中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(七) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(4)

2023年04月26日 | 中国史

隋大運河永済渠

第三節 隋唐五代期の幽州地区の都市と住民

 

 今の北京地区は、隋代には当時の幽州の大部分の地域を含んでいた。唐代には当時の幽州の大部分、檀州(だんしゅう)の全て(今の密雲、懐柔、平谷県境)と 嬀州(きしゅう)東部(今の延慶県境)地区であった。隋の煬帝の大業三年(西暦607年)、幽州は涿郡に改称され、唐初に郡が州に改められ、再び幽州と称した。唐の玄宗の天宝の時、一度範陽郡に改称されたが、以後また幽州に改められた。幽州の治所は薊城に設けられ、城址は北魏と同じで、ずっと五代まで変わらなかった。

 

 隋代の涿郡の戸数は84千戸余りに達した。隋末の動乱を経て、唐初の幽州には2万戸余りが残り、檀州には1700戸しかなかった。玄宗の天宝年間(西暦742‐755年)には幽州の人口は6万7千戸、37万人にまで増加した。檀州は6千戸、3万人に増加した。北京全体、及びその付近の地域(以上の唐代の幽州の戸数の数字は、今の武清、永清、安次、涿県、固安、新城等の戸数を含んだ数字である。『旧唐書』巻39『地理志』、『新唐書』巻39、巻43下『 地理志 』参照)は、8世紀中葉には人口が40万人くらいに達した。

 

 幽州の住民は主に漢族で、同時に相当の人数の少数民族の人口を含んでいた。幽州は華北から東北に通じる要衝に位置しているため、ずっと北方と東北の少数民族地区と密接な連携を保持してきた。漢族の労働者はいつも少数民族地区に入って生計を立てようとし、少数民族の人々もいつもここへ来て商売をするか、定住した。隋唐の統一多民族国家の再建は、民族間の往来により多くの、都合の良い条件を提供した。隋代に遼西にいた一部の粟末韃靼人は、西暦623年(唐の武徳六年)幽州城に移り、その首領を世襲の刺史とし、薊県羅城内に役所(衙署)を置いた。西暦737年(開元25年)、また今の懐柔県西南の桃谷山に移った。西暦630年(貞観4年)、唐の太宗は突厥を破り、一部の突厥人は幽州地区に移住してきた。唐の太宗の時、14千人の高麗人が幽州に移住し、以後幽州各地に分散して居住した。唐の高宗の時、一部の新羅人が良郷の広陽城に移住した。7世紀末、契丹人は地方官府の圧迫に反抗し、一度は営州(今の遼寧省朝陽の治所)を攻撃して占領し、長期に営州地区に居住していた突厥、韃靼、奚(けい、契丹、室韋(しつい)人が内地に移住し、その中の一部は前後して幽州の良郷、昌平、潞(ろ。今の通県)と幽州城内外などの地に定住した。西暦732年(玄宗の開元20年)また奚の李詩部落5千帳(古代の遊牧民族の人戸の単位)が良郷の広陽城に移住した。これら幽州に移り住んだ少数民族は、一部が営州に戻り、一部がここを離れた他は、玄宗の天宝年間まで現在の北京市内に居住し続けた者が7138戸、34,293人いた。(以上の民族移住の資料は『旧唐書』巻39『地理志』、『新唐書』巻39、巻43下『地理志』、『旧唐書』巻185下『宋慶礼伝』参照)

 

 幽州城は隋唐五代時代にずっと多くの少数民族がここに定住し、北方の農業従事者と牧畜業従事者の物資の交易の中心であり、異なる民族の文化もここで交流また伝播した。

 

 

幽州地区の政治情況

 

 幽州地区の権勢を持った有力な地主一族は、北魏末の杜洛周蜂起軍の衝撃を経て、隋になると既に衰退していた。元々彼らが代々直接当地の政権を制御したが、隋の文帝の時、燕栄が幽州総管となり、わざと著名な姓(一族)の範陽盧氏に代わって「皆代わって吏卒と為り、以て之に屈辱す。」(『隋書』巻74『燕栄伝』)地方の行政は完全に隋王朝が任命した地方官吏の手に掌握されていた。

 

 隋の煬帝の時、幽州地区の人々は大量に各種の重い労役に徴発され、南北を疎通させる大運河、永済渠を開鑿し、幽州城内に臨朔宮を建設した。

隋大運河永済渠

男子が足りず、婦女も徴発された。隋の煬帝は三度高麗を攻略したが、毎回涿郡を兵馬糧餉(りょうしょう。軍人に給与として支給する食糧と銭)の集結場所とした。西暦611年(大業7年)2月隋の煬帝は高麗攻略の命令を下し、4月から翌年正月(1月)まで、彼自ら涿郡に駐留し、各項目の準備作業の推進を監督した。612年(大業8年)初頭に涿郡に軍隊1133800人が集結し、出兵の際は40日を要して派遣を完了した。毎回兵を退く時も涿郡で休息、軍備を整備した。これらは幽州の人々に甚大な災難をもたらした。

 

 隋末の農民戦争が初めて起こった年代に、涿郡に駐留していたのは遼東の退去兵で、農民の闘争は大きな影響を受けた。西暦617年(大業13年)、竇建徳(とうけんとく)は河間(瀛州(えいしゅう)。滄州市の管轄)で薛世雄が率いる幽薊の精鋭兵を大いに破って後、農民蜂起軍は幽州地区で急速に発展した。易州蜂起軍数万人が幽州に侵攻し、その他の蜂起軍もやって来て侵攻し、隋の涿郡の留守官の多くは拒むことができなかった。西暦620年(唐の武徳3年)竇建徳は派兵し幽州を包囲し、兵を留めて火城(今の北京城と大興の間)に籠城した。9月、竇建徳は自ら兵20万を率いて幽州を包囲し、何度か幽州城下まで攻撃し、一度は城壁をよじ登った。

 

 隋唐時期の幽州城はずっと朝廷が華北の人々の反抗を鎮圧し、東北の各少数民族を制御する軍事拠点であった。7世紀末、契丹と 奚(けい。モンゴル高原東部から中国東北部の遼河上流に存在した遊牧民族)が強大になった。契丹と 奚を制御し防御するため、唐の玄宗は714年(開元2年)幽州節度使を設け、兵91千人、馬65百匹を統率させた。そのうち今の北京市境界内に駐屯するのが、幽州城内の経略軍(兵3万人、馬54百匹を統率)、密雲城内の威武軍(兵万人を統率)であった。それ以外は今の北京市付近の各地に分散していた。これらの軍隊には毎年衣料品の下賜80万匹段、軍糧50万石あった。

 

 西暦744年(玄宗の天宝三載)、平廬節度使(治所は今の遼寧省朝暘)の胡人安禄山は東北の少数民族鎮圧に功があったので、範陽節度使を兼任した。安禄山は中央政権の簒奪をたくらみ、敵の侵略を防ぐ名目で、雄武城(黄崖関のこと)を築き、その内部に糧食、兵器と15千匹の戦馬を蓄えた。彼はまた上奏して上谷(今の易県)に銭鋳造の炉を五基作るよう乞い、胡人の商人を方々に派遣して交易を行い、財力を蓄積した。また漢族の失意文士、高尚、厳庄らを自分の策士にした。西暦751年(天宝十載)安禄山は河東節度使を再び兼務してから、更に急いで準備をした。彼は同羅(トングラ。鉄勒の一部族。モンゴルの北部,トラ川沿岸で遊牧生活をし,突厥に所属)、 奚、契丹等の少数民族8千人を自分の親兵とし、また上奏して、漢将に代え「藩将」32人を用いた。西暦755年(天宝14年)11月、安禄山は楊国忠を討つ名目で、統轄している部隊の兵、及び同羅、奚、契丹、室韋凡の15万人と合わせ、20万人と号し、幽州から挙兵し、まっすぐ洛陽と長安を攻撃した。安禄山が両京(洛陽と長安)を陥落させてから、しばしば駱駝で両京の御府の珍宝を幽州に持ち帰った。後に安禄山のグループ内で内訌 (内輪もめ)が起こり、安禄山は子の安慶緒に殺され、安慶緒もまた部将の史思明に殺され、最後に史思明も子の史朝義に殺された。安史父子の統率下、反乱は前後八年続き、歴史上安史の乱と呼ばれる。安史の乱は統治階層内部の利権争奪の戦争であった。安史等の人物は部下が家を焼き払い、人を殺し、金品を掠奪するのを容認するやり方で士気を鼓舞し、「人や家を焚し、玉帠を掠奪し、壮者は鋒刃に死に、弱者は溝壑(穴やくぼみ)に埋められ」、社会経済は甚大な損害を受けた。

 

 安史の乱が平定されてから、唐朝に投降した安史の残党は依然河北地区に盤踞し、実力はまだたいへん強大であった。唐王朝が代わって彼らを見かけ上推戴するため、節度使の名称を与え、彼らの割拠を認めた。河北地区はこれより幽州盧龍(今の北京市を統治する)、魏博(今の河北省大名を統治する)、成徳(今の河北省正定を統治する)の三鎮に分けられた。幽州地区は西暦763年(代宗の広徳元年)から、李懐仙が幽州盧龍軍節度使になって以来、西暦913年(後梁の乾化三年)、李存勗(り そんきょく)が山西から幽州を攻撃し占領するまで、150年間に前後28人の統治者が交換した。

 

 藩鎮の統治はたいへん貪欲で暴虐を極めた。唐末から五代の初め、劉仁恭は幽州に割拠し、統治はとりわけ暗黒であった。彼の領内では鉄銭を使用し、また泥粘土で貨幣を作り、人々に使用を強制した。そして民間の銅銭を収奪し、自分の懐に入れてしまった。「大安山の頂に穴を穿って之を隠し、隠し終えると匠を殺し、石でその入口を隠した」。彼はまた茶商が領内に入るのを禁じ、山に生えた草の葉を採って来て茶葉として販売した。後に彼は開封の朱梁政権と河北を争奪し、続けて失敗し、なんと領内の15歳以上70歳以下の男子全てを徴発して兵隊にし、自分で兵糧を持って来させ、「町中このため空っぽ」になった。兵隊に取られた男子は「貴賤の別無くその顔に「定覇都」と入れ墨を入れ、下士官はその腕に「一心に主人に仕える」と入れ墨を入れた」。(以上の劉仁恭に関する引用文は、『旧五代史』巻135『劉守光伝』参照)

 

 10世紀初め、耶律阿保机は契丹の各部を統一し、西暦916年契丹国を建国した。幽州地区の統治者劉守光や太原の李存勗は、皆契丹の統治者と結託して自分の敵対勢力を消滅させようと企んだ、契丹の統治者は彼らの間の矛盾を利用し、この機に乗じて自分の勢力を拡大させた。913年晋王李存勗(りそんきょく)は幽州を攻略し、更に南の朱梁を攻め、北方の統一を図った。917年耶律阿保机は自ら30万の軍隊を率いて幽州城を包囲した。契丹兵は四方から地下道を掘って城を攻めたが、城側は地下道を掘り起こし、油を注いで燃やして敵兵の攻撃を阻んだ。また土で山を築いて城を攻めたが、城側は銅を溶かした液体を撒いて敵兵を焼き殺した。幽州の兵士と民衆は奮戦し、後晋の軍隊は孤立した幽州城を200日近く固守し、契丹の南侵の企みを挫折させた。後唐の北方統一後、契丹は絶えず幽州に侵攻し攪乱した。西暦928年、即位間もない耶律徳光が出兵し、河北定州の割拠勢力を支援し、北方の統一を破壊した。契丹兵は危険を冒して南に深く侵入し、曲陽の一戦で、大敗して逃げた。契丹はまた7千の騎兵を派遣して定州を救援しようとしたが、唐河で破れて北へ敗走したが、途中で人々の襲撃を受け、総崩れになって軍を為さなくなった。敗走途中、幽州を通ると、後唐軍に迎撃され、「残った兵隊は散り散りに村落に落ちのびたが、村民が白いこん棒でこれを攻撃し、それを避けて国に帰った者は数十人に過ぎなかった。これより契丹は勢いを失い、軽々しく国境を侵すことがなくなった。」(『資治通鑑』巻276後唐明宗天成三年)

 

 契丹から防御するため、後唐は山西、河北地区に大量の軍隊を駐屯させ、大量の軍事物資を貯蔵した。河北節度使石敬瑭は中央政権を奪い取るため、人々の利益を売り払うことを惜しまず、恥知らずにも契丹皇帝に息子、臣と称し、事が成就すれば、雁門(がんもん)以北幽州節度管内の十六州を契丹に割譲すると答え、それにより契丹の軍事支援を獲得した。936年、石敬瑭は契丹の騎兵5万の支援の下、後唐を打ち倒した。耶律徳光は石敬瑭を大晋皇帝に封じ、幽雲十六州は契丹に割譲された。幽雲十六州中の幽(今の北京)、檀(今の密雲)、順(今の順義)、儒(今の延慶)四州及び嬀 州(きしゅう。今の懐来)の一部分は皆、今の北京市の域内である。長期に亘り人々の鮮血により保ち守られてきた幽州城及びその付近の広大な地域が、統治者により軽々しく売り渡されてしまった。

幽雲十六州(燕雲十六州)