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「私の読んだ本とは違いますね…」上皇陛下が満洲事変の解説に異を唱えたワケ

2025年02月06日 16時02分40秒 | 歴史的なできごと

「私の読んだ本とは違いますね…」上皇陛下が満洲事変の解説に異を唱えたワケ 



陛下は異を唱えた


「私の読んだ本に書いてあることとは違う」


 そのうえで半藤さんはこんな裏話も披露した。


「陸軍の中枢は、板垣や石原の動きに対して見て見ぬふりでいるつもりだったのですが、動きに気づいた元老西園寺公望や若槻礼次郎首相に『勝手な動きをするな』と厳しく注意され、南次郎陸相は、『あいつらを止めねばまずいことになる』と悟りました。そこで参謀本部の作戦部長建川美次少将を派遣してこの謀略を止めようとしたのです。


 ところが派遣された建川は、関東軍の幹部と意を通じてもいまして、まあ、本気で説得するつもりだったのかは怪しいものです。飛行機で行けばいいのに、わざわざ列車で下関まで行って関釜連絡船で大陸に渡っている。


 やっとこさで奉天に着いた建川を出迎えたのがほかならぬ板垣大佐。挨拶もそこそこに、2人はそのまま料亭菊文に出かけて酒を飲み始めた。建川は大の酒好き、これに対する板垣のあだ名も午前様。午前にならないと盃を放さないという酒豪です。最後は建川が酔い潰されてしまった。関東軍は2人が飲んでいる間に柳条湖付近で鉄道を爆破したんです」


 陛下にとっては初めて聞く話が多かったようで、「私の読んだ本に書いてあることとは違いますね」ともおっしゃる。それで私たち3人は「えっ」となった。半藤さんは「陛下はどういう本をお読みになったのでしょうか」とすかさず聞いた。こういう質問をずばりとできるのはいつも半藤さんだった。陛下よりも3歳年長ということと、長年の経験ゆえだろう。


 陛下がすっと立ち上がった。



「では、私の読んだ本を書庫から持ってきます」


 突然、部屋を出て行った陛下の行動に驚いている私たちに、美智子さまは雑談の相手をしてくださった。


陛下はどうしてこの戦前の本を


お読みになったのだろう?


「書庫は遠いのですか。どういう書庫なのでしょうか」と私が尋ねると美智子さまは、


「いえ、陛下がよく読む本は、書庫とは別のところに置いてあるんですが……」


 とおっしゃる。陛下が不在だったのは10分くらい。やはり書庫で本を探したようだった。


「この本なんですよ」


 と渡された本は厚手のハードカバーの古めかしい本だった。しかし、著者を見てもピンと来ない。半藤さんに「この人、知ってますか」と聞いたら、「知らないな」という。奥付を見てびっくりした。「昭和8年」とあるのだ。事変からまだ2年後、言論統制は太平洋戦争の時ほどではなかったとはいえ、事変の真相を書けるはずがない。しかし陛下は


「私はこれを読んだんです」


 とおっしゃる。正直なところ、私も半藤さんもあっけにとられた。内心では「満洲事変について戦後に書かれた本はたくさんあるのに、どうしてこの戦前の本をお読みになったのだろう」という疑問が湧いた。


「陛下、この本は今出ている満洲事変の本とは、事変に対する理解がまったく違います。この本はまだ軍の謀略だったことを隠しています」と半藤さんが言った。私も続いて「戦前のこの段階から研究が進み、今は真相とともに詳細な事実が次々と明らかになっています」と申し上げた。


 すると陛下はあっさりと「そうでしょうね」とおっしゃる。私たちの反応に驚いた様子はなかった。予想していたのだろうか。ではなぜわざわざあの本を持ち出されたのだろうか。両陛下は、新聞も読み、テレビも自由にご覧になって、本も自由に入手できる環境におられる。たまたま陛下の手の届くところにあったこの本を読まれ、その内容に疑問を感じ、気安く聞ける相手に見せて確認したかったのだろうか。


「それでは満洲事変は関東軍が仕掛けた謀略という理解でよろしいのですね」


 と陛下は私たちに確認された。それで間違いありませんと私たちは答えた。



田中メモランダムは


けっきょく誰が書いたのですか?


 ここで満洲事変の話はいったん終わったのだが、その次の3回目の懇談(2014年11月8日)の際、陛下の関心はさらに意外なところに向かっていることがわかった。


「ところで、『田中メモランダム』とはどういうものだったのでしょうね」


 田中メモランダム(田中上奏文)とは、1927(昭和2)年に当時の田中義一首相が昭和天皇に極秘に送ったとされる偽書だ。

「支那を取るためにはまず満蒙(満洲と内蒙古)を取り、世界を取るためにはまず支那を取れ」と書かれ、

満蒙征服の計画を具体的に示していると宣伝された。つまり日本の「満蒙侵略計画」であるかのように読める文書だが、この文書の存在を知る人はかなりの昭和史通だろう。


 1929(昭和4)年12月に中国の雑誌「時事月報」に掲載されたのが最初で、その後米国に流布された。東京裁判でも持ち出され、真偽が論争になったことはあるものの、すでに死亡していた山縣有朋が登場するなど誤りや矛盾点がいくつもあり、現在では完全なニセ文書だと確定している。


 陛下はむろんこうしたことはご存じの様子だったが、


「けっきょく誰が書いたのですか」


 と尋ねられた。


 誰が作ったものかはわからない。


 半藤さんは、田中メモランダムは偽書ではあるものの、「当時の日本の雰囲気をよく表した内容ではあったと思います」と話した。私は「推測ですが、ベースとなったメモ書きなどは日本側から流れたのかもしれません」と申し上げると、陛下はさらに関心を深められ、


「そのベースとなったメモ書きなどは誰が作ったんですかね」


 と問われた。


「いろんな説があります。政友会の田中義一に対抗していた民政党の息のかかった人たちによるものとする説、血気にはやる将校が意図的に撒いて中国を刺激しようとしたとする説、あるいは中国の謀略機関の捏造による文書などいろいろありますが、現在も判然としません」


 私はこんな説明をした。


石原莞爾はそういうところでも


関与しているんですかね?


 それでも陛下は納得されないご様子だったので、「実は、田中メモランダムをつくったメンバーとして、張作霖爆殺事件に絡んだ河本大作大佐など日本の軍人の名を挙げる人もいますね」と話した。実証されているわけではないが、そういう推測をする人がいるのは事実だったからだ。すると陛下はさらに興味を持った様子で、


「石原莞爾はそういうところでも関与しているんですかね」


 とお聞きになったことに、正直なところ私たちはかなり驚いた。半藤さんは「石原は関東軍参謀でした。最前線で満洲事変に深く関係していますから、少なくともそういうことを考えない人物ではありません。ただ、石原が書いたと断言できる証拠はありません。専門家の研究でもやはり中国側による謀略文という説が有力です」と伝えた。




『平成の天皇皇后両陛下大いに語る』 (文藝春秋) 保阪正康 著
© ダイヤモンド・オンライン

 それでも陛下は納得されないご様子で、「そうなんですかねえ」とあいまいな言い方をされた。半藤さんは少し言い訳のように、「ただ、私もすべての仮説を綿密に検証できているわけではありません」とつけ加えた。私も似たようなことを言い添えた。すると陛下は「お2人とも忙しいんですね」とおっしゃった。


 石原莞爾と田中メモランダムを結びつける発想は一般にはない。当時、対中強硬派で売り出し中の奉天総領事吉田茂(後の首相)と結びつけるならまだわかるくらいだが、石原はまだ陸軍大学教官から関東軍に赴任する前だったからだ。もしかすると石原のかかわりについては、陛下は何か核心的なことを誰かから聞いていて、もっと調べてはどうかと私たちにうながしたのではないかと思えるほどの熱心さであった。









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「原爆ピット」>テニアン島 B29出撃地と平和連携へ 広島県議団、テニアン島を訪問

2025年02月03日 16時03分21秒 | 歴史的なできごと

B29出撃地と平和連携へ 広島県議団、テニアン島を訪問(共同通信) - Yahoo!ニュース 






B29出撃地と平和連携へ 広島県議団、テニアン島を訪問
2/3(月) 15:02配信





共同通信
 広島県議団は米自治領北マリアナ諸島で、広島と長崎に原爆を投下した米軍の爆撃機B29が出撃したテニアン島を訪問した。被爆80年を迎える中、同県議団として初めての公式訪問。過去の悲劇を乗り越え、平和の実現に向けて連携する契機にしたい考えだ。


 県議団は1月23~26日の日程で、太平洋戦争で日米両軍の激戦が繰り広げられたテニアン島とサイパン島を訪問。テニアン島では、広島に投下された原爆がB29に積み込まれた跡地「原爆ピット」を視察するなどした。


 テニアン島は戦前、日本の委任統治領で多くの日本人が住んでいた。1944年に米軍が上陸し、占領。米軍機による日本への空爆拠点となった。


 45年8月6日、同島の米軍ノースフィールド基地から原爆「リトルボーイ」を搭載したB29エノラ・ゲイが広島へ出撃した。同9日には「ファットマン」を積んだB29ボックスカーも長崎に飛び立った。


 中本隆志県議会議長は北マリアナ諸島のアーノルド・パラシオス知事と会談し、今年8月の広島の平和記念式典への出席を要請した。








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松本アニメの原点>松本零士の『宇宙戦艦ヤマト』のTV放送は、1974年昭和49年10月6日に始まった

2025年01月29日 23時01分48秒 | 歴史的なできごと
松本零士先生を追悼して再送の記事です。

このTV版アニメが、松本零士人気の金字塔であり、中興のランドマークでしょうか。松本先生の漫画家デビューは、ずっと前ですが世の中に知れ渡ったのは、このヤマトのTV番組が原点かなとおもいます。

2021
47年前の今日10/6, 放送が始まった『宇宙戦艦ヤマト』。イスカンダルへの旅を、相対性理論で考える。

10/6/2021



柳田理科雄空想科学研究所主任研究員10/6(水) 8:01

こんにちは、空想科学研究所の柳田理科雄です。マンガやアニメ、特撮番組などを、空想科学の視点から、楽しく考察しています。さて、今日の研究レポートは……。

『宇宙戦艦ヤマト』の放送が始まったのは、1974年の10月6日だった。


上は映画版のポスターですね。1977年でしたか。

舞台は、西暦2199年。ガミラス星人の遊星爆弾攻撃で地球は汚染され、滅亡のカウントダウンが進むなか、人類は大マゼラン星雲まで「放射能除去装置」を取りに行くという一大プロジェクトを敢行する。


これは、TV版の初めが初出の画像ですが、映画版でも使われていましたか。

向かうのは、昭和初期の戦艦大和を改造した宇宙戦艦。目的地は、地球から14万8千光年離れたイスカンダル星。残された時間はたったの1年。――絶望的としか思えない旅であった。

そんな旅が成功したのは、沖田艦長のリーダーシップや、島大介の冷静さや、真田志郎の頭脳や、古代進の運のよさなど、原因はいろいろ考えられる。
なかでも、技術的に大きかったのは「ワープ」であろう。イスカンダル星から波動エンジンの設計図を提供され、地球の宇宙船として初めて実現した「光速を超える航行技術」だ。


本稿では、これについて空想科学的に考察してみたい。ワープ航法が可能になれば、はるか14万8千光年の旅も難しくはないのだろうか?

◆光の速さの29万6千倍!


大マゼラン星雲のイスカンダル星まで14万8千光年。往復では29万6千光年。
光の速さで進んでも29万6千年かかる距離である。総延長280京kmであり、もし時速320kmの東北新幹線はやぶさで往復しようものなら、帰ってくるのは9980億年後だ。



それほどの距離を、ヤマトはわずか1年で往復せねばならない。それは可能なのか?

アインシュタインの「特殊相対性理論」によれば、物体がどれだけ加速しても、光速を超えることはできない。それは「光速に近づくとエネルギーが急激に増大し、光速では無限大になる」から。つまり、どれほど大きなエネルギーを注ぎ込んでも、決して光速には到達できない、というわけだ。

ただし、特殊相対論は、次のことも明らかにしている。「光速に近づくと、運動している物体の時間の進み方は遅くなる」。

つまり、ヤマトが光速ギリギリまで加速すれば、ヤマト艦内の時間の進み方はとてつもなくゆっくりになる、ということだ。

計算してみると、光速の99.99999999943%で航行すれば、時間の進み方は29万6千分の1になり、ヤマトは1年で帰ってこられることになる。おお、すばらしい。

あ。いや、すばらしくない。時間の進み方が遅くなるのはヤマトの艦内だけ。ヤマトに乗っている人々にとっては1年しか経たなくても、肝心の地球ではその間につつがなく29万6千年が経ってしまうのだ。


ヤマトが帰ってくる頃には、人類はとっくに滅亡している! その後、地球にはガミラス星人たちが移り住んで繁栄しただろうけど、そのガミラス星人たちもどうなっているやら……というほどの悠久の時間である。

◆成否を分けるのは「通常航行」


次元波動エンジンとワープについては、第4話で科学班の真田さんが解説してくれた。イスカンダルの技術が、特殊相対論を超越する航海術を生み出したわけだが、とはいえ波動エンジンも万能ではない。

1回のワープでイスカンダル星まで行けるわけではなく、ワープで飛べる距離には限界がある。また、1度ワープするとしばらくワープはできないようで、劇中では「1日に2回ワープをする」と言っていた。なかなかキビシイ制限があるのだ。

連続ワープができない以上、ワープと通常航行を交互に繰り返しながら進むしかない。ワープは一瞬で終わるから、1年のほぼすべては通常航行に費やされることになる。

ヤマトの通常航行の速度は、光速の99%とされていた(『宇宙戦艦ヤマト全記録集』/オフィス・アカデミー)。すると、1年のうちのほぼすべてを通常航行で進んだとしても、進める距離はわずか0.99光年!

残る29万5999.01光年は、ワープで進むしかない。つまり、ヤマトの旅は「ほとんどワープ頼り」ということだ。

すると、あってもなくてもよさそうな通常航行だが、実はこの地道な歩みこそが、ヤマトの旅の成否を分ける。

前述したように、光速に近い速さで運動すると、時間の進み方が遅くなる。光速の99%で航行した場合、時間が進むペースは外の世界の7分の1だ。
裏を返せば、ヤマトが1日しか通常航行していないつもりでも、地球の時間では7日も経っていることになる。

つまり、地球の時間で1年以内に帰ってくるためには、ヤマトとしては52日で旅を終えなければならない!

これは忙しい。テレビシリーズ全26話を見ると、実にさまざまな事件が起こっている。

ガミラス艦隊と戦ったり、途中の星で食料を調達したり、宇宙の嵐で3週間も足止めを食ったり、沖田艦長の手術が行われたり、宇宙に飛び出した相原を探しに行ったり、藪がクーデターを起こしたり、アナライザーが森雪に恋をしたり……!

たった52日間で、そんなにいろいろなことをやっているヒマがあるのか!?
イラスト/近藤ゆたか

すると、もっと急ぎたくなるのが人情だが、それは逆だ。スピードを上げると、使える時間はますます短くなる。
このたびの旅においては、急げば急ぐほど、かえって時間がなくなるという不条理こそが真理なのだ。宇宙の旅は本当に厄介である。

いっそのことヤマトは、通常航行のときは、戦艦大和の最大速力と同じ時速51kmくらいで進んではどうだろう。

そうすると1年かかっても44万7千km=0.0000000472光年しか進めないが、地球と同じ1年をまるまる使えることになる。通常航行では、どうせちょっとだけしか進めないのだから、慌てなくてもよいではないか。

急ぐときほど、心に余裕を。お、なんだか人生にも役立ちそうな教訓。さすが、わが青春の『宇宙戦艦ヤマト』である。




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アウシュビッツ解放75年、生存者が語る「消えない恐怖>1月2020年

2025年01月28日 22時03分11秒 | 歴史的なできごと
アウシュビッツ解放75年、生存者が語る「消えない恐怖


AFP=時事】ナチス・ドイツ(Nazi)がポーランドに設置したアウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所の解放から2020年1月27日で75年を迎える。AFPでは、死の収容所を生き延びたユダヤ人らにインタビューを行った。

【関連写真】生存者の腕に刻まれた収容番号 
 アウシュビッツでは何百万ものユダヤ人が殺された。残った生存者らは高齢となり、左手に刻まれた囚人番号の入れ墨は薄れた。だが、当時の恐怖によって心と体に刻まれた傷は今も消えることなく残っている。


 
■シュムル・イツェクさん
 
1927年9月20日ポーランド生まれ

 アウシュビッツ囚人番号117 568
 
 アウシュビッツで亡くなった両親と姉妹の写真を見るシュムル・イツェク(Szmul Icek)さん(92)の体は震え、目は涙で曇っている。
 
 1942年初め、悪名高いナチスの秘密警察ゲシュタポ(Gestapo)からの通知を受け、イツェクさんの2人の姉妹は出かけて行った。家族を守るため、ゲシュタポの元を訪れなければいけなかったのだ。
 
「2人は出かけて行って、二度と戻ってこなかった。2人がどうなったのかは分からない」。交通事故に遭い、話すことが困難になった夫に代わり、妻のソニアさんが答えた。
 
 イツェクさんは長年、アウシュビッツにいたことを妻には秘密にしていた。
 
 イツェクさんら夫婦はベルギーで長年暮らした後、イスラエルへと移り住んだ。今は、エルサレムのアパートで暮らしている。居間の壁にはイツェクさんの家族の古い写真が飾られている。
 
 姉妹2人がいなくなってから1か月後、ドイツ人らが家を訪れ、今度はイツェクさんの両親、2人の兄弟、イツェクさんを連れ出した。
 
「列車を降りてアウシュビッツに着くと、少年のように父親の手を握った」
 
 だが、イツェクさんはナチスによって父親から引き離された。「父親と一緒にいたかったので泣いた。ドイツ人から『おまえはあっちだ』と言われた」と当時を振り返った。

1/25sat/2020

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アウシュビッツ解放80年…何度も殴られ「選別」された女性、毒ガス不足で生還「人間の非道と強さ知った」

2025年01月28日 19時03分12秒 | 歴史的なできごと

アウシュビッツ解放80年…何度も殴られ「選別」された女性、毒ガス不足で生還「人間の非道と強さ知った」
1/25(土) 6:00配信




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読売新聞オンライン
 ホロコーストの象徴となっているポーランド南部のアウシュビッツ絶滅収容所の解放から27日で80年となる。アウシュビッツから生還し、現在はイスラエル中部ヘルツェリアに住むハリーナ・ビレンバウムさん(95)が読売新聞のインタビューに応じ、過酷な経験から「人間がどこまで非道になり、強くなれるかを知った」と振り返った。(聞き手・エルサレム支局 福島利之、写真も)






【年表】ヒトラー首相就任からアウシュビッツ解放までのホロコーストを巡る出来事


ドイツ軍の侵攻
イスラエル中部ヘルツェリアの自宅でインタビューに応じるハリーナ・ビレンバウムさん(2024年12月16日)


 私はポーランドの首都ワルシャワで1929年に生まれ、父ヤーコブ、母ポーラ、長兄マレク、次兄ヒリクと住んでいた。39年にドイツ軍がポーランドに侵攻すると、夜間外出や通学が禁止された。人々と「耐えるんだ」と励まし合い、夜には家に集まって歌を歌った。


 住んでいた建物はゲットー(ユダヤ人強制居住区)となり、壁の外に出るのが難しくなった。ゲットー内では飢えが広がり、道端に遺体が放置された。42年7月にゲットーの壁に「全てのユダヤ人は東部へ労働へ行く」と告げるポスターが貼られた。毎日数千人が連行された。


 私たち家族は地下室や空き家に隠れた。1か月後、捕獲作戦が終わったと思って外に出た瞬間、ドイツ兵に囲まれた。私は13歳になる直前だったが、母から「17歳と言いなさい」と言われた。労働力とみなされれば助かるからだ。


 「集合場所」の広場に連行され、ドイツ兵は機関銃を向けた。母は「一緒に死ぬの。怖がらないで」と言った。ドイツ兵は私たちを殴り、列車へ乗せようとした。列車に乗せられたら二度と戻れないのを知っていた。列車から遠ざかろうとした父は(ドイツ軍に協力する)ユダヤ人警察に殴り殺された。残りの家族は近くの排水溝に逃れ、再びゲットーに戻った。


 43年4月にはゲットー蜂起が始まり、地下壕(ごう)で3週間過ごしたが、ドイツ兵に見つかり、拘束された。再び集合場所へ連行され、貨車に詰め込まれた。1台の貨車に100人以上が詰め込まれ、空気を吸える小さな窓を確保しようと殴り合った。

1/25(土) 6:00配信




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読売新聞オンライン
マイダネク収容所
 到着したのは、ポーランド東部マイダネク絶滅収容所だった。貨車から降りると、長い道のりを素足で歩かされた。歩けなくなったら、その場で射殺された。母はすぐ近くで撃たれた女性の靴を拾い、私に履かせた。42歳の母は衰弱していた。


 収容所に着くと「選別」された。選別漏れは死を意味する。私はシャワー室に入れられたが、母の姿が見えない。義姉(次兄の妻)のヘラは「今日から私があなたのお母さんよ」と言った。シャワーを浴びた後、私たちはむちを打たれながら外に出された。


 木造の小さなバラックにには800人ほどの女性が詰め込まれ、地面に寝るしかなかった。水やスープを入れるバケツは150個しかなく、皆で奪い合った。


 ある夜、ドイツ兵が犬を伴い、数十人と共にガス室に連れて行かれた。「全員、服を脱げ」と命令された。皆でユダヤ教の祈りの歌を歌い、私は義姉の手を握った。ガス室から生きて出た人がいないのを知っていた。私は「死の意味は何か」と考えた。だが、2時間が過ぎても何も起こらない。突然、ガス室のドアが開けられ、「服を着ろ」と命令された。後日、毒ガスが不足していたと聞いた。


アウシュビッツ収容所
 43年夏、私と義姉は貨車に詰め込まれ、移送された。到着したのは、アウシュビッツだった。全てが泥色だった。男女とも髪をそられ、ボロ布のような服を着ている。性別も年齢も分からない。「ここから出られないだろう」と思った。


 髪をそられ、左腕に入れ墨を彫られた。番号は「48693」。バラックには木造の3段ベットが並べられ、1200人の女性が収容されていた。先にいた収容者から言われた。「一日ずつ生き延びるのよ」


 収容所生活は規則的だった。朝4時に「起きろ」と叫び声が響き、寝ている人は殴られた。朝食は「コーヒー」と呼んでいた黒い液体だけで、昼はジャガイモの皮が入ったスープ、夜はパン。パンを翌日に取っておくと夜に盗まれた。靴も盗まれ、私は誰かの靴を盗んだ。盗むことが生き延びることだった。


 働ける者が生き残り、働けない者は殺された。私は洗濯場で働いたが、義姉は日に日に弱り、働けなくなった。ある日、「選別」が行われた。医師は片手を挙げ、右左に振り分けた。右は生き残り、左は死を意味した。医師は私を右へ、義姉を左へ振り分けた。私は義姉を抱き締め、「私の母よ、姉よ」と叫んだ。将校が手招きし、「黙れば助けてやる」と言った。平手打ちされたが、私と義姉はリストから外された。義姉はしばらくして亡くなった。


「死の行進」と解放
 45年1月になると、緊張が漂い始めた。ソ連軍が近づき、ドイツ軍は証拠を隠滅しようとガス室を爆破した。1月18日、ドイツ軍は収容者6万6000人を西へ移送し始めた。雪と氷の中を歩かせ、足が止まれば撃った。「死の行進」だった。


 雪を食べて生き延び、10日後、ドイツ東部のラーフェンスブリュック収容所に着いた。4月にドイツ軍が撤退すると、ソ連軍が到着し、解放された。私は15歳だった。


 アウシュビッツで知ったのは、人間の本質だ。人間はどこまで非道になり、どれほど強くなれるのか。ホロコーストへの理解を深めることは、人間とは何かを学ぶこと。私は命が尽きるまで語り続ける。


 ◆ホロコースト=欧州でナチス・ドイツが行ったユダヤ人大虐殺。第2次世界大戦が始まった1939年からドイツが敗北した45年5月まで絶滅収容所などで約600万人が殺害された。アウシュビッツ収容所はナチス下の最大施設でユダヤ人ら約110万人が殺害されたとみられている。ユダヤ人の団体によると、ホロコーストの生存者は現在24万5000人と推計され、半数程度の13万7401人がイスラエルに住む。


ホロコーストとガザ、歴史的な悲劇
 昨年12月にインタビューに応じたハリーナさんは、イスラム主義組織ハマスが拉致した人質について「どうやって生き延びているのか」と自らの経験に重ねて思いをはせた。一方、パレスチナ自治区ガザの戦闘で住民は無差別に殺害され、食料も十分にない。


 ハリーナさんはホロコーストとガザの戦闘の比較を快く思っていないが、パレスチナ人に対するイスラエル極右勢力の人種差別的な言動には「ナチスと似ている」と恐ろしさも感じている。ホロコーストとガザの戦闘はいずれも、後世に伝えなくてはならない歴史的な人類の悲劇だ。(福島利之)








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