見出し:三羊銅 罍(らい)、平谷県劉家河出土
第一節 夏商時代の北京地区の青銅器文明
原始社会から奴隷社会までの間には、相当長い過渡期の時代がある。原始氏族社会制の晩期、私有制、階級は既に萌芽し、奴隷制確立後も長い間、原始氏族社会の名残は様々な形で残された。およそ紀元前2千年代の初期、北京地区は既に歴史に沿って進化し、原始社会は次第に奴隷制社会に移り変わりつつあった。
伝説中の夏の時代、商族の祖先、亥は曾て牛車に乗り、北京以南の易水近傍で牛や羊を放牧し、各部落の間で売買を行った。有易部落は亥を殺し、亥の牛車と牛、羊を奪った。後に亥の兄弟の恒の子供の上甲微が亥の敵を打ち、有易部落を打ち負かした。この話は多くの古書の中に記載がある。これらの商族の祖先の名前も、商代の甲骨卜辞の中に見られる。
龍山文化(山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖で1928年に城子崖遺跡が出土し、1930年以降本格的に発掘されたことから来ている。龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることからろくろが使われていたと見られる)の時代の後、北京地区は青銅器文化の時代に入った。およそ紀元前2千年代、すなわちおよそ中国の歴史で夏商の二つの時代、北京地区で活発であったのが、一種の顕著な特色を備えた青銅器文化であり、考古学ではこれを「夏家店下層文化」(最初の発掘が内蒙古自治区赤峰市夏家店遺跡の下層であったことからこう名付けられた)と称する。こうした青銅器文化を創造した先住民たちは、今日の河北省北部、遼寧省西部、及び京津地区に相当する幅広い範囲内で生活した。北京昌平県雪山村、密雲県燕落寨、平谷県劉家河、豊台区新楡樹庄、房山県瑠璃河では当時の人々の文化遺跡や墓が発見されている。
当時、北京地区の手工業生産はめざましく発展し、陶器生産と青銅器の鋳造は既に独立した手工業部門となり、大量の精巧な陶器や、形も飾りも美しい青銅器を生産した。
彼らの陶器は明らかに地方の特徴に富んでおり、炊事道具に用いる陶器の鬲(れき)のように、形を典雅な筒状にしたものや、肩の部分を特にふちを曲げたものがあった。陶器の表面には、赤と白で交互に巻雲紋の図案を描き加えたものもあり、器物の芸術性がより増すことになった。
青銅器の冶金鋳造産業は、相当高度な成果を上げた。早期の段階の青銅器は、形が小さいだけでなく、造形が単純で、例えばイヤリング、矢じり。小刀などのようなものだった。商代中期になって、北京地区では紋飾りがこまごまとしていて、形が雄壮な大型礼器、例えば鼎、罍(らい。酒器)、盤、盉(か。酒を温める3本足の器)、卣(ゆう。酒を入れるつぼ)、斝(か。3本足の酒器)などが出現した。平谷県劉家河(北京市平谷区南独楽河鎮の管轄の村)で出土した三羊銅罍、鳥柱亀魚紋銅盤は、何れも当時の青銅器の芸術の傑作である。銅盤は外側に湾曲した幅広の縁(へり)が付いていて、縁の両側は対称に鳥形の柱が付いていて、内側の底の中心線には亀魚紋の図案が刻まれていた。盤で水を受けると、内に亀が潜り魚が跳ね、その横で水鳥がたたずみ、芸術品と言うに恥じないものとなっていて、これを作った人の知性と才知が現れていた。
北京市平谷区南独楽河鎮(劉家河村は南独楽河鎮西北5Km)
三羊銅 罍(らい。酒器)
高さ28.8cm、口径19.9cm
平谷県劉家河出土
鳥柱亀魚紋銅盤
当時、人々は鉄に対し、一定の認識を持っていた。平谷県劉家河出土の鉄刃銅戉(えつ。まさかり)は、天然の隕鉄を鍛錬して薄刃にし、その後、青銅を流した鋳物をつなぎ合わせて作られていた。これは我が国の人々が最も早期に鉄を使い始めた試みであり、このことは北京の人々が三千年あまりの鉄の使用の歴史があることを示している。
鉄刃銅戉(えつ。まさかり)
長さ8.4cm、柄の幅5cm
平谷県劉家河出土
生産の発展は階級の分化を促し、平谷県劉家河で発見された商代中期の青銅器を副葬した墓は、奴隷主の貴族でこそ作ることができた。奴隷主は生前、権勢を笠に威張り散らしていて、死後も贅沢の限りを尽くしていた。ひとつの墓の中に、青銅礼器十六件、金の笄(こうがい。髪飾り)、金のイヤリング、金のブレスレットなど金の飾り四件が副葬され、極めて貴重で、珍しい鉄刃銅戉も併せて副葬品とされた。
金のブレスレット
(直径12.5cm、総重量173.5g)
奴隷主である貴族の享楽と金銭の浪費は、奴隷や一般の人々の苦しみの上に築かれたものであった。貴重な青銅器は先ず奴隷主階級の奢侈品として用いられ、一般の人々は依然として木、石、陶器、カラス貝の貝殻で作られた工具を用い、畑の耕作、収穫を行っていた。昌平雪山村で発見された多くの平民墓では、副葬品は一、二件の陶器や石器の他は、日常のものも無いか、何も無い墓もあった。これは平谷劉家河の奴隷主墓と鮮明な違いが見られる。
文献の記載によれば、商代後期、北京地区にはふたつの著名な部族がおり、すなわち商族の同姓孤竹と燕亳(はく)であった。このふたつの部族は商朝北方の付属国で、商の北方の藩屏(辺境警備の重鎮)であった。孤竹、燕亳の発展は、商朝の北方の安寧を保証し、この地区が我が国の北方古代文明の中心になった。
第二節 周代北京地区の奴隷制国家、燕
紀元前1027年、周の武王が商を滅ぼして以降、同姓の貴族である召公奭(せき)を北燕に分封し、燕国に始めに封じられたのは召公奭の長子であった。『史記・燕召公世家』では、紀元前九世紀の燕恵侯以来、三十五代の王、侯の系譜は、燕の召公から以下燕の恵侯に至る九代の燕侯の名称は、西漢時代には既に伝承が途絶えてしまった。
召公奭は、文献ではまた君奭と称し、周王室の太保で、位は三公に相当した。彼は成王を補佐し、紂王の子、武庚、 字は禄父 と東夷の徐、奄、薄姑など方国の反乱を平定し、周人の東方の統治を強固なものにした。召公奭は自ら燕の地に臨み、燕国を統治、開発する活動に従事し、燕国は間もなく発展を開始した。周の初期、燕国の統治階級は、「引き続き商の法律を適用し、辺境は周の法律で治める」という方針を採用し、当地に商代に残された氏族や部族に対しては、変わることなくその氏族、宗族の組織を保ち、もともとあった氏族や貴族と連合し、利用することで、当地の人々を統治、籠絡した。西周の初期、燕国には依然、多くの商代の著名な氏族や部族が見られた。各族はそれぞれの氏族の彝器(いき。酒のつぼ)を保有し、また引き続き元々の氏族の名称と愛称を使用した。復、攸(ゆう)、伯炬らのような彼らの首領である人物も、燕侯の恩賞を受けた。銅器の銘文の記載によれば、燕侯旨(おそらく第一代の燕侯)は曾て宗主の周に行き、王室に仕えたが、このことは燕と周の王室の間に密接な関係があったことを示している。
西周の初年から始まり、燕国の勢力の及ぶところは、既に燕山山脈を越え、遼西大凌河流域に達していた。遼寧省喀左県ではこれまで何度も周初期の燕国の青銅器が発見され、その中には銘に燕侯の字句のある銅盂(う)があった。これにより、燕国の北部の境域が既にここまで伸びていたことが分かる。当時、燕の東の端は孤竹と接し、北面は粛慎と隣接し、周の北方の重要な諸侯国であった。
燕国の所在は華北平原の北端で、燕山山地の両側であった。燕山山地と山地の背後は、遊牧部落がいつも出没する地方であった。我が国の古代より、燕の地は華夏文化と戎、胡文化が交流するターミナルで、中原と東北の経済、文化が合流し溶け合う地域であった。解放後、北京の周辺の長城内外で、大量の燕国の青銅器やその他の文化財が出土し、これらの文化財はこうした特徴を十分に体現している。北京昌平県白浮村で発見された周初の墓の中から、文字の刻まれた占いで用いられた亀の甲羅や骨が出土し、このことから当時の燕国の統治階級も亀の甲羅や獣の骨を使って運勢を問うたり、占いの活動をしており、商代後期以来流行した亀の甲羅に穴をあけ運勢を占う風習が、この時代燕の地にまで広がっていたことが分かる。青銅器の鋳造の面では、器物の種類にせよ器物の形態にせよ、何れも中原と北方の両方面からの影響が現れていた。燕国は、私たち多民族国家の発展と成長の過程の中で、重要な役割を果たした。
春秋時代、山戎部族は燕国北部山地で大きくなり、いつも燕に対し騒動を引き起こし、燕国の農業生産と人々の生活に厳重な危害を与えた。燕の庄公の二十七年、斉の桓公が軍隊を率いて、山戎を北伐し、山戎部族を大いに破り、山戎の燕国北部地区の脅威を取り除いた。
陶壺(全高69.5cm)
(昌平松園春秋墓出土)
銅豆(たかつき。食物を盛る足付の台)
(全高 49cm)
燕国の刀幣
長期の発展を経て、戦国時代になり、燕国の社会経済が発展し、鉄工具が農業、手工業で幅広く使用され、社会生産力に多大な変革をもたらせた。農業、手工業の生産の発展につれ、商業も次第に盛んになり、地域的な特色を備えた燕国の刀幣(刀銭)が燕国の都市部や農村で広範に流通し、燕国の都城の薊や下都の武陽は、当時の有名な都市となった。商業の発展、金属貨幣の普及により、金銭の貸借とそれに伴い高利貸も発生するのを免れることができず、土地の売買と集中も、瞬く間に広まった。階級分化、階級矛盾も益々激しくなり、奴隷、農民の反抗と闘争が、奴隷主貴族の統治を猛烈に攻撃した。燕国の一部分の奴隷主は、階級矛盾を緩和するため、中原各国と同様、政治改革を実施した。
紀元前320年(燕王噲(かい)の元年)、 燕王噲が位を継いだ。燕王噲の五年、政治改革を行うため、王位を相国の子之に譲った。子之は相国の時、政策が果断であり、臣下の監督、考課に長けており、 燕王噲に才能を認められ、重用された。子之の南面の聴政は、太子平を首領とする保守勢力に対し、大きな打撃となった。紀元前314年(周の赧(たん)王の元年)、太子平と将軍市被は徒党を組み人員を集め、ネットワークの遅れた保守勢力は、薊城で反乱を起こし、「宮殿を取り囲み、子之を攻撃し」、同時に彼らは斉の宣王と結託し、彼らに兵を薊城に派兵し、援軍させた。 燕王噲と子之は人々の支援の下、数か月奮戦し、太子平と将軍市被を攻めて殺し、反乱を平定した。続いて斉の宣王は「五都の兵」を起こし、大挙して燕を攻め、薊城を落とし、子之と 燕王噲を殺し、燕国の宮室は掠奪され空っぽになった。内乱と外患が踵を接して至り、燕国の人々に限りない災難をもたらした。
斉兵が退却後、趙の武霊王が韓で人質になっていた燕の公子職を護送して帰国、即位させた。これが燕の昭王である。燕の昭王は、中原で人質になっていた間、中原の幾分進歩した政治、経済、文化の影響を受け、燕国を改革しようという抱負を持っていた。 燕王噲の時の内戦と斉の侵攻で、旧貴族勢力はひどい打撃を受け、同時に幅広い人々の闘志も練磨されたことは、燕の昭王が精励して国を治めようとし、政治改革を実行するに当たり、道を掃き清めることとなった。
燕の昭王が位を継いで後、郭隗の協力の下、易水のほとりに黄金台を築き、身分が低くても厚い待遇で天下の英傑を招聘した。「楽毅は魏より行き、鄒衍は斉より行き、劇辛は趙より行き、」各国の賢士が次々燕に来て、昭王に重用され政治改革を行った。燕の昭王は楽毅の「能を察して官を授く」という政治主張を受入れ、「禄を以てその親を私せず、功多きは之を授く。官を以てその愛に随わず、能く当る者は之を処す。」これは論功授爵授禄の制度であった。燕の昭王はまた官吏制度を改革し、燕王の下に、相国と将軍を設け、政治、軍事の大権を分掌した。全国を五郡に分けた。すなわち上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東の五郡で、郡の下に県を設け、郡守と県令は国王が任命した。燕はまた厳格な刑法を制定した。史書の記載には、「系獄」(牢獄に拘禁する)、「斬」、「刳腹」(割腹)、「截」(腰斬)などがあった。燕の昭王は二十八年の努力の結果、「燕国の富み栄えること、士卒は安楽を楽しみ、戦を軽んず」という状況であった。
燕の国力が回復して後、対外的に長期間戦争を行った。燕の昭王の十七年、燕と趙の武霊王は連合して中山国を攻め滅ぼし、中山の土地を分割し、燕の旧領土を回復した。同二十八年、楽毅に上将軍の官位を授け、秦、楚、韓、趙、魏の五国の軍隊が会合し、共に斉を攻め、斉軍を済西で大いに破った。燕は斉の七十二城を取り、斉都、臨淄に入り、斉の宮室や宗廟を焼き払い、斉の珍宝を掠奪して空っぽにし、斉の人々に深刻な災難をもたらした。
燕は戦国の七雄の中で最も弱小で、燕の昭王の政治改革も継続することができず、楽毅、楽間などが相次いで出奔し、燕の恵王より、燕の対外戦争はいつも燕の軍隊の失敗で終わりを告げた。燕王喜の四年、燕軍は趙を攻め、六十万の大軍が全て覆滅された。燕の統治者はまた人々を駆使して長城を二本修築した。北長城は西は造陽(今の河北省懐来県)から東は襄平(今の遼寧省遼陽県の北)に到り、うねうねと千里余り連なり、これにより匈奴と東胡の侵入を防御した。南長城は、易水の堤防を拡張したもので、西は今の易県西南から、易水に沿って東へ伸び、長さは数百里、これにより斉、趙の侵攻を防御した。
燕の長期の対外戦争は、人と物資の消耗が甚だしく、一般の人々への租税、軍事のための賦役、徭役の負担が益々重くなり、戦場で死んだり、長城の下で倒れて死んだ者は数えきれなかった。
燕王喜の二十八年(紀元前227年)、秦の大将、王翦(おうせん)が軍を率い易水の西で燕軍を破り、燕の下都を占領し、翌年また薊城を攻撃した。これにより、燕は斉、楚、韓、趙、魏と同様、専制主義中央集権の封建国家、秦に統一された。