王府大門
前回、四合院の門を構成する部品について、紹介しましたが、その門も、屋敷の主人の身分、また屋敷の規模により、様々な種類の門が存在しました。
北京の四合院のたくさんの院門の中で、大部分が「屋宇式門」(家屋形の門)と「随墻式門」(壁続きの門)の二つに分けることができます。前者は「門洞」、つまり建物の奥行きがあり、門自体が一軒の家のようになっていて、中に守衛室や面会室があるもの。後者は門洞が無く、単に壁の上に門を開けただけです。家屋形の門は、王府大門、広亮大門、如意門などに分けられます。壁続きの門には、小門楼、車門などがあります。
(1)王府大門
清の時代、住宅の呼称は、『大清会典』の中で明確な規定がありました。「凡そ親王、郡王、世子、貝勒、貝子、鎮国公、輔国公の住まいは、皆「府」と称す。」中でも、親王と郡王は「王府」と言いました。一方、科挙に合格し、高位高官に上り詰めた人は、たとえ爵位を封じられ、尚書、大学士、軍機大臣の肩書きがあっても、その住まいは「府」と言うことができず、「宅」、「第」と言いました。財産権から言うと、「府」と「王府」は皇室の財産であり、一旦爵位を剥奪されると、府を引き払わなければならず、その後、別の人に分配されたそうです。「宅第」は私有財産として認めらました。
王府の大門(正門)は、親王府は五間、郡王府は三間であり(「間」とは、二本の柱と柱の間の数です)、何れも北側にあって南を向き、門前には「門罩」(門窓と壁のある部屋)があり、通路は地面より高くなっていました。府門の東西にはそれぞれ一間の角門があり、どちらも「阿斯門」と呼ばれ、人々の普段の出入りに使われました。
雍和宮の阿斯門
角門(阿斯門)の設置により、正門は普段は閉ざし、儀礼など時と事情を見て開けることができました。府門の外には獅子の石像、灯柱、馬繋ぎ杭、馬止めなどがありました。正門と向かい合って「影壁」(目隠しの壁)がありました。ふたつの「阿斯門」が東西に並び、その内側には方形の広い中庭があり、正門の前には獅子の石像が一対あるので、この一角を「獅子院」と呼びます。
王府の大門の柱の数、装飾、色彩等は皆制度、規定に基づき建てられました。「親王府は緑色の瑠璃瓦、どの門も金釘63本(9行7列)を使う。世子府は親王府の七分の二に減らす」、貝勒府は正門が三間、開け閉めする門は一間。王府の大門の屋根は筒瓦、大棟(屋根の最高部が水平な棟)を用い、鴟尾(動物が口を開けた形の鴟尾)を置き、上下垂直方向の棟には仙人や獣の陶器の像を並べ、山墻(左右の山形の壁)には排水のため樋を付け、大門は赤色に塗り、梁の木材には彩色で図絵を描きました。
金釘
(2)広亮大門
「広亮」とは、文字通り、広々として明るいという意味で、背の低い狭い門と比べてこう言われました。「広亮」の原音は「広梁」で、屋根のてっぺんの大梁(棟木)の面積が広いことです。こういうりっぱな門は、官位や爵位の高い人物か、民国以降の軍閥や商人たちだけが建てることができました。人目を引くために、大門の一間が両側の家屋よりも大きく、門自身が「山墻」(切り妻屋根の左右両側の山形の壁)を持ち、「戧檐」(支柱と軒)には磚に模様の彫り物を施し、屋根のてっぺんを高くし、石段の上の壁が突き出ています。「広亮」というのは、規模のうえだけでなく、装飾面でも当てはまります。戸の上には数本の門簪があり、下には精緻な石鼓や門枕があり、壁面の磚の彫り物、木材の上の彩色した絵も凝っています。大門の内外には目隠し壁、屏風門があり、石段が設けられ、一般に地面より30~50センチ高くなっています。
広亮大門の屋根には一般に天井を吊りませんが、後に付け加えられたものもあります。棟は、両側が斜めに伸びた「清水脊」があり、「元宝脊」(馬蹄銀形の屋根)もあります。広亮大門の門扉は、建物の奥行きの半分のところ(大棟の下)に立っており、1/2、さらにはもっと多くの空間を門の外に残しています。民国以降は治安面の配慮から、門外に鉄の柵を付け加えたものもありました。広亮大門は王府大門と同様、門外に上馬石(乗馬石)、拴馬樁(馬繋ぎ杭)や拴馬石等がありました。
(3)金柱大門
「金柱」というは、軒柱(「檐柱」)より内側の柱のことを言います。金柱大門というのは、門扉のかまち(「框」)を金柱に取り付けた門のことです。規模のうえでは、金柱大門は広亮大門より小さく、戸も狭く、半分の間口しかないものもあります。その他の門の構造、屋根の形、飾りなどは、広亮大門と同じです。約1歩(5尺に相当。約1.5メートル)の奥行きしかなく、大門の出入り口の軒柱には多少の装飾があり、全体的に見て広亮大門より軽快な感じがします。
(4)蛮子門
最大の特徴は、門が金柱大門よりも更に外へ突き出ていて、ほぼ軒柱の位置にあることです。その他は金柱大門、広亮大門とほぼ同じです。蛮子門ができたのは、家の主の官位が低く、広亮大門を建てることができないので、思い切って門の外を屋根の軒下まで前に押し出し、南方から北京に来た人々が好む様式にしたものです。「蛮子」というのは当時の北京の人の、広東、広西や南方出身の人々への蔑称です。
(5)如意門
如意門は最も数が多く、一般の人々の住居用の門です。形式も多くて、凝った作りにも簡素にもできました。身分や地位の厳格な封建社会で、金はあるが無官の家では、小さな門を建てるのでは満足できず、門自体は小さくして、凝った飾りを付けるようにしました。例えば、「門楣」(戸のかまち(框)の上の横木)には大いに彫り物や飾りを付け、屋根のてっぺんを張り出させ、山墻(切り妻屋根の左右両側の山形の壁)には模様を彫った装飾をしたものもありました。
壁に沿った門(「随墻門」)は「墻垣門」とも呼び、その特徴は門洞が無く、壁にそのまま門を付けたもので、半間あまりの幅しかありません。
(6)小門楼
これは「随墻門」の中で最もよく見る形式です。スタイルの上では、上で見てきた家屋形門と同様の効果を狙っています。小さいながら、屋根にはちゃんと「山墻」(切り妻屋根の山形の壁)があり、屋根があり、屋根の上には大棟があり、両端は反り上がり、軒は草花模様の磚で装飾されています。門の等級としては低いけれども、普通の人々でも、ここまでの装飾をすることができました。