これからご紹介するのは、北京出版社より、1985年8月に初版が刊行された、北京大学歴史系『北京史』編写組による、『北京史』、すなわち北京の歴史です。中国史の中で、北京地区の歴史にフォーカスします。
第一節 北京人(北京原人)とその文化
おおよそ五十万年前、北京房山の周口店地区(北京市街地から西南へ約50Km)で、原始の人類が働き、生息していた。これが世の中でよく知られている「北京人」(北京原人)である。
ちなみにこの章で言う「北京人」とは、「北京猿人」、すなわち北京原人のことです。
北京人は周口店龍骨山北斜面の洞窟の中に居住し、そこには彼らの骸骨の化石、使っていた工具、火を用いた痕跡と大量の哺乳動物の化石が残されていた。これは人類の起源の謎を紐解く歴史の宝庫である。
周口店龍骨山遺跡
人類の誕生にはおよそ200万年あまりの歴史があり、北京人は原始人類の発展過程の中の一部である。北京人の四十個あまりのそれぞれの個体の研究から、彼らの体質と外形は、既に現代人とほぼ同じであることが分かっている。彼らは主に右手で労働を行い、自由に直立歩行ができた。これは現代人と同じである。彼らの頭蓋骨の形状と内部構造は尚たくさんの原始人類の性質を保っていて、脳の体積は現代人の80%ほどであった。しかし、彼らの大脳は猿に比べると大いに発達していて、現代の猿の平均の脳体積は、北京人の平均の脳体積の40%程度である。彼らの顔面は短く前に突き出しており、額は低く平らで、後ろに傾斜しており、眉骨は太く丈夫で、左右がひとつにつながり、顎骨は高く、鼻骨は幅が広く、口は前に伸びていて、下顎が無い。彼らは既に簡単な思考能力を持っており、言葉を話し始めていた。
北京人の時代、北京地区の地形は基本的に現在と同じだったが、気候は現在より湿潤で暖かく、動物の種類は現在よりずっと多かった。周口店龍骨山の北面、西面と西南面には大小の丘があり、丘にはエノキやハナズオウ(紫荆)の類のジャングルが生い茂っていた。ジャングルには虎、ヒョウ、狼、熊、鹿、イノシシ、ゴリラなどが居た。龍骨山の東麓には、幅の広い川が流れていて、川の近くは水草の群生する沼沢になっており、巨大な水牛、カワウソ、ビーバー、亀などが常にそこで活動していた。沼沢地帯の東南は広い平原で、平原上は草地で、また乾燥して砂地になったところもあった。草地には一年中四季を通じて群れを作った野生の馬、牛、羊がそこを疾走し追いかけあった。秋の終わりから初冬には、ヘラジカも遠くからここにやって来た。乾燥して砂の多いところでは、ゆっくり移動するラクダの群れや、いつも頭を砂に埋めるダチョウが居た。
北京人(北京原人)復元像
北京人は何十万年というたいへん長い歳月の中で、先祖代々このような太古の世界の中で労働し、生息し、繁殖してきた。自分たちの生存を争い維持するために、彼らは丈夫な両手を用い、木の棒や石を材料にして、原始の労働工具や武器を制作し、自然界と粘り強く戦った。
北京人が暮らした時代は、人類の経済文化史上、旧石器時代初期に属する。彼らの石器は、原始時代の打製方式で制作され、技術はまだあまり熟練していなかった。彼らは付近の河原で石英岩、緑色砂岩、火打石などを原料として選び、各種の形状の石器を作った。最大のものは厚刃の伐採器(斧の刃)で、比較的小さいのは、両刃の尖状器、更には刃部が鋭利な削器(さっき。スクレーパー)や両端が刃になったものなどがあった。これらの工具はそれぞれ樹木を伐採したり、獣の皮を剥いだり、獣の肉を切り分けたり、同時に狩猟の武器としても用いられた。北京人は苦労して労働し、苦しい闘争を行う中で、絶えず進歩していった。
尖状器
(周口店出土)
伐採器(斧の刃)
(周口店出土)
周口店の北京人の居住洞窟の外側では、火で焼かれた灰の層や獣の骨が発見され、更に一山一山になった厚い灰燼(灰と燃えさし)、木炭、焼けた骨、エノキ(榎)の実が発見され、これは北京人が火を使った遺跡である。北京人は破天荒にアジア大陸でぼうぼうとかがり火を燃え上がらせ、人類の黎明期の到来を宣告した。
原始人は完全に生存の困難、自然との戦いの困難に圧迫されていた。北京人はいつも猛獣の侵入、襲来に遭遇し、飢餓や寒さの脅威に遭遇した。困難な環境に苦しめられる中で、彼らの寿命は一般にたいへん短かった。三十八体の北京人の個体の化石の研究によれば、十四歳以下で死んだものが十五人、五十歳以上まで生きたものは一人だけであった。
当時、生産力レベルの低さのため、集団労働が唯一の取り得るべき方式であり、このことが彼らに数十人を一群れとする原始グループを結成させた。彼らはグループの力に依存して、ようやく凶暴な野獣に打ち勝つことができ、グループでの共同作業によって、ようやく最低限度の生活を維持することができた。彼らは共同で働き、共同で労働の成果を共有し、共同で困難だが平等な生活を送ることができた。こうした原始集団はまだあまり安定はしないが、正にこうした集団生活が、彼らの生存争いの中での困難なリスクからの勝利を保証し、人類社会の発展を促進した。原始集団は、北京人の時代の唯一の社会形式であった。
採集と狩猟は北京人の生活の中で重要な地位を占めた。彼らは植物の根、茎、果実や鳥の卵を採集し、食物にした。彼らが居住したことのある洞窟の中には、焼かれたエノキの実、ハナズオウ(紫荆)の木炭、マメ科植物の種子、ダチョウの卵の化石が残留していた。彼らが狩猟した動物は、多くが野生の鹿、馬、牛、羊、イノシシなどの獣類であり、少数の虎、ヒョウ、狼などの猛獣もいた。鹿類は彼らの主要な狩猟の対象で、夏から秋になると鹿を捕獲し、冬から春にはヘラジカを捕獲した。この他、彼らはまた野鼠、亀の類の小動物も捕食した。
苦難に満ちた生活は北京人を苦しめたが、また彼らを鍛えもした。彼らは集団生活の中で、創造性のある労働により後の世代の人々には想像できない困難を克服し、ゆっくりとではあるが、粘り強く自然に打ち勝ち、太古のアジアの原野に、人類の歴史の序幕を掲げた。
北京人の化石と文化の遺物は北京の周口店で発見され、北京の歴史に輝きを加えた。北京人の骸骨の化石の個体数はたいへん数が多く、文化の遺物は豊富で、発掘記録は完全に整っており、世界の太古の人類の進歩の歴史の研究のうえで、唯一無二の存在である。これは中国の古代文化遺産の至宝であるだけでなく、世界文化の宝庫の中での世にもまれな宝物でもある。
第二節 新洞人から山頂洞人に到るまで
北京人は周口店に長い間居住していたが、今からおよそ20万年前に、彼らの体質の特徴に顕著な変化が生まれ、猿人から初期の知恵を持った人間、新洞人に変化した。
山頂洞人復元像
新洞人は1973年に発見されたが、その個体はただ一本の歯しか存在せず、それは左上の第一臼歯であり、形態は北京人に比べ進歩していた。同じ地層には比較的厚い灰燼が発見され、それは焼けた石、石器、骨と一粒のエノキ(榎)の木の実であった。焼けた骨で最も大きいのは象で、最も小さいのは昆虫類で、草食性の動物が肉食性の動物より多かった。これらは新洞人が既に加熱して食物を食べていたことを証明している。
それから更に数万年経ち、おおよそ二万年前、北京に新たな人類が出現した。これが山頂洞人であり、彼らは北京人、新洞人と数十万年離れているが、同じ小山の異なった洞窟で生活していた。
山頂洞人は晩期のホモサピエンス(晩期智人)であり、彼らの体質の特徴は現代人と何ら違いが無い。彼らの脳の容量から見ると、山頂洞人は既に相当発達した知力を備えていた。
何人かの外国の学者は、山頂洞人の三つの頭蓋骨がそれぞれ蒙古人種、メラネシア人種、エスキモー人種に属すると言い、またたとえその蒙古人種の頭蓋骨であっても、幾分欧州人種の特徴を備えていると言った。これは不正確である。実際には、この三つの頭蓋骨は何れも原始蒙古人種の特徴を備えていた。より細かい種族は当時はまだ決まった型に分化しておらず、彼らは現代蒙古人種の祖先であると見做すことができる。
山頂洞人が使用した石器の発見はたいへん少なく、器の形は伐採器、スクレーパー(削器=さっき)、両刃器に区分することができる。これらの石器の製造技術は、北京人や新洞人より進歩しているが、依然としてたいへん粗雑である。山頂洞ではまた数多く精緻な骨角器を製造していたのが発見された。特に指摘しなければならないのは、骨針の発見により、当時の居住民が既に獣の皮で衣服を縫製し、衣服を身に着けず裸で生活していた時代は既に過ぎ去ったことを証明した。
山頂洞人の経済活動の中で、狩猟は極めて重要な役割を果たした。彼らが猟で得た獲物はウサギ、鹿、野牛、野羊、虎、ヒョウ、ハイエナ、熊など全部で五十種類以上あり、数が最も多いのはウサギとアクシスジカ(斑鹿)で、このことは狩猟技術の進歩と労働組織の発展を反映している。労働の自然分担がこの時代おそらく既に基本的に完成しており、狩猟の職務は主に男子が負担し、採集は既に女子、子供、老人の専門職務になっていた。山頂洞文化層の中で、これまでにたいへん多くの鯉の骨と一本の長さが約1メートルの青魚の骨が発見されており、山頂洞人が漁撈にも従事していたことが分かっている。
生産力の発展は、人々がより強固な集団を結成することを要求し、血縁関係を基礎とする母系氏族が生まれた。
山頂洞人の時代、原始的な物々交換の関係は既に出現していて、山頂洞で発見された渤海沿岸で産する赤貝の殻、宣化一帯で産する赤鉄鉱や、黄河、淮河流域以南で産する分厚いカラス貝の殻は、当時北京地区の居民が既に遠方の地区との物々交換の関係が発生していたことを説明している。
山頂洞人は獣の骨や角を原材料として生産工具、生活用具を作っていただけでなく、獣の牙、魚の骨、カラス貝の貝殻、鳥の骨管を使って、削ったり刻んだり、穴をあけたり、磨いたり、着色したりといった技術を応用し、大量の精巧な装飾品を作っていた。これらは原始時代の芸術の中では相当高度な出来栄えを示していた。山頂洞人の装飾品には、多くが赤色に塗られ、墓の中にも赤鉄鉱の粉末が撒かれていた。ひょっとすると、赤色は当時の人々が最も好んだ色で、彼らの原始的な宗教信仰と関係があるかもしれない。
第三節 北京の新石器時代
今からおよそ1万年から4、5千年前の期間は、北京地区は新石器時代にあった。当時、人々は血縁を紐帯に、原始氏族社会を結成し、北京の周囲では、至る所に先住民たちの生活と争いの足跡を残していた。
北京地区石器時代遺跡、古墳分布略図
門頭溝区東胡林村の西側で、今から約一万年前の人類の骸骨の化石が発見された。ここは、清水河がくねくねと東に流れ、永定河に注ぎ込み、川の両岸は山が幾重にも重なり、時折、山に依り水に面した低い黄土台地が広がり、先住民の遺骸は黄土台地上の墓に埋められていた。
門頭溝東胡林の位置
当時、先住民たちの体質の特徴は、既に現代人と基本的には同一であった。生産と生活が相対的に向上して後、先住民たちは、生産の余暇を利用し、装飾品を作って、自分を美化し飾り付ける生活を送っていたかもしれない。女性たちの首には、大きさの揃った小さな巻貝に穴をあけ、ひもでつないで作ったネックレスを掛け、腕には牛の肋骨の一部を磨いてつなげたブレスレットをつけていた。これらの装飾品が先ず女性たちに用いられたのは、当時女性たちが尊敬されていたことを意味し、女権性のひとつの現れである。
巻貝の貝殻のネックレスと牛の骨のブレスレット
門頭溝東胡林村出土
山頂洞人の居住洞窟は墓も兼ねており、東胡林の先住民は彼らの遺骸を黄土台地の上に埋葬した。この変化は、当時の人々が、ひょっとすると既に祖先の世代が居住した岩の洞窟の住まいを放棄し、谷間の黄土台地で、新たな労働と生活の区域を切り開き始めたのかもしれない。
その後、先住民たちは川の流れに沿って、谷間を出て平原に来た。川の両岸の台地上、或いは川の流れが合流するところで、土地が高くて平坦な場所を選び、原始集落を建設した。これらの場所は、水も草も豊富にあり、土壌は肥沃で、農作物を育てるにも、家畜を放牧するにも、陶器を製造するにも理想的な場所で、幅広い生活資源を備えていた。この時期の文化遺跡は、北京地区にきら星のように幅広く分布していて、その広がりは広範囲であった。海淀区中関村、朝陽区立水橋では細石器が発見されたことがある。昌平県馬坊、林場、密雲県燕落寨では仰韶時代(中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前2700年あたりである。この文化の名称は初めて出土した代表的な村である仰韶にちなんで付けられた)の遺跡や遺物が発見された。昌平県燕丹、曹碾ではまた龍山時代(山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖で1928年に城子崖遺跡が出土し、1930年以降本格的に発掘されたことから来ている。龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることからろくろが使われていたと見られる)の遺跡、遺物が発見された。昌平県雪山村の古代文化遺跡のモデル地区は、上は仰韶時代、中間は龍山時代を経て、下は商(殷)周時代までの基本的な手がかりを代表している。
鬲(れき)3本の空洞の脚を持つ古代の蒸し器
簋(き):食物を入れる器。口が丸く両耳がつく
雪山村遺跡は、先住民たちの豊かな文化遺産を保存し、仰韶時代に属する手製の赤陶の罐(つぼ)、赤陶の鉢、龍山時代に属する轆轤(ろくろ)製の黒陶の罐(つぼ)、黒陶の盆(鉢)、磨いて作った精緻な石斧が見つかった。これらは皆、農業集落特有の生活と生産の必需品である。北京西郊の西山、西南の房山、東南の通県、東に面した平谷、東北の懐柔、密雲、北に面した昌平、及び塞外にある延慶では、何れも新石器時代の石斧、石のスコップ、石鑿(のみ)、及び石の紡ぎ車などの文化的遺物が発見された。これらの新石器時代の遺物は、4、5千年前の北京の居民が既に原始的な狩猟民ではなく、彼らは既に農業生産に従事していたことを説明している。これら太古の時代の先住民たちは、氏族社会の集団の力を頼りに、原始的な木や石の工具を用い、樹木を伐採し、雑草を除去し、穀物の種を撒き、原始的な農業活動を行った。同時に、家畜を飼育し、それにより肉食と毛皮の消費が増加した。彼らはまた麻類の繊維を紡ぎ織って衣服とし、陶器を制作して生活用具とした。これら一切のことから、当時の北京地区の居民は既に歴史文明時代の入口まで歩んでいたことが説明されるのである。
红陶钵(陶器製の鉢)
黑陶盆(鉢、たらい)
第四節 伝説の中の幽都
原始社会晩期の生産力の発展は、社会の分業と物の交換の発展を引き起こし、私有制の出現と発展を促進した。氏族の酋長と軍事の首領の権力が強化され、彼らは絶えず氏族社会の集団の利益を侵略、併呑し、頻発する部落間の戦争の中で、大量の財産を略奪した。こうした軍事の首領や酋長は、更に交通の便が良く、経済が発達した集落を自分の拠点にし、初期の都邑を建設し、またこれらの都邑を中心に、次第に部落の地域を拡大していき、部落の力を発展させ、弱小部落を征服し、部落間の連盟を結成した。伝説に言う黄帝の部落、九黎の部落、炎帝の部落の間の戦争は、黄帝、顓頊(せんぎょく)、帝堯らが幽都やその他の都邑を建設し、こうした歴史上の状況を反映している可能性がある。
中国の伝説時代に、ひとつの強大な氏族部落が中国北方で決起し、伝説に言う 黄帝が彼らの想像の中での祖先である。部落の中で各氏族は何れも動物の名をつけ、熊氏族、羆(ヒグマ)氏族、貔(ヒ。ヒョウや虎の類)氏族、貅(キュウ)氏族、貙(チュ。金猫)氏族、虎氏族などがあり、彼らはひとつの場所に定住せず、原始的な遊牧を行った。
伝えられるところでは、 黄帝はあちこち兵隊を連れて宿営し、北へ南へと転戦した。彼が率いる部落は炎帝の部落と連盟し、北京以西の涿鹿(たくろく)で 九黎の部落を打ち負かし、その酋長、蚩尤(しゆう)を殺した。後に、炎帝の部落は同盟を解消し、他の部落を侵し辱め、盟主の地位を奪い取った。それで、黄帝の部落は炎帝の部落と阪泉の野で戦い、三度の大戦を経て、炎帝の部落を打ち負かした。その後、黄帝の部落は北に葷粥(くんいく)を追い、涿鹿に都邑を建設した。これは北京付近の都邑に関する最も古い伝説である。
伝説では、黄帝の第三代の継承者、 顓頊(せんぎょく)は「幽陵」で祭祀を行ったという。「幽陵」は幽州であり、北京地区の最も古い名称である。伝えられるところでは、帝堯の時代、幽州に最初の都邑が建設され、「幽都」と称した。帝堯はまた和叔を派遣して幽都を管理させ、北方を統治した。帝舜の時、治水に失敗した共工氏をここに流した。
これらの伝説は皆、原始社会の時代の北京と密接な関係がある。これらの伝説と考古学の発見を結びつけることにより、遠く3、4千年前には、北京地区は既に野蛮時代末期にあり、歴史的な文明時代は間近に来ていたことが証明できる。このことは、北京地区は全世界で最も早く文明の光が輝いた地域のひとつであることを語っている。