中国語学習者のブログ

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月餅のこと(その2):月餅の木型

2010年08月22日 | 中国グルメ(美食)
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  中国では、7月頃から9月下旬~10月(旧暦なので、毎年異なるが)の中秋節まで、贈答用の月餅商戦が街を賑わす。今や、月餅は工場で大量生産されたものを買うのが当たり前になっているが、昔は一個一個手作りされていた。そこで活躍したのが、四角や丸の形の上に、様々な図柄を浮き出させる木型である。今回は、月餅の木型について紹介する。

                月餅の木型(月餅模子)について

 月餅の木型(中国語で“月餅模子”という)については、人々は決して知らない訳ではない。これは昔の生活の中で、私たちが最もよく見かけた、お菓子と密接に関係した道具(型)であり、お菓子屋だけでなく、一般の家にも、おそらくは一つや二つ常備されていたものである。長年使い込まれた月餅の木型のあの黒ずみ、油でてかてかした色合いの中から、甘く芳しい香りが漂い、いつも子供たちのあこがれの的であった。こうした思いでは、しばしば今目の前にあるお菓子よりもっと甘く芳しい。

  月餅の木型は一般に棠梨(杜梨ともいう)、日本では酸実(ずみ)、小梨といい、バラ科の木で、緻密で固く、家具や細工物の材料として用いられるが、この棠梨に刻まれ、大きさは様々で、形も丸いもの、正方形、楕円形、蓮の花の形、石榴の形などがあった。形が様々なのは、お菓子の外観に変化をもたせる為と、時には中の餡を区別する為に用いられた。一般に、月餅型の図案は、内側と周囲の二重になっている。周囲の図案は、多くは巻いた草、絡まる枝、花などの模様であり、内側のメインの図案はたいへん種類が多く、およそ中国の伝統的な吉祥図案で、あるべきものは全て揃っていたが、人々が特に好んだのは、昔から変わることのない、月の世界(月宮)の図案であった。

  筆者は以前、とある博物館で、一枚の百年余り前の大型の月餅の木型を見たことがあるが、直径三十センチ余り、おそらく五斤、つまり2.5キロくらいの大きな月餅が作れるだろう。型の真ん中は広寒宮(月にあるという伝説上の宮殿で、西王母の不老不死の薬を盗んだ嫦娥が幽閉されているという)の図案で、玉兔、嫦娥、呉剛、月桂樹などが生き生きと描かれ、玉兔搗薬(月にいる白い兎が薬草を搗いて仙薬を作っているという)、嫦娥奔月(嫦娥が夫の后羿が西王母からもらった不老不死の薬を飲んだところ、体が軽くなり、月に昇っていき、帰れなくなってしまった)、呉剛折桂(呉剛が天帝の怒りを買い、月にある大きな月桂樹を切り倒すよう命じられた)、それぞれの情景が見る者を惹きつける。これら主な図案の周囲には、春の蘭、夏の蓮、秋の菊、冬の梅など四季の花が描かれ、月宮の優美さを互いに惹きたて合っていた。

 北方では、月餅の木型の加工は、天津と河北の両地が最もよく知られている。19世紀末、天津では針市街の胡という姓の家だけが工房を開き、点心の木型を専門に彫り、商品は供給が追いつかなかった。

 庚子の年(1900年)、八カ国連合軍の侵略後、天津市街は治安が乱れ(“兵荒馬乱”)、建築装飾業(家の内外を飾る木彫りの細工物を作る)はそれにつれ不景気(“蕭条”)となった。同時に、天津の警察は、火災防止の為、建物の外の軒に木彫りの飾りを付けることを禁じたので、それにより木彫りの職人は深刻な打撃を受け、次々に職を変え、別に生計の道を捜した。彼らの中の一人、有名な木彫り職人、傅宝元は、旧市街の鼓楼の近くに玉順合木型店を開き、専門にお菓子の木型を彫って販売したところ、製品はすぐに市場で販路を切り開いた。天津玉順合、文蘭堂などの屋号の製品は、月餅を含むお菓子の木型を、長期間遠く東北三省で販売した。

  現在では、精緻で美しく彫られた古い月餅の木型は、民俗文物として骨董的価値を持つようになり、民間の収蔵品の市場でいつもその姿を見ることができる。

【出典】由国慶編著《追憶甜蜜時光―中国糕点話旧》百花文藝出版社 2005年

 今は、月餅は贈答品として、大量生産されたものを買うのが普通になり、木型を使って手作りすることは稀となった。古い木型は、骨董品として取引されるようになっている。 それにしても、月餅の木型作りが、義和団事件に続く八カ国連合軍の中国侵攻の結果、職を奪われた木工達によって天津で盛んになったという話は興味深い。


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