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北京史(三) 第二章 夏商周時代の北京(2)

2023年04月16日 | 中国史

(写真)北京考古遺跡博物館(瑠璃河遺跡分館)

北京市房山区琉璃河董家林村

 

燕国の都城

 史書の記載によれば、西周の初年、燕の召公の封地は「」或いは「北燕」と呼ばれた。地処は今の淶水県一帯の古北伯領地で、燕の召公の封地以内も含まれていた。周の武王は褒賞としての後代(子孫。『史記』では帝堯の後、『楽記』では黄帝の後とする)をに封じ、しばらくするとまた燕の領地に帰することとなった。史書では周初の燕国は「地は燕山の野に在り」、すなわち今日の燕山のラインの南を指し、華北平原の北端、北京市の周囲である。

 北京地区の最古の都邑、「幽都」は集落の名称で、原始的な村落から発展していった。西周の時代、燕の都城は今の房山県瑠璃河鎮東側の董家林村周囲に位置し、これより北魏時代まで、ここは「聖聚」(聖なる町)と称された。古聖水(今の大石河、また瑠璃河とも呼ばれる)は北から南に流れ、曲折して西南に流れ、また向きを変え東方に流れて行く。燕都はこの川の湾曲地帯の高く平らな台地の上に建設された。

北京商周古城の位置

商周古城跡略図

 董家林村周囲に残る燕国古都の基礎の遺跡は、東西長850メートル、南北幅約600メートルで、東西にやや長い長方形である。城壁は黄土版築(板で枠を作り、黄土をその中に盛り、1層ずつ杵で突き固めたもの)で作られ、主城壁は厚さ3メートルあり、内外にまたそれぞれ一層の護城坡(傾斜面)が築かれ、城壁の外側には更に城壁を取り巻く塹壕(壕溝)があった。古城内の遺跡では、曾て西周時代の板瓦が発掘された。これは燕国の宮殿の建物、或いは貴族の屋敷の遺物である。

 董家林村の燕国古城遺跡東南一里のところに黄土坡村があり、ここは燕侯と貴族の陵墓地区で、数百の大、中、小の墓が分布している。大型の墓には二本の墓道があり、墓道が四本あるものもあり、墓前には車馬が陪葬され、墓の中には大型の木棺が架設されている。中型の奴隷主の墓にも、車馬が合葬され、大量の青銅礼器が副葬されていた。

 燕国の青銅器の銘文から、燕の召公武王の冊封(さくほう)を受けてからも、相変わらず宗周(周朝の都城の所在地)に居留し、王室に供職し、彼の長子を燕地に派遣して封じたことが証明された。召公奭(せき)は曾て自ら燕地に臨み政務を処理したことがあり、燕侯もしばしば近臣を宗周に派遣して召公にかしずいた。燕侯の意向は宗周に行って、王室に仕えることだった。西周の時代、燕と周王室の間では、たいへん密接な関係を保っていた。武庚(殷の紂王の子供)の禄父( 武庚 の名前)は三監の管叔蔡叔霍叔といっしょに周の領土の中心で騒乱を起こした時、燕国は依然として北方に盤踞し、北方の安定を維持した。董家林の燕国の古都は、燕の西周時代の政治、経済、文化の中心で、燕侯は正にここで各種の政務活動を行い、祖国の北方を経営、開発した。

 董家林古城の地処は華北平原の北端にあり、太行、大坊山脈の周囲で、ちょうど南は中原に達し、北は塞外に通じる交通の要路にあった。ここから北に行くと、盧溝河の渡し場を越えて、古薊城に到ることができた。更に東北に行くと、燕山の狭隘部を通り越して、東北の広大な地区と連絡することができた。ここから西に行くと、拒馬河に沿って流れを遡り、大坊山を越えて淶水県の境に到達し、そこは古北伯領地の所在地であった。更に西北に行くと、雁代地区と連絡することができた。董家林燕国古都は、領地全体の中心地帯に位置しており、燕人が都邑を建てるのに最も相応しい地点であった。正にこの場所から出発して、燕国は次第にその領域の境域を外に向けて切り開いていった。西周の初年、燕国の境域は既に燕山を越え、古北口の関所を越え、大凌河(だいりょうが)の流れに沿って下り、先進的な青銅器文化を以て遼西の広大な区域を育てた。

 燕国の領土が東北方向に向け拡大、山戎部族の燕山山地での発展に従い、董家林の燕国古都は次第にその重要な地位を失い、史書の記載によると、春秋中期の燕の襄公の時、燕は既にを都城とした。薊も悠久の歴史を持つ古国であり、武王が商を滅ぼして以後、帝堯(或いは黄帝)の子孫をここに分封し、その後、薊が燕の統轄の下に帰し、春秋中期よりはじまり、は燕国の都城となった。

 薊城の位置は、今日の北京外城の西北部あり、戦国時代の人々はこれを薊丘と呼んだ。古代にははまたとも呼ばれ、すなわち集落であり、薊丘も原始集落から発展してできた古代の都邑である。広安門付近では曾て戦国、或いは戦国より更に古い遺跡、遺物、とりわけ饕餮紋(とうてつもん)の瓦当(軒先の先端の模様や文字が刻まれた部分)の半分が発見されたことがある。これは燕国が戦国時代に使用した宮殿の屋根瓦の構成部品であり、古薊城の所在を示している。北京外城の西北の角、東は宣武門を経て和平門に至る一帯、広安門内外、法源寺の東北、陶然亭公園等の場所で、たびたび戦国時代の薊城の人々が水を汲んだ、陶製の井戸の丸いわっかの焼き物が発掘され、古薊城のおおよその範囲を示している。

 薊城地区の西、北、東の三面は、群山に取り囲まれた場所にあるが、群山の後方には、多くの遊牧部落があり、薊城地区の居民は、古北口居庸関の狭隘を通じ、それぞれそれらの部落と経済的連携が発生した。北京昌平白浮村で発見された西周の燕国の墓、及び北京延慶西墢子で発見された春秋遊牧部族の墓から、華夏部族の礼俗(儀礼)は既に北方の戎族部落に吸収され、北方の草原地区の青銅芸術も燕国の文化に強い影響を与えた。

 考古学の発掘調査により分かったことは、戦国中期の燕の桓公文公易王の時代、燕はまた易水の傍に武陽城を造営した。これが燕の下都である。七国が雄を争った時代、燕の下都は燕西南部の重鎮となり、南に強国趙を押さえる役割を果たした。

 

燕都付近の階級関係

 周が商を滅ぼして以後、召公奭(せき)は燕の地に分封され、奴隷制国家、燕を建てた。

 周初、燕侯の家族が燕国の統治者となり、城内に封じた各部族、方国に対し、「商政を以て啓し、周索を以て疆とする」という方針を採用し、彼らに相変わらず自分の部族や領地を保有させ、彼らに各々その土地の祭祀を守らせ、 召公奭を首領とする燕侯の家族に臣服させ、共同で燕国の統治階層を形作った。西周初期、いくつかの商代から続く古老部族、例えば北伯などは、相変わらず燕国で地位が顕著な部族であり、彼らは依然、侯や伯で呼ばれ、各部族は相変わらず旧日の名称と徽号(美称)を保持し、燕地の開発と北方の安定維持に貢献した。これらの部族の首領や貴族は、しばしば燕侯の恩賞を受け、多くの青銅彝器(いき。酒壺)を作って残し、燕侯の彼らへの恩寵を記録し、彼らの当時の光栄を示した。燕侯の家族と燕地に元いた部族の首領は燕国の統治集団を形作った。

 燕国の奴隷制度の下、平民と奴隷は社会の最底層に処された。彼らは巧みな両手の技で生産を発展させ、きらびたかに輝く青銅文化を創造したが、奴隷主は彼らを家畜や道具と同一視し、残酷に搾取し、気ままに奪ったり分割したりした。

瑠璃河西周墓に合葬された車馬及び奴隷

 「寓兵于農(兵農合一。平時は畑を耕し、戦時は兵隊となる)の制度の下、平民階級は農田で労働しただけでなく、しばしば兵として戦争に行き、時には重い労役に駆り立てられた。当時、城の修築や、統治者のために陵墓を建造する工事はたいへん繁雑であった。古燕都のような規模の城壁や堀の建設、燕侯の墓地のようにいくつかの大、中型の墳墓であれば、長さ数十メートル、深さ十数メートルであるが、このような工事は疑いなく大量の人力が動員され、大量の資材が消費された。木や石の工具を主にする時代には、平民階級が毎年の労役の中で支払う代価は、見積もるのが難しいものだった。

52号墓(瑠璃河西周墓葬)

 奴隷の扱いで、奴隷主は生殺与奪(せいさつよだつ)の権力を持ち、奴隷たちはしばしば様々な虐待や酷刑に遭った。瑠璃河の黄土の傾斜地の墓地で車馬と一緒に埋葬された奴隷は、十の指の骨が全く存在せず、生前に残酷な刑罰を受けたことを物語っている。燕国では、奴隷も恩賞や殉葬に用いられた。ある名を「復」という奴隷主が作った銅尊の上に、燕侯が彼に恩賞で与えた「冕、衣、臣、妾、貝」の銘文があった。臣、妾は男女の奴隷で、彼らは 冕、衣に列せられた後、彼らの社会地位が低下したことが分かった。黄土の傾斜地の墓地の中では、手足が縛られ、体に馬具を背負った陪葬奴隷が発掘され、奴隷たちが牛や馬の如く悲惨な境遇にあったことを実地で反映していた。同一の墓地の多くの墓の中の小奴隷主の墓の中で、多くで生きたまま、或いは殺されて殉葬された奴隷が発見された。これらの奴隷は、あるものは両手が切られ、あるものは頭に重い傷を負っており、あるものは首だけが葬られ、あるものは車馬といっしょに葬られ、あるものは棺桶の間に挟みこまれていた。それらは大部分が体をかがめ横向きに寝かせ、顔は奴隷主を向き、一種うやうやしくかしずく姿勢を保っていた。奴隷主は棺桶の真ん中に静かに横たわり、仰向けで天を向き、死後天国に昇り、幸福を得ることを妄想した。これは奴隷主がそうすることを望んだのであり、世の中の生活の縮図である。

 奴隷主階級の残酷な統治は必然的に平民や奴隷の反抗を引き起こした。春秋、戦国時代になり、奴隷主貴族階級は没落、消滅の道を歩み、その統治地位を維持した等級制度と一連の礼儀形式も、次第に崩壊し、いわゆる「礼は庶人に下さず」の時代は次第に過去のものとなった。北京地区で発見された春秋、戦国時代の燕国の墓は、この歴史の趨勢をはっきり反映していた。一面で礼儀制度の上で絶えず僭越な現象が起こり、戦国時代になり、平民の中にも陶製の礼器を作って副葬品にする者も現れた。別の面では、奴隷主貴族が没落し、彼らは次第に往時の等級と地位を失い、依然として礼器を一式使ってはいたが、もはや青銅礼器を模した陶製の礼器であった。

 鉄器は燕地で社会生産力の大きな進歩を押し広め、燕国の階級闘争の発展をより一層推進し、燕国は社会革命の嵐に直面した。燕の昭王の時代に一連の政治改革措置を進めたのは、燕国の階級矛盾が発展した結果である。

 

燕都付近の経済と文化

 燕都の場所は華北大平原の北端に当たり、付近は一面の沃野で、何本もの北部山地を源に、またそれを貫く大河と細い流れがここを通り、良好な水利資源を提供し、農業の発展に適していた。西周の初期より、燕国の人々はここで大面積の土地を開墾し、キビ、アワ()、豆、麻などの作物を植えた。農業工具は依然多くが石器やドブガイ(カラスガイ)の貝殻で作られていたが、制作技術は明らかに進歩していた。当時人々が用いた石の鎌は、刃の部分が背部に向かって弧を描いていて、ドブガイ(カラスガイ)の鎌はのこぎり歯状の刃で、刈る力のたいへん強い収穫用工具であった。食糧の生産量は向上し、貴族たちは食糧を洞窟に貯蔵し、多くの食糧でまた酒を醸造した。貴族の墓地で出土する大量の酒器は、貴族たちの飲酒が風習となった腐敗現象を体現しているだけでなく、当時の農業生産の発展も反映している。

 戦国時代、鉄器の広まりと牛耕の出現により、農業生産の大幅な発展を推進した。

 西周時代から始まり、燕国の畜産業は既にたいへん盛んであった。当時の燕国の人々は、牛、羊を放牧し、犬、ブタ、馬の飼育は更に燕人の放牧の重要な家畜であった。当時は、これらの家畜は使役と食用以外に、主に祭祀と副葬に用いられた。中、小規模の奴隷主の墓にも、ややもすれば組になった車馬の陪葬があり、あるものは数匹、十数匹、墓によっては数十匹にもなった。犬を陪葬し、牛、羊、ブタ、犬、鶏などの家畜を墓前に捧げるのは、どの奴隷主の墓でも見られた。

 燕国の手工業生産は、青銅の鋳造、製鉄、陶器生産、製塩を主としていた。青銅の鋳造業は商代の北京地区の鋳造技術を継承発展したもので、銅器の数量と生産技術では迅速な向上が見られた。西周の初期、燕侯と燕国の貴族は労働者を駆使して、大量の青銅礼器、兵器、車馬器(馬車の青銅製部品)と、銅製の手工業工具を鋳造した。青銅礼器には、鼎、簋(き)、尊、爵、盉(か)、卣(ゆう) 、罍 (れい、らい)、瓿(ほう)、盂(う)、觶(し)、壺、甗(げん)、鬲(れき)等。兵器には、戈(か、ほこ)、矛、剣、戟(げき、ほこ)、斧、鉞(えつ、まさかり)、刀、盾牌、銅盔(かい、かぶと)、弓形器等。車馬器には、当鑪(とうろ)、鑣(ひょう、くつわ)、銜(がん、くつわ)、節約、銅軛(やく、くびき)、鑾鈴(らんれい、すず)、車輨(しゃかん)、軸飾、横木飾等。青銅工具には、斧、錛(ほん)、鑿、削、錐、針等があった。単に青銅礼器の項目だけでも、燕国の青銅器の冶金鋳造技術で輝かしい成果を挙げていたことを十分示していた。重さが75斤に達する体勢が勇壮な大銅鼎、造形が特異な虎足、象足簋(き)、全体に牛面の紋で装飾した銅鬲(れき)は、何れもずば抜けて優れた作品である。

堇鼎(M253、全高62cm、口径47cm)右は銘文の拓本

(瑠璃河商周遺跡出土)

復尊(M52、高さ24cm、口径20cm

(瑠璃河商周遺跡出土)

牛面紋の銅鬲(れき)は、貴族の「伯矩」(はくく)が燕侯の恩賞を記念して作ったものである。器の本体、足、蓋には、何れも牛面を用いて装飾し、彫刻は浮彫(レリーフ)で立体的に彫られている。(れき)の三本の袋足(足は中空)は、彫像の勢いに合わせて適切に処理され、三つの牛面がレリーフされ、牛の唇の部分は内側に隠され、額が前傾し、闘牛のような形状に作られている。牛面にはふくらんだ大きな鼻があり、鈴のような大きな目、二本の太く逞しい角が斜め上に跳ね上がり、隣り合った牛角が二本ずつ相対し、器物に厳めしい雰囲気を添えた。蓋、紐は各々二頭の牛の頭が背中合わせに組成されている。蓋の上の四本の牛の角が多少器の耳の上方に飛び出し、器の蓋の中央は自然と下に窪んでいる。立体彫刻の双牛の蓋紐は、窪んだ所から突然飛び出し、完璧に調和のとれた作品を作り出している。

伯矩鬲(M251、全高32.5cm、口径24cm

瑠璃河商周遺跡出土

 燕国の青銅礼器は、中原とほぼ一致した風格を備えていたが、虎、牛などの形象で器の足を作ったのが、周初の燕国青銅工芸の特徴である。また、武器の項目では、中原と同じ類型以外に、北方の草原遊牧部族の風格と一致する刀、剣、匕首、銅盔があった。これらの器物は、鷹の首、馬の頭を飾りにしていた。これは、北方の草原地区で発見された同類の器物で普遍的に採用されたものである。こうした現象は、南北文化が燕の地で合流し溶け合ったことを十分に体現している。

 戦国時代になると、燕の青銅器にもわずかに軽快な風格を持った鼎、豆、盒、壺、鈁(ほう)、鐓(たい)などの器物が出現し、多くは鋃 (ろう、鉄の鎖) 、象嵌、黄金や赤銅のメッキで器物の模様を作り、青銅器の様相は面目一新した。

 戦国時代、燕国の農具には、鋤、鎌、鍬などがあり、また斧、鑿など手仕事の工具もあった。北京の密雲に隣接する河北省興隆県出土の戦国時代の鉄の金型は、炭素含有量4.45%の標準白鋳鉄で鋳造されたものである。鉄の金型の外形の匜輪郭と鋳物の形状は類似し、壁厚は均等で、こうすれば各部の放熱と収縮を一致させ、金型の寿命を延ばすこよができる。このことから、当時の冶金技術が既に高いレベルであったことが分かる。

 燕国の陶器生産も発達した。西周時代、ここの陶器は主に縄紋を装飾とした灰陶、紅陶の鬲(れき)、簋(き) 、罐などであった。春秋戦国時代になると、ここで生産された陶器は、鬲、罐のような一般の生活用の器以外は、主に青銅礼器を真似た陶製の鼎、豆、壺、盤、匜(い)、盨(しゅ)、 簋(き)などであった。

 戦国時代、薊城は商業が発達した都市であった。城内では、定期的に市が立ち、当地や、中原から来た商人以外に、東北から来た、東胡、朝鮮などの商人がいた。市で販売される商品には、糧食、麻、棗、布帛(ふはく。綿織物と絹織物の総称)、鉄器、銅器、陶器、食塩、キツネの毛皮、フェルト、馬などがあった。貨幣は既に広範に使用され、主な貨幣は燕国が自ら鋳造した「明刀」で。三晋地区の各種の刀、布(貨幣の名称)もあった。薊城は既に北方各民族共同の経済の中心になっており、戦国時代の「天下の名都」の一つとなった。

 燕国の改革以降、経済は大いに発展し、同時に新たな社会の矛盾も拡大した。新たに出現した大量の小自作農は、生産の発展に一定の積極性をもたらした。しかし彼らは間もなく土地を細分化し、多くの人が次第に田地を失い、新興地主の小作人になったり作男になり、大量の田地は貴族や官僚、商人の手に集中した。官営の手工業工房の組織は膨大で、政府は「工尹」を設けて生産を管理し、 工尹以下、各級の管理職を置いた。職人の地位は奴隷とほぼ同じで、彼らは昼間、鞭打たれながら多くて重い労働に従事し、夜間は工房の中に閉じ込められた。

 燕国は中原から遠く離れているが、中原の経済文化と密接に連携し、燕国の人々は華夏人華夏は中国の古称)と見做された。商代後期からは、燕地の人々は中原地区と同じ宗教習俗と文化的素質を備えた。燕人も亀の甲羅や獣の骨を用いて占いを行った。甲骨には、錐で穴を開けたりほぞ穴を開け、併せて火で焼いて、時には兆しを占う部分の傍らに卜辞を刻んで記した。青銅器の鋳造技術も相当に発達し、器物の各部は多くは動物の形象で装飾を作り、これが燕国の銅器の際立った特徴であった。銅器の銘文の特徴は稚拙で素朴であった。燕人と「胡人」は多くの地域で雑居していたので、燕人の青銅器のデザインや技術にも、遊牧民族の芸術の特徴が浸透していた。武器の装飾は、大空を旋回するタカや、草原を疾走する駿馬に取材し、本当に遊牧民族の風がはせ稲妻が走るような馬術や弓術の雄姿を反映し、造形の美しい銅の兜も、遊牧騎士特有の装束であった。燕国の青銅器を模した陶器の礼器は、スタイルが美しく大らかであるだけでなく、模様も極めて精緻であった。陶器上の紋様の装飾には、彩色上絵、暗紋、付加紋が使われ、図案から言うと、流雲紋、蟠螭紋(ばんちもん、とぐろを巻いた角の無い龍の紋様)、水波紋、魚紋、獣紋などに分類される、多くの瓦当(がとう。軒瓦の先端の模様)は饕餮紋(とうてつもん)や樹葉紋で飾られていた。薊城一帯の人々が創造したこれらの作品は、当時の燕国の科学文化レベルを代表するだけでなく、具体的に当地の人々の芸術の素養や生活上の思想や感情を体現していた。

 薊城の人々は歌や踊りを好み、彼らの歌舞と生産、生活は密接に関係し、内容は豊かで多彩だった。民間の芸術はたいへん多く、彼らはしばしば市場や酒場に集まり、鼓や琴を打ち鳴らし、声を張り上げて歌った。彼らの歌声は人々の喜怒哀楽を反映しており、それゆえ一般の人々に愛された。「燕、趙は古来慷慨悲歌の士多し、」これもこの地域の人々のさっぱりした性格の特徴を反映している。

 燕国の役所には女伶官(女性の役者で官職に任命された者)が置かれ、歌や踊りを良くする役者や音楽家を管理し、専ら王侯貴族に娯楽や楽しみを提供していた。

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北京史(二) 第二章 夏商周時代の北京(1)

2023年04月14日 | 中国史

見出し:三羊銅 罍(らい)、平谷県劉家河出土

 

第一節 夏商時代の北京地区の青銅器文明

 原始社会から奴隷社会までの間には、相当長い過渡期の時代がある。原始氏族社会制の晩期、私有制、階級は既に萌芽し、奴隷制確立後も長い間、原始氏族社会の名残は様々な形で残された。およそ紀元前2千年代の初期、北京地区は既に歴史に沿って進化し、原始社会は次第に奴隷制社会に移り変わりつつあった。

 

 伝説中のの時代、商族の祖先、は曾て牛車に乗り、北京以南の易水近傍で牛や羊を放牧し、各部落の間で売買を行った。有易部落は亥を殺し、亥の牛車と牛、羊を奪った。後にの兄弟のの子供の上甲微が亥の敵を打ち、有易部落を打ち負かした。この話は多くの古書の中に記載がある。これらの商族の祖先の名前も、商代の甲骨卜辞の中に見られる。

 

 龍山文化(山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖1928年に城子崖遺跡が出土し、1930年以降本格的に発掘されたことから来ている。龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることからろくろが使われていたと見られる)の時代の後、北京地区は青銅器文化の時代に入った。およそ紀元前2千年代、すなわちおよそ中国の歴史で夏商の二つの時代、北京地区で活発であったのが、一種の顕著な特色を備えた青銅器文化であり、考古学ではこれを「夏家店下層文化」(最初の発掘が内蒙古自治区赤峰市夏家店遺跡下層であったことからこう名付けられた)と称する。こうした青銅器文化を創造した先住民たちは、今日の河北省北部、遼寧省西部、及び京津地区に相当する幅広い範囲内で生活した。北京昌平県雪山村、密雲県燕落寨、平谷県劉家河、豊台区新楡樹庄、房山県瑠璃河では当時の人々の文化遺跡や墓が発見されている。

 

 当時、北京地区の手工業生産はめざましく発展し、陶器生産と青銅器の鋳造は既に独立した手工業部門となり、大量の精巧な陶器や、形も飾りも美しい青銅器を生産した。

 

 彼らの陶器は明らかに地方の特徴に富んでおり、炊事道具に用いる陶器の(れき)のように、形を典雅な筒状にしたものや、肩の部分を特にふちを曲げたものがあった。陶器の表面には、赤と白で交互に巻雲紋の図案を描き加えたものもあり、器物の芸術性がより増すことになった。

 

 青銅器の冶金鋳造産業は、相当高度な成果を上げた。早期の段階の青銅器は、形が小さいだけでなく、造形が単純で、例えばイヤリング、矢じり。小刀などのようなものだった。商代中期になって、北京地区では紋飾りがこまごまとしていて、形が雄壮な大型礼器、例えば(らい。酒器)、(か。酒を温める3本足の器)、(ゆう。酒を入れるつぼ)、(か。3本足の酒器)などが出現した。平谷劉家河(北京市平谷区南独楽河鎮の管轄の村)で出土した三羊銅罍鳥柱亀魚紋銅盤は、何れも当時の青銅器の芸術の傑作である。銅盤は外側に湾曲した幅広の縁(へり)が付いていて、縁の両側は対称に鳥形の柱が付いていて、内側の底の中心線には亀魚紋の図案が刻まれていた。盤で水を受けると、内に亀が潜り魚が跳ね、その横で水鳥がたたずみ、芸術品と言うに恥じないものとなっていて、これを作った人の知性と才知が現れていた。

北京市平谷区南独楽河鎮(劉家河村は南独楽河鎮西北5Km

 

三羊銅 罍(らい。酒器)

高さ28.8cm、口径19.9cm

平谷県劉家河出土

 

鳥柱亀魚紋銅盤

 当時、人々は鉄に対し、一定の認識を持っていた。平谷県劉家河出土の鉄刃銅戉(えつ。まさかり)は、天然の隕鉄を鍛錬して薄刃にし、その後、青銅を流した鋳物をつなぎ合わせて作られていた。これは我が国の人々が最も早期に鉄を使い始めた試みであり、このことは北京の人々が三千年あまりの鉄の使用の歴史があることを示している。

鉄刃銅戉(えつ。まさかり) 

長さ8.4cm、柄の幅5cm

平谷県劉家河出土

 生産の発展は階級の分化を促し、平谷県劉家河で発見された商代中期の青銅器を副葬した墓は、奴隷主の貴族でこそ作ることができた。奴隷主は生前、権勢を笠に威張り散らしていて、死後も贅沢の限りを尽くしていた。ひとつの墓の中に、青銅礼器十六件、金の笄(こうがい。髪飾り)、金のイヤリング、金のブレスレットなど金の飾り四件が副葬され、極めて貴重で、珍しい鉄刃銅戉も併せて副葬品とされた。

金のブレスレット

(直径12.5cm、総重量173.5g

 奴隷主である貴族の享楽と金銭の浪費は、奴隷や一般の人々の苦しみの上に築かれたものであった。貴重な青銅器は先ず奴隷主階級の奢侈品として用いられ、一般の人々は依然として木、石、陶器、カラス貝の貝殻で作られた工具を用い、畑の耕作、収穫を行っていた。昌平雪山村で発見された多くの平民墓では、副葬品は一、二件の陶器や石器の他は、日常のものも無いか、何も無い墓もあった。これは平谷劉家河の奴隷主墓と鮮明な違いが見られる。

 

 文献の記載によれば、商代後期、北京地区にはふたつの著名な部族がおり、すなわち商族の同姓孤竹燕亳(はく)であった。このふたつの部族は商朝北方の付属国で、商の北方の藩屏(辺境警備の重鎮)であった。孤竹、燕亳の発展は、商朝の北方の安寧を保証し、この地区が我が国の北方古代文明の中心になった。

 

 

第二節 周代北京地区の奴隷制国家、燕

 

 紀元前1027年、武王が商を滅ぼして以降、同姓の貴族である召公奭(せき)を北燕に分封し、燕国に始めに封じられたのは召公奭の長子であった。『史記・燕召公世家』では、紀元前九世紀の燕恵侯以来、三十五代の王、侯の系譜は、燕の召公から以下燕の恵侯に至る九代の燕侯の名称は、西漢時代には既に伝承が途絶えてしまった。

 

 召公奭は、文献ではまた君奭と称し、周王室の太保で、位は三公に相当した。彼は成王を補佐し、紂王の子、武庚、 字は禄父 と東夷の徐、奄、薄姑など方国の反乱を平定し、周人の東方の統治を強固なものにした。召公奭は自ら燕の地に臨み、燕国を統治、開発する活動に従事し、燕国は間もなく発展を開始した。周の初期、燕国の統治階級は、「引き続き商の法律を適用し、辺境は周の法律で治める」という方針を採用し、当地に商代に残された氏族や部族に対しては、変わることなくその氏族、宗族の組織を保ち、もともとあった氏族や貴族と連合し、利用することで、当地の人々を統治、籠絡した。西周の初期、燕国には依然、多くの商代の著名な氏族や部族が見られた。各族はそれぞれの氏族の彝器(いき。酒のつぼ)を保有し、また引き続き元々の氏族の名称と愛称を使用した。復、攸(ゆう)、伯炬らのような彼らの首領である人物も、燕侯の恩賞を受けた。銅器の銘文の記載によれば、燕侯旨(おそらく第一代の燕侯)は曾て宗主の周に行き、王室に仕えたが、このことは燕と周の王室の間に密接な関係があったことを示している。

 

 西周の初年から始まり、燕国の勢力の及ぶところは、既に燕山山脈を越え、遼西大凌河流域に達していた。遼寧省喀左県ではこれまで何度も周初期の燕国の青銅器が発見され、その中には銘に燕侯の字句のある銅盂(う)があった。これにより、燕国の北部の境域が既にここまで伸びていたことが分かる。当時、燕の東の端は孤竹と接し、北面は粛慎と隣接し、周の北方の重要な諸侯国であった。

 

 燕国の所在は華北平原の北端で、燕山山地の両側であった。燕山山地と山地の背後は、遊牧部落がいつも出没する地方であった。我が国の古代より、燕の地は華夏文化と戎、胡文化が交流するターミナルで、中原と東北の経済、文化が合流し溶け合う地域であった。解放後、北京の周辺の長城内外で、大量の燕国の青銅器やその他の文化財が出土し、これらの文化財はこうした特徴を十分に体現している。北京昌平県白浮村で発見された周初の墓の中から、文字の刻まれた占いで用いられた亀の甲羅や骨が出土し、このことから当時の燕国の統治階級も亀の甲羅や獣の骨を使って運勢を問うたり、占いの活動をしており、商代後期以来流行した亀の甲羅に穴をあけ運勢を占う風習が、この時代燕の地にまで広がっていたことが分かる。青銅器の鋳造の面では、器物の種類にせよ器物の形態にせよ、何れも中原と北方の両方面からの影響が現れていた。燕国は、私たち多民族国家の発展と成長の過程の中で、重要な役割を果たした。

 

 春秋時代、山戎部族は燕国北部山地で大きくなり、いつも燕に対し騒動を引き起こし、燕国の農業生産と人々の生活に厳重な危害を与えた。燕の庄公の二十七年、斉の桓公が軍隊を率いて、山戎を北伐し、山戎部族を大いに破り、山戎の燕国北部地区の脅威を取り除いた。

        陶壺(全高69.5cm)         

         (昌平松園春秋墓出土)          

 

銅豆(たかつき。食物を盛る足付の台)

(全高 49cm

 

燕国の刀幣

 長期の発展を経て、戦国時代になり、燕国の社会経済が発展し、鉄工具が農業、手工業で幅広く使用され、社会生産力に多大な変革をもたらせた。農業、手工業の生産の発展につれ、商業も次第に盛んになり、地域的な特色を備えた燕国の刀幣(刀銭)が燕国の都市部や農村で広範に流通し、燕国の都城の薊や下都の武陽は、当時の有名な都市となった。商業の発展、金属貨幣の普及により、金銭の貸借とそれに伴い高利貸も発生するのを免れることができず、土地の売買と集中も、瞬く間に広まった。階級分化、階級矛盾も益々激しくなり、奴隷、農民の反抗と闘争が、奴隷主貴族の統治を猛烈に攻撃した。燕国の一部分の奴隷主は、階級矛盾を緩和するため、中原各国と同様、政治改革を実施した。

 

 紀元前320年(燕王噲(かい)の元年)、 燕王噲が位を継いだ。燕王噲の五年、政治改革を行うため、王位を相国の子之に譲った。子之は相国の時、政策が果断であり、臣下の監督、考課に長けており、 燕王噲に才能を認められ、重用された。子之の南面の聴政は、太子平を首領とする保守勢力に対し、大きな打撃となった。紀元前314年(周の赧(たん)王の元年)、太子平と将軍市被は徒党を組み人員を集め、ネットワークの遅れた保守勢力は、薊城で反乱を起こし、「宮殿を取り囲み、子之を攻撃し」、同時に彼らは斉の宣王と結託し、彼らに兵を薊城に派兵し、援軍させた。 燕王噲と子之は人々の支援の下、数か月奮戦し、太子平と将軍市被を攻めて殺し、反乱を平定した。続いて斉の宣王は「五都の兵」を起こし、大挙して燕を攻め、薊城を落とし、子之と 燕王噲を殺し、燕国の宮室は掠奪され空っぽになった。内乱と外患が踵を接して至り、燕国の人々に限りない災難をもたらした。

 

 斉兵が退却後、趙の武霊王が韓で人質になっていた燕の公子職を護送して帰国、即位させた。これが燕の昭王である。燕の昭王は、中原で人質になっていた間、中原の幾分進歩した政治、経済、文化の影響を受け、燕国を改革しようという抱負を持っていた。 燕王噲の時の内戦と斉の侵攻で、旧貴族勢力はひどい打撃を受け、同時に幅広い人々の闘志も練磨されたことは、燕の昭王が精励して国を治めようとし、政治改革を実行するに当たり、道を掃き清めることとなった。

 

 燕の昭王が位を継いで後、郭隗の協力の下、易水のほとりに黄金台を築き、身分が低くても厚い待遇で天下の英傑を招聘した。「楽毅は魏より行き、鄒衍は斉より行き、劇辛は趙より行き、」各国の賢士が次々燕に来て、昭王に重用され政治改革を行った。燕の昭王は楽毅の「能を察して官を授く」という政治主張を受入れ、「禄を以てその親を私せず、功多きは之を授く。官を以てその愛に随わず、能く当る者は之を処す。」これは論功授爵授禄の制度であった。燕の昭王はまた官吏制度を改革し、燕王の下に、相国と将軍を設け、政治、軍事の大権を分掌した。全国を五郡に分けた。すなわち上谷漁陽右北平遼西遼東の五郡で、郡の下に県を設け、郡守と県令は国王が任命した。燕はまた厳格な刑法を制定した。史書の記載には、「系獄」(牢獄に拘禁する)、「」、「刳腹」(割腹)、「」(腰斬)などがあった。燕の昭王は二十八年の努力の結果、「燕国の富み栄えること、士卒は安楽を楽しみ、戦を軽んず」という状況であった。

 

 燕の国力が回復して後、対外的に長期間戦争を行った。燕の昭王の十七年、燕と趙の武霊王は連合して中山国を攻め滅ぼし、中山の土地を分割し、燕の旧領土を回復した。同二十八年、楽毅に上将軍の官位を授け、秦、楚、韓、趙、魏の五国の軍隊が会合し、共に斉を攻め、斉軍を済西で大いに破った。燕は斉の七十二城を取り、斉都、臨淄に入り、斉の宮室や宗廟を焼き払い、斉の珍宝を掠奪して空っぽにし、斉の人々に深刻な災難をもたらした。

 

 燕は戦国の七雄の中で最も弱小で、燕の昭王の政治改革も継続することができず、楽毅、楽間などが相次いで出奔し、燕の恵王より、燕の対外戦争はいつも燕の軍隊の失敗で終わりを告げた。燕王喜の四年、燕軍は趙を攻め、六十万の大軍が全て覆滅された。燕の統治者はまた人々を駆使して長城を二本修築した。北長城は西は造陽(今の河北省懐来県)から東は襄平(今の遼寧省遼陽県の北)に到り、うねうねと千里余り連なり、これにより匈奴東胡の侵入を防御した。南長城は、易水の堤防を拡張したもので、西は今の易県西南から、易水に沿って東へ伸び、長さは数百里、これによりの侵攻を防御した。

 

 燕の長期の対外戦争は、人と物資の消耗が甚だしく、一般の人々への租税、軍事のための賦役、徭役の負担が益々重くなり、戦場で死んだり、長城の下で倒れて死んだ者は数えきれなかった。

 

 燕王喜の二十八年(紀元前227年)、秦の大将、王翦(おうせん)が軍を率い易水の西で燕軍を破り、燕の下都を占領し、翌年また薊城を攻撃した。これにより、燕は斉、楚、韓、趙、魏と同様、専制主義中央集権の封建国家、秦に統一された。

 

 

 

 

 

 

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北京史(一) 第一章 太古の北京

2023年04月10日 | 中国史

 

 これからご紹介するのは、北京出版社より、1985年8月に初版が刊行された、北京大学歴史系『北京史』編写組による、『北京史』、すなわち北京の歴史です。中国史の中で、北京地区の歴史にフォーカスします。

 

 

第一節 北京人(北京原人)とその文化

 おおよそ五十万年前、北京房山周口店地区(北京市街地から西南へ約50Km)で、原始の人類が働き、生息していた。これが世の中でよく知られている「北京人」(北京原人)である。

ちなみにこの章で言う「北京人」とは、「北京猿人」、すなわち北京原人のことです。

 北京人は周口店龍骨山北斜面の洞窟の中に居住し、そこには彼らの骸骨の化石、使っていた工具、火を用いた痕跡と大量の哺乳動物の化石が残されていた。これは人類の起源の謎を紐解く歴史の宝庫である。

周口店龍骨山遺跡

 人類の誕生にはおよそ200万年あまりの歴史があり、北京人は原始人類の発展過程の中の一部である。北京人の四十個あまりのそれぞれの個体の研究から、彼らの体質と外形は、既に現代人とほぼ同じであることが分かっている。彼らは主に右手で労働を行い、自由に直立歩行ができた。これは現代人と同じである。彼らの頭蓋骨の形状と内部構造は尚たくさんの原始人類の性質を保っていて、脳の体積は現代人の80%ほどであった。しかし、彼らの大脳は猿に比べると大いに発達していて、現代の猿の平均の脳体積は、北京人の平均の脳体積の40%程度である。彼らの顔面は短く前に突き出しており、額は低く平らで、後ろに傾斜しており、眉骨は太く丈夫で、左右がひとつにつながり、顎骨は高く、鼻骨は幅が広く、口は前に伸びていて、下顎が無い。彼らは既に簡単な思考能力を持っており、言葉を話し始めていた。

 

 北京人の時代、北京地区の地形は基本的に現在と同じだったが、気候は現在より湿潤で暖かく、動物の種類は現在よりずっと多かった。周口店龍骨山の北面、西面と西南面には大小の丘があり、丘にはエノキやハナズオウ(紫荆)の類のジャングルが生い茂っていた。ジャングルには虎、ヒョウ、狼、熊、鹿、イノシシ、ゴリラなどが居た。龍骨山の東麓には、幅の広い川が流れていて、川の近くは水草の群生する沼沢になっており、巨大な水牛、カワウソ、ビーバー、亀などが常にそこで活動していた。沼沢地帯の東南は広い平原で、平原上は草地で、また乾燥して砂地になったところもあった。草地には一年中四季を通じて群れを作った野生の馬、牛、羊がそこを疾走し追いかけあった。秋の終わりから初冬には、ヘラジカも遠くからここにやって来た。乾燥して砂の多いところでは、ゆっくり移動するラクダの群れや、いつも頭を砂に埋めるダチョウが居た。

北京人(北京原人)復元像

 北京人は何十万年というたいへん長い歳月の中で、先祖代々このような太古の世界の中で労働し、生息し、繁殖してきた。自分たちの生存を争い維持するために、彼らは丈夫な両手を用い、木の棒や石を材料にして、原始の労働工具や武器を制作し、自然界と粘り強く戦った。

 

 北京人が暮らした時代は、人類の経済文化史上、旧石器時代初期に属する。彼らの石器は、原始時代の打製方式で制作され、技術はまだあまり熟練していなかった。彼らは付近の河原で石英岩、緑色砂岩、火打石などを原料として選び、各種の形状の石器を作った。最大のものは厚刃の伐採器(斧の刃)で、比較的小さいのは、両刃の尖状器、更には刃部が鋭利な削器(さっき。スクレーパー)や両端が刃になったものなどがあった。これらの工具はそれぞれ樹木を伐採したり、獣の皮を剥いだり、獣の肉を切り分けたり、同時に狩猟の武器としても用いられた。北京人は苦労して労働し、苦しい闘争を行う中で、絶えず進歩していった。

尖状器

(周口店出土)

伐採(斧の刃)

(周口店出土)

 周口店の北京人の居住洞窟の外側では、火で焼かれた灰の層や獣の骨が発見され、更に一山一山になった厚い灰燼(灰と燃えさし)、木炭、焼けた骨、エノキ(榎)の実が発見され、これは北京人が火を使った遺跡である。北京人は破天荒にアジア大陸でぼうぼうとかがり火を燃え上がらせ、人類の黎明期の到来を宣告した。

 

 原始人は完全に生存の困難、自然との戦いの困難に圧迫されていた。北京人はいつも猛獣の侵入、襲来に遭遇し、飢餓や寒さの脅威に遭遇した。困難な環境に苦しめられる中で、彼らの寿命は一般にたいへん短かった。三十八体の北京人の個体の化石の研究によれば、十四歳以下で死んだものが十五人、五十歳以上まで生きたものは一人だけであった。

 

 当時、生産力レベルの低さのため、集団労働が唯一の取り得るべき方式であり、このことが彼らに数十人を一群れとする原始グループを結成させた。彼らはグループの力に依存して、ようやく凶暴な野獣に打ち勝つことができ、グループでの共同作業によって、ようやく最低限度の生活を維持することができた。彼らは共同で働き、共同で労働の成果を共有し、共同で困難だが平等な生活を送ることができた。こうした原始集団はまだあまり安定はしないが、正にこうした集団生活が、彼らの生存争いの中での困難なリスクからの勝利を保証し、人類社会の発展を促進した。原始集団は、北京人の時代の唯一の社会形式であった。

 

 採集と狩猟は北京人の生活の中で重要な地位を占めた。彼らは植物の根、茎、果実や鳥の卵を採集し、食物にした。彼らが居住したことのある洞窟の中には、焼かれたエノキの実、ハナズオウ(紫荆)の木炭、マメ科植物の種子、ダチョウの卵の化石が残留していた。彼らが狩猟した動物は、多くが野生の鹿、馬、牛、羊、イノシシなどの獣類であり、少数の虎、ヒョウ、狼などの猛獣もいた。鹿類は彼らの主要な狩猟の対象で、夏から秋になると鹿を捕獲し、冬から春にはヘラジカを捕獲した。この他、彼らはまた野鼠、亀の類の小動物も捕食した。

苦難に満ちた生活は北京人を苦しめたが、また彼らを鍛えもした。彼らは集団生活の中で、創造性のある労働により後の世代の人々には想像できない困難を克服し、ゆっくりとではあるが、粘り強く自然に打ち勝ち、太古のアジアの原野に、人類の歴史の序幕を掲げた。

 

 北京人の化石と文化の遺物は北京の周口店で発見され、北京の歴史に輝きを加えた。北京人の骸骨の化石の個体数はたいへん数が多く、文化の遺物は豊富で、発掘記録は完全に整っており、世界の太古の人類の進歩の歴史の研究のうえで、唯一無二の存在である。これは中国の古代文化遺産の至宝であるだけでなく、世界文化の宝庫の中での世にもまれな宝物でもある。

 

 

第二節 新洞人から山頂洞人に到るまで

 

 北京人は周口店に長い間居住していたが、今からおよそ20万年前に、彼らの体質の特徴に顕著な変化が生まれ、猿人から初期の知恵を持った人間新洞人に変化した

山頂洞人復元像

 新洞人は1973年に発見されたが、その個体はただ一本の歯しか存在せず、それは左上の第一臼歯であり、形態は北京人に比べ進歩していた。同じ地層には比較的厚い灰燼が発見され、それは焼けた石、石器、骨と一粒のエノキ(榎)の木の実であった。焼けた骨で最も大きいのは象で、最も小さいのは昆虫類で、草食性の動物が肉食性の動物より多かった。これらは新洞人が既に加熱して食物を食べていたことを証明している。

 

 それから更に数万年経ち、おおよそ二万年前、北京に新たな人類が出現した。これが山頂洞人であり、彼らは北京人、新洞人と数十万年離れているが、同じ小山の異なった洞窟で生活していた。

 山頂洞人は晩期のホモサピエンス(晩期智人であり、彼らの体質の特徴は現代人と何ら違いが無い。彼らの脳の容量から見ると、山頂洞人は既に相当発達した知力を備えていた。

 

 何人かの外国の学者は、山頂洞人の三つの頭蓋骨がそれぞれ蒙古人種、メラネシア人種、エスキモー人種に属すると言い、またたとえその蒙古人種の頭蓋骨であっても、幾分欧州人種の特徴を備えていると言った。これは不正確である。実際には、この三つの頭蓋骨は何れも原始蒙古人種の特徴を備えていた。より細かい種族は当時はまだ決まった型に分化しておらず、彼らは現代蒙古人種の祖先であると見做すことができる。

 

 山頂洞人が使用した石器の発見はたいへん少なく、器の形は伐採器、スクレーパー(削器=さっき)、両刃器に区分することができる。これらの石器の製造技術は、北京人や新洞人より進歩しているが、依然としてたいへん粗雑である。山頂洞ではまた数多く精緻な骨角器を製造していたのが発見された。特に指摘しなければならないのは、骨針の発見により、当時の居住民が既に獣の皮で衣服を縫製し、衣服を身に着けず裸で生活していた時代は既に過ぎ去ったことを証明した。

 

 山頂洞人の経済活動の中で、狩猟は極めて重要な役割を果たした。彼らが猟で得た獲物はウサギ、鹿、野牛、野羊、虎、ヒョウ、ハイエナ、熊など全部で五十種類以上あり、数が最も多いのはウサギとアクシスジカ(斑鹿)で、このことは狩猟技術の進歩と労働組織の発展を反映している。労働の自然分担がこの時代おそらく既に基本的に完成しており、狩猟の職務は主に男子が負担し、採集は既に女子、子供、老人の専門職務になっていた。山頂洞文化層の中で、これまでにたいへん多くの鯉の骨と一本の長さが約1メートルの青魚の骨が発見されており、山頂洞人が漁撈にも従事していたことが分かっている。

 

 生産力の発展は、人々がより強固な集団を結成することを要求し、血縁関係を基礎とする母系氏族が生まれた。

 

 山頂洞人の時代、原始的な物々交換の関係は既に出現していて、山頂洞で発見された渤海沿岸で産する赤貝の殻、宣化一帯で産する赤鉄鉱や、黄河、淮河流域以南で産する分厚いカラス貝の殻は、当時北京地区の居民が既に遠方の地区との物々交換の関係が発生していたことを説明している。

 

 山頂洞人は獣の骨や角を原材料として生産工具、生活用具を作っていただけでなく、獣の牙、魚の骨、カラス貝の貝殻、鳥の骨管を使って、削ったり刻んだり、穴をあけたり、磨いたり、着色したりといった技術を応用し、大量の精巧な装飾品を作っていた。これらは原始時代の芸術の中では相当高度な出来栄えを示していた。山頂洞人の装飾品には、多くが赤色に塗られ、墓の中にも赤鉄鉱の粉末が撒かれていた。ひょっとすると、赤色は当時の人々が最も好んだ色で、彼らの原始的な宗教信仰と関係があるかもしれない。

 

 

第三節 北京の新石器時代

 

 今からおよそ1万年から45千年前の期間は、北京地区は新石器時代にあった。当時、人々は血縁を紐帯に、原始氏族社会を結成し、北京の周囲では、至る所に先住民たちの生活と争いの足跡を残していた。

北京地区石器時代遺跡、古墳分布略図

 門頭溝区東胡林村の西側で、今から約一万年前の人類の骸骨の化石が発見された。ここは、清水河がくねくねと東に流れ、永定河に注ぎ込み、川の両岸は山が幾重にも重なり、時折、山に依り水に面した低い黄土台地が広がり、先住民の遺骸は黄土台地上の墓に埋められていた。

門頭溝東胡林の位置

当時、先住民たちの体質の特徴は、既に現代人と基本的には同一であった。生産と生活が相対的に向上して後、先住民たちは、生産の余暇を利用し、装飾品を作って、自分を美化し飾り付ける生活を送っていたかもしれない。女性たちの首には、大きさの揃った小さな巻貝に穴をあけ、ひもでつないで作ったネックレスを掛け、腕には牛の肋骨の一部を磨いてつなげたブレスレットをつけていた。これらの装飾品が先ず女性たちに用いられたのは、当時女性たちが尊敬されていたことを意味し、女権性のひとつの現れである。

巻貝の貝殻のネックレスと牛の骨のブレスレット

門頭溝東胡林村出土

 山頂洞人の居住洞窟は墓も兼ねており、東胡林の先住民は彼らの遺骸を黄土台地の上に埋葬した。この変化は、当時の人々が、ひょっとすると既に祖先の世代が居住した岩の洞窟の住まいを放棄し、谷間の黄土台地で、新たな労働と生活の区域を切り開き始めたのかもしれない。

 

 その後、先住民たちは川の流れに沿って、谷間を出て平原に来た。川の両岸の台地上、或いは川の流れが合流するところで、土地が高くて平坦な場所を選び、原始集落を建設した。これらの場所は、水も草も豊富にあり、土壌は肥沃で、農作物を育てるにも、家畜を放牧するにも、陶器を製造するにも理想的な場所で、幅広い生活資源を備えていた。この時期の文化遺跡は、北京地区にきら星のように幅広く分布していて、その広がりは広範囲であった。海淀区中関村、朝陽区立水橋では細石器が発見されたことがある。昌平県馬坊、林場、密雲県燕落寨では仰韶時代(中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前2700年あたりである。この文化の名称は初めて出土した代表的な村である仰韶にちなんで付けられた)の遺跡や遺物が発見された。昌平県燕丹、曹碾ではまた龍山時代(山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖1928年に城子崖遺跡が出土し、1930年以降本格的に発掘されたことから来ている。龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることからろくろが使われていたと見られる)の遺跡、遺物が発見された。昌平県雪山村の古代文化遺跡のモデル地区は、上は仰韶時代、中間は龍山時代を経て、下は商(殷)周時代までの基本的な手がかりを代表している。

(れき)3本の空洞の脚を持つ古代の蒸し器

簋(き):食物を入れる器。口が丸く両耳がつく

 雪山村遺跡は、先住民たちの豊かな文化遺産を保存し、仰韶時代に属する手製の赤陶の罐(つぼ)、赤陶の鉢、龍山時代に属する轆轤(ろくろ)製の黒陶の罐(つぼ)、黒陶の盆(鉢)、磨いて作った精緻な石斧が見つかった。これらは皆、農業集落特有の生活と生産の必需品である。北京西郊の西山、西南の房山、東南の通県、東に面した平谷、東北の懐柔、密雲、北に面した昌平、及び塞外にある延慶では、何れも新石器時代の石斧、石のスコップ、石鑿(のみ)、及び石の紡ぎ車などの文化的遺物が発見された。これらの新石器時代の遺物は、45千年前の北京の居民が既に原始的な狩猟民ではなく、彼らは既に農業生産に従事していたことを説明している。これら太古の時代の先住民たちは、氏族社会の集団の力を頼りに、原始的な木や石の工具を用い、樹木を伐採し、雑草を除去し、穀物の種を撒き、原始的な農業活動を行った。同時に、家畜を飼育し、それにより肉食と毛皮の消費が増加した。彼らはまた麻類の繊維を紡ぎ織って衣服とし、陶器を制作して生活用具とした。これら一切のことから、当時の北京地区の居民は既に歴史文明時代の入口まで歩んでいたことが説明されるのである。

 

红陶钵陶器製の鉢

黑陶盆鉢、たらい

 

第四節 伝説の中の幽都

 

 原始社会晩期の生産力の発展は、社会の分業と物の交換の発展を引き起こし、私有制の出現と発展を促進した。氏族の酋長と軍事の首領の権力が強化され、彼らは絶えず氏族社会の集団の利益を侵略、併呑し、頻発する部落間の戦争の中で、大量の財産を略奪した。こうした軍事の首領や酋長は、更に交通の便が良く、経済が発達した集落を自分の拠点にし、初期の都邑を建設し、またこれらの都邑を中心に、次第に部落の地域を拡大していき、部落の力を発展させ、弱小部落を征服し、部落間の連盟を結成した。伝説に言う黄帝の部落、九黎の部落、炎帝の部落の間の戦争は、黄帝、顓頊(せんぎょく)、帝らが幽都やその他の都邑を建設し、こうした歴史上の状況を反映している可能性がある。

 

 中国の伝説時代に、ひとつの強大な氏族部落が中国北方で決起し、伝説に言う 黄帝が彼らの想像の中での祖先である。部落の中で各氏族は何れも動物の名をつけ、熊氏族、(ヒグマ)氏族、(ヒ。ヒョウや虎の類)氏族、(キュウ)氏族、(チュ。金猫)氏族、虎氏族などがあり、彼らはひとつの場所に定住せず、原始的な遊牧を行った。

 

 伝えられるところでは、 黄帝はあちこち兵隊を連れて宿営し、北へ南へと転戦した。彼が率いる部落は炎帝の部落と連盟し、北京以西の涿鹿(たくろく)で 九黎の部落を打ち負かし、その酋長、蚩尤(しゆう)を殺した。後に、炎帝の部落は同盟を解消し、他の部落を侵し辱め、盟主の地位を奪い取った。それで、黄帝の部落は炎帝の部落と阪泉の野で戦い、三度の大戦を経て、炎帝の部落を打ち負かした。その後、黄帝の部落は北に葷粥(くんいく)を追い、涿鹿に都邑を建設した。これは北京付近の都邑に関する最も古い伝説である。

 

 伝説では、黄帝の第三代の継承者、 顓頊(せんぎょく)は「幽陵」で祭祀を行ったという。「幽陵」は幽州であり、北京地区の最も古い名称である。伝えられるところでは、帝の時代、幽州に最初の都邑が建設され、「幽都」と称した。帝堯はまた和叔を派遣して幽都を管理させ、北方を統治した。帝の時、治水に失敗した共工氏をここに流した。

 

 これらの伝説は皆、原始社会の時代の北京と密接な関係がある。これらの伝説と考古学の発見を結びつけることにより、遠く34千年前には、北京地区は既に野蛮時代末期にあり、歴史的な文明時代は間近に来ていたことが証明できる。このことは、北京地区は全世界で最も早く文明の光が輝いた地域のひとつであることを語っている。

 

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