄生虫研究的先駆;他在小説、音楽、美術等方面都有一定造詣,1927年出版小説集《音楽会小曲》;他精通日文和徳文,翻訳過一些文学作品。佐藤操受過良好的教育,喜愛文藝,她与陶晶孫相識的時候,在仙台一所女子学校当英語教師,他們的浪漫交遊由鋼琴開始。
陶晶孫は多才多芸であった。彼は中国現代予防医学と寄生虫研究の先駆者であった。彼は小説、音楽、美術等の面で造詣があり、1927年に小説集《音楽会小曲》を出版した。彼は日本語とドイツ語に精通し、いくつかの文学作品を翻訳した。佐藤操は十分な教育を受け、文芸を好み、彼女は陶晶孫と知合った時、仙台のある女学校の英語教師をしていたが、彼らのロマンスはピアノから始まった。
■ 郭沫若娶的姐姐佐藤富子,改称中国姓名為郭安娜;陶晶孫的妹妹佐藤操,改称中国姓名為陶弥麗。無論命運如何坎坷多難,她們一直成為家庭的支柱,忠于中国丈夫,并把中日聯姻的結晶-混血儿子女全都撫養成人,受畢高等教育。佐藤姐妹倆都是典型的日本式賢妻良母,可敬可佩。
・坎坷 kan3ke3 (道の)でこぼこ。不遇である。
郭沫若が娶った姉の佐藤富子は、改名して中国名、郭安娜となった。陶晶孫が娶った妹の佐藤操は、改名して中国名、陶弥麗となった。運命が如何に不遇であっても、彼女たちはずっと家庭の支柱となり、中国人の夫に忠実であり、また中日の国際結婚の結晶である混血の子女を成人に育て上げ、高等教育を受けさせた。佐藤姉妹二人は典型的な日本式の良妻賢母で、敬服すべきである。
■ 辜鴻銘与康有為的日本情縁。辜鴻銘認為:日本女子,即使是貧苦的下層女子身上,也有某種名貴的気質,她們柔弱、温順、純潔、敏感、真誠、高雅、甜蜜、勇敢、女人味十足;這種気質,本為古代(特別是漢唐)中国女子所有;可惜宋代以后,由于理学変得越来越庸俗,越来越小気,逐漸閹殺了這種可貴的気質。因此,若想找回能够体現中華文明的理想女子,只有到日本去尋求了。辜鴻銘対日本女子的賛揚并非紙上談兵,而有実践体験:他娶日本女子吉田貞為小妾,甚至到了没有她調理就不能入睡的程度。
・十足 shi2zu2 満ち満ちている
・理学 li3xue2 理学。性理学。宋、明代の唯心論哲学思想。朱熹などを代表とする客観的観念論と、王陽明を代表とする主観的観念論を含む。
・庸俗 yong1su2 俗っぽい。卑俗である。
・紙上談兵 zhi3shang4tan2bing1 机上の空論
辜鴻銘と康有為の日本での情誼の縁。辜鴻銘はこう考えていた。日本の女性は、たとえ貧しい下層階級の女性の身にも、ある種気高い気質があり、彼女たちは柔らかで弱弱しく、従順で、純潔で、敏感で、誠実で、高雅で、甘く、勇敢で、女性としての味わいが満ち満ちている。こういった気質は、元々古代(特に漢、唐)中国の女性も備えていたが、残念なことに宋代以降、理学が益々卑俗になり、益々ケチくさくなり、次第にこうした尊い気質を消し去ってしまった。したがって、中華文明を体現できる理想の女性を捜そうと思うと、日本に行って捜すしかない。辜鴻銘の日本女性に対する賛辞は机上の空論ではなく、実践体験がある。彼は日本女性、吉田貞を妾とし、彼女が世話をしてくれないと寝ることもできない程であった。
■ 康有為晩年娶了日本少女市岡鶴子為小妾。1911年6月7日,康有為応梁啓超之邀,従新加坡移居日本,次年春,搬至須磨“奮豫園”,適妻子何旃理懐孕,儿女又年幼,便雇了16歳的神戸少女市岡鶴子作女傭。1913年康有為回国不久,市岡鶴子也来到了上海。在辛家花園的遊存廬,鶴子正式成了康有為的第四妾。1925初,28歳的鶴子懐了身孕,這年康有為68歳。秋,鶴子回日本生下一女,取名凌子。有人伝言康凌子并非康有為的骨肉。鶴子甚至但求一死以表清白。堅貞壮烈不下于蝴蝶夫人。
・堅貞 jian1zhen1 節操を固く守ること
康有為は晩年、日本人の少女、市岡鶴子を妾にした。1911年6月7日、康有為は梁啓超の招きに応じ、シンガポールから日本に居を移し、翌年春、須磨“奮豫園”に引越し、ちょうど妻の何旃理が妊娠し、子供たちも幼かったので、16歳の神戸の少女、市岡鶴子を女中として雇った。1913年に康有為が帰国して間もなく、市岡鶴子も上海に来た。辛家花園の遊存廬で、鶴子は正式に康有為の四番目の妾になった。1925年初め、28歳の鶴子は懐妊したが、この年、康有為は68歳であった。秋、鶴子は日本に戻り一女を生み、凌子と名付けた。康凌子は康有為の実の子ではないとうわさする者がいた。鶴子は遂には一死を以って身の潔白を証明しようとした。貞節壮烈なこと、蝶々夫人にも劣らない。
■ 回顧歴史,孫中山、梁啓超、蒋介石、周恩来、汪精衛等留学日本的革命家都找過日本愛人,且許多人与日本女人結過婚,所以,“中日応子子孫孫友好下去”,此話意味深長呀。
歴史を振り返ると、孫中山、梁啓超、蒋介石、周恩来、汪精衛等の日本に留学した革命家は皆日本人の愛人をみつけ、その多くは日本女性と結婚したことがある。したがって、「中日両国は子々孫々仲良くしなければならない」という話は意味深長である。
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読んでみると、興味本位の内容ではなく、中国近代の革命家たちと日本女性のかかわり、その気質を称えたお話であり、非常に読後感が爽やかである。また、女性の描写表現も参考になると思う。