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北京史(二十四) 第六章 明代の北京(2)

2023年07月16日 | 中国史

染牙雕瓜蝶洗(北京故宮博物院蔵)

 

第二節 北京の経済

 北京は1421年(永楽19年)から正式に明帝国の首都になった。この時、南北を貫く大運河が既に開通し、全国各地の商品と物資が川の流れのように絶え間なく北京に運ばれた。農業、手工業生産の技術もここで広範な交流を得て、北京の経済は顕著に発展した。皇帝を頭に功績を上げた王族(勲戚)、宦官、官僚、地主から成る明朝の最高統治グループも大挙して北京城に引っ越して来た。北京の農業、手工業、商業も突出して封建統治者に服務し、北京は全国最大の消費都市となった。

農業と土地の占有関係

 元末の農民戦争は蒙古貴族の統治を打ち倒し、同時に漢族地主階級に極めて重い打撃を与えた。蒙古貴族と若干の漢族地主は彼らが元々権勢を頼みに占有していた一部分の土地を放棄するよう迫られ、農民と地主の緊張関係は暫時一定の緩和が見られた。北平府地区を含め、全国のある地域では、耕す者のいない荒地(荒田)や所有者のいない田地(閑田)が増加していた。農民の懸命なる耕作の下、耕地は絶えず開墾されていき、洪武2年(1369年)北平府が私有地(民地)として報告した土地がやっと780頃(1頃は6.6667ヘクタール)に過ぎなかったのが、同8年(1375年)には29114頃、26年(1393年)には少なくとも既に7万頃を超過していた。(永楽大典本『順天府志』巻8の洪武『図経』から引用。7万頃の土地は正徳『明会典』巻19『田土』に掲載の順天等八府の洪武26年の田地582499頃に基づき推定。

 

 早くも都建設以前、明朝朝廷は前後して山西太原、平陽、澤、潞等の土地から住民を北京に遷し(遷民)て開墾(屯種)させ、耕牛、農具、種籾を与えた。宣宗の宣徳年間、北直地方(直隷。今の北京、天津)では、洪武年間の山東、河南の事例を参考に、「民間で新たに荒地を開墾した者には、永久に銭糧を課さない(不起科)」と規定した。このようにした目的は農民を土地に縛り付けるためであるが、客観的には北京地区の農業の回復と発展を加速するのに有利であった。

 

 北京近郊の土地は多くが小麦を植え付けたので、小麦が北京地区の主要な農産品になった。遠い郊外の山区は小麦が植えられた以外に、大麦、蕎麦、高粱、粟、橹豆(黒豆の別名)、黒豆などの雑穀も産出した。次第に北方に経済作物の綿花が広まり、明初は既に北京順天府に属する各県で植えられていた。(永楽大典本『順天府志』巻11『土産』。万暦『順天府志』巻3『食貨』)

 

 個別の地区でも水稲が植えられた。京城内の西苑、積水潭、近郊の海甸、西湖、青龍橋、草橋、京西の房山大石窩、京東の通県、薊州、玉田、宝坻、豊潤、さらに北京西南の良郷、易州でさえも、畦(あぜ)の連なる水田があった。

 

 園芸業もたいへん大きな発展があった。平則門(阜成門)外の住民は、ある者は野菜を植えることを業とし、野菜畑はたいへん良く手入れされ、数十畦毎に井戸と桔槔(きっこう。はねつるべ)が置かれた。野菜の品種はたいへん多く、またたいへん良く育った。(孫承澤『春明夢余録』巻64の楊士奇『郊游記』引用)北京地区の野菜では蔓菁(蘿蔔。ダイコン)と菘菜(白菜)が最も有名で、蔓菁には紅、白、青、水、胡の五種類あり、菘菜の中の箭杆(矢柄)白菜は、粒が大きく、美味で、ひとたび冬に入ると、皆が次々窑(洞窟)を掘り貯蔵し、一層北京の人々が好む特産になった。(陸容『菽園雑記』巻6

白菜を洞窟の中で保存

明末の人、徐光啓によれば、北京の菘菜の施肥の技巧は南方に勝っていた。豊台、草橋一帯の農民の多くは花卉栽培を業とした。そこでは、「牡丹、芍薬など、栽培品種がたいへん多かった」。農民たちは接ぎ木(接枝)が巧みであっただけでなく、「穴地煴火(熾火、おきび)」(つまり温室)の栽培方法を用いた。(楊士聰『玉堂薈記』下)そして厳冬の季節にも、春夏秋に育つ瓜や鮮花を得ることができた。

 

 いくらかの土地は直接皇室が占有し、宦官、衙門の経営管理に属するものは、「禁地」或いは「禁場」と呼ばれた。禁地には護壇地、護陵地、海子(湖沼)地、牧養地、畜養地、果園地、菜地、牧馬草場、公田、皇庄が含まれていた。これらの地域には一般の軍民の出入りが厳しく禁じられ、魚を捕ったり、狩りを行ったり、草を刈ったりすることは何れも許可されなかった。ここで耕作を行う農民は、多くが外地から移ってきた者、或いは順天府からその「投充」(充当、投入)が許可されていた。彼らは若干の土地を分配され、賦税、徭役が減免されたが、皇家の代わりに特殊な科差 (課税や賦役)を負担しなければならなかった。例えば壇戸(祭祀場の財物やお供えを司る)、陵戸は祭祀用のお供えを準備しなければならず、牧養戸は牛馬を畜養し、畜養戸は鶏やアヒルを畜養し、海戸は樹木を栽培し、園戸は野菜や果物を栽培した。皇庄や牧馬草場で耕作をするのは農民で、皇家に高額の地租を納めなければならなかった。

 

 別のいくらかの土地は直接朝廷の官府(官庁や役所)或いは衛所(軍隊)が占有した。そのうち軍士(下士官)に分配されたものは軍屯と呼ばれ、農民に分配して耕作させたものは民屯と呼ばれた。軍士は各戸が田50畝(1畝(ムー)は6.667アール)領有し、毎年糧食を24石(1石は100升)納めなければならなかった。若干の軍餉(軍人の俸給)を与えなければならなかったが、もし毎年1畝当りの土地で5斗(1斗は10升)の糧食しか獲れないと、彼らの収穫は朝廷に持って行かれてしまった。農民は1戸当り田50畝を与えられ、1畝当り糧食1斗納める必要があったが、民屯の畝は比較的狭く、しかも多くが土地の痩せた(貧瘠 )山地にあり、地租を納める以外に、重い徭役も負担しなければならなかった。屯民の生活は少しも保障されておらず、彼らは封建国家の佃農(小作人)であった。

 

 官田以外、残りは民田であった。民田は糧食を徴収する土地とそれを免除する土地の二種類があり、糧食を徴収する土地は糧食を納めるのが賦役(当差)で、糧食免除の土地は官の代わりに馬を飼わなければならなかった。1412年(永楽10年)北直隷(直隷。京師に直属する地区)の人々は馬を受け取って飼い(領養)繁殖させ(孳生)(『宛署雑記』巻9『馬政』)、これより馬を飼うことが人々の負担の大きい賦役となった。種馬が病死したり、繁殖した子馬(1歳以下の馬。馬駒)の数が足らない時は、賠償しなければならなかった。それ以後、馬の飼育の政策は修正されず、土地の広さに応じて銀両に換算して納める(編派銀両)よう改められ、農民の負担は一層重くなった。

 

 北京城内に居住した王公、勲戚(勲功のあった王族)、宦官も近郊や順天府の各県に多くの土地を占有した。明朝中後期、もっと広い土地を併呑するうねりがこの地域で巻き起こった。王公、勲戚は表面上は皇帝に荒田を請求(請乞)しつつ、実際には大量に民地を併呑、またある場合は官田を占有、没収し、またある場合は地主の「投献」(田畑の収穫を官に委託し、それによって賦役を減らしてもらう)のためであった。地主たちの土地の献上、放出により、賦役から逃れることができるだけでなく、更には王公、勲戚の荘園の管理者(庄頭)とそのお供(親随)に委託し、或いはこれによって彼らの子息たち(子侄)が錦衣衛(明の役所名で、軍政の情報収集機関)の校尉(武官の官職)、力士(官職名)を担当し、勢力を頼みに人々を搾取する(漁肉人民)ことができた。

錦衣衛

1489年(孝宗の弘治2年)の統計では、京畿の各部門の勲戚、中官(中官は即ち宦官)の荘園(領地)は全部で332ヶ所あり、占有地は33100顷余り(『明史』巻185『李敏伝』)で、1521年(武宗の正徳16年)、北直(直隷)の荘園は20900顷余りにまで広がった。

 

 

 

 土地の併呑に参与したのは更に皇庄があり、皇庄は皇室或いは皇帝自身の荘園であった。弘治年間、京畿内外の皇室の荘園は五か所だけだったが、正徳年間以降は36か所にまで増加した。その中には、北京近郊の十里舗、大王庄、深溝儿、高密店、石婆婆営、六里屯、三里河、土城など九か所があった。皇庄を管理する宦官、軍校は一か所当り多いところで340人に及んだ。これらの人は荘園に着くや、租銀の徴収以外に、「およそ民間で舟や車の運行を管理し、牛馬を放牧し、魚やエビ、巻貝やカラスガイの捕獲、ガマの収穫、かすめ取らないものはなく」、それによって「天子のおひざ元で、生活が思うようにできなくなった。庶民の間で、貧苦が極限に達した。」(夏言『勘報皇庄疏』)荘園を管理する軍の校尉たちが、皇帝の看板を使って人々に損害を与え、その厳しさは王公、勲戚をも上回った。

 

 皇庄や王公、勲戚の荘園は最初は実際の収穫物を地租として徴収していたが、商品経済の発展と統治階級の貪欲さの増長にともない、明中期になると、相次いで「畝を見て銀を徴収する」、1畝当り租

銀は3分、5分、甚だしきは1銭にまでなった。こうした地租は「子粒銀」と呼ばれ、糧食を「時価」に基づき換算したもの(正徳『明会典』巻19『田土』)で、基本的には地租に換算し、収穫物による地租から貨幣による地租に変える過渡期の形態であった。

 

 明の世宗の嘉靖年間、穆宗の隆慶年間、神宗の万暦年間の統治初期、北京地区の土地の併呑の風潮はやや収斂した。これは北京南部での劉六、劉七の蜂起が明朝の統治者に巨大な衝撃を与えたからだった。そのため彼らは多少実地調査を行い、荘園を制限し測量する措置を取った。しかしこれらの措置は結局効果は微々たるものだった。嘉靖年間、外戚の陳万言は武清、東安の土地千頃を請い、皇帝は8百を賜うよう命じた。隆慶年間、また外戚の杜継宗に田地7百頃を賜った。神宗の万暦年間、北京に前後して清河皇庄、梁山河皇庄、寿宮皇庄が設けられた。『宛署雑記』の記載によれば、北京城の周囲百里の間に、王侯、妃主、勲戚、中貴(権勢を持った宦官)が墓を護り、線香を捧げる土地、各種の寺田(寺院所有の荘園)、皇帝から賜った土地がたいへん多かった。(『宛署雑記』巻4『山川』)北京近郊の房山、良郷、涿州に開いた水田も、多くが権勢を持った人々により併呑された。熹宗が宦官の魏忠賢に下賜(敕賜 )した田地は一度に2千頃に達し、魏忠賢は京師一帯に「公侯伯を封じた田地は、肥沃な土地を選び、1万頃を下らなかった。」(『天啓実録』710月)このことはまた、北直(直隷)地区、特に北京地区の土地が限られた層に甚だしく集中していて、そのひどさは、終始減らされることがなかった。



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