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古代人は寒さを乗り超えるために冬眠することができた

2024年12月20日 06時03分00秒 | 歴史的なできごと
トラキア・デモクリトス大学(ギリシャ)の研究者らは、スペインのシマ・デ・ロス・ウエソス洞窟で発掘作業を行い、古代の人々は極度の寒さを乗り越えるために冬眠していたとの結論に達した。ガーディアンが報じた。


研究者らが古代人の骨を調べたところ、その骨には冬眠する動物にみられる損傷や病気と同じものが見つかったという。


12・22・2020

研究者らは、これは古代の人々が代謝を抑え、数ヶ月間眠ることができたことを物語っているとの見方を示している。

研究者らによると、見つかった古代人の化石は季節変動を示しており、これは古代人の骨の成長が毎年数ヶ月間中断していたことを示している。

研究者らは「冬眠は彼らにとって寒さを乗り越えるために洞窟で何ヶ月も過ごして生き残ることを可能とした唯一の解決策だった」としている。

また研究者らは、同じ場所で見つかったホラアナグマの骨の損傷が、古代人の骨にみられた損傷と一致したと指摘した。研究者らはこれについて、古代の人々が寒く、食料が不足する中で生き延びるためにクマと同じことをしたことを裏づけるもう一つの証拠だとの見方を表している。


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じつは昔からあった「出稼ぎ売春」 九州では「女の出世」として尊ばれたが… 売春婦となるため旅立った「からゆきさん」の闇

2024年12月17日 22時17分24秒 | 歴史的なできごと


じつは昔からあった「出稼ぎ売春」 九州では「女の出世」として尊ばれたが… 売春婦となるため旅立った「からゆきさん」の闇(歴史人) - Yahoo!ニュース 




じつは昔からあった「出稼ぎ売春」 九州では「女の出世」として尊ばれたが… 売春婦となるため旅立った「からゆきさん」の闇
12/17(火) 11:30配信




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歴史人
1890年ごろのシンガポールの日本人女性(ライデン大学図書館)


「からゆきさん」をご存じだろうか。「から」とは「唐」、つまり外国で、海外へ出稼ぎに行く人、とくに現地で売春を行う女性を指す言葉である。江戸時代には、貧困世帯の多かった天草(現在の熊本県)・島原(長崎県)から万単位の女性が海外へと旅立った。明治期の中国東北部・大連などには多数の日本人娼婦が溢れ、ハルピンの日本料理屋では「裏メニュー」として売春が提供されたという。彼女たちはその後、どうなったのだろうか?


■「1週間100万円」の高収入に釣られ…


 最近、日本人女性が海外で売春し、深刻なトラブルに巻き込まれるケースが急増しているそうです。「毎日新聞」の記事(2024年4月5日)によると、摘発されたブローカー業者が「200~300人(の女性)を米国やオーストラリア、カナダなどに斡旋し、2億円近くを売り上げた」とのこと。


 ブローカーの手口は、「アメリカ出稼ぎ短期一週間100万円以上!!」などと仕事内容については触れずにSNSに投稿し、女性側も仕事内容については理解したつもりで応募するようですが、海外での「仕事」の内容は想像を絶する酷さであることが多いようです。


 マカオで売春することになった、とある女性は「客の前では常に危険を感じた」といいますが(前掲記事)、国内で性産業に従事する時のように、所属する店舗からのサポートを海外ではまったく受けることができないというのもあるでしょう。


 今年(2024年)4月には超党派の議員たちが「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律(困難女性支援法)」を施行させましたが、いまだに危険を承知で海外にわたる女性は少なくないのが現状です。


 さて、じつは貧困層の日本人女性が、日本国内でのレートよりも高い賃金が期待できる海外にわたって売春を行った「負の歴史」の始まりは、はるか過去までさかのぼります。


■長崎のブローカーを経て、海外へ旅立った「からゆきさん」


「からゆきさん」という言葉を聞いたことはありますか?


 ウィキペディアでは「九州地方で使われていた言葉」として「からゆきさん」を定義していますが、江戸時代の九州ではすでに「からゆき」という言葉が存在していたようです。「から」とは「唐」。つまり「外国」という意味です。


 江戸時代には日本人の海外渡航は幕府の法によって厳禁されたにもかかわらず、「万単位」もの女性が、貧困世帯の多かった天草(現在の熊本県)・島原(長崎県)などの九州地方から、長崎のブローカーを経て海外に流出しました。もう二度と日本には帰れないことを覚悟の旅路であったと思われます。


 明治時代になり、日本人の海外渡航が違法ではなくなると、今度は男女とわずに外国に出稼ぎにいく人が「からゆきさん」と呼ばれました。しかし、その中に少なからぬ割合の性産業の女性が含まれていたことはいうまでもありません。「からゆきさん」は西日本に多く、もともと九州地区の方言だった「からゆきさん」が全国区になっていったのです。


■稼いだ金を神社や寺に寄進し、地域の有名人になる「女の出世」


 ウィキペディアでは、「からゆきさん」を「主に東アジア・東南アジアに渡って働いた日本人労働者」だと定義していますが、実際の仕事先は、北はシベリアから中国大陸、南は東南アジアからインド、アフリカまで、きわめて広範囲でした。


 九州同様に貧困地帯として知られた東北の女性たちの出稼ぎ先は主に東京でしたが、九州地方、とりわけ天草・島原の女性たちは海外を目指しました。彼女たちには、「からゆき」だけでなく「からくだり」という言葉が用意されています。


「からゆき」した外国から当時(明治後期)のお金で「100万円」――現在の価値に換算すれば1億円以上の現金・宝石とともに「からくだり」した女性が実家を建て替え、故郷の神社や寺にまで寄進して立派に蘇らせ、地域の有名人になることを「女の出世」として尊ぶ気風まであったとされます。


 明治時代、日本軍の海外拠点だった中国東北部の大連などの大都会には、かなりの数の日本人娼婦が溢れていました。たとえば明治44年(1911年)12月末の記録で、大連(中国・遼東半島最南端)で娼婦・その類として鑑札を受けた(公的に届け出をした)女性は、872人。出身者のトップ3は長崎出身が109人、広島出身が92人、大阪出身が85人でした(『廓清』、2巻4号)。


■海外の日本料理屋では「裏メニュー」に売春があった


 女性たちが海外に出稼ぎ売春するきっかけは様々ですが、20世紀になった直後の満州・シベリア地方においては、毎週のように売春婦となるため日本から乗り込んでくる女性の姿が見られ、「日本娘子軍(にほんじょうしぐん)」などと呼ばれました。


 明治末のハルピンでは、とある日本料理屋の裏メニューが売春で、ロシア人客相手にロシアの農民風のドレス姿に足元は草履ばきの日本女性が売春を行ったそうです。相場は1回3円。1時間5円、泊まりで25円。平均的な月収は800円でしたが、当時1円は現在の1万円以上に相当するので月収800万以上です。


 しかし、高収入を得ていたはずの「からゆきさん」たちのほとんどについて、その後どうなったかを示す史料は残されておらず、闇の深さを感じずにはいられません。


堀江宏樹






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太宰も愛した跨線橋よグッド・バイ 三鷹の「撮り鉄」スポット JR東、解体・撤去方針決定

2024年12月11日 08時03分36秒 | 歴史的なできごと
太宰も愛した跨線橋よグッド・バイ 三鷹の「撮り鉄」スポット JR東、解体・撤去方針決定

2021年9月12日 06時54分



9・12・2021





JR中央線や三鷹車両センターをまたぐ跨線橋=三鷹市で、本社ヘリ「あさづる」から


 作家・太宰治(一九〇九〜四八年)ゆかりのスポットとして知られる、三鷹市の「三鷹跨線(こせん)人道橋」(跨線橋)が解体・撤去されることになった。建設から九十二年が経過し、橋を保有、管理するJR東日本が六月下旬、市に撤去方針を通知し、市側は八月末にこれを「受け入れる」と回答した。残り少なくなった都内の昭和の面影がまた一つ消えることになる。


 跨線橋はJR三鷹駅の約四百メートル西に中央線などの線路を南北にまたぐように架けられている。全長九十三メートル、幅約三メートル、高さ約五メートル。一九二九(昭和四)年、旧鉄道省が現在の三鷹車両センターの前身、三鷹電車庫を開設する際、人の往来を確保しようと建設した。

跨線橋からの眺め。眼下に広がる車両センター


 当時は鉄鋼が不足していたため、明治、大正期の古レールが再利用された。この間、塗装など改修はされてきたが、今もほぼ昭和初期の姿をとどめている。
 橋からは晴れた日には富士山が眺められ、昔から地元の人々が愛する散歩コースになってきた。中央線を走る車両だけでなく、車両センターの留置線で東西線などの各種車両も見物できるため、鉄道ファンが集まる「撮り鉄」スポットでもあった。

太宰治


 太宰ゆかりの地としての側面も見逃せない。太宰が三鷹へ引っ越してきたのは橋の完成から十年後の三九(昭和十四)年。当時は高層ビルもなく、跨線橋は広々とした武蔵野の風景が見渡せる場所として太宰のお気に入りだったようだ。「ちょっといい所がある」と友人らを案内したと伝えられている。「太宰が生きたまち・三鷹」をPRしてきた市は市内十九カ所をゆかりの地として紹介し、跨線橋脇にも案内板を設置している。

 跨線橋の存廃を巡っては、JRと市の間で三年前から水面下のやりとりが続けられてきた。JRは、六九年に橋の約二百五十メートル東に完成した「堀合地下道」が橋の代替になるため、住民の往来問題は解消済みと主張。昨春には、維持コスト負担に悩むJRが橋の無償譲渡を市に提案。市は今年一月、

「譲渡の受け入れは困難」と返答していた。

太宰治も愛した三鷹跨線橋からの夕景


 「タダ(無償)ほど高いものはない」。市の幹部がそう皮肉るほど、提案の中身を試算すると高額な数字が浮かんできた。

市が譲渡提案をのんだ場合、その後の年間の維持管理費用に三千万〜三千五百万円。

さらに耐震強度が不足しているため、大規模な改修工事の費用は数十億円に膨らむ可能性も−。それでも市民や市議会から跨線橋の存続を求める声が高まり、市は現状のままで存続させる方策を模索したが六月、ついに事態が動いた。

塗装は橋の北側の一部で終わったままだ



時代を経てさびが目立つ


 上旬、河村孝市長がJR東日本の八王子支社長と面会。JR側からは、コロナ禍で経営が悪化し、維持管理費の捻出が難しい状況や橋の耐震性能など安全面の問題が説明され、跨線橋の維持は「困難」と伝えられた。下旬には「撤去することで進めたい」と文書で通知を受けた。市は八月末に文書で回答を送ったうえ、今月七日にホームページに「JR東日本の判断を受け入れることとした」と告知した。存廃を巡る攻防にピリオドが打たれた瞬間だった。

跨線橋の脇には三鷹市が設置した案内板があるが、表面の劣化が進んでいる


 次は、実際に撤去がいつ行われるかに焦点が移る。往来の多い中央線の終電から始発までの短い時間内に長さ百メートル弱の橋を撤去するには、工事予算の確保や事前準備が必要。大工事になるため「時期はまだ決まっていない」(八王子支社)という。市幹部も「今年度内はまずないだろう」とみる。


 しかし、絶筆となった太宰の小説ではないが「グッド・バイ」の日は必ずくる。市は、階段や橋桁の一部を近くの公園に保存することや、記録映像の撮影で後世に残すことを検討している。





文・花井勝規/写真・花井勝規、嶋邦夫、河口貞史
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へ。



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キリスト教の聖書を書いた人は誰ですか?

2024年12月02日 00時03分57秒 | 歴史的なできごと

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」た(1テモテ3・16)
と書かれていますから、聖書の著者は神なのですが、
実際は神に導かれた人間の手によって書かれ、編集されています。


誰と特定できない、無名の多くの人が関わっています。


キリスト教の聖書を書いた人は誰ですか? - ★旧約旧約聖書正典は3... - Yahoo!知恵袋 



ベストアンサー
man********さん



2012/6/26 9:27(編集あり)


★旧約


旧約聖書正典は39個の書物で成り立っていますが、
それぞれが書かれた時代はまちまちです。
作者不明のものがほとんどです。




統一王国の時代にモーセ五書の原型が書かれ始めたようですが、
モーセ五書は四つ以上の資料を編集して作られたとされ、
今のような形に完成したのは捕囚後のペルシアの時代だと言われます。


知恵文学が書かれたのも捕囚後のこの時代のようです。


歴史書が書かれたのは王国分裂後の南王国です。
歴代誌はずっと後になって捕囚後の時代にまとめられたようです。


それらと並行して、預言者たちの活躍と共に預言書もできていきました。


旧約聖書が最初に今のような形にまとまったのは、
紀元前280年ごろエジプトのアレキサンドリアで成立した70人訳聖書ですが、
これはギリシア語訳された聖書です。

ヘブライ語の正典が確立したのはイエスの時代よりも後で、
紀元90年ごろのヤムニの宗教会議においてです。


★新約

イエス自身はなにも書き残しませんでしたから、
イエスが処刑されたあと、
弟子たちの手によって徐々に文書化されてまとめられてゆきました。
福音書にも書簡にも、著者の名が冠せられています。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ、、、






「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」た(1テモテ3・16)
と書かれていますから、聖書の著者は神なのですが、
実際は神に導かれた人間の手によって書かれ、編集されています。
誰と特定できない、無名の多くの人が関わっています。





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大河ドラマ化が切望される、「東京」の地盤を作った武将とは?

2024年11月25日 08時05分09秒 | 歴史的なできごと
東京の町は、徳川家康がこの地に都を開いた際、参謀であった僧・天海の助言もあって守りに風水の理念が取り入れられた。



江戸城の鬼門・裏鬼門・北辰を神社やお寺で守護するように、建設や移転を命じたのである。もちろん神頼みだけでなく、道路や堀・川などを整備し、住みやすい内側と攻撃しにくい外側を物理的にも完成させていたのではあるが。 

 これを考えついたのは家康が最初ではない。江戸城はもともとあった城を拡張したものであるし、今も残る江戸城守護の寺社のいくつかは家康入府の前から鎮座するものだ。これら地盤を作ったのが、戦国時代の武将・太田道灌である。 


●東京の基礎を作った道灌とは  

東京の神社仏閣をめぐっていると、この道灌の名前をよく耳にする。創建者や開基であったり、伽藍や社殿の修復をしていたり、別の神さまを他所から勧請していたりとかなりの数の寺社の歴史にかかわっている人である。

東京の基礎を作った人としてもっと有名になってもいいのではないかと思っているが、実際は都民にさえもほとんど知られていないのが実情だ。歴史は強者によって作られるとはよく言ったもので、太田道灌があまり知られていない理由は、最期があまりに悲惨だったからかもしれない。 

●関東における戦国時代の幕開けとは  

太田道灌は室町時代の中期、鎌倉公方(室町朝廷が関東支配の長として任じた職)の補佐役一族の子として生まれた。戦国時代の幕開けとなった応仁の乱が1467年に起こるが、関東ではすでに1438年に永享の乱が発生、鎌倉公方と補佐役との間で争いが起こっており、各地の勢力が戦さを重ねていた。

やがて、利根川を挟んだ2つの勢力が、約30年弱にも及ぶ戦いを続けるのだが、そんな中、道灌は室町幕府の後ろ盾を得ていた扇谷上杉家の筆頭家臣・太田家の家督を24歳の若さで継ぐのである。 

●江戸城のはじまり  この頃は品川付近に居宅があったようだが、対立勢力が拡大していく中で、河越城、岩槻城などとともに江戸城も築城する。

もともと江戸城は、すでに衰退気味であった江戸氏のものだったが、房総の勢力へ対抗するためにどうしてもこの地へ拠点がほしかった道灌は、江戸氏を口説くためいくつかの奇跡話を用いたとの逸話が残っている。

江戸城を手に入れた道灌は、堅固な城として作り直すのだが、この時鬼門側(北東)に柳森神社、湯島天神などを、裏鬼門側(南西)に日枝神社、平河天満宮、品川神社などを創建・整備・社殿の寄進などをした。

 ●全戦全勝で主家を助ける  

お寺についても鬼門側に、江戸城から出た金印を本尊にした吉祥寺、南西側に道灌が禅の師と仰いでいた雲岡舜徳を招き青松寺を開基している。道灌が成人した時、すでに関東は戦国時代に入っていたわけだが、彼は30年間に戦った30数戦ものいくさを独力で全勝したと言われている。

道灌が参戦するまでの主家(扇谷上杉家)はかなり不利な状況だったらしいのだが、戦況は一転した。戦さ上手だった道灌が戦いの前に必ず戦勝祈願をしたと言われているのが、江戸城の北辰に位置する妙義神社で、創建者である日本武尊とともに社に名前を残している。

また、道灌が唯一負けかけたと言われる文明3(1471)年の戦いの際、一時退避したお寺・自性院(新宿区)には、彼を助けた猫が、「招き猫」の発祥の地として道灌伝説とともに伝わる。この逸話にちなんだ猫像は新宿住友ビル前にも飾られてもいる。


●道灌、54歳の最期  このほかにも関東には道灌についての逸話が各地に残っているが、皇居内の道灌掘、江戸城の出城跡とも言われる道灌山、山吹伝説など挙げればきりがない。日暮里駅前や東京国際フォーラム内、日枝神社内などに太田道灌の銅像が建てられているが、どれほどの人が認知しているだろうか。  

結局、道灌は54歳で主君・扇谷定正の自宅に呼ばれ、風呂から出たところで暗殺されてその一生を終える。

扇谷定正とは、戦さで命を落とした主君の代わりに道灌らが急遽仕立てた後継だった人物だ。この時、道灌の活躍もあって扇谷家は関東一の勢力になっていた。

定正にとって唯一の恐れは道灌だけだったのかもしれない。だまし討ちの末に絶命直前に道灌が放った言葉は「当方滅亡(これで扇谷家は終わりだ)」だったという。 

●道灌の墓は遠く伊勢原の地に  

道灌暗殺の話が伝わると扇谷家に付いていたものたちの多くが対立勢力へと寝返った。収まりかけていた関東の戦国時代は一層泥沼化し、結局、扇谷家だけでなく関東は後北条氏によって駆逐されるという歴史を待つことになる。気の毒な道灌の墓所はなじみのある江戸城や河越城付近でなく、暗殺された伊勢原の地にある。

しかも、大慈寺には首塚が、洞昌院には胴塚と首と胴体が別々に葬られているのである。道灌の死に方を考えれば、しっかりとしたお墓があることだけでも貴重なことなのかもしれない。むしろ、怨霊となって暴れてもよかったくらいの仕打ちなのなだから。  

こんな道灌の一生をNHKの大河ドラマとして取り上げて欲しいという嘆願が出されている。実は、私も、とあるお寺で何度目かの嘆願の折の署名をしたことがある。戦国時代は関西付近の話だけでないし、東京の神社仏閣には道灌に関する資料が多く残されているので面白いドラマになる気がするのだが。  

さて明日、7月26日(旧暦/新暦では8月25日)は、そんな道灌が暗殺された日である。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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