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映画『東京家族』について

映画 『東京家族』 (その33)  お化け煙突(1)

2013年07月19日 | 映画『東京家族』
 『東京物語』(1953年,昭和28年)のシナリオ、シーン7。


“(シーン)7 東京   町工場などの見える江東風景”
                       
                  『小津安二郎全集』井上和男 編

 そして、シーン36。


“(シーン)36 翌朝 東京の場末   戦災を受けて復興した町である。”

                   『同上』



 ここに、「お化け煙突」が映されている。

 「お化け煙突」については、早乙女勝元氏の『私の東京平和散歩 わたしのとうきょうへいわウォーク』(2013.5.30初版)に、こうある。


“「足立区にあった、お化け煙突を知ってますか?」
 と聞いても、「さあ……」と首をひねる人が、ほとんどだろう。無理もない。お化け煙突が解体されたのは昭和三十九年で、半世紀余りも昔のことだ。
 かつて下町のシンボルだったそれは、東京電力千住火力発電所の四本煙突で、見る場所と角度によって、四本がかさなって一本になったり、二本、三本になったりもする。おまけに時々思い出したように煙を吐き出すのが、俗称の由来だったかと思う。
 ボイラーの関係で、四本の煙突が菱形に配置され、そもそも予備発電の役割だったからだが、東京下町のどこからでも見えて、実に頼もしくも力強い存在だった。”




 映画中の、「お化け煙突」については、(2)以降で詳述するが、今日書いておきたいのは、2013.7.21の「参議院議員選挙」のことだ。



 早乙女氏の同書には、上野公園にある「時忘れじの塔」も紹介されている。















 私が撮影した時は気付かなかったが、偶然2枚とも、女性が写りこんでしまっていた。
 この塔が、関東大震災と、東京大空襲の「慰霊碑」であることを考えあわせると、それが、選挙権がなかった時代、理不尽な死を迎えたふたりの女性が、束の間の平和にある現代の上野公園へ、美しい洋服を着て「散歩」しに来ているようにも思えてしまう。
 



 東京選挙区で、今回の参院選を棄権しようとしている方や、自民党に投票しようとしている女性は、ぜひ、




反原発, 反被曝, 平和希求 の山本太郎候補 に投票することを考えてほしい。

 

                   







 

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写経 24. 『THE TRUE BELIEVER 』(1951)  ERIC HOFFER (6)

2013年07月16日 | 写経(笑)
 『THE TRUE BELIEVER』冒頭への引用は、前述した「創世記」からは一行だったのに対し、パスカルの『パンセ』は、すこし長い。



Man would fain be great and sees that he is little;
would fain be happy and sees that he is miserable;
would fain be perfect and sees that he is full of imperfections;
would fain be the object of the love and esteem of men,
and sees that his faults merit only their aversion and contempt.
The embarrassment whereine he finds himself produces in him the most unjust and criminal passions imaginable,
for he conceives a mortal hatred against that truth which blames him and convinces him of his faults.



 (今、写してみて、気づいたが、『パンセ』の“mortal”の語が、創世記の“mortar”で、しっくいのように連結されている。)


 『パンセ』は、前田陽一, 由木康 訳(中公文庫)によると、ラテン語で書かれた(一部フランス語)、924の断章から成る、パスカルの遺稿集である。

 探したら、引用箇所は、その100番にあった。


 “自己愛。
 自己愛とこの人間の「自我」との本性は、自分だけを愛し、自分だけしか考えないことにある。だが、この自我は、どうしようというのか。彼には、自分が愛しているこの対象が欠陥と悲惨とに満ちているのを妨げるわけにいかない。

 (ここから Man would fain~ の引用部分が始まり、その後は、こう続く。)


 
 彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言いかえれば、自分の欠陥を、自分に対しても他人に対しても、覆い隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。


 (中略)


 したがって人間は、自分自身においても、他人に対しても、偽装と虚偽や偽善とであるにすぎない。彼は、人が彼にほんとうのことを言うのを欲しないし、他の人たちにほんとうのことを言うのも避ける。正義と理性とからこのようにかけ離れたこれらすべての性向は、人間の心のなかに生まれつき根ざしているのである。”



 エリック・ホッファーは、この言葉をひとつの手懸りにして、彼の生きた現代を洞察した書が、この『THE TRUE BELIEVER』だ。
 これを読むことを通じて、私も、すこしづつ、行けるところまで行ってみようと思っている。


 『パンセ』の364番には、「はじめないほうが、楽である。」という言葉も見えるが、やはりそれではつまらない。
 パスカルは、先行するモンテーニュやデカルトを、この書で否定している。 
 有名な「考える葦」は347番である。


 “人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。”



 戦争。296番。


 “戦争をして、あんなに多くの人間を殺すべきかどうか、あんなに多くのスペイン人に死を言い渡すべきかどうか、を判断する問題が起ったとき、その判断をするのはただ一人、しかもそれに利害関係のある人である。この判断には、利害関係のない第三者が当たるべきであろう。”


 「正義と力」の考察は、298番。
 
 一方、イスラム教に対する理解は、当代最高クラスの西洋知識人にしては、驚くほど低い。
 
 おもしろいオルガンの話, 111番もあるし、後半はキリスト教の論考が多い。
 西洋史とユダヤ教, キリスト教は切り離して考えることはできない。これも、すこしづつ、考えていこう。

 状況の警句としては、294, 363番だろうか。









“「元老院の決議と人民投票とによって、罪が犯される」セネカ”
 


















 



『YASOITU NIKKI (2013.7.16)』


Senjitsu Iwanami-shoten no “building” e Itta. Mochiron kono “blog” no Shuppan-keikaku no tame dewa nai(warai).
1960-nendai no Jikken-teki “television”-Sakuhin no Jôei-kai ga atta noda. Touji no Seisaku-sha tachi to Hihyôka, Sorekara Genzai no Bangumi wo Tsukuru Hito-tachi
Sorezore no Hanashi mo Kiketa. Kore wa Yo no Chômen ni Matomete aru node izure koko ni “up” suru.

Kyou Hanashite okitai nowa Omoigakezu Shôsetsu-ka no Asabuki Mariko san ga Kite-ita Koto da.
Kanojo wa, Mori no Mizuumi no Fuchi wo, Sizuka ni Sunda Me de, Kotoba ga Ukabi-Agatte-Kuru no wo Matte-iru Yô na, Utsukushii Hito datta.
Konna Koto dato Sitte itara, Kanojo no Hon wo Yonde Kita noni to Kôkai Shita.
Kongetsu no Sue ni 『KIKO-TOWA』no Shin-chô Bunko ban ga deru youde aru.
Sassoku Yoyaku Shita.





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写経 23. 『THE TRUE BELIEVER 』(1951)  ERIC HOFFER (5)

2013年07月13日 | 写経(笑)
 前回の最後の部分の引用、
 
 “a city and a tower, whose top may reach unto heaven” と、
 “nothing will be restreined from them, which they have imagined to do.”

 は、「創世記 第11章」からの、それだ。

 『THE TRUE BELIEVER』の冒頭には、パスカルの『パンセ』とともに、「創世記」の “And slime had they for mortar.” の一行が引用されている。


 その説明の前に、著者である「エリック・ホッファー」を紹介しておこう。
 私の手元にある、「HARPER PERENNIAL MODERN CLASSICS」の版には、こう書かれている。


 ERIC HOFFER (1902-1983) was self-educated and lived the life of a drifter through the 1930s. After Pearl Harbor, he worked as a longshreman in San Francisco for
twenty-five years. He is the author of ten books, including The Passionate State of Mind, The Ordeal of Change, and The Temper of Our Time. He was awarded the Presidential
Medal of Freedom in 1983 and died later that year.



 


 さて、承前の  “And slime had they for mortar.” であるが、『聖書』の原文は、旧約のほとんどがヘブライ語で、新約はギリシア語だ。「創世記」は旧約の冒頭にあるので、ヘブライ語だ。引用されたその一文の日本語は、“彼らはしっくいの代わりにアスファルトを用いた” と、新共同訳ではなっている。

 アスファルト! である。私が子供だった頃はまだ、砂利道がのこっていたが、かの地ではもう、創世記の時代からアスファルト道路になっていたのか、と思ってしまうが、道ではなく、塔に使ったのである。あの「バベルの塔」だ。後でこの話は、もう少し全体がわかるように載録するが、ここで問題にしたいのは、英語の“slime” である。


「slime」 

①どろどろ〔ねばねば, ぬるぬる〕したもの, 粘着物, 軟泥, 泥砂, ヘドロ;
 〔しばしば複数形で〕岩石の粉, スライム;
 《カタツムリ・魚などの》粘液, のろ;
 《変性したハムなどに生じる》ねと.

②いやなもの, 悪臭のあるもの;
 《俗語》悪の世界, 暗黒街;
 《口語》げす根性, おべんちゃら;
 《俗語》不名誉な事態, 腐敗;
 《俗語》いやなやつ, げす.


 例によって、『リーダーズ英和辞典 第3版』で引いたが、この辞典の「英語の意味に肉薄」しようとする恐ろしいまでの意思は、この一語だけでもよくわかる。

 「slime」には、(軟泥や、岩石の粉がやや近いが)「アスファルト」という意味はない。
 ヘブライ語の原文は、もちろん私はわからないが、英訳の「slime」のほうが、原意に近いのではないかと思う。
 なぜなら、「バベルの塔」の文意は、肯定的なものではないからだ。
 そして、ホッファーが冒頭に置いたこの語で提示、暗示したかった意味もわかる。
 それは断然、「アスファルト」のイメージとは、違う。




 「創世記 第11章(バベルの塔)」 新共同訳


 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
 主は降って(くだって)来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。






 ここまで写してみたら、3行目からの「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」という訳は、英訳の “a city and a tower, whose top may reach unto heaven” に比べると、意味が少し通らない気がする。しかし私はヘブライ語が読めないのだから、仕方ない。


 「ひとつの都市とひとつの塔、その(塔の)いただきが天に届くように」 (石川八十一 英訳からの重訳)




 次回は、もうひとつ『THE TRUE BELIEVER 』冒頭へ引用された文章、パスカルの『パンセ』についてを、すこし書く。




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写経 22. 『THE TRUE BELIEVER 』(1951)  ERIC HOFFER (4)

2013年07月11日 | 英語の記事
【高根正昭 訳】

Though the desire for change is not infrequently a superficial motive, it is yet worth finding out whether a probing of this desire might not shed some light on the inner working of mass movements.
変化を求める欲求は、一再ならず表面的な動機にすぎないが、それにもかかわらずこの欲求を厳密に調査することが、大衆運動の内部の動きを、いくらかでも解明するのではないかという疑問を解くことは、その意味を失っていない。
【Sirota 81 試訳-1】
変化を得るための欲求は、めったに起こらない表面上の動機ではないにもかかわらず、これは、まだ、この欲求に関して厳密に調べることが、大衆運動の内部の働きに、いくらかの光を与えるのではないのかもしれないのかどうかの事実を知るに値する。


We shall inquire therefore into the nature of the desire for change.
そこで私たちは、これから変化を求める欲求の本質を検討するのである。
【Sirota 81 試訳-1】
私たちは、それゆえに、変化を得るための欲求の本質の中への問いを問うだろう。



    (以上、第1章第1節から抜粋)

  The Nazis had nothing as potent as that doctrine, but they had faith
in an infallible leader and also faith in a new technique. For it is doubtful whether National Socialism would have made such rapid progress if it had not been for the electrifying conviction that the new tequniques of blitzkrieg and propaganda made Germany irresistible.
 Even the sober desire for progress is sustained by faithfaith in the intrinsic goodness of human nature
and in the omnipotence of science. It is a defiant and blasphemous faith, not unlike that held by the men who set out to build “a city and a tower, whose top may reach unto heaven” and who believed that “nothing will be restreined from them, which they have imagined to do.”

      (以上、第1章第3節から抜粋)



that doctrine→ Marxist doctrine




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写経 21. 『THE TRUE BELIEVER 』(1951)  ERIC HOFFER (3)

2013年07月10日 | 写経(笑)
The phenomenal modernization of Japan would probably not have been possible without the revivalist spirit of Japanese nationalism. It is perhaps also true that the rapid
modernization of some European countries [Germany in particular] was facilitated to some extent by the upsurge and thorough diffusion of nationalist fervor. Judged by
present indications, the renascence of Asia will be brought about through the instrumentality of nationalist movements rather than by other mediums. It was the rise of a
genuine nationalist movement which enabled Kemal Atatürk to modernize Turkey almost overnight. In Egypt, untouched by a mass movement, modernization is slow and faltering,
though its rulers, from the day of Mehmed Ali, have welcomed Western ideas, and its contacts with the West have been many and intimate. Zionism is an instrument for the
renovation of a backward country and the transformation of shopkeepers and brain workers into farmers, laborers and soldiers.
Had Chiang Kai-shek known how to set in motion a genuine mass movement, or at least sustain the nationalist enthusiasm kindled by the Japanese invasion, he might have been acting now as the renovator of China. Since he
did not know how, he was easily shoved aside by the masters of the art of “religiofication” ― the art of turning practical purposes into holy causes.










〔附録1〕  [OKAI TAKASHI]    A Tanka poet, an internist. He was born in 1928. He said Tanka is ultimately both a Song and a Tone.

肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は
側面をさらしつつ退き(しりぞき)ながらたたかう其処の朱の肺臓は
 (そくめんを/さらしつつしり/ぞきながら たたかうそこの/しゅのはいぞうは)
手術室よりいま届きたる肺臓のくれないの葉が見えて飯(いい)はむ  


 “わたしの外来に通ってくる常連の一人にSさんという老人が居た。飄々とした瘦軀、どこか凡でない眼光がわたしを射るので、ひそかに敬愛して対って(むかって)いたのであるが、ある日、彼は診察室のベッドでわたしに血圧を測らせながら、「このあいだの短歌研究の歌はよかったですなあ、説をかえまた説をかうたのしさの、あれはいい。しかし、よくわからんのもありますな、管型の蔓状の思想なんていうのは、とてもわれわれには理解できません。」と言い出したので、わたしはいたく狼狽し、ひそかに顔を紅らめたのである。彼は若年のころ、右翼の文人政客と交わりそのパトロン格だったときいたが、そういえば、わたしが学生のころ会ったことのある追放中の安藤正純にどこか相通う風貌の持主であった。その後、Sさんは急性肺炎を患ってわたしの病室に入った。そして、クリーゼをすぎて尚少量の痰を喀出していたが、わたしのわずかな油断の隙に急死した。わたしは外科医ではないから「手術台上の死」を経験したことはないが、ほぼそれに匹敵する衝撃をうけて、長く苦しんだ。はなはだ私的な回想であるが、忘れがたいので附記しておく。”




説を替えまた説をかうたのしさのかぎりも知らに冬に入りゆく
真夏の死ちかき胃の腑の平(たいら)にはするどき水が群れて注ぎき
日本いまヴィジョンの沼地ここすぎて夏野わけ入る疾き(とき)風を見む
管型の思想を夢むなおいえば蔓状(まんじょう)の管型の鋭きを
もろもろの昨日をあつめ もろともの明日を紡がん手を想うのみ
対峙せる詩人と医師のめぐりには葉のみはげしくふかく騒(さや)げる

 
『現代歌人文庫 岡井隆集』(国文社)




〔附録2〕 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」


 “先生に三角を教わり力学を教わったために、始めて数学というものがおもしろいものだということが少しばかりわかって来た。中学で教わった数学は、三角でも代数でも、いったいどこがおもしろいのかちっともわからなかったが、田丸先生に教わってみると中学で習ったものとはまるでちがったもののように思われて来た。先生に言わせると、数学ほど簡単明瞭なものはなくて、だれでも正直に正当にやりさえすれば、必ずできるにきまっているものだというのである。教科書の問題を解くのでも、おみくじかなんかを引くように、できるもできないも運次第のものででもあるかのように思っていた自分のような生徒たちには、先生のこの説は実に驚くべき天啓であり福音であった。なるほど少なくも書物にあるほどの問題なら、その書物で教えられた筋道どおり正直にやれば必ずできるのであった。そういうことを発見して驚いたものである。”  (昭和七年十二月 理学部会誌) 『寺田寅彦全集(S.36年版) 第六巻』


 → 『2013.7.9 東京新聞 発言欄』



〔附録3〕


paternalism      父親的温情主義〔干渉〕, パターナリズム.

                                          『リーダーズ英和辞典 第3版』


パターナリズム  相手の利益のためには、本人の意向にかかわりなく、生活や行動に干渉し制限を加えるべきであるとする考え方。親と子、上司と部下、医者と患者との関係などに見られる。
   
                                                                                    『広辞苑 第六版』



 →  『2013.7.9 東京新聞 特報面』












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