中国語学習者のブログ

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中国語の修辞について: 語句の選択

2010年11月16日 | 中国語
 これまで、中国語の表現力を向上するにはというテーマで、中国語の語彙、文法について見てきましたが、もう一つ大きな研究カテゴリーとして、修辞があります。修辞学は音韻、語彙、文法で定められた規律を基礎にして、如何に文としての表現効果を高めるかを研究する学問分野です。今回は、語句を如何にうまく選択するかということについて、紹介していきたいと思います。

                          語句の運用

 話は一字一句するものである。文は語句が組み合わされてできている。語句の運用が正確で適切でないと、直接に文の表現効果に影響する。修辞を究め(“講究”)、言語の表現効果を高めようと思えば、先ずたくさんの語句を蓄積し、語句に含まれている意味(“涵意”、“含意”)や用法を正確に掌握できていなければならない。そうしてはじめて、話をしたり文章を書いた時に自在に運用ができる。したがって修辞については、先ず語句の運用とそれに磨きをかける(“錘煉”)ことを言わなければならない。

                          語句の選択

(一) 語句選択の要求

 正確で的確(“貼切”)であることが語句選定の基本要求である。それを実現するには、語句の意味を正確に理解し、意味が類似した語句、ある語句に関連した語句の間の僅かな違いを正確に掌握していなければならない。いくつかの語句は、意味は似ていても、それらが代表する概念や適用対象が異なる。いくつかの語句はその基本的な意味の他に、感情的な色彩や語体の色彩を持っている。それゆえ私たちは大量に生命力に富んだ語句を蓄積し、それらの意味、用法、風格等の細かな差異を把握することを要求され、それを活用した時に思い通りの結果が得られる(“得心応手”)のである。

1.対象をはっきりさせること
 先ず、表現する内容の対象をはっきりさせなければならない。表現の対象が異なると、選ぶべき語句も異なる。魯迅の《狂人日記》は、使っている語句の意味が飛躍しており、前後の文としばしば一貫しておらず、このことが“狂人”の口ぶりとマッチしている。《社戯》が使っている語句は平易で分かりやすく、体の動きが強調され、農村の子供の表現にマッチしている。《傷逝》が書いているのは小資産階級の知識分子で、書面語が多く使われ、知識階級の人の言葉つき(“腔調”)が濃厚に出ている。また例えば、同様のことが酒を買って飲む場面の描写にも現れる。阿Qが街から喜び勇んで戻ってきて、酒屋のカウンターに入って来ると、腰のあたりをピンと伸ばすと“満把是銀的銅的,往柜上一扔”(一握りの銀貨、銅貨をカウンターにぶちまけた)。貧しく落ちぶれた知識分子の孔乙已は他の客達の嘲笑の中で、“排出九文大銭”(大枚九文を差し出した)。“扔”の字には阿Qの得意洋々とした、他人にひけらかす(“耀”)様子が生き生きと描写されている。“排”の字は孔乙已の金に困っている様子を反映している。同様に人の物を盗んだことがばれた場面で、孔乙已はこう言い訳をしている。“窃書不能算偸……窃書!……読書人的事,能算偸麼?”(本を盗るのは盗みのうちに入らない。本を盗るのは……読書人の事で、どうして 盗んだと言えるんだ?)阿Qはこう言っている。“這是你的?你能叫得他答応你麼?你……”(これは君のか?君が呼べばそいつは君に応えるのか?君……)これらの語句の選択はこれらの人物の身分にたいへんマッチしている。これは作者が表現内容の対象を正確に把握していることと切り離すことができない。

 次に、考えを伝える対象をはっきりさせなければならない。話をし、文章を書くのは、他人に聞かせたり他人に読ませたりするためで、聴衆や読者のことを考えざるを得ない。話をする対象は知識階層か、それとも工場労働者や農民か。上部機関に指示を仰ぐ報告か、それとも下部機関への決裁の承認通知か。考えを伝える対象が異なれば、選択する語句も異なる。趙樹理の小説《李有才板話》の中の人物の章工作員と老楊同志は、考え方や仕事の仕方が異なる他、ことばの使い方も全く異なる。どの会議、会合でも、章工作員は話の出だしで必ず“重要性”、“什麼的意義及其価値”といった硬いことばを言うので、他の多くの農民たちはうんざりしてしまう。老楊同志は農民が普段使っていることばで訴えかけるので、たいへん説得力がある。

2.環境に気をつけなければならない
 ここで言う環境とは、現実の環境と言語環境の両方を含む。

 魯迅の雑文は反語を多用し、笑いあり怒りあり、彼の表現能力が発揮されている。彼が時に選ぶ語句は難解で屈曲し、冷たいが味わいがあり、正に魯迅が生きた時代の社会環境の必然の産物である。1976年の清明節(4月5日)に、首都北京の人々が詩歌を武器に故周恩来を沈痛に哀悼し、「四人組」を糾弾した。「四人組」の支配下、これらの詩歌は語句の選択にしばしば同音語への置き換え、析字、借代、比喩などの方法が採られた。例えば、“江”の代わりに“僵”を、“姚”の代わりに“謡”を、“江青”の代わりに“青苹”を、“張春橋”の代わりに“喬木”を用い、“妖”、“鬼”を用いて「四人組」を暗示した。これらは当時の政治環境と区分できない。

 社会環境が語句の選択に関係するだけでなく、たとえ日常の生活環境でも語句の選択と関係がある。かしこまった場合には“父親”を用いるが、日常の会話では“爸爸”を用いる。日常生活では普通“塩”と言うものが、化学分析の場合は“氯lv4化鈉na4”(塩化ナトリウム)と呼ばれる。

 言語環境に留意するとは、主に前後の文の言語環境の要求に適応することである。ある語句はそれ単独で見ると良いも悪いもないが、一定の言語環境の中では優劣が明確に顕れる。どのような時に単音の語句を用い、どのような時に二音節の語句を用いるか。どのような時に平声の字を用い、どのような時に仄声の字を用いるか。どのような時に褒義の語句を用い、どのような時に貶義の語句を用いるか等は、一定の前後の文面と密接な関係がある。したがって語句の選択の時にはこの一点を考えざるを得ない。さもなければ人に言語環境が調和していないと感じさせ、意味の正確な伝達に影響を与えてしまう。

 例えば長い年月にわたり読み伝えられてきた王安石の《泊舟瓜洲》を見てみよう:
     京口瓜洲一水間,
     鐘山只隔数重山。
     春風又緑江南岸,
     明月何時照我還?

 第三句の“緑”の文字は、伝え聞くところでは、何度も“到”、“過”、“入”等の語に置き換えてみて、最後に“緑”が選ばれ、色彩を表す形容詞を動詞として用い、生気溢れる、春たけなわの江南の情景を描写し、また当時の作者の心情を表現したと言われている。“到”、“過”、“入”等のことばは“緑”より劣るのだろうか。いやそうではない。ことばは人間と同様、それぞれ長短があり、それぞれ用途がある。人材は活用しなければならず、ことばはその機能を発揮させなければならない。肝心なのは、話者や筆者が、対象、環境、事実に基づき、最も正確で適切なことばを選び、それらのことばを適材適所に用いることができたかどうか(“各得其所”)である。

 張継の《楓橋夜泊》で:
     月落烏啼霜満天,
     江楓漁火対愁眠。
     姑蘇城外寒山寺,
     夜半鐘声到客船。

 第四句の“到”がうまく用いられている。夜半の鐘声が、客船に伝わるのは、最初の二つの句と呼応し、船上の人が愁いから未だ眠れないことを暗示している。

 杜甫の《送蔡希魯都尉》で、“身軽一鳥過,槍急万人呼”の二句で、“過”という動詞には、蔡希魯が戦場を馬で駆け回る雄姿が鮮やかにスケッチされ、“疾”、“落”、“起”、“下”等のことばに容易く置き換えることができない。
 李白の《峨眉山月歌》で、“峨眉山月半輪秋,影入平羌江水流。”この中で“入”がうまく用いられている。月影が江に投じ、水光が天に接し、明月、高山、流水が“入”という字を通じて、三者が一つにつながり、一幅の美しい山水画を構成している。

 これらから、孤立した一つのことばからは優劣を論じることはできないが、どのような語句を選ぶのが妥当であるかは、特定の言語環境に基づき決定されるということが分かる。

3.真実に注意しなければならない
 現実の生活の中で、人々は客観世界に対する認識、思想感情活動を、言語を運用して表現している。このことは先ず言語が正確に客観的現実を反映していることが要求される。話者や作者は対象の性質や事物の相互関係に基づき、最もふさわしい語句を選択し、これらの語句を厳密に組み立て、正確・適切に考えを表現するのが上手くなければならない。語句の正確・適切な選択は、生活の中や歴史上の客観的事物に対する理解の正確さや深刻さと切り離すことができない。もったいをつけたり(“装腔作勢”)、虚勢を張るような所謂“豪言壮語”、美辞麗句や虚飾、人々をあっと言わせて関心を買う(“嘩衆取寵”)ような花言巧語、美辞麗句を並べたて(“堆砌詞藻”)、実際に合わない決まり文句の濫用は、語句の運用の上ではどんなに美しく飾り立ててあっても、正しく、適切であれとの要求に合致しない。

 正確・適切が、語句の選択の基本要求である。正確・適切の基礎の上に、ことばが簡潔で生き生きしていることが要求される。つまり、極力重複や回りくどさを避けなければならず、真実の基礎の上に、創造的に事物や人物を描かなければならない。

(二)語句選択の範囲

 修辞の角度から見て、動詞の選択は重要である。中国語の動詞はたいへん数が多く、各種の動作、行為の細かな違いが適当な動詞で区別して表すことができる。次に挙げるのは魯迅の《一件小事》からである:
   (1)我没有思索的従外套袋里出一大把銅元,交給巡警,説,“請你給他……”

 この“抓”は無造作に金を取り出すことを表し、動作がすばやく、“我”が気持が不安で、多少あわてている精神状態をうまく表現している。もしここに“摸”を使うと、同様に手の動作ではあるが、“摸”は比較的緩慢な動作を指すので、ここでは適切ではない。

 また王蒙の《説客盈門》に次のような文がある。
   (2)……他悠悠地着歩子,着牙花子,慢呑呑地着毎一個字。好像是在毎一個字的分量;又像是在咂za1毎一個字的滋味。是的,他的話語就像五香牛肉干,濃縮,醇厚。

 作者は“踱、嘬、吐、掂、咂”の五つの動詞を使い、最後に一つの比喩と二つの形容詞を配し、飾り気の無い表現(“白描手法”)で“他”の姿を描写した――今のポストに満足しそれ以上努力しようとせず(“吃老本”)、決まり文句ばかり言い、官職にしがみつく(“保烏紗”)役人根性(“官僚習気”)の幹部の姿である。作者がこれら人物の姿を描写する動詞を精一杯に選択したことが分かる。

  心理活動や抽象的な行為を表す動詞は、より細心に注意を払い、選択しなければならない。例えば:
   (3)“好媳婦!”村里人誰不這麼誇奨
      “好媳婦!”夫家的親戚誰這麼伝誦
      “好媳婦!”丈夫的朋友,誰不這麼賛嘆

  作者、王汶石はここで“誇奨”、“伝誦”、“賛嘆”の三つの動詞を用い、“村里人”、“夫家的親戚”、“丈夫的朋友”の三種の異なる身分の人の反応を正確に描写し、且つ人物関係の遠近を適切に表している。

 形容詞の選択も注意が必要である。例えば魯迅の《藤野先生》で:
   (4)従此就看見許多陌生的先生,聴到許多新鮮的講義。

  “陌生”と“新鮮”の二つの形容詞は、初稿では何れも同じ“新”が用いられていた。これでも勿論構わないが、一番目の“新”を“陌生”に変えることで、“従未見過”の意味を表し、二番目の“新”を“新鮮”に改め、“従未学過”の意味を表したが、単に“新”を用いるより更に正確・適切になった。

 一定の場面で、ある形容詞を用いるか用いないかで、表現効果に大きな違いが出てくる。例えば:
     (5)“阿呀阿呀,真是愈有銭,便愈是一毫不肯放松,便愈有銭……”圓規一面憤憤的回転身,一面絮絮的説,慢慢向外走,順便将我母親的一副手套塞在褲腰里,出去了。

 魯迅の《故郷》の中の一段の叙述だが、“圓規”(コンパス)が回転するように、すなわち楊二嫂が引っ越しの手伝いのついでに家の物(手袋)を持ち去る(“順手牽羊”)という行為から、語句が選択されている。先ず“憤憤”で、彼女がほしいと思った木器や家具がもらえず、腹を立てて帰っていくことを表す。“絮絮”は彼女が口達者(“利嘴”)でぶつぶつ文句を言い続けていることを書いている。“慢慢”は機会をうかがって何か持ちだしてやろうとしていることを表している。魯迅はこれら三つの形容詞と次の文の副詞“順便”、動詞“塞”を組合せ、この機会にうまい汁を吸おうと(“占便宜”)している楊二嫂を生き生きと描いている。

   (6)我希望他們不再像我,又大家隔膜起来……然而我又不願意他們因為要一気,都如我的辛苦展転而生活,也不願意他們都如閏土的辛苦麻木而生活,也不願意都如別人的辛苦恣雎而生活。他們応該有新的生活,為我們所未経生活過的。

 ここでは“展転”、“麻木”、“恣雎”の三つの形容詞を用い、三種の異なる人の生活を、正確、適切に表現している。

  名詞は人や事物の名称を表す詞であるので、どういうものは何と言うか決まっていて、選択の余地は無いように思える。しかしどういう名詞を使ってある人物や事物を指すかは、修辞の角度から見るとよく考えられている。例えば:
   (7)暁燕去的功夫不大就回来了。她睡在道静身辺,細心地照顧着她。天還没亮,她就悄悄爬起来,生怕惊醒了病人。但是在她摸着黒穿衣服的時候,道静也醒了。

  ここで書かれているのは王暁燕が病気の林道静の世話をしていることである。王暁燕がそっと起き上る場面で、作者は“生怕惊醒了病人”と表し、“生怕惊醒了道静”とはしていない。一面で林道静が病気であることを際立たせ、もう一方では“病人”を使った方が“生怕惊醒”とよりぴったり合い、その時点の言語環境に適応しているのである。

(8)“不!”韓同志把東西扔在草棚屋以后,精神振奮地説,“老大娘,甭beng2忙!志光,咱先看看秧子地去!”
歓喜説,“洗下臉,喝点水,歇歇再……”
“不!先看秧子地去!”韓同志興奮地立意要去。
大個子農技員拉着小徒弟的手,出了街門,向秧子地去了。

・秧子 yang1zi 苗

 前半で話をしているのは韓同志と歓喜(即ち志光)、後半では彼らが秧子地を見に行くと言うのに、彼らのことを“大個子農技員”、“小徒弟”ということばに置き換え、重複を避け、変化を明確にしているだけでなく、彼らの身分を突出させ、彼らの間の関係を突出させ、一石二鳥の表現効果を得ている。

 語句の選択は動詞、形容詞、名詞に限らない。数詞、量詞、副詞、代詞、更には虚詞に至るまで、うまく選択すると、表現効果を向上させる作用がある。例えば、同じ事物の数量を表すのに、“一絲”、“一縷”、“一線”、“一点”等の異なる表現法があり、どれが最も正確で適切かは、それぞれの表現対象や言語環境に基づき斟酌しなければならない。
 例えば郭沫若の歴史劇《屈原》の中で、“你是没有骨気的文人”を“你這没有骨気的文人”とし、代詞“這”を使い、陳述文を感嘆文に改めることで、このセリフはにわかに輝きを増した。
 老舎の話劇《宝船》の中で、“開船嘍lou!”というセリフがある。ある日本人が老舎に、なぜ“啦la”でなく“嘍lou”を使うのかと聞いたことがある。老舎は執筆中に繰り返し朗読してみて、“開船嘍lou!”と言うと、多くの人に対する呼びかけを表し、“開船啦la!”と言うと一人の人への呼びかけになっているということを発見したという。この二つの語気詞の細かな違いを作者は把握したのである。

 言語、文字を運用し、客観事物を表現する時、客観事物を繰り返し観察、体験、研究、分析しなければならず、認識が深まると、必然的に語句の正確、適切な選択の助けになる。したがって言語の表現効果を高めるには、語句そのものに磨きをかける(“錘煉”)だけでなく、その文の持つ思想や考えにも磨きをかけなければならない。

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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