飯塚幸三受刑者 ©時事通信社
家族が事件や事故に「巻き込まれる」ことをイメージする人はいるが、「加害者」になることまで想像する人は少ないであろう。しかし、あなたの大切な家族が他人の命を奪ってしまい、ある日突然、加害者家族になることは、特殊な人々だけが経験することではなく、日常に潜むリスクなのだ。
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ここでは、2000件以上の加害者家族支援を行ってきた阿部恭子氏の著書『 家族が誰かを殺しても 』(イースト・プレス)から一部を抜粋。2019年4月19日に「東池袋自動車暴走死傷事故」を引き起こした飯塚幸三受刑者(91)の受刑生活を紹介する。(全2回の1回目/ 2回目 に続く)
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拘置所側も先例がない高齢者90歳の収監
幸三が東京拘置所に収監されてから数日後、妻の下には夫から手紙が届いていた。
「あまりに悲惨な状況に、母は泣き崩れてしまって……」
長男も、手紙の内容に衝撃を受けていた。
車椅子がなければ歩けない状態になった幸三は、拘置所内でトイレに行こうとした際、転倒してしまい頭に怪我をしてしまったのだ。トイレは血だらけになり、拘置所内の規則として「始末書」を書かなければならなかったのだという。
拘置所側も先例がなく、対応に窮したようだった。壁に緩衝材として発泡スチロールを張り、転倒で怪我をしないよう応急措置を施した。
刑事施設にはてすりがない。杖も武器になるので使えないため、歩くことが困難な幸三にとっては、トイレに行くことが過酷な試練となっていた。終いには、おむつで対応しなければならなかった。
房の中には椅子がなく、壁に寄りかかっていなければならない。就寝時間以外に横になってはならず、まるで拷問である。
90歳(取材当時)の足の不自由な老人にはあまりに過酷な状況に、家族は打ちのめされていた。
収監から1週間後、私は東京拘置所での長男の面会に同行することになった。
「まさか、人生でこのような場所に来るとは想像もできませんでした」
傷だらけでの面会
数々の著名人も収監されていた東京拘置所。広大な敷地と設備、出入りする面会人の雰囲気に、長男は圧倒されていた。私がこれまで出会ってきた家族は、皆、同じ言葉を口にする。
電光掲示板で番号が呼ばれた後、セキュリティゲートを通り抜け、長い廊下を歩いて上の階に上がり、面会室に入った。
幸三は、刑務官3人に支えられながら車椅子で面会室に現れた。額には大きな紫色のあざができている。私はその姿を見ただけで、胸が潰れそうな思いだった。
それでも、 「わざわざ来て頂いて、申し訳ないですね」 幸三は自宅で見せていた笑顔と同じ、穏やかな表情で挨拶をした。
刑事施設の過酷な状況に、屈強な男性が面会室で涙を流す姿をこれまで何度か見たことがあるが、幸三の穏やかさ、余裕とも取れる表情に、真の強さを感じた。
20分間の面会は、今後の報道対応や家族間の事務手続きの話で終了した。 長男は、父親と話ができてよかったと言っていたが、それでも痛々しいあざが残る父の姿に、ショックを隠し切れない様子だった。妻にこの傷だらけの姿は見せなくてよかったと思った。
「あの様子で、刑務所でやっていけるのでしょうか……」
おそらく2週間程度で幸三の身柄は刑務所に移る。どこに行くことになるのか、収監先は家族であっても知らされることはない。本人からの便りを待つほかないのである。
過酷な受刑生活
幸三の収監先として、世間では医療刑務所が濃厚だと騒がれていたが、私はありえない選択肢だと考えていた。医療刑務所の対象になるのは、がん患者や人工透析が必要な人々で、幸三は歩行が不自由な以外は、いたって健康だからだ。
「上級国民は刑務所の待遇も違うんじゃないか」
収監されてからも、特別待遇の有無について、世間からの執拗な追及は続いていた。
拘置所への収監から約2週間後、幸三は地方のある刑務所に移送されていた。やはり医療刑務所ではなく一般の刑務所だった。
私は家族より一足先に、刑務所での面会を試みた。幸三が収容されている施設は私も過去に何度か足を運んだことがあるが、介護施設が設置されているだけで、高齢者の人権に配慮されてはいるものの、処遇に変わりはないはずだった。
刑務官に車椅子を押されて面会室に入ってきた幸三は、拘置所の頃よりは幾分か、顔色がいいように感じられた。
アクリル板を挟んでの会話だが、耳に不自由もないようだった。
「毎日、日が昇るたびに、亡くなった方々のご冥福を祈っています」
自宅にいる時と変わらず、はじめに遺族と被害者への謝意を述べた。
幸三は禁固刑なので作業はなく、読書をしたりしている様子だった。 「高齢受刑者の方々ともお会いしますが、皆さん、私よりずっと若い」
幸三はそう言って笑顔を見せた。確かにそうだろう。90歳での入所は日本ではじめてのケースに違いない。
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