『THE TRUE BELIEVER』冒頭への引用は、前述した「創世記」からは一行だったのに対し、パスカルの『パンセ』は、すこし長い。
Man would fain be great and sees that he is little;
would fain be happy and sees that he is miserable;
would fain be perfect and sees that he is full of imperfections;
would fain be the object of the love and esteem of men,
and sees that his faults merit only their aversion and contempt.
The embarrassment whereine he finds himself produces in him the most unjust and criminal passions imaginable,
for he conceives a mortal hatred against that truth which blames him and convinces him of his faults.
(今、写してみて、気づいたが、『パンセ』の“mortal”の語が、創世記の“mortar”で、しっくいのように連結されている。)
『パンセ』は、前田陽一, 由木康 訳(中公文庫)によると、ラテン語で書かれた(一部フランス語)、924の断章から成る、パスカルの遺稿集である。
探したら、引用箇所は、その100番にあった。
“自己愛。
自己愛とこの人間の「自我」との本性は、自分だけを愛し、自分だけしか考えないことにある。だが、この自我は、どうしようというのか。彼には、自分が愛しているこの対象が欠陥と悲惨とに満ちているのを妨げるわけにいかない。
(ここから Man would fain~ の引用部分が始まり、その後は、こう続く。)
彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言いかえれば、自分の欠陥を、自分に対しても他人に対しても、覆い隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。
(中略)
したがって人間は、自分自身においても、他人に対しても、偽装と虚偽や偽善とであるにすぎない。彼は、人が彼にほんとうのことを言うのを欲しないし、他の人たちにほんとうのことを言うのも避ける。正義と理性とからこのようにかけ離れたこれらすべての性向は、人間の心のなかに生まれつき根ざしているのである。”
エリック・ホッファーは、この言葉をひとつの手懸りにして、彼の生きた現代を洞察した書が、この『THE TRUE BELIEVER』だ。
これを読むことを通じて、私も、すこしづつ、行けるところまで行ってみようと思っている。
『パンセ』の364番には、「はじめないほうが、楽である。」という言葉も見えるが、やはりそれではつまらない。
パスカルは、先行するモンテーニュやデカルトを、この書で否定している。
有名な「考える葦」は347番である。
“人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。”
戦争。296番。
“戦争をして、あんなに多くの人間を殺すべきかどうか、あんなに多くのスペイン人に死を言い渡すべきかどうか、を判断する問題が起ったとき、その判断をするのはただ一人、しかもそれに利害関係のある人である。この判断には、利害関係のない第三者が当たるべきであろう。”
「正義と力」の考察は、298番。
一方、イスラム教に対する理解は、当代最高クラスの西洋知識人にしては、驚くほど低い。
おもしろいオルガンの話, 111番もあるし、後半はキリスト教の論考が多い。
西洋史とユダヤ教, キリスト教は切り離して考えることはできない。これも、すこしづつ、考えていこう。
状況の警句としては、294, 363番だろうか。
“「元老院の決議と人民投票とによって、罪が犯される」セネカ”
『YASOITU NIKKI (2013.7.16)』
Senjitsu Iwanami-shoten no “building” e Itta. Mochiron kono “blog” no Shuppan-keikaku no tame dewa nai(warai).
1960-nendai no Jikken-teki “television”-Sakuhin no Jôei-kai ga atta noda. Touji no Seisaku-sha tachi to Hihyôka, Sorekara Genzai no Bangumi wo Tsukuru Hito-tachi
Sorezore no Hanashi mo Kiketa. Kore wa Yo no Chômen ni Matomete aru node izure koko ni “up” suru.
Kyou Hanashite okitai nowa Omoigakezu Shôsetsu-ka no Asabuki Mariko san ga Kite-ita Koto da.
Kanojo wa, Mori no Mizuumi no Fuchi wo, Sizuka ni Sunda Me de, Kotoba ga Ukabi-Agatte-Kuru no wo Matte-iru Yô na, Utsukushii Hito datta.
Konna Koto dato Sitte itara, Kanojo no Hon wo Yonde Kita noni to Kôkai Shita.
Kongetsu no Sue ni 『KIKO-TOWA』no Shin-chô Bunko ban ga deru youde aru.
Sassoku Yoyaku Shita.
Man would fain be great and sees that he is little;
would fain be happy and sees that he is miserable;
would fain be perfect and sees that he is full of imperfections;
would fain be the object of the love and esteem of men,
and sees that his faults merit only their aversion and contempt.
The embarrassment whereine he finds himself produces in him the most unjust and criminal passions imaginable,
for he conceives a mortal hatred against that truth which blames him and convinces him of his faults.
(今、写してみて、気づいたが、『パンセ』の“mortal”の語が、創世記の“mortar”で、しっくいのように連結されている。)
『パンセ』は、前田陽一, 由木康 訳(中公文庫)によると、ラテン語で書かれた(一部フランス語)、924の断章から成る、パスカルの遺稿集である。
探したら、引用箇所は、その100番にあった。
“自己愛。
自己愛とこの人間の「自我」との本性は、自分だけを愛し、自分だけしか考えないことにある。だが、この自我は、どうしようというのか。彼には、自分が愛しているこの対象が欠陥と悲惨とに満ちているのを妨げるわけにいかない。
(ここから Man would fain~ の引用部分が始まり、その後は、こう続く。)
彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言いかえれば、自分の欠陥を、自分に対しても他人に対しても、覆い隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。
(中略)
したがって人間は、自分自身においても、他人に対しても、偽装と虚偽や偽善とであるにすぎない。彼は、人が彼にほんとうのことを言うのを欲しないし、他の人たちにほんとうのことを言うのも避ける。正義と理性とからこのようにかけ離れたこれらすべての性向は、人間の心のなかに生まれつき根ざしているのである。”
エリック・ホッファーは、この言葉をひとつの手懸りにして、彼の生きた現代を洞察した書が、この『THE TRUE BELIEVER』だ。
これを読むことを通じて、私も、すこしづつ、行けるところまで行ってみようと思っている。
『パンセ』の364番には、「はじめないほうが、楽である。」という言葉も見えるが、やはりそれではつまらない。
パスカルは、先行するモンテーニュやデカルトを、この書で否定している。
有名な「考える葦」は347番である。
“人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。”
戦争。296番。
“戦争をして、あんなに多くの人間を殺すべきかどうか、あんなに多くのスペイン人に死を言い渡すべきかどうか、を判断する問題が起ったとき、その判断をするのはただ一人、しかもそれに利害関係のある人である。この判断には、利害関係のない第三者が当たるべきであろう。”
「正義と力」の考察は、298番。
一方、イスラム教に対する理解は、当代最高クラスの西洋知識人にしては、驚くほど低い。
おもしろいオルガンの話, 111番もあるし、後半はキリスト教の論考が多い。
西洋史とユダヤ教, キリスト教は切り離して考えることはできない。これも、すこしづつ、考えていこう。
状況の警句としては、294, 363番だろうか。
“「元老院の決議と人民投票とによって、罪が犯される」セネカ”
『YASOITU NIKKI (2013.7.16)』
Senjitsu Iwanami-shoten no “building” e Itta. Mochiron kono “blog” no Shuppan-keikaku no tame dewa nai(warai).
1960-nendai no Jikken-teki “television”-Sakuhin no Jôei-kai ga atta noda. Touji no Seisaku-sha tachi to Hihyôka, Sorekara Genzai no Bangumi wo Tsukuru Hito-tachi
Sorezore no Hanashi mo Kiketa. Kore wa Yo no Chômen ni Matomete aru node izure koko ni “up” suru.
Kyou Hanashite okitai nowa Omoigakezu Shôsetsu-ka no Asabuki Mariko san ga Kite-ita Koto da.
Kanojo wa, Mori no Mizuumi no Fuchi wo, Sizuka ni Sunda Me de, Kotoba ga Ukabi-Agatte-Kuru no wo Matte-iru Yô na, Utsukushii Hito datta.
Konna Koto dato Sitte itara, Kanojo no Hon wo Yonde Kita noni to Kôkai Shita.
Kongetsu no Sue ni 『KIKO-TOWA』no Shin-chô Bunko ban ga deru youde aru.
Sassoku Yoyaku Shita.