大明太祖朱元璋
第一節 北京への遷都
1368年(明太祖の洪武元年)8月明軍が大都に攻め入って後、明朝統治者は大都を北平府に改称し、ただちにここに地方行政機構、北平布政使司を設立した。この時、北平はもう全国の首都ではなくなったが、政治、軍事上は依然として重要な地位を占めていた。明朝統治者はここを蒙古統治者の北方、東北の残余勢力から防御する主要拠点とした。応昌に逃げた蒙古貴族(応昌は今の内蒙古自治区達里泊(達来諾尔、元の捕魚儿海)付近)は、従前のように北平を奪い返し、明朝と対抗しようとした。
明代辺境の各民族と内地の関係は継続して強化され、各族の統治者は政治上明朝と隷属関係を保持し、各族の人々と漢族の人々の経済、文化の付き合いは一層頻繁になった。当時、蒙古地方の統治者は明朝と対立する地位に処せられていたが、蒙古族の人々は漢族及びその他各族の人々との関係はまだ絶たれておらず、多くの蒙古族の人が依然内地に留まり生産を行い、また多くの蒙古族の人が正に内地に向け移動していた。(『洪武実録』巻66記載、洪武4年6月、「沙漠の遺民3万2860戸が北平府管内の地に屯田する」を以て、その中にたいへん多くの蒙古族の人々がいた。以後永楽、宣徳、正統の時代に更に多くの蒙古軍民が南に向け移動した。)蒙古地区の蒙古族の人々が農業経済生活に従事する比率は益々大きくなり、遊牧民も内地の物資を切実に必要とした。漢族と蒙古族の人々の関係の強化は、両民族の人々の共通の願望であった。
各民族の関係の一層の強化も、政治上の一層の統一を要求した。当時、北平はたいへん多くのこの統一された多民族国家の都城となる上で優れた条件を備えていた。
北平は曾て元朝の首都で、多民族統一国家の首都の伝統を備えていた。
北平は蒙古と東北からたいへん近く、また東北と内地の連絡で必ず経由しないといけない土地で、明朝統治者は、ここに都を建設することは、東北の統治を維持継続するのに都合がよく、これにより蒙古族統治者の勢力を牽制することができると考えていた。
明政権が打ち立てられて以降、元朝のすべての領土の統治権を極力継承しようとし、塞外の蒙古族地区を明朝の版図に組み入れることを望んだが、これは蒙古族統治者の拒絶に遭った。以後、蒙古族内部は三つの部族に分裂した。韃靼は蒙古高原の中部におり、西側は瓦剌(オイラート)、東側は兀良哈(ウリャンカイ)である。三部の統治者の間では、互いに惨殺し合い、争いが止まず、一面では絶えず内地に侵犯し騒乱を起こしていた。このことは、新たに建国した明政権にとって、最も深刻な脅威であった。明王朝は大軍を進駐させて北平を守り、将軍を派遣して北方の軍事を主管させた。明朝の統治者が次第に理解したのは、もし北平を首都にして、北平を最高統帥部の進駐場所にすれば、よりタイムリーに情勢の変化を把握でき、よりタイムリーに軍事力の手配や調整ができるということだった。
蒙古族は3つの部族(西からオイラート、韃靼、ウリャンカイ)に分裂
北平地区の地勢は非常に険しく、敵を防ぐのに都合が良かった。東、北、西の三方の奇峰峻嶺は、北平の天然の障壁であり、しかも「水は甘露で土は豊潤、物産は豊富」であり、また長期間の防備にも有利だった。(『永楽実録』巻130)ここは南方との連係も比較的便利で、海上輸送で往き来でき、また運河を利用することもできた。
洪武初期、明朝廷は北平に都を建設する計画があった。しかし、北方は元末に多大な破壊を受け、土地は広いが人口が少なく、経済がさびれ衰えていて、運河もまだ修復が終わっておらず、江南の食糧や物資を大量に北に運ぶ術がなく、首都を南京に建設するしかなかった。永楽帝の即位後、客観的な形勢がより切迫して北平への遷都を要求しており、永楽帝本人が曾て燕王に封じられ、長期間北平に進駐したことがあり、北平への重要な位置づけをより深刻に理解していた。1403年(永楽元年)、北平は北京と改称した。この時から、明朝は北京への遷都を計画し、長期の準備を行った。
先ず解決したのは北京城への食糧とその他の物資の供給問題であった。北京付近には大量の軍隊が駐屯していた。また膨大な官僚組織を移してくる必要があり、また多くの大工がここで土木建設を行っていた。このため、食糧の需要への対応が切迫した問題であった。
食糧供給解決の方法は、第一が北京での屯田であった。元朝末期、北京地区の農村はひどく破壊されていた。洪武年間を経て、農業生産は既にある程度回復していた。永楽初年、明王朝は一面では流浪している人々に、故郷に戻り職に復するよう命じた。また一面では山西等の地から土地の無い、或いは土地の少ない農民を北京に移して耕作させた。北京地区の軍隊も屯田を行い、また「罪を侵した囚人」にも北京に来て屯田するよう命じた。これらの農業労働に駆り出された人々の懸命な耕作により、北京の農業生産は顕著に発展した。
第二は「開中」の塩法の実施である。「開中」とは辺境の地の駐留軍への給与(糧餉)支給を解決するため、商人に辺境に糧食を送るのを奨励し、その後、彼ら商人にそれと引き換えに「塩引」を与え、指定した地域へ行って塩を受け取らせた。永楽の時代、一度その他の地域の「開中」を停止し、「糧餉」をできるだけ北京に集中させた。
北京の糧食は南方からの漕糧(水路で輸送する食糧)の「接済」(仕送り、援助)に依存していた。永楽の初期、明朝は元朝の時の古いやり方で、海上輸送で糧食を北に運んだが、海運はしばしば暴風雨や倭寇の強奪に遭い、損失がたいへん大きかった。陸路での輸送費の代価はさらに高かった。このため、1411年(永楽9年)臨清から済寧に到る会通河が開鑿された。揚州から淮安までの「湖漕」と、通州から北京までの通恵河に対しても、整備が行われた。1415年、江南から北京の運河が開通した。この年、北京に輸送された糧食は646万990石に達した。
糧食の供給が基本的に保証され、北京城の建設も積極的に進められた。1420年(永楽18年)、宮殿が基本的に完成した。翌年、正式に北京に遷都した。
北京は明朝の都城となり、統一した多民族国家の強化、発展に対し、また北京城自身の発展に対し、重要な影響を与えた。
明朝が都を北京に定めて後、各兄弟民族と北京中央政権の連係は更に緊密になり、全国の統一は一層強化された。当時、東北の女真族各部の首領は明王朝の封号(帝王や君主が授けた爵号や称号)や官職を受け取り、しばしば代表を派遣したり、自ら北京に来て、情勢報告をした。烏斯蔵(元明時代のチベット、チベット族への呼称)各部の首領も絶えず官員を北京に派遣し朝貢し、封号を与えるよう要求した。例えばパクモドゥパ(帕木竹巴)法王のグループは新たな法王が出る度に、代表を北京に派遣し、明朝朝廷がその地位を承認するよう要求した。当時、北京に来たのは女真人、チベット人、モンゴル人、回人(ムスリム)、ウイグル人だけでなく、西南各地の壮族、苗族、傜族、傣族など各兄弟民族(少数民族)の代表もやって来た。明王朝は北京に会同館を設けて彼らを招待し、こうして中国全土の各民族間の連携を強化し、各民族の経済文化交流を促進した。各民族の代表に付き従い、多くの僧侶、商人が北京にやって来た。例えば1499年(弘治12年)烏斯蔵人(チベット族)が北京に来た時には、2800人余りがやって来た。とりわけ北方の各民族の場合は、もっと頻繁に北京に来て交易を行った。兄弟民族の人々の中には、北京に住みつく人さえいた。
明順天府行政管轄区略図
北京遷都は、明朝の統治を強化する重要な措置であった。なぜなら、明朝朝廷が北京に遷都して以後、モンゴル貴族の侵攻の脅威を防止するのに効果があっただけでなく、これによって北方諸王の軍権や政権を解除し、彼らが分裂割拠する要素をできるだけ取り除き、明王朝の統一をより一層強固なものにすることができた。
北京が再び中国全土の首都になって後、政治、経済上もたいへん大きな変化があった。
明王朝は極端な専制主義中央集権の王朝で、この王朝を代表する皇帝と封建統治機構の中枢は何れも北京にあり、全国各地の全ての重大事件は、何れも北京で集中的に反映された。明の中葉及び明末の大規模な農民蜂起は、最後は必ず矛先を北京に向けた。
封建統治階級の力は北京が最も強大であるので、政治の弾圧、階級の弾圧はその他の地方よりも苛酷であった。とりわけ人々を鎮圧する重要な道具となった東廠(特務機関、秘密警察)、西廠(東廠に追加して設けられた特務機関)、錦衣衛(明朝の諜報機関)は、北京の人々の鮮血で染められた。しかし北京の人々は終始屈服することなく、前の者が倒れたら後の者が続いていく、というように反政府活動を行った。
多くの官僚、貴族が集まっていたので、数十万の軍隊が駐屯し、それに加え金を湯水のように使う富豪や大商人により、北京は全国最大の消費都市となった。商人たちは各地からここに来て取引を行った。とりわけ運河が開通後、南方の物資が続々と北京に入って来た。商業はとりわけ盛んになり、北京は当時北方で最大の市場であった。
北京が15世紀初頭に明朝の首都になったことは、以後数百年の北京城の歴史的発展にとり、重大な意義を持った。
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