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映画『東京家族』について

 「八ツ橋をくれたおじさん」 沢田研二

2013年11月20日 | 映画『東京家族』

 ※ エチオピアの首都に来ているが、偶然入った古書店に、日本語の本があった(笑)。
   重要な「音楽論」が載っていたので、再録しておく。

   なお、ネット環境が不明なので、次回の更新は、いつになるかわからない(笑)。


 






 “僕がまだ小学生のころである。銀閣寺のあたり、哲学の道と呼ばれる、疏水のほとりに、八ツ橋の工場があった。そこの前を通ると、プーンといい香りがして、時折、ちょこちょこと工場に入っていって、おじさんにヘタをわけてもらって食べていた。きっとあれは品物にならないクズか切れ端だったんだろう。ペロペロしたあの八ツ橋のヘタが、なんとおいしかったことか。今も八ツ橋は僕の好物。粒餡が入っていたりするが、あれはダメ、焼いたのもダメ。断じて生八ツ橋。なかでもヘタへの憧れ……。カステラの焼き損って焦げたところがおいしいように、お菓子は市販品にならないところのほうがおいしい。
 そして河道屋の「蕎麥ほうる」。幼いころ、親父がお土産にもらってきてくれたのを、貴重品のようにして食べ、おいしいなァと感じたことを思い出す。
 京都の人だから、おいしいお菓子は食べ飽きているでしょう、羨ましい……と言われるが、京都人がお寺回りに熱心でないように、熱心なのは、京都以外の人たち。僕が食べたこともないようなお菓子を、東京の人が詳しく説明してくれる。京都に住んでいる人で、どれだけこれほど知っている人がいるだろうかと、おかしくなってしまったりする。
 なにごともそうだろうが、身近にあるものには、あまり関心はひかれないものである。京都に住んでいたころは、僕もそうだった。遠く離れた今、偶然にお菓子の名前を聞いたりすると、ああ、こんな形だった、あんな色だったと、フッと頭に描いて、懐かしい思いがすることもある。離れてこそ、よさが判るというものなのだろうか。
 見直してみれば、京都のお菓子はじつにきれいなものである。手をかけ、洗練され、器にもこっている。特に夏のお菓子。あの透きとおった、清浄なうつくしさは、他のものに置きかえられはしない。冷たくして口に運ぶ。京の夏がここにある。京都のお菓子に対する僕のイメージは、ここに凝縮される
 京都のお菓子を音楽にたとえると、どんな音でしょう、と妙な質問をされたことがある。これは難しい。どんな音、どんな音楽……? やっぱり和風の音かなあ、お琴の音かなあ、と僕は答えた。しかし、これじゃあまったく外国に行っているときの日本料理って感じじゃないか。まだ答えは出ない。 
 今も銀閣寺のあのあたりには、八ツ橋の香りは流れているだろうか。あのときのおじさんは、もうおじいさんになっているだろう。もし、訪ねていったら、昔のようにヘタをわけてくれるだろうか。しかし、ここまでくると、思いはとどまってしまう。幼いころと同じに「ああ、おいしい。ああ、うまい」と感じられるだろうかと……。
 思い出の中に封じ込めたあの味は、今も再現されず心を揺さぶるのである。”


      『京のお菓子』 「暮しの設計 118号」 中央公論社 (昭和53年2月1日 発行)

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