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映画『東京家族』について

映画 『東京家族』 (その23)  The gentle light (1) 〔Science〕

2013年06月02日 | 映画『東京家族』
 2013.5.23に、J-PARC (Japan Proton Accelerator Research Complex 日本陽子加速研究複合施設)において、知的,倫理的レベルの異常に低劣な、放射能放出事件が発生した。

 装置の誤作動で陽子ビームの標的、金が蒸発し、生成された放射性物質で研究者が内部被曝、あわせてそれを故意に外部へ放出した、事象,事故ではない「事件」。





 このニュースを聞いて、私はある小説の一節を思った。

 “調査対象二ドンナ品物ヲモッテイキマシタカ、顔を近々と寄せて、若い男が聞く。男はその顔を払いながら、白髪の男が採集していった品目をあげて、そうだ、水がめを返してもらわねばならねえ、台所の塩、塩はどの家も、といっても現場近くの家だがね、もっていったらしい、といった。
 塩、デスカ、ハジメテ聞イタナ、各家庭トイウコトハ塩ナラ一般的ニドコノ家ニモアルカラ、ナトリウムカ塩素ノ平均的ナ放射化ヲ調査スルタメカナ。「金」ソウデス、ピカピカ光ルアノ金デスガ、金ヲ預カッタ話ハ聞イテイマスガネ、モットモ敏感ニ放射能ニ反応スルソウデスカラ。”


 「収穫」『希望』(2005) 林京子 




 前世紀の前半、プランク,ボーア,ハイゼンベルク,シュレーディンガー……と、名前を列挙するだけで胸が躍る量子力学の創造期、日本で云えば、長岡半太郎の後裔が、この分野の現在の研究者たちなのだと思って、私は彼らを尊敬していた。しかしそれは間違いだった。ただのバ●の集まりだった。




 “この時期でも(1945年)、シロタはピアノを一日に三時間、弾きつづけていた。どんなときでも、かれはピアニストであり、ピアノを弾くために生きていた。このころ公的には外国人が日本人のレッスンをするなど禁止されていたが、軽井沢では、シロタの指導をひそかに数名の弟子が受けていたと伝えられている。
 そのひとりが長岡延子だった。物理学者長岡半太郎の孫で、法学者の田中耕太郎の姪。園田清秀の早期教育をうけた少女ピアニストであり、園田高弘などとならんで日本ピアノ演奏の次世代を担うはずだった。その叙情的なセンスは比類のないものだったといわれている。
 長岡延子について、「この人は大変な天才でしたが、同時に大変なインテリで、小さいころからトルストイなどを読んでいました」とベアテさんは語ってくれた。
 一九四五年の五月に、長岡延子は東京に出てきていた。親戚の家に泊まってコルトーの弾くシューマンのレコードを聴き、翌朝はピアノにむかってショパンの練習曲をさらった。それから、せっかく東京に出てきた機会に挨拶に回って、シロタの先輩格の弟子たちに軽井沢ではシロタのレッスンを思う存分受けられると、うれしそうに話していた。
 そして、夜に行われた再度の東京大空襲で、長岡延子は死んでしまった。
 防空壕で発見されたとき、友人藤田晴子から借りた楽譜を抱きしめて母親の横で息をひきとっていた。これが修道女になりたがって周囲を困らせた、巨匠園田高弘をして「僕なんかよりずっと才能があった」といわしめた、純粋で繊細な天才少女の死であった。”



   『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』 山本尚志




 ※長岡半太郎(1865-1950)
 

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