避暑山荘の苑景区(園林地区)は面積がたいへん広く、宮殿区を除いて山荘の全ての面積を占めている。「山庄山水佳,天然去雕飾」(山荘は山水が佳く、自然に装飾を加えている)(乾隆詩)。青い波が波打つ湖地区、山の峰や尾根が折り重なる山岳区、美しい樹木が生い茂る平原地区に分かれている。
湖地区は避暑山荘の南東部に位置し、宮殿地区の北側で、上湖、下湖、澄湖、東湖、鏡湖、如意湖の6つの湖から成り、総称を塞湖と言う。水面面積は60万平方メートル余りに達する。湖の水は輝き波打ち、長堤がくねくねと続き、中州や島が交錯している。島の上にはあずまや壇、楼閣や高殿 があり、或いは山の斜面の上に聳えていたり、或いは濃い緑の茂みの木陰の中に深く隠れていた。静かな水面にはアーチを描く屋根の庇や彩絵された棟木が逆さに映し出され、湖水はさざ波を立て、小船が揺れ動き魚が戯れ、極めて江南の風光に似ている。
水心榭は東湖と下湖の間に位置し、東宮の巻阿勝境から湖区に入る時に必ず通る所で、これは横に並んだ三棟の二重の檐(のき)式の亭榭(高殿)で、飛桷(飛檐垂木)が高くつりあがり、建物の影が水中に映り、絵のように秀麗である。正に乾隆が詩の中で描いた情景と同じである。「一縷堤分内外湖、上頭軒榭水中図。因心秋意蕭而淡、入目煙光有若無。」
水心榭
有名な文園獅子林は、東側は避暑山荘の虎皮石宮墻に隣接し、西側は湖を隔てて水心榭と相望んでいる。これは1786年(乾隆51年)蘇州獅子林(元代の大画家、倪瓚が設計、築造)に似せて修築した、極めて精巧で幽美(静かで美しい)な園林であり、熱河行宮内の園中の園であると言うことができる。文園獅子林内には全部で十六景がある。獅子林、虹橋、假山、納景堂、清閟閣、藤架、磴道、占峰亭、清淑斎、小香幢、探真書屋、延景楼、画舫、雲林石室、横碧軒、水門である。この多彩多姿(姿や色彩が様々な)南方式園林は、残念ながら軍閥統治時代に破壊されてしまい、現在は崩された築山や残された基礎の跡は遊覧客が往時をしのぶのに任されている。
金山は 澄湖の東の隅に位置するひとつの小島で、湖を隔てて西を望めば、如意洲と青蓮島が見える。これは康熙年間に鎮江金山の景勝を真似て設計、構築された。巨石を積み上げた築山は、切り立ち険しく、築山の下にはほの暗く奥深い法海洞があり、容易く人々に水漫金山(大水が金山を水没させる)の物語を連想させる。山の上には三方が湖に臨む鏡水雲岑殿があり、周りを望むと、水の波がきらきら輝き、もやが影をつくり、佳い景色は際限がない。また有名な天宇咸暢の西向きの殿堂楼閣は、回廊が外を廻り、半月形に取り囲んでいる。金山の一番高い所は上帝閣で、いわゆる「制仿金山聳翠螺、三層楼閣建巍峨」、すなわちこの三層の高閣である。ここで大空を仰ぎ見、うつむけば青い水に臨み、山に登り眺望すれば、様々な美しい景観が、尽きることなく眼の中に収まる。
金山
金山の北には、著名な熱河河源から発する熱河泉である。ここは澄湖の北東の隅に位置し、既に湖区のへりであり、更に北に往くと平原区の万樹園である。熱河泉は当時清皇帝が舟を浮かべて湖を遊覧し、ドラゴンボートの試合の起点であり、現在も当時のドックの跡を見ることができる。熱河泉の広い水面の上には、数えきれない泉が湧き出る穴から水の泡が吹き出し、水温が高いので、冬も凍結せず、早朝には蒸気が沸き起こり、暖かさが人を喜ばせる。
熱河泉
有名な月色江声は、ひとつの小島で、長い堤と小橋が宮殿区と東路の金山に通じている。島上の南部は静寄山房で、山房の門殿には、元々康熙の「月色江声」の四文字の題額が掛かっていた。静寄山房と北側の瑩心堂で、更に北側は題名を「湖山罨画」という殿宇で、清帝が読書、休養した場所である。これらの建物の間には回廊があって、全体が連なっている。島の南西の湖に臨むところには、冷香亭が建てられ、これはハスの花を鑑賞するところである。「月色江声」の境地は、宋代の文豪、蘇東坡の前、後『赤壁賦』から取られている。ここには雄渾な大河の絶壁は存在しないが、ひっそり静まった夜になると、真っ白い月がゆっくりと東の山から昇り、さざ波がリズミカルにそっと岸辺を打ち、その時その時の月の色、水の音が、確かに人を陶酔させる。
如意洲はその形が玉の如意のようであることから名付けられ、湖地区の中の大洲である。その南は芝径雲堤(杭州の蘇堤に似せたもの)に接し、環碧半島に通じている。1711年(康熙50年)以前に、山荘の宮殿区は如意洲にあり、その後正宮が落成し、如意洲は苑景区になった。そのうち洲の北西に位置する滄浪嶼は、部屋が三間あり、室外の築山は趣があり、絶壁を成し、流水が流れ落ち、それが絶壁の下で小さな池となり、池の水は澄んで底が見え、魚がすばしこく行き来する。ここは面積は大きくないが、別天地である。滄浪嶼は解放前に破壊されてしまったが、1978年以降に再建された。洲の北西には更に「金蓮映日」と命名された殿室五間があり、中庭には五台山から移植された金蓮花が植えられていた。朝日が射すと、旱金蓮(キンレンカ)が色鮮やかに輝き、まるで黄金が地面に敷かれたかのようである。現在来訪者が見る金蓮花は、もはや五台山の原種ではないが、囲場県から移植されたものである。 金蓮映日の南側の観蓮所は、水辺のあずまやで、清の皇帝が蓮を鑑賞する場所であった。当時、敖漢(敖漢旗。内蒙古自治区赤峰市管轄)や関内(居庸関の内側。長城以南)から移植された赤蓮、白蓮が、湖面一杯に咲いていた。塞湖の水源は熱河泉から来て、水温が比較的高く、それでここのハスの花の開花期間は比較的長く、耐寒で名高く、時には霜が降る季節になっても、尚赤いハスの花がほころび開き、ほっそりと立つのを見ることができた。乾隆の『九月初三日見荷花』の詩はこう詠んだ。「霞衣猶耐九秋寒,翠蓋敲風緑未残。応是香紅久寂寞,故留冷艶待人看。」
如意洲の北側の澄湖の中の青蓮島には、有名な煙雨楼がある。乾隆の南巡の時、浙江嘉興の南湖で五代銭元璙(呉越王銭鏐の子)が創建した煙雨楼を見て喜び、避暑山荘の中にこれに似せて同名の建物を建てた。煙雨楼は二階建の建物で、周囲は水で、遍(あまね)く蓮や葦が植えられた。毎年細雨が澄湖に降る季節になると、水面をしとしととした煙霧が巻き上がり、煙雨楼を霧の中に閉じ込める。この時、湖水も上空も同じ色で茫漠とし、何もはっきり見えない。ただハスの花から絶えず清い香りが伝わって来るばかりである。こうしたうるわしい雨の景色は、南湖の煙雨楼で見える景色に比べても、あたかも一層勝っているかのようである。
煙雨楼
康熙、とりわけ乾隆は、精一杯に熱河の行宮の中を江南の景色で飾り付けた。前記で紹介した芝径雲堤、文園獅子林、上帝閣、煙雨楼などの地点を除いて、環碧半島北端に位置する採菱渡も、その一例である。採菱渡は乾隆と彼の后妃(嬪妃)たちが湖で遊ぶ時に舟に乗る場所だった。渡口には草亭が建てられ、亭は瓦が無く、黄草で屋根が葺かれ、遠くから望むと、形が笠のようで、これは山荘内で最も質素で飾り気のない建物である。夏になると、ここは完全に江南の風景である。
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