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北京史(三) 第二章 夏商周時代の北京(2)

2023年04月16日 | 中国史

(写真)北京考古遺跡博物館(瑠璃河遺跡分館)

北京市房山区琉璃河董家林村

 

燕国の都城

 史書の記載によれば、西周の初年、燕の召公の封地は「」或いは「北燕」と呼ばれた。地処は今の淶水県一帯の古北伯領地で、燕の召公の封地以内も含まれていた。周の武王は褒賞としての後代(子孫。『史記』では帝堯の後、『楽記』では黄帝の後とする)をに封じ、しばらくするとまた燕の領地に帰することとなった。史書では周初の燕国は「地は燕山の野に在り」、すなわち今日の燕山のラインの南を指し、華北平原の北端、北京市の周囲である。

 北京地区の最古の都邑、「幽都」は集落の名称で、原始的な村落から発展していった。西周の時代、燕の都城は今の房山県瑠璃河鎮東側の董家林村周囲に位置し、これより北魏時代まで、ここは「聖聚」(聖なる町)と称された。古聖水(今の大石河、また瑠璃河とも呼ばれる)は北から南に流れ、曲折して西南に流れ、また向きを変え東方に流れて行く。燕都はこの川の湾曲地帯の高く平らな台地の上に建設された。

北京商周古城の位置

商周古城跡略図

 董家林村周囲に残る燕国古都の基礎の遺跡は、東西長850メートル、南北幅約600メートルで、東西にやや長い長方形である。城壁は黄土版築(板で枠を作り、黄土をその中に盛り、1層ずつ杵で突き固めたもの)で作られ、主城壁は厚さ3メートルあり、内外にまたそれぞれ一層の護城坡(傾斜面)が築かれ、城壁の外側には更に城壁を取り巻く塹壕(壕溝)があった。古城内の遺跡では、曾て西周時代の板瓦が発掘された。これは燕国の宮殿の建物、或いは貴族の屋敷の遺物である。

 董家林村の燕国古城遺跡東南一里のところに黄土坡村があり、ここは燕侯と貴族の陵墓地区で、数百の大、中、小の墓が分布している。大型の墓には二本の墓道があり、墓道が四本あるものもあり、墓前には車馬が陪葬され、墓の中には大型の木棺が架設されている。中型の奴隷主の墓にも、車馬が合葬され、大量の青銅礼器が副葬されていた。

 燕国の青銅器の銘文から、燕の召公武王の冊封(さくほう)を受けてからも、相変わらず宗周(周朝の都城の所在地)に居留し、王室に供職し、彼の長子を燕地に派遣して封じたことが証明された。召公奭(せき)は曾て自ら燕地に臨み政務を処理したことがあり、燕侯もしばしば近臣を宗周に派遣して召公にかしずいた。燕侯の意向は宗周に行って、王室に仕えることだった。西周の時代、燕と周王室の間では、たいへん密接な関係を保っていた。武庚(殷の紂王の子供)の禄父( 武庚 の名前)は三監の管叔蔡叔霍叔といっしょに周の領土の中心で騒乱を起こした時、燕国は依然として北方に盤踞し、北方の安定を維持した。董家林の燕国の古都は、燕の西周時代の政治、経済、文化の中心で、燕侯は正にここで各種の政務活動を行い、祖国の北方を経営、開発した。

 董家林古城の地処は華北平原の北端にあり、太行、大坊山脈の周囲で、ちょうど南は中原に達し、北は塞外に通じる交通の要路にあった。ここから北に行くと、盧溝河の渡し場を越えて、古薊城に到ることができた。更に東北に行くと、燕山の狭隘部を通り越して、東北の広大な地区と連絡することができた。ここから西に行くと、拒馬河に沿って流れを遡り、大坊山を越えて淶水県の境に到達し、そこは古北伯領地の所在地であった。更に西北に行くと、雁代地区と連絡することができた。董家林燕国古都は、領地全体の中心地帯に位置しており、燕人が都邑を建てるのに最も相応しい地点であった。正にこの場所から出発して、燕国は次第にその領域の境域を外に向けて切り開いていった。西周の初年、燕国の境域は既に燕山を越え、古北口の関所を越え、大凌河(だいりょうが)の流れに沿って下り、先進的な青銅器文化を以て遼西の広大な区域を育てた。

 燕国の領土が東北方向に向け拡大、山戎部族の燕山山地での発展に従い、董家林の燕国古都は次第にその重要な地位を失い、史書の記載によると、春秋中期の燕の襄公の時、燕は既にを都城とした。薊も悠久の歴史を持つ古国であり、武王が商を滅ぼして以後、帝堯(或いは黄帝)の子孫をここに分封し、その後、薊が燕の統轄の下に帰し、春秋中期よりはじまり、は燕国の都城となった。

 薊城の位置は、今日の北京外城の西北部あり、戦国時代の人々はこれを薊丘と呼んだ。古代にははまたとも呼ばれ、すなわち集落であり、薊丘も原始集落から発展してできた古代の都邑である。広安門付近では曾て戦国、或いは戦国より更に古い遺跡、遺物、とりわけ饕餮紋(とうてつもん)の瓦当(軒先の先端の模様や文字が刻まれた部分)の半分が発見されたことがある。これは燕国が戦国時代に使用した宮殿の屋根瓦の構成部品であり、古薊城の所在を示している。北京外城の西北の角、東は宣武門を経て和平門に至る一帯、広安門内外、法源寺の東北、陶然亭公園等の場所で、たびたび戦国時代の薊城の人々が水を汲んだ、陶製の井戸の丸いわっかの焼き物が発掘され、古薊城のおおよその範囲を示している。

 薊城地区の西、北、東の三面は、群山に取り囲まれた場所にあるが、群山の後方には、多くの遊牧部落があり、薊城地区の居民は、古北口居庸関の狭隘を通じ、それぞれそれらの部落と経済的連携が発生した。北京昌平白浮村で発見された西周の燕国の墓、及び北京延慶西墢子で発見された春秋遊牧部族の墓から、華夏部族の礼俗(儀礼)は既に北方の戎族部落に吸収され、北方の草原地区の青銅芸術も燕国の文化に強い影響を与えた。

 考古学の発掘調査により分かったことは、戦国中期の燕の桓公文公易王の時代、燕はまた易水の傍に武陽城を造営した。これが燕の下都である。七国が雄を争った時代、燕の下都は燕西南部の重鎮となり、南に強国趙を押さえる役割を果たした。

 

燕都付近の階級関係

 周が商を滅ぼして以後、召公奭(せき)は燕の地に分封され、奴隷制国家、燕を建てた。

 周初、燕侯の家族が燕国の統治者となり、城内に封じた各部族、方国に対し、「商政を以て啓し、周索を以て疆とする」という方針を採用し、彼らに相変わらず自分の部族や領地を保有させ、彼らに各々その土地の祭祀を守らせ、 召公奭を首領とする燕侯の家族に臣服させ、共同で燕国の統治階層を形作った。西周初期、いくつかの商代から続く古老部族、例えば北伯などは、相変わらず燕国で地位が顕著な部族であり、彼らは依然、侯や伯で呼ばれ、各部族は相変わらず旧日の名称と徽号(美称)を保持し、燕地の開発と北方の安定維持に貢献した。これらの部族の首領や貴族は、しばしば燕侯の恩賞を受け、多くの青銅彝器(いき。酒壺)を作って残し、燕侯の彼らへの恩寵を記録し、彼らの当時の光栄を示した。燕侯の家族と燕地に元いた部族の首領は燕国の統治集団を形作った。

 燕国の奴隷制度の下、平民と奴隷は社会の最底層に処された。彼らは巧みな両手の技で生産を発展させ、きらびたかに輝く青銅文化を創造したが、奴隷主は彼らを家畜や道具と同一視し、残酷に搾取し、気ままに奪ったり分割したりした。

瑠璃河西周墓に合葬された車馬及び奴隷

 「寓兵于農(兵農合一。平時は畑を耕し、戦時は兵隊となる)の制度の下、平民階級は農田で労働しただけでなく、しばしば兵として戦争に行き、時には重い労役に駆り立てられた。当時、城の修築や、統治者のために陵墓を建造する工事はたいへん繁雑であった。古燕都のような規模の城壁や堀の建設、燕侯の墓地のようにいくつかの大、中型の墳墓であれば、長さ数十メートル、深さ十数メートルであるが、このような工事は疑いなく大量の人力が動員され、大量の資材が消費された。木や石の工具を主にする時代には、平民階級が毎年の労役の中で支払う代価は、見積もるのが難しいものだった。

52号墓(瑠璃河西周墓葬)

 奴隷の扱いで、奴隷主は生殺与奪(せいさつよだつ)の権力を持ち、奴隷たちはしばしば様々な虐待や酷刑に遭った。瑠璃河の黄土の傾斜地の墓地で車馬と一緒に埋葬された奴隷は、十の指の骨が全く存在せず、生前に残酷な刑罰を受けたことを物語っている。燕国では、奴隷も恩賞や殉葬に用いられた。ある名を「復」という奴隷主が作った銅尊の上に、燕侯が彼に恩賞で与えた「冕、衣、臣、妾、貝」の銘文があった。臣、妾は男女の奴隷で、彼らは 冕、衣に列せられた後、彼らの社会地位が低下したことが分かった。黄土の傾斜地の墓地の中では、手足が縛られ、体に馬具を背負った陪葬奴隷が発掘され、奴隷たちが牛や馬の如く悲惨な境遇にあったことを実地で反映していた。同一の墓地の多くの墓の中の小奴隷主の墓の中で、多くで生きたまま、或いは殺されて殉葬された奴隷が発見された。これらの奴隷は、あるものは両手が切られ、あるものは頭に重い傷を負っており、あるものは首だけが葬られ、あるものは車馬といっしょに葬られ、あるものは棺桶の間に挟みこまれていた。それらは大部分が体をかがめ横向きに寝かせ、顔は奴隷主を向き、一種うやうやしくかしずく姿勢を保っていた。奴隷主は棺桶の真ん中に静かに横たわり、仰向けで天を向き、死後天国に昇り、幸福を得ることを妄想した。これは奴隷主がそうすることを望んだのであり、世の中の生活の縮図である。

 奴隷主階級の残酷な統治は必然的に平民や奴隷の反抗を引き起こした。春秋、戦国時代になり、奴隷主貴族階級は没落、消滅の道を歩み、その統治地位を維持した等級制度と一連の礼儀形式も、次第に崩壊し、いわゆる「礼は庶人に下さず」の時代は次第に過去のものとなった。北京地区で発見された春秋、戦国時代の燕国の墓は、この歴史の趨勢をはっきり反映していた。一面で礼儀制度の上で絶えず僭越な現象が起こり、戦国時代になり、平民の中にも陶製の礼器を作って副葬品にする者も現れた。別の面では、奴隷主貴族が没落し、彼らは次第に往時の等級と地位を失い、依然として礼器を一式使ってはいたが、もはや青銅礼器を模した陶製の礼器であった。

 鉄器は燕地で社会生産力の大きな進歩を押し広め、燕国の階級闘争の発展をより一層推進し、燕国は社会革命の嵐に直面した。燕の昭王の時代に一連の政治改革措置を進めたのは、燕国の階級矛盾が発展した結果である。

 

燕都付近の経済と文化

 燕都の場所は華北大平原の北端に当たり、付近は一面の沃野で、何本もの北部山地を源に、またそれを貫く大河と細い流れがここを通り、良好な水利資源を提供し、農業の発展に適していた。西周の初期より、燕国の人々はここで大面積の土地を開墾し、キビ、アワ()、豆、麻などの作物を植えた。農業工具は依然多くが石器やドブガイ(カラスガイ)の貝殻で作られていたが、制作技術は明らかに進歩していた。当時人々が用いた石の鎌は、刃の部分が背部に向かって弧を描いていて、ドブガイ(カラスガイ)の鎌はのこぎり歯状の刃で、刈る力のたいへん強い収穫用工具であった。食糧の生産量は向上し、貴族たちは食糧を洞窟に貯蔵し、多くの食糧でまた酒を醸造した。貴族の墓地で出土する大量の酒器は、貴族たちの飲酒が風習となった腐敗現象を体現しているだけでなく、当時の農業生産の発展も反映している。

 戦国時代、鉄器の広まりと牛耕の出現により、農業生産の大幅な発展を推進した。

 西周時代から始まり、燕国の畜産業は既にたいへん盛んであった。当時の燕国の人々は、牛、羊を放牧し、犬、ブタ、馬の飼育は更に燕人の放牧の重要な家畜であった。当時は、これらの家畜は使役と食用以外に、主に祭祀と副葬に用いられた。中、小規模の奴隷主の墓にも、ややもすれば組になった車馬の陪葬があり、あるものは数匹、十数匹、墓によっては数十匹にもなった。犬を陪葬し、牛、羊、ブタ、犬、鶏などの家畜を墓前に捧げるのは、どの奴隷主の墓でも見られた。

 燕国の手工業生産は、青銅の鋳造、製鉄、陶器生産、製塩を主としていた。青銅の鋳造業は商代の北京地区の鋳造技術を継承発展したもので、銅器の数量と生産技術では迅速な向上が見られた。西周の初期、燕侯と燕国の貴族は労働者を駆使して、大量の青銅礼器、兵器、車馬器(馬車の青銅製部品)と、銅製の手工業工具を鋳造した。青銅礼器には、鼎、簋(き)、尊、爵、盉(か)、卣(ゆう) 、罍 (れい、らい)、瓿(ほう)、盂(う)、觶(し)、壺、甗(げん)、鬲(れき)等。兵器には、戈(か、ほこ)、矛、剣、戟(げき、ほこ)、斧、鉞(えつ、まさかり)、刀、盾牌、銅盔(かい、かぶと)、弓形器等。車馬器には、当鑪(とうろ)、鑣(ひょう、くつわ)、銜(がん、くつわ)、節約、銅軛(やく、くびき)、鑾鈴(らんれい、すず)、車輨(しゃかん)、軸飾、横木飾等。青銅工具には、斧、錛(ほん)、鑿、削、錐、針等があった。単に青銅礼器の項目だけでも、燕国の青銅器の冶金鋳造技術で輝かしい成果を挙げていたことを十分示していた。重さが75斤に達する体勢が勇壮な大銅鼎、造形が特異な虎足、象足簋(き)、全体に牛面の紋で装飾した銅鬲(れき)は、何れもずば抜けて優れた作品である。

堇鼎(M253、全高62cm、口径47cm)右は銘文の拓本

(瑠璃河商周遺跡出土)

復尊(M52、高さ24cm、口径20cm

(瑠璃河商周遺跡出土)

牛面紋の銅鬲(れき)は、貴族の「伯矩」(はくく)が燕侯の恩賞を記念して作ったものである。器の本体、足、蓋には、何れも牛面を用いて装飾し、彫刻は浮彫(レリーフ)で立体的に彫られている。(れき)の三本の袋足(足は中空)は、彫像の勢いに合わせて適切に処理され、三つの牛面がレリーフされ、牛の唇の部分は内側に隠され、額が前傾し、闘牛のような形状に作られている。牛面にはふくらんだ大きな鼻があり、鈴のような大きな目、二本の太く逞しい角が斜め上に跳ね上がり、隣り合った牛角が二本ずつ相対し、器物に厳めしい雰囲気を添えた。蓋、紐は各々二頭の牛の頭が背中合わせに組成されている。蓋の上の四本の牛の角が多少器の耳の上方に飛び出し、器の蓋の中央は自然と下に窪んでいる。立体彫刻の双牛の蓋紐は、窪んだ所から突然飛び出し、完璧に調和のとれた作品を作り出している。

伯矩鬲(M251、全高32.5cm、口径24cm

瑠璃河商周遺跡出土

 燕国の青銅礼器は、中原とほぼ一致した風格を備えていたが、虎、牛などの形象で器の足を作ったのが、周初の燕国青銅工芸の特徴である。また、武器の項目では、中原と同じ類型以外に、北方の草原遊牧部族の風格と一致する刀、剣、匕首、銅盔があった。これらの器物は、鷹の首、馬の頭を飾りにしていた。これは、北方の草原地区で発見された同類の器物で普遍的に採用されたものである。こうした現象は、南北文化が燕の地で合流し溶け合ったことを十分に体現している。

 戦国時代になると、燕の青銅器にもわずかに軽快な風格を持った鼎、豆、盒、壺、鈁(ほう)、鐓(たい)などの器物が出現し、多くは鋃 (ろう、鉄の鎖) 、象嵌、黄金や赤銅のメッキで器物の模様を作り、青銅器の様相は面目一新した。

 戦国時代、燕国の農具には、鋤、鎌、鍬などがあり、また斧、鑿など手仕事の工具もあった。北京の密雲に隣接する河北省興隆県出土の戦国時代の鉄の金型は、炭素含有量4.45%の標準白鋳鉄で鋳造されたものである。鉄の金型の外形の匜輪郭と鋳物の形状は類似し、壁厚は均等で、こうすれば各部の放熱と収縮を一致させ、金型の寿命を延ばすこよができる。このことから、当時の冶金技術が既に高いレベルであったことが分かる。

 燕国の陶器生産も発達した。西周時代、ここの陶器は主に縄紋を装飾とした灰陶、紅陶の鬲(れき)、簋(き) 、罐などであった。春秋戦国時代になると、ここで生産された陶器は、鬲、罐のような一般の生活用の器以外は、主に青銅礼器を真似た陶製の鼎、豆、壺、盤、匜(い)、盨(しゅ)、 簋(き)などであった。

 戦国時代、薊城は商業が発達した都市であった。城内では、定期的に市が立ち、当地や、中原から来た商人以外に、東北から来た、東胡、朝鮮などの商人がいた。市で販売される商品には、糧食、麻、棗、布帛(ふはく。綿織物と絹織物の総称)、鉄器、銅器、陶器、食塩、キツネの毛皮、フェルト、馬などがあった。貨幣は既に広範に使用され、主な貨幣は燕国が自ら鋳造した「明刀」で。三晋地区の各種の刀、布(貨幣の名称)もあった。薊城は既に北方各民族共同の経済の中心になっており、戦国時代の「天下の名都」の一つとなった。

 燕国の改革以降、経済は大いに発展し、同時に新たな社会の矛盾も拡大した。新たに出現した大量の小自作農は、生産の発展に一定の積極性をもたらした。しかし彼らは間もなく土地を細分化し、多くの人が次第に田地を失い、新興地主の小作人になったり作男になり、大量の田地は貴族や官僚、商人の手に集中した。官営の手工業工房の組織は膨大で、政府は「工尹」を設けて生産を管理し、 工尹以下、各級の管理職を置いた。職人の地位は奴隷とほぼ同じで、彼らは昼間、鞭打たれながら多くて重い労働に従事し、夜間は工房の中に閉じ込められた。

 燕国は中原から遠く離れているが、中原の経済文化と密接に連携し、燕国の人々は華夏人華夏は中国の古称)と見做された。商代後期からは、燕地の人々は中原地区と同じ宗教習俗と文化的素質を備えた。燕人も亀の甲羅や獣の骨を用いて占いを行った。甲骨には、錐で穴を開けたりほぞ穴を開け、併せて火で焼いて、時には兆しを占う部分の傍らに卜辞を刻んで記した。青銅器の鋳造技術も相当に発達し、器物の各部は多くは動物の形象で装飾を作り、これが燕国の銅器の際立った特徴であった。銅器の銘文の特徴は稚拙で素朴であった。燕人と「胡人」は多くの地域で雑居していたので、燕人の青銅器のデザインや技術にも、遊牧民族の芸術の特徴が浸透していた。武器の装飾は、大空を旋回するタカや、草原を疾走する駿馬に取材し、本当に遊牧民族の風がはせ稲妻が走るような馬術や弓術の雄姿を反映し、造形の美しい銅の兜も、遊牧騎士特有の装束であった。燕国の青銅器を模した陶器の礼器は、スタイルが美しく大らかであるだけでなく、模様も極めて精緻であった。陶器上の紋様の装飾には、彩色上絵、暗紋、付加紋が使われ、図案から言うと、流雲紋、蟠螭紋(ばんちもん、とぐろを巻いた角の無い龍の紋様)、水波紋、魚紋、獣紋などに分類される、多くの瓦当(がとう。軒瓦の先端の模様)は饕餮紋(とうてつもん)や樹葉紋で飾られていた。薊城一帯の人々が創造したこれらの作品は、当時の燕国の科学文化レベルを代表するだけでなく、具体的に当地の人々の芸術の素養や生活上の思想や感情を体現していた。

 薊城の人々は歌や踊りを好み、彼らの歌舞と生産、生活は密接に関係し、内容は豊かで多彩だった。民間の芸術はたいへん多く、彼らはしばしば市場や酒場に集まり、鼓や琴を打ち鳴らし、声を張り上げて歌った。彼らの歌声は人々の喜怒哀楽を反映しており、それゆえ一般の人々に愛された。「燕、趙は古来慷慨悲歌の士多し、」これもこの地域の人々のさっぱりした性格の特徴を反映している。

 燕国の役所には女伶官(女性の役者で官職に任命された者)が置かれ、歌や踊りを良くする役者や音楽家を管理し、専ら王侯貴族に娯楽や楽しみを提供していた。