下水処理場関係の設計を年間3件程のペースでさせてもらうようになり、N上下設計
さんからの信頼も受けてきて大阪管轄から広島管轄の仕事もいただけるようになり、
所員も増えてきて忙しくなってきた、昭和48年バブルの始まりというか真ん中という
かのころになり、大手の会社が不動産関係に手を出してきて一般建築の仕事も増えて
きた頃同級生が開発会社に勤めて仕事を発注してきてくれるようになった、
その一環として各地に建売住宅を企画販売始めた、建売住宅であるが、1つとして同じ
形の建物はなく1戸づつ平面から立面にそして庭まで計画に入ったものが多かったの
で、大変楽しく仕事させてもらった、その中でも大規模の団地の開発計画が2か所も
あった、一つは東京の荒川でもう一つは泉北のニュータウンの計画でした、でも2つ
同時には,受けることは出来なかったので、友人のH氏の事務所と一緒にやらせてもら
うことにした。
「和泉陽光台開発計画」大きな計画でした、団地の中をバスが走り小学校もありの
計画で、最終畳2畳ぐらいの全体の模型迄作り、当時大淀にあった、朝日放送が入っ
ていたと思うビルで、発表会を当時の有名人であったI氏をよんでまで行われたが、
実際には建設されずに終わった。
それ以外にも熊本市でヤクルトハウス造成開発計画も計画したり、福岡の春日という
所にも30戸ほどの住宅を開発売り出したが、大阪であったらすぐに売れたであろう
位の建物でしたが、あまり売れなかった、この時大阪と九州とでは建物の値段の差が
相当にあるのが分かった。バブルといえども地域の差はありました。