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米国は第3の原爆投下を計画していた>8月14日には3番目の標的都市も決まっていた

2024年08月04日 23時03分58秒 | 歴史的なできごと
1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた

広島原爆 リトルボーイ

>終戦直前8月14日、米大統領
>東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった

8・15・2021


テニアン島に到着した巨大なプルトニウム爆弾「ファットマン」。1945年8月9日に長崎へ投下された。(UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/GETTY IMAGES)

 1945年の夏、米国が世界で最初の原子爆弾を投下したとき、戦争は永久に変わった。たった1個の爆弾が、都市とその住民を丸ごと消し去ってしまう時代が訪れたのだ。 ギャラリー:原爆投下候補地を挙げた機密文書ほか、米国は第3の原爆投下計画 

写真と地図と機密文書 21点  

米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。  

長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのはハリー・トルーマン大統領の脅しだったとする主張が根強くある。しかし、それは決して単なる脅しではなかった。  

第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前にトルーマン大統領は沈痛な面持ちで、第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。  

米国の計画では、2発の原爆で戦争が終わるとは考えられていなかった。核兵器に加え、日本の本土決戦が必要になるだろうと予測されていた。原子爆弾は強力な新兵器とはなるかもしれないが、それが決定打となるのか、日本の戦意を左右しうるのかは、まったくわかっていなかった。  

日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを承知していた。1945年半ばに内閣の多数派を占めていた軍部は、米国を「流血」させ続ければ米国民はやがて戦争に飽きてくるだろうという淡い期待を抱いていたが、「和平」派はこれを愚かな戦略と考え、そんなことをすれば日本が崩壊してしまうと危惧していた。  

もし米国が日本の降伏を引き出すなら、軍部の支配を切り崩す必要がある。これまでの空襲作戦だけでは十分ではない。米軍は1945年3月から何度も日本の都市に対して空襲を行っていた。  

東京大空襲では、一夜にして10万人以上が死亡したとされ、数百万人が家を失った。ほかにも7月までに日本各地で60カ所以上が空襲を受けていたが、日本が降伏する様子はなかった。直ちにその態度を変えさせるには、原爆が革命的な武器であることを日本に理解させる必要があった。


目標都市の選定
 米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月(ドイツ降伏の約1週間前)に第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。  

候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。 

 同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。  

6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。また、京都もそのすぐ後にリストから外され、空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。  


1945年7月、ポツダム会談に出席していたトルーマン大統領とスティムソン陸軍長官のもとへ、ニューメキシコ州のトリニティ実験場で原爆実験が成功したとの知らせが入り、トルーマンは興奮した。それまでは原爆開発にあまり関心を示していなかった大統領だったが、今やその新型爆弾が日本への強力な武器となり、ソ連に対してもメッセージを送ることになるとの理解にいたった。 

 京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があった。長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。 

 最終的な攻撃命令の草稿はグローブスが作成し、トルーマンが閲覧した後、スティムソンとジョージ・マーシャル陸軍参謀総長によって承認され、7月25日に発効された。トーマス・ハンディ参謀総長代行からカール・スパーツ太平洋戦略航空軍司令官に送られた命令書には、次のように書かれていた。 「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。 


 それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。


1回目の投下
 日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。  このテニアン島へ7月29日、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。  8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。

第2の攻撃
 ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。  

8月6日時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は8月8日、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。  


日本がまだ広島で調査をしていたころ、次の投下準備は既に始まっていた。8月8日に気象予報を確認すると、作戦予定日とされていた10日の天気は思わしくなかった。そこでテニアン島の幹部はワシントンDCに相談することなく(トルーマンだけでなくスティムソンにすら知らせなかった)、当初の命令書により次の作戦遂行の決定権も自分たちにあると判断し、時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。  

目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市(現北九州市の一部)だった。ところが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか(前日に近くの八幡市が空襲を受けていた)視界が悪かった。ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。 


1945年8月9日午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。  


日本の大本営は8月9日、数日前のソ連による宣戦布告とそれに続く満州侵攻について話し合っていた時に、長崎が攻撃されたとの報告を受けた。このとき、日本がさらなる攻撃を予測していたかどうかは定かではない。しかし2回目の攻撃があったことで、米国には爆弾が1個しかないかもしれないという期待は吹き飛んだ。  

ところが、2回の原爆投下もソビエト侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。


待機、そして次の投下への準備
 米国の首都は騒然としていた。8月10日、日本から条件付き降伏案を受け取ったトルーマン大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。  ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。8月12日か13日にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。  トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。マーシャルはグローブスへ「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。  広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。  当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。  いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。
第3の原爆、標的は東京だったか
 日本から降伏案が提示されたことは良い兆候ではあったが、トルーマンと閣僚にとっては十分ではなかった。受け入れられるのは無条件降伏だけであると、トルーマンは返した。そして次の数日間、ワシントンはひたすら日本からの返答を待った。米国メディアと軍では、次の原爆がいつ、どこへ落されるかについて様々な憶測が飛び交っていた。  

トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。「明確な目標を狙ったほうがより多くの破壊効果が得られるが、現時点では破壊よりも日本政府の指導部へ心理的圧力をかけるほうが重要であると考える」  

同じ日、スパーツは「上層部がこの提案を検討中」であり、「最終決定」は2日以内に下されると告げられた。 

 8月13日、スティムソンはテニアン島への部品の運搬を再開したほうが良さそうだと示唆した。グローブス少将は、今後の原爆投下スケジュールに関する最新情報をマーシャル参謀総長に伝達する役割を任された


 マーシャルは、準備が整い次第原爆を使用すべきか、それとも日本本土進攻へ備えてそれを取っておくべきかを思案していた。本土決戦となれば、約12個の原爆が必要となる。いずれにしても、グローブスの代理人がマーシャルの代理人へ伝えたところによると、第3の原爆は「運搬の準備が整い、命令を待っている」状態であるということだった。  


8月14日、スパーツは相変わらず東京を次の目標にせよとの主張を続け、「一刻も早く」第3の原爆を「東京へ投下すべく」、テニアン島へ運ぶよう求めていた。だが、またも決断は保留中であると告げられた。グローブスは、翌日にでも原爆投下に関する決定が下されると告げられていた。  

その日の午後、トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。


終戦
 だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。  

第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。



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鳥居の裏から

2024年08月04日 18時18分42秒 | 日々の出来事




鳥居を裏から見ると、違う風景が見えますね✨
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どんよりと曇った野原で

2024年08月04日 18時13分50秒 | 日々の出来事


蒸し暑い午後ですね
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1ドル200円どころか500円も通過点…円安と物価高と地続きの“円の紙くず化”に備えお金のプロが挙げる2対策

2024年08月04日 11時05分59秒 | お金のこと

1ドル200円どころか500円も通過点…円安と物価高と地続きの“円の紙くず化”に備えお金のプロが挙げる2対策 (msn.com) 




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© PRESIDENT Online
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関連するビデオ: 一時1ドル=149円台まで円高進む 4か月半ぶり水準 (日テレNEWS NNN)
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一時1ドル=149円台まで円高進む 4か月半ぶり水準
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住宅ローンは今すぐ固定金利に
Xデイが来ると、日本の不動産も暴落すると思います。それでも私は土地を持っていますし、まだ増やしています。なぜなら、いったん暴落しても、その後に戻ると思っているからです。不動産を持っている人は、売らずにそのまま持っていていいと思います。


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ただし、変動金利で住宅ローンを借りている人は要注意です。私も銀行から借金をしていますが、すべて固定金利です。固定は変動より金利が高いのですが、高い分は保険料と考えています。固定金利は長期金利の影響を受け、変動金利は短期金利の影響を受けます。日銀が政策金利を上げると、短期金利が上昇します。変動金利で住宅ローンを借りている人は、窮地に陥ります。元利金が支払えなくなり、担保に提供している不動産を競売にかけられたうえに、落札価格がローン残高よりも低ければ、不足分が借金として残ります。「変動金利が上昇し始めたら、長期固定金利に乗り換えよう」と考えている人もいるでしょう。しかし、そのときには、長期固定金利はさらに上昇しているはずです。変更できたとしても返済額が大幅に上がってしまう可能性があります。ですから、早めに固定金利に変えておいたほうがいいでしょう。


契約時よりも長期金利が低下している場合、固定金利から変動金利に変えると、多額のペナルティが発生する可能性があります。反対に変動金利から固定金利に変えるのであれば、支払うのは事務手数料や保証料などの諸経費と小さなペナルティ(変動金利の見直し期までの逆ザヤ分)のみです。


不動産があるならドル資産は必須
また、借金をしてワンルームマンション投資をしている人は、普通の人以上にドル資産を買っておく必要があります。1997年の韓国の通貨危機では企業の倒産が相次いで、失業者があふれました。Xデイで同じような状況になれば、ワンルームを借りていた人は、家賃を支払えずに出ていってしまいます。借金して不動産を購入していると、ローンの返済ができなくなります。担保になっている物件を手放すことになるでしょう。


そのような状況になったときには、円安・ドル高が進んでいるはずです。いまのうちにドルを買っておき、ローンの返済に困ったらドルを切り売りしていけば、家賃が入らなくなっても、返済を続けることができます。そうこうしているうちに、ハイパーインフレによって、不動産価格は暴騰するはずです。そのときまで持ちこたえるために、ドル資産は不可欠なのです。


脱・小口現金で脱・現金管理
楽楽精算
脱・小口現金で脱・現金管理
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※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年7月19日号)の一部を再編集したものです。


---------- 藤巻 健史(ふじまき・たけし) フジマキ・ジャパン代表取締役 1950年東京生まれ。一橋大学商学部を卒業後、三井信託銀行に入行。80年に行費留学にてMBAを取得(米ノースウエスタン大学大学院・ケロッグスクール)。85年米モルガン銀行入行。当時、東京市場唯一の外銀日本人支店長に就任。2000年に同行退行後。1999年より2012年まで一橋大学経済学部で、02年より09年まで早稲田大学大学院商学研究科で非常勤講師。日本金融学会所属。現在(株)フジマキ・ジャパン代表取締役。東洋学園大学理事。2013年から19年までは参議院議員を務めた。2020年11月、旭日中受賞受章。 ----------








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「原爆は京都へ投下するべき」と主張した天才科学者・ノイマンの異様な「悪魔性」と「虚無感」

2024年08月04日 09時05分43秒 | 歴史的なできごと
「原爆は京都へ投下するべき」と主張した天才科学者・ノイマンの異様な「悪魔性」と「虚無感」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース 



「原爆は京都へ投下するべき」と主張した天才科学者・ノイマンの異様な「悪魔性」と「虚無感」
10/6(金) 6:33配信

ノイマンが強く主張したのは、京都への原爆投下だった。ノイマンは、日本人の戦争意欲を完全に喪失させることを最優先の目標として、「歴史的文化的価値が高いからこそ京都へ投下すべきだ」と主張した。

現代ビジネス
photo by gettyimages


 21世紀の現代の善と悪の原点こそ、フォン・ノイマンである。


 「科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなければならない。それがどんなに恐ろしいことにしてもだ」


【写真】原爆は東京に落とされていた可能性が高かった!?人間のフリをした悪魔の生涯


 彼は、理想に邁進するためには、いかなる犠牲もやむを得ないと「人間性」を切り捨てた。


 『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』では、「コンピュータの父」「マッド・サイエンティストの代表」と称される天才・フォン・ノイマンが、いかに世界を認識し、どんな奇抜な人生を送ったのかが明かされている。


 ※本記事は高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』から抜粋・編集したものです。


「爆縮型」原爆の設計
ロスアラモス国立研究所(photo by gettyimages)


 ロスアラモス国立研究所顧問として、ノイマンが中心になって推進したのが「爆縮型」原爆の設計である。これはノイマンが発見した重要な理論の一つだが、原爆の威力を最大限にするためには、落下後に爆発させるのではなく、上空でプルトニウムに点火させる必要があった。


 そこでノイマンらが考えたのは、臨界点に達していないプルトニウムの周囲に32面体型に爆薬を配置して、一定の高度で爆薬に点火、その爆発の衝撃によってプルトニウムを臨界量に転化させる方式である。彼らは、この一連のプロセスを正確に制御するための複雑な数値計算を半年かけて行い、その設計は1944年末に完成した。


 ハンス・ベーテは、「たいていの問題を見通せる」ノイマンに大いに助けられたと言う。「俺の手におえない微分方程式もすいすい解いたし、どんな質問にも答えをくれた」とも述べている。


 「計算に行き詰っている人たちは、ノイマン博士の部屋の前で待機していて、出てきたらどっと取り囲んだものです。廊下を歩きながらみんなの話を聞き、博士が会議室に消えるころには、問題の答えか、答えに行き着くための最短の道が見えていましたね」という研究者の証言もある。


強固な「社会的無責任感」
 彼らの娯楽は、自然公園を散歩し、山に登り、屋内ではカードゲームに興じることだった。ノイマンもロスアラモス特有の社交生活に溶け込み、ポーカーによく付き合った。


 『フォン・ノイマンの哲学』で述べたように、「ゲーム理論」を創始した天才数学者でありながら、彼はカジノで負けてばかりだった。そして、ロスアラモスでは、素人を相手にしたポーカーでも負けてばかりだったというのだから、おもしろい。


 彼の伝記を書いた作家ノーマン・マクレイは、ノイマンが「ゲームをしながらも、頭の中では常に10くらい別のことを考えていた」と述べている。たしかに、彼の頭脳は常にフル稼働だった。それに、幼少期から人当たりのよいノイマンは、無理にゲームに勝とうとしなかったのだろう。


 ロスアラモスの科学者は、自分たちが「大量殺戮兵器」の製造に加担していることを認識し、内心に強い罪悪感を抱いている者も少なくなかった。しかし、ノイマンと散歩をしながら会話を交わしたリチャード・ファインマンは、楽になったという。


 「フォン・ノイマンは、我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない、という興味深い考え方を教えてくれた。このフォン・ノイマンの忠告のおかげで、僕は強固な『社会的無責任感』を持つようになった。それ以来、僕はとても幸福な男になった」
<>

我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない
 1945年の春、昼前にロスアラモスからプリンストンの自宅に戻った41歳のフォン・ノイマンは、ベッドに直行し、12時間眠り続けた。大学時代から睡眠時間は4時間という習慣なので、一気に3日分を眠り続けたことになる。


 妻のクララが「何よりも心配だったのは、ジョニーが食事を3回も飛ばしたこと」である。美食家のノイマンが、食事も無視して眠り続けるのを見たのは、初めてのことだった。夜中に目を覚ましたノイマンは、「異様な早口」で喋り始めた。


 「我々が今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っている! ……それでも私は、やり遂げなければならない。軍事的な理由だけでもだが、科学者として科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなければならない。それがどんなに恐ろしいことだとしてもだ。これは始まりにすぎない」


 ちょうどノイマンの担当する「爆縮」設計が完了した頃の出来事である。彼は、最終的に原爆が完成すると何が起こるかを予見して、自分の行動を正当化しているように映る。


 ベルリン大学に入学した当時のノイマンは、「戦争を早期終結させるためには、非人道的兵器も許される」という「化学兵器の父」フリッツ・ハーバーの思想から影響を受けた可能性がある。


 ロスアラモスでは、「非人道的兵器」を開発する「罪悪感」に苛まれていた若い物理学者リチャード・ファインマンに対して、「我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない」と断言して、彼を苦悩から解き放った。


 要するに、ノイマンの思想の根底にあるのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」、そして、この世界には普遍的な責任や道徳など存在しないという一種の「虚無主義」である。


 ノイマンは、表面的には柔和で人当たりのよい天才科学者でありながら、内面の彼を貫いているのは「人間のフリをした悪魔」そのものの哲学といえる。とはいえ、そのノイマンが、その夜に限っては、ひどく狼狽(うろた)えていたというのである。クララは、彼に睡眠薬とアルコールを勧めた。


京都へ原爆投下すべきだ
 当時の日本の合言葉は「一億玉砕」と「一人十殺」だった。3月には硫黄島守備隊が全滅し、制空権の壊滅した本土へのB29大編隊による空襲が始まり、東京・名古屋・大阪・神戸のような大都市が無差別爆撃で焼け野原になった。


 4月には「一億総特攻の魁(さきがけ)となれ」という無謀な特攻作戦によって、「不沈艦」と呼ばれた戦艦「大和」が撃沈された。それでも日本軍は、沖縄やフィリピンのルソン島で頑強に抵抗を続けていた。


 5月10日にロスアラモスで開かれた「標的委員会」では、ノイマンは、科学者を代表して原爆の爆発高度を選定するという重要な立場で出席した。


 空軍が目標リストとして「皇居、横浜、新潟、京都、広島、小倉」を提案した。ここでノイマンは、皇居への投下に強く反対し、もし空軍があくまで皇居への投下を主張する場合は「我々に差し戻せ」と書いたメモが残されている。


 ノイマンは、戦後の占領統治まで見通して皇居への投下に反対したのであって、事実そのおかげで日本は命令系統を失わないまま3ヵ月後に無条件降伏できた。その意味で、ノイマンは無謀な「一億玉砕」から日本を救ったとも考えられる。


 その一方で、ノイマンが強く主張したのは、京都への原爆投下だった。ノイマンは、日本人の戦争意欲を完全に喪失させることを最優先の目標として、「歴史的文化的価値が高いからこそ京都へ投下すべきだ」と主張した。


 これに対して、ヘンリー・スチムソン陸軍長官が、「それでは戦後、ローマやアテネを破壊したのと同じ非難を世界中から浴びることになる」と強硬に反対した。彼が新婚旅行で京都を訪れていたことも、その反対の一因だったかもしれない。


 その後の標的委員会では、すでに通常爆撃で破壊されていた横浜が却下され、情報不足から新潟が除外された。最終的に、広島・小倉・長崎の優先順位で二発の原爆が投下される方針が決まったのである。

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9月18日、チャーチルは、ルーズベルトの実家があるニューヨーク州ハイドパークを訪れて秘密会談を行い、米英の首脳は「ハイドパーク協定」と呼ばれる密約を交わした。
 この密約の内容が情報公開されたのは1972年のことだが、実はこの密約の時点で、ドイツではなく日本に原爆を投下することが決まっていたのである
。戦後にアメリカがソ連を超える大国となるために、それを強く勧めたのは、チャーチルだった! 

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 1945年4月12日、史上最多の4選を果たしたルーズベルト大統領が脳卒中のため急死し、副大統領のハリー・トルーマンが昇格した。この時点で、科学者ばかりでなく、軍上層部にさえ原爆使用反対の意見が複数あったことから、トルーマン新大統領は、「非人道的兵器」の使用を躊躇(ためら)った。


 しかし、チャーチルは「ハイドパーク協定」の早期実行を要求し、グローヴスは広島が「軍事都市」だという誇大報告書まで作成して、原爆投下を迫った。


 何よりも忘れてはならないのは、当事国の日本が「本土決戦」を内外に表明して「一人十殺」の徹底抗戦を叫んでいたことである。通常の上陸作戦では、アメリカ軍に甚大な被害が予測された。


 最終的にトルーマン大統領は、「非人道的兵器」
の使用を認めた。





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