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北京史(三十八) 第六章 明代の北京(16)

2024年01月21日 | 中国史

八達嶺長城

長城と居庸関

 万里の長城の修築は戦国時代に始まった。当時、各国は分裂して雄を称し、強が弱を凌駕(りょうが)し、衆が寡を暴き、領土兼併の戦争が已まず、このため互いに防御を行うための土木事業として、長城が各国の辺境に出現した。斉、楚、魏、燕、趙、秦などの大国が長城を築いただけでなく、たとえ小国の中山国でさえも長城を築いた。これらの長城は、各国がお互いの防御のために用いただけでなく、一部は匈奴の侵入を防御するためにも用いられた。これは燕、趙、秦北部の長城の場合である。この当時、燕、趙、秦の北部は匈奴と境界を接していて、しばしば匈奴の騎馬隊の侵入、攪乱を受け、たいへん苦悩していた。このため北部に長城を修築せざるを得ず、それによって防御していた。紀元前221年秦の始皇帝が中国全土を統一し、その他の長城は悉く取り壊されたが、引き続き匈奴の侵入を防御する見地から、蒙恬(もうてん)が燕、趙、秦北部の長城を繋ぎ合わせ、修理し、合わせて一本の長城にさせた。西は臨洮(りんとう。今の甘粛省岷県)から東は遼東に至り、長さは万余里に達した。ここから、長城は中国北部の土地の上に巍然(ぎぜん)と聳え立った。

 秦の始皇が築いた長城は、上は燕、趙、秦の長城の旧を承け、下は歴代の長城の基に立ち、後世への影響はたいへん大きかった。この後、両漢、北魏、北斉、北周、隋、明などの王朝が、長城に対して大きな徭役を興し、その中で漢、明両王朝での規模が最も大きかった。その他の王朝では長城の一部を修繕するにとどまり、漢代は長城の西を敦煌付近の玉門関と陽関まで開拓し、明代は長城全体を修理し、多くの区域について完全に新たに修築した。

 明朝は大いに長城を築いたが、その目的は北部のモンゴル勢力とその後に蜂起した東北の女真政権を防御するためだった。明朝は開国の第一年、すなわち1368年、朱元璋が大将軍徐達を派遣し、居庸関などの長城を修築した。この後各皇帝が数度に亘って長城を修理し、2百年余りの時間をかけ、ようやく明の長城の全部の工程が完成した。この長城は西は嘉峪関を起点に、東は鴨緑江に至り、全長127百里余りであった。そのうち、山海関から鴨緑江に至る区間は、工事が簡素であったため、今では崩壊が甚だしくなっている。山海関から嘉峪関に至る区間は、工事が堅牢にできており、今日まで比較的良く保存されている。

 明代は中国史上、長城を修築した最後の王朝であった。秦の始皇帝の時代の長城は破棄されて久しく、その遺跡は既に捜すのが困難である。現在私たちが見ることのできる長城は明代に築かれた長城である。

 万里の長城は、中国古代の各民族の統治集団が北方で対立、対抗した結果の産物で、ある時期には中原地区の統治者が北方の遊牧民族の侵入、攪乱を防御するための防御工程であった。これは中国史上、堅牢で壊すことができない民族間の砦(とりで)であり、(本来の意味での)中国北方の国境ではない。中国が多民族統一国家として発展するに伴い、各民族間の関係は日増しに密接になり、長城は次第にその役割を終息させていった。

 居庸関八達嶺付近の長城は、明代の長城の中でも代表的なものである。この区間の長城は高く大きく堅牢で、城壁の表面は、長方形の石板が積まれ、内部は土と砕石が詰められ、頂上面は方形のレンガが敷かれ、平均の高さが約7.8メートル、頂上面の幅が5.8メートルで、五匹の馬を並んで走らせることができた。城壁の上の凹凸の突き出た部分(垛口。胸壁ともいう)の壁の高さは2メートル近くで、その壁の一つ一つに見張り穴と射撃口が設けられていた。城壁の峰の険要や曲がり角んぽ地点には、全て高さの異なる「堡塁」が設けられ、壁に凹凸がある以外に、高い地点の堡塁は敵楼と言い、兵士が見張りをし宿営する場所で、低い地点の堡塁は墙台と言って、兵士が巡邏(じゅんら)し歩哨を置く場所であった。城壁の外側の付近の山や丘の上、或いは遠くがよく見える場所には、更に狼煙(のろし)台(烽火台、烽燧、墩台、烟墩、狼烟台)が設置され、日中には煙を挙げ、夜間は点火し、辺境警備の情報伝達を行った。

八達嶺烽火

 居庸関と八達嶺付近の長城は全て山に依って築かれ、その工事はたいへん困難であった。八達嶺長城で発見された明の万暦10年(1582年)長城修築の石碑の記載によれば、当時長城の修築は軍の下士官と民間の人夫が区域を分けて請け負う方法が採用され、工事をした軍士、民夫は905名、請け負った長城の長さは333寸(11メートル)、高く連なる城壁の凹凸の突き出た部分(垛口)は23尺(7.5メートル)。7月中旬から10月中旬まで、3か月の期間を経て、ようやく完成した。その工事の進展が容易くなかったことは、推察できる。

 明代の長城の沿線には多くの著名な険しい関門(険関)、山間の要害の地(隘口)があり、居庸関はその中のひとつである。『呂氏春秋』と『淮南子』は何れもこう言っている。「天下の九塞、居庸はその一なり」。漢、唐でも居庸に関が設けられた。その後、各時代にたびたび建立、設置され、或いは西関と称し、或いは軍都関と称し、或いは納款関と称し、名称はひとつではなかった。(『昌平山水記』巻上)現在の居庸関1368年(明洪武元年)大将軍徐達が建設した。(劉效祖『四鎮三関志・建置考』)

 居庸関関城は一本の長さ約40里(20キロ)のでこぼこした(崎岖)峡谷の中間に建築され、この峡谷の名は関溝と言い、華北平原が蒙古高原に通じる唯一の近道(捷径)である。これは南から北へ、その間に南口、居庸関関城、上関、北口(八達嶺)などの関城が分布している。広義の居庸関は、峡谷全体を指して言う。狭義の居庸関は、単に居庸関関城の所在地だけを指す。

 居庸関関城は、南は南口から15里離れ、北は八達嶺から20里離れ、山を跨いで築かれ、南北に二門あり、その上には明の景泰年間(14501457年)に題記された「居庸関」の三文字の石の扁額が嵌め込まれている。南口から上ると、両側の山壁が立ち、中を一本の道路が走り、両側は皆幾重にも重なり合った山々(重岭叠嶂)で、日光を覆い隠すので、この関は古来より絶険と呼ばれた。明朝はここに参将、通判、掌印指揮各1名を設置して守らせ(扼守)、また巡関御史1名を設置し、居庸、紫荊の二関を往来して監視(按視)させた。

 居庸関は険要(地勢が険しい)とは言え、1644年(明崇禎17年)李自成の蜂起大軍が柳溝から居庸関に前進(進抵)し、明将の唐通は戦わずに降り、居庸関はその険要を失い、李自成はそこで長躯北京に入った。

 居庸関が有名な所以は、その地勢が険要であるだけでなく、その風景が秀美なことによる。毎年春夏になると、草木が青々と茂り、様々な花が咲き誇り、緑が幾重にも重なり合い、美しい景色が山に満ちている。このため、金代以来、「居庸叠翠」が燕京八景のひとつになった。

 とりわけ指摘する価値があるのは、居庸関関城の雲台である。この台の上には元々三基の石塔があった。1345年(元の至正5年)に建てられ、名を過街塔と言った。後に三塔は破棄され、台上に一寺が建立された。この寺は1439年(明の正統4年)の再建を経て、「泰安寺」の名を賜ったが、清の康熙年間(16621722年)に火災で焼失した。現在の雲台は全て漢白玉の大石を積み上げた、アーチ門(券門)の通路のある石台である。アーチ門の内側の石壁の上には四大天王像が彫刻され、造形が活き活きし、まるで飛び出さんばかりである(跃然欲出)。石壁の上には梵語、漢字、チベット語、パスパ文字、ウイグル文字、西夏文字など6体の文字でダラニ(陀羅尼)経が刻まれている。雲台は重要な芸術価値のある元代の建築遺跡である。

居庸関雲台

居庸関雲台・四天王像レリーフ

居庸関雲台ダラニ経彫刻

 八達嶺関城は峡谷の最高点に盤踞し、高きに居て下を臨み、守りやすく攻めにくく、地勢は極めて険峻である。うち一か所の懸崖の上に、「天険」の二文字が穿たれている。関城は1505年(明の弘治18年)修築が始められた。(『四鎮三関志・建置考』)東西に二門有り、その上には何れも石の扁額が付いていて、東門は「居庸外鎮」と題され、西門は「北門鎖鑰」(軍事上重要な場所)と題されている。八達嶺から居庸関を見下ろすと、井戸の中を覗くかのようで、それゆえ古代から人々は「居庸の険は関城に在らずして八達嶺に在り」と称した。八達嶺を守ることは、それゆえ居庸関を守ることで、このため、元代にはここに千戸所を設け、明代にはここに守備を設けたのだ。



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