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北京史(六) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(3)

2023年04月23日 | 中国史

魏の嘉平2年(250年)、薊城の西北で㶟河(るいが:今の永定河)の水を引き、戻陵堰を築いた

 

二節 魏晋十六国北朝時代の薊城

 

薊城の政治状況と薊城の住民

 黄巾蜂起軍の主力が鎮圧され、広陽の黄巾も薊城から退出させられた。地主階級が元々持っていた私的な武装軍は、黄巾鎮圧の過程で大きく増強された。州や郡の官吏も次々軍隊入隊者を募集し、勢力を拡充した。東漢以来封建経済の発展がもたらした社会の分裂は益々明確になった。農民軍の再蜂起を防止するため、州や郡をコントロールし、自らの存亡の危機から救うため、東漢王朝はいくつかの重要な地区の州刺史を州牧に改め、宗室や名望家出身の官吏を選んで任命し、彼らに一州の軍政大権を管掌させた。漢の宗室出身の劉虞(りゅうぐ)は幽州牧に任じられ、西暦189年(漢中平六年)薊城に着任した。一年後、董卓の乱により、薊城は有名無実となった東漢王朝とは連携を絶った。

 

 薊城は新たな発展段階に入った。そこは嘗ては秦漢帝国の辺境の都市で、東北と北方の各民族が国境を侵すのを防ぐ要衝であった。しかしこの時代には、北方の封建割拠勢力の中心都市のひとつとなった。ここに割拠した者が、塞外の各民族を使って、自ら中原に鹿を逐う際の助力とするため、また塞外の各民族が次々大量に内地に入って来るため、薊城はたいへん長い間、各民族の統治者が次々入れ替わって蹂躙(じゅうりん)する只中に入った。

 

 劉虞(りゅうぐ)は薊で、烏桓(うがん)と結託して幽冀(幽州と冀州の総称)を害する張純の反乱を取り除き、同時に上谷(懐来の東南)に元々あった塞外の各民族と交易する関所と市場を回復し、烏桓、鮮卑等の部族との平和な交流を発展させた。農業生産に注意し、漁陽(今の密雲の西南)の塩や鉄の利益を引き続き開発した。幽州は劉虞による統治の下、軍閥が覇を争う中原に比べ安定し富み栄えたので、中原の人々が大量に北に向け幽州に流入した。

 

 西暦193年(漢初平四年)、劉虞は部将の公孫瓚に殺され、公孫瓚と袁紹が相次いで幽州に割拠し、ぞのまま西暦204年(漢建安九年)曹操が幽冀を占領し、北方を統一するまで続いた。この期間、薊城に割拠した者は、烏桓、鮮卑の騎兵を自らの武装の重要部分とし、烏桓、鮮卑の人々が大量に幽州に入り、当地の漢族の人々と入り混じって生活し、互いに影響を与え、次第に民族間の融合の道を歩み始めた。

 

 しかし、 烏桓王蹋頓(とうとん)はしばしば軍を率いて薊城地区を乱し、人をさらい財産を掠奪し、生産を破壊した。西暦207年(漢建安十二年)曹操は大軍を率いて冀東から盧龍塞(今の喜峰口付近。河北省遷西県の西北50キロ)に出て、大いに蹋頓の軍を破り、烏桓の中の数万戸の漢族の人々を救助した。曹操は烏桓に対する戦争で北方の安全を確保し、幽冀の統治者が烏桓と結託して割拠する可能性を絶ち、北方の統一を助けた。

 

 この地の何人かの漢族の封建統治者は、塞外の各民族に対し、引き続き圧迫を行った。曹魏の幽州刺史、毋丘倹(かんきゅうけん)は遼東塞外の高句麗の人々を遠く河南省滎陽(けいよう)に移した。西晋の幽州刺史王浚(おうしゅん)は更に鮮卑の貴族、段務勿塵(だんむもちじん)と結託し、鮮卑、烏桓の軍隊を率いて八王の乱に参加し、鄴(ぎょう)城で軍隊が人をさらい金品を掠奪するのを容認し、また鮮卑兵に命じてさらってきた漢族の婦女八千人を易水に沈めて溺死させた。

五胡十六国時代の華北

 十六国の戦争による混乱が始まって以降、幽州地区はしばらくは戦乱が比較的少なく、北方の人々でここに逃げて来る者がたいへん多かった。しかし彼らは王浚の搾取と圧迫の下、生活の活路を見出すことができなかった。西暦314年(晋の建興二年)、王浚(けつ)(山西省にいた匈奴の一種で、東晋の時、黄河流域に後趙国を建てた)の石勒(せきろく)の軍隊に殺され、薊城は鮮卑段部の手中に落ちた。西暦319年(晋の大興二年)、石勒は薊城を奪い取った。遼西地区の鮮卑慕容(ぼよう)部の南下を防ぐため、石勒は彼の根拠地の襄国(今の河北省邢台)と薊城の間に楡の木を一列に植え、滹沱河(こだが。海河水系の西南の支流)に浮き橋を架け、襄国と薊城の連携を強化し、薊城を攻守の基地にした。

 

 西暦350年(晋の永和六年)、冉閔(ぜんびん)が後趙政権を奪い取って後、鮮卑慕容部の統治者慕容儁(ぼようしゅん)は遼西地区から南下し、兵を分け、今の冀東、喜峰口、居庸関の三路から薊城を攻略した。この時から始まり西暦357年(晋の升平元年)まで、薊城は前燕の都であった。以後半世紀の間、薊城は氐(てい)族(西北一帯に居住していた部族で、五胡の一つ)の前秦が統治した十数年を除き、ずっと慕容部の故都龍城(今の遼寧省朝陽)と新都鄴(ぎょう)城(今の河北省臨漳:りんしょう)の間の枢軸で、鮮卑部落がいつも出入りする場所だった。4世紀末、薊城は鮮卑拓跋部北魏政権に取得された。北魏が分裂すると、薊城は前後して北斉と北周に属した。

 

 薊城地区の政治形勢の変化は定まることがなく、薊城住民の民族構成も部分的に変化した。魏晋十六国北朝の時代、ここの住民の主体は依然漢族だったが、移り住んできた烏桓、鮮卑の人々も多かった。慕容儁が薊城を都とした時、前燕の文武の役人、兵士、鮮卑族の人々が薊城に移り住んだ。丁零族の一部が密雲などの地に集まって住み、薊城付近の一本の川は丁零川を名とした。西暦429年(魏の神䴥二年)、北魏は塞外の高車族数十万人を強制的に陰山から滦河(らんが)上流の一帯に置いて農業や牧畜をさせた。幽州北部はこの一帯に近く、高車族の集落もある可能性があった。西暦432年(魏の延和元年)、北魏はまた東北諸郡の移民三万を幽州に住まわせた。この他、中原が戦乱の中、流民もしばしば自ら進んで幽州に移り住んだ。劉虞の時、中原流民の幽州流入は百万人余りに達した。後燕の慕容農が幽州牧の時、四方からの流民数万人が集まりここに住んだ。北魏の尉諾が幽州刺史の時、外に逃亡した幽州の人々で、故郷に戻る者が一万戸余りあった。これらの流民は漢族が主で、長く塞内で暮らすその他の各民族の人々もいた。西暦523年(魏の正光四年)、六鎮蜂起の時、辺境地帯の町の各民族の兵士や民衆で薊城に流入する者がたいへん多く、流民と薊城の人々の蜂起を指導した杜洛周は、柔玄鎮(今の内蒙古興和県西北)の流民であった。

 

 薊城地区の人々が外へ流動する現象もしばしば発生した。これは薊城地区の統治者の圧迫、搾取の他、各民族征服者による住民掠奪によるものだった。西暦338年(晋の咸康四年)後趙の石虎が薊城の住民一万戸余りを強制的に中原に移した。西暦340年(晋の咸康六年)また漁陽から人戸を掠奪した。同年、鮮卑慕容皝(ぼようこう)は薊城と付近の住民三万戸余りを掠奪し、北に移した。西暦385年(晋の太元十年)後燕の反逆将軍徐岩が薊に入り、千戸余りの住民を掠奪した。次々と薊城地区に入り居住してきた鮮卑慕容部の人々は、当地に元々住んでいた人々と完全に融合した以外に、大多数が北魏の征服者により強制的に平城(今の山西省大同)に移住させられた。

 

 人口の流動、統治者による強制的な移住は、薊城地区の住民の民族構成を絶えず変化させた。魏晋十六国北朝による400年近くの長期間、薊城は民族融合の巨大な溶鉱炉であった。薊城周辺の広大な原野は、塞外から入ってきた各民族の人々が、遊牧生活から定住し農耕生活に移り変わるのに都合の良い場所であった。薊城付近で発達した封建制度は、塞外から入って来た各民族が融合する共同の基礎であった。薊城に定住した各民族の人々は皆薊城の主人で、彼らは漢族を主とする元々住んでいた住民と一緒に、薊城の物質的な財産や富、精神的な財産や富を創造し、薊城の歴史を発展させた。

 

 薊城地区の各民族の人々の融合は、民族の圧迫に反対する闘争の中で進められた。例えば、北魏軍が薊城を占領後、漁陽の烏桓人庫傉官韜(こじょくかんとう)は人々を集めて挙兵し、北魏統治者の残酷な他民族圧迫に反抗した。彼らは頑強に戦い、失敗しても再度挙兵し、そのまま西暦416年(魏の泰常元年)に至って、北魏王朝の統治者は、烏桓貴族幽州刺史庫傉官昌、征北将軍庫傉官提らの助力を得て、ようやく蜂起軍領袖の庫傉官女を生け捕りして平城に送り、十八年間続いた烏桓人の反抗を鎮圧した。薊城地区の人々の闘争は北方の各地の各民族の人々の闘争と互いに呼応し、北魏王朝の統治者が都を河北、河南地区に移す勇気を奪い、彼らに迫って他民族への圧迫を緩和させた。

薊城及びその周囲の建設

 

 薊城は、長い歴史があり、政治的に複雑な変化はあったけれども、都市の基盤は、戦国から遼代に到る千年余り変動が無かった。

 

 北魏の地理学者酈道元(れき どうげん:薊城付近の涿県の人)の『水経注』及びその他の文献によれば、また解放後北京で出土した器物、西晋幽州刺史王浚の妻芳華の墓誌(芳華の墓は1965年今の八宝山西側0.5キロのところで出土し、墓誌に「仮に燕国薊城西二十里に葬る」の文があった)によれば、私たちは薊城城址は現在の北京城の西南部であり、薊城の大部分は現在の北京外城の西北部分と重なると推断できる。

 

 薊城は多くの水道がぐるりと取り囲む中に位置している。薊城城南七里は、今日の永定河の北で、当時の㶟水(るいすい:今の永定河)の河道であった。今の西直門外紫竹院公園の湖は、当時の高梁河の水源であった。高梁河は薊城の北面と東面を巡り、東南に向け、薊城の南面に沿って流れる㶟水に繋がっていた。薊城南面の清泉水は、遊覧客が賞玩(鑑賞し、遊覧する)する場所であった。

 

 西暦206年(漢の建安十一年)、曹操は薊城付近の地域の海運を通じさせ、烏桓に侵攻する準備を行い、洵河(じゅんが)口に水路を穿ち潞水に導き、泉州渠と名付けた。泉州渠は海に通じる平虜渠(へいりょきょ。呼沱河(こだが)と泒水(こすい)の間にある)と繋がっていた。このように、薊城地区は潞水から海に通じる水道を持ち始めた。しかし各民族の統治者が戦い混乱した時代は、この海に通じる水道は維持、修理をすることができず、これが本来果たすべき機能を果たすことができなかった。

 

 薊城の西北は、居庸関から山西の大同に到る、薊城を屏風のように遮る長城を建設した。薊城は戦国以来都や封国の所在地で、城内には次々大きな建築物が建てられた。前燕の慕容儁(ぼようしゅん)がここに太廟と宮殿を建て、宮殿にはまだ燕昭王の時の碣石宮(けっせききゅう)の旧名をそのまま用いた。また東掖門(えきもん)の下には銅馬像を建て、塞外の駿馬の雄姿を表した。残念ながら、これらの建物は、皆後秦の幽州刺史により焼き払われた。後に北魏軍が後燕に侵攻した時、後燕太子慕容宝がまた薊城の府庫の一切合切を北の龍城に持ち去ってしまった。

 

 

薊城の人々の経済生活

 

 薊城地区は、農作物は粟類を主としたが、水稲栽培の伝統もあった。戦国時代以来、三国、北朝を経て隋唐に至るまで、薊城の人々が水稲を栽培したという記録がある。

象牙尺(長さ24.2センチ)

北京八宝山晋芳華墓出土

 薊城防衛(戍守:じゅしゅ。辺境防衛)の兵士は、しばしばここでは重要な労働力であった。彼らは屯田兵として組織され、当地の人々と一緒に畑を耕し、荒地を開墾した。東漢末、公孫瓚(こうそんさん)がここに屯田を設置した。魏国の劉靖(りゅうせい)の軍隊が薊城で屯田し、稲を植えた。後趙の石虎は幽州以東で屯田を始めた。北斉は薊城に隣接した範陽督亢陂(はんようとくこうひ:今の涿県以東)で屯田を始め、毎年の米の収穫高は数十石だった。

 

 水利灌漑は薊城地区で農業生産が発展する重要な条件だった。西暦250年(魏の嘉平二年)、劉靖が屯田を始めた時、梁山(今の石景山)の㶟河(るいが。今の永定河)に川を遮るダムを築き、戻陵堰(れいりょうえん)と呼んだ。ダムの東端を穿って水路を引き、車箱渠(しゃしょうきょ)と呼んだ。

㶟河、戻陵堰、車箱渠の位置関係略図

車箱渠は永定河の水流の一部分を遮って薊城東側の高梁河(こうりょうが)に向かわせ、高梁河の水をより満ち溢れさせた。高梁河の両岸には多くの用水路を開鑿し、田地2千ヘクタールを灌漑した。

高梁河上流略図

山津波で水位が急に高くなる季節は、㶟河の水は一部を車箱渠から流し出してしまい、それによって薊城南側の氾濫の災害を軽減した。西暦262年(魏の景元三年)、樊晨(はんしん)が中心となって戻陵堰を修築し、また高梁河の上流から水路を引いて温楡河に直接つなげ、灌漑面積を拡大した。西295年(晋の元康五年)、戻陵堰が山津波により四分の三が押し流されて破壊され、一度大修理が行われた。200年余り後、北魏の裴延儁(はい えんしゅん)が幽州刺史になった時、また戻陵堰を修復した記録がある。西暦565年(斉の河清四年)、北斉の幽州刺史斛律羨(こくりつ せん)が薊城地区の人々を組織し、再度高梁河の水を温楡河(おんゆが)に向けて引き、その後東で潞水(ろすい)に注いだ。岸に沿って灌漑された田がたいへん多く、北斉が辺境の食糧を輸送する労を省くことができた。

 

 戻陵堰、車箱渠などの水利工事は、最初は兵士千人で作られた。西暦295年( 晋の元康五年 )、修復時には兵士二千人が出動し、四万人余りの作業者を用い、薊城付近の人々も何千人もが労役に参加した。しかし多くの封建統治者は個人の私的な利益のため、水利を独占したり、任意に破壊したりした。例えば西晋の終わりに薊城の統治者王浚と彼の部将は、自分の田畑に水を引き灌漑するため、付近の住民の広い土地や墳墓が水浸しになるのをいとわなかった。このため、魏晋十六国北朝の時代、水利工事は長く維持することが困難で、人々が一回、また一回と作り出した水路や堰は皆、使用を開始してしばらくすると、次第にふさがって廃棄されてしまった。

 

 薊城地区の人々は牧畜業を営む伝統があった。幽州の馬は古来名を馳せていた。幽州産の家畜の靭帯や角は、弓や弩(ど)を作る時の貴重な材料で、魏の陳琳は『武庫賦』、晋の江統は『弧矢銘』の中で、幽都の家畜の靭帯、角を用いて作った弓や弩を、たいへん褒め称えた。薊城地区の畜産品は有名で、塞外の遊牧民の部落とこの地は絶えず密接に連携していた。

 

 薊城地区の手工業生産は、戦乱の中で大きく破壊された。北魏の統治者は北方各地の手工業者を強制的に平城に移住させたのも、薊城の手工業生産が衰退した大きな原因であった。しかし薊城の民間の麻、布生産は依然として相当大きな生産量があり、人々が負担する戸毎の徴税は、麻、布で納められた。今の密雲県は鉄を産出する場所であったので、劉虞の時代には引き続き採掘をした記録がある。今の平谷県西北には塩池があり、食塩を生産した。北魏はここに塩田の守備隊を設け、兵士が駐在し守った。薊城付近には「胡市」があり、塞外の各遊牧民族が交易する場所で、ここは各民族の経済交流を促す効果があった。歴代の「胡市」の伝統から推測して、ここで交易される主な商品は、食糧、鉄器、その他の手工業品であったに違いない。

 

 薊城地区では、北方の他の地方と同様、大地主の多くは権勢のある家柄の豪族であった。彼らは多くの土地を所有し、宗族(そうぞく)、親戚、隣近所を主とする百人或いは千人単位の従属する農民、や小作農、及びかなり多くの畑仕事、機織りをする奴婢であった。彼らはまた「苞蔭戸」を武装させ、部曲(個人の私兵)の家兵を組織した。北魏前期に、これらの人々は宗主と呼ばれ、彼らは一方を「督護」し、北魏政権に代わって地方を統治する権力を握った。

 

 封建搾取の下の薊城の農民は、生活が塗炭の苦しみの中にあった。東漢時代、幽州地区の政権機構の費用は、当地で搾取し得られたものの他は、しばしば人煙の稠密な青州(山東省)、冀州(河北省)からの租税での補充に頼った。東漢以後、ここでの戦いは益々多くなり、それにつれ増加した軍政費用は当地の人々から取るしかなく、外地からの調達、補充が得られなくなった。租税を負担する自作農は、益々多くが王朝の管理から離脱し、横暴な地主の小作農になり果ててしまった。自作農の数は日増しに少なくなり、彼らの租税や兵役、徭役の負担は日増しに重くなった。西暦555年(斉の天保六年)、北斉の統治者は居庸関から平城(今の山西省大同)の至る長城を修築するため、民丁(壮丁、そうてい。賦役にあたる壮年男子)の徴発が180万人にも達し、長城の起点に当る薊城の各民族の人々は、自然と大量に徴発され、苦役に従事した。長城の工事が完成して後、北斉の統治者はやせこけて弱弱しい服役者を打ち捨てた。その中の多くが、彼らが自ら築いた長城の下で餓死、凍死、病死した。

 

 自作農であれ小作農であれ、彼らは飢餓ぎりぎりの線上でもがいていた。封建地主は高々と穀倉を築き、食糧を貯蔵し、それが市場に出るのを拒んだ。地方の官吏も食糧を収奪し、一般の人々の生死など顧みなかった。例えば王浚は食糧の備蓄が50万斛(升。十斗)に達したが、幽州の人々は食を求めて行き場を失い、各地に四散せざるを得なかった。戦乱とともに発生した各種の天災が、しばしば薊城の人々を襲撃した。千里の彼方から飛来するイナゴの大軍や、山津波の襲来といった災害により、薊城地区では幾千幾万の人々が命を失った。封建時代において、天災は時には残酷な統治の直接の結果であった。

 

杜洛周が指導する反魏闘争

 

 十六国時代以来、薊城地区の階級矛盾は先鋭的に存在していたが、各民族の人々がしばらくの間は民族の境界で分断しており、階級矛盾はまだ大規模な農民戦争へとは発展し難い状況にあった。北魏中期以後、民族融合の進展が加速し、民族間の差異が次第に減少していった。北魏の統治力が強まるにつれ、また社会経済の発展に伴い、統治者の貪欲な搾取、堕落が益々ひどくなり、それが都を洛陽に遷都して以降更に明確になった。こうして、北方社会の大規模な階級闘争の爆発時期が日増しに成熟していった。西暦499年(魏の太和二十三年)、幽州人の王恵定が大勢の人々を集めて挙兵し、自ら明法皇帝と称した。西暦514年(魏の延昌三年)、幽州の僧侶、劉僧紹が反魏の兵を起こし、自ら浄居国明法王と称した。幽州地区のこれらの闘争は、北方人民の北魏の封建統治に反対する大規模な階級闘争の予兆であった。

 

 西暦523年(魏の正光四年)、北方の辺境地区の各民族の人々が、北魏の統治者を震撼させる大蜂起を巻き起こし、間もなくその波は薊城地区に及んだ。西暦525年(魏の正光六年)、柔玄鎮の兵、杜洛周が上谷(今の延慶の境界を治めた)で兵を挙げ魏に抗戦し、軍を薊城に進めた。薊城の各民族の人々は次々にむしろ旗を掲げて立ち上がり、曾て蜂起の際に用いた宗教の上着を投げ捨て、杜洛周の旗下に集まった。西暦526年(魏の孝昌二年)、北魏の安州(今の河北省隆化を治めた)の三戍兵(辺境を防衛(戍守)する兵士)二万余りが寝返って連携し、蜂起軍の勢いは益々盛んになった。彼らは続けて軍都関(今の居庸関)と薊城北側で北魏軍を大いに破り、北魏燕州刺史(今の河北省涿鹿を治めた)に迫って都を捨て南に走らせた。11月、蜂起軍は範陽(今の河北省涿県)に侵攻し、範陽の人々は魏軍の統帥常景と刺史王延年を生け捕りし、城門を開けて蜂起軍を出迎えた。こうして、薊城地区は完全に蜂起した人々の手中に掌握あれた。西暦528年(魏の武泰元年)、杜洛周が殺され、彼の蜂起軍は葛栄軍に併呑された。強大な葛栄蜂起軍の先鋒は何度か北魏の心臓である洛陽からあまり離れていない沁水(しんすい)、滑城などの地に進入した。しかし、鄴ぎょう城以北の一戦で、葛栄の主力が不幸にも敵に攻撃され潰走し、彼自身も囚われて犠牲となった。

 

 葛栄蜂起軍の失敗の後、軍中の薊城地区の人々は、一部が青州に向かい、邢杲(けいこう)の反魏軍と肩を並べて戦い、別の一部分は韓婁(かんろう)、郝長(かくちょう)が率いて、薊城に戻り引き続き一年間闘争を続けた。

 

薊城の経学

 

 民族間の融合が進むにつれ、各民族の統治階層も、漢族の地主と次第に連携するようになった。彼らは経学(けいしょ。四書五経などの経書を研究する学問)を提唱した。当時、薊城には経学を研究する士大夫が集まっていた。薊城に長く住む梁祚(りょうそ)は公羊『春秋』と鄭氏『易』に精通していた。薊の人平恒は経籍を総合的に研究した他、『略注』を著し、歴代の統治者の興隆、衰退の過程を記述した。漁陽の人高閭 (こう りょ)は経史に広く通じていて、北魏の多くの詔令は、彼の手で書かれたものであった。

 

 当時、燕斉趙魏一帯は個人が学問の講義をする気風がたいへん流行っていた。梁祚は薊で、学校を設けて弟子に指導していた。北方の著名な経学家徐遵明は範陽で経学を研究し、多くの薊城の人々が彼について勉強した。個人で講義して経を伝えるのが、当時の地主階層の教育の主な方法で、漢族の文化学術の継承に、大きな役割を果たした。北斉になると、薊城の学校も復興し始めた。

 

 少数民族の中の一部の人も、経学の学習と研究に力を入れた。弟子を集めて講義した密雲の丁零(ていれい)人(紀元前3世紀~後5世紀にモンゴル高原に遊牧していたトルコ(チュルク)系民族)、鮮于霊馥(せんうれいふく)は、その中のひとりであった。各民族は定住に至る過渡期の農耕生活を送っていて、封建制に進む過程で、漢族の文化を吸収することが、彼らのたいへん自然な要求であった。鮮于霊馥が経学を教授したことは、漢族の文化が民族の融合の上で一定の効果を果たしたことを説明している。