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絶滅収容所・アウシュビッツを生き抜いた精神科医の言葉

2025年03月09日 03時03分44秒 | 歴史的なできごと
 
アウシュビッツを生き抜いた精神科医の言葉
 
私たちが人生につまずいたとき、どのように希望を持てばよいのか。日々の生活に疲れたとき、生きる意味をどう見つければよいのか。そうした人生の悩みに、真摯に答えた「名著」がいまも感動を呼び続けています。 
 
 
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それは、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』です。アメリカでは「私の人生に最も影響を与えた本」のベスト10にも入りました。  
 
ナチス強制収容所での著者みずからの体験をつづったこの本は、実はナチス・ドイツの犯罪を糾弾する目的だけで書かれたものではありません。著者のヴィクトール・フランクルは、
 
現代の私たちに優しく語りかけてくれます。収容所のような過酷な環境であっても、「人生に意味は必ずある」と。私たちに「生きる力」を与えてくれる
 
──それこそが、『夜と霧』を世界的ベストセラーにした最大の要因です。
 
未曾有の大災害となった、2011年の東日本大震災。その衝撃も冷めやらぬころ、被災地の書店で『夜と霧』が静かなベストセラーになった現象がありました。あれほどつらく悲しい経験をした人々が、なぜこの本にひかれたのか。
 
社会が浮足立ついまこそ、古典的名著をマンガで解説した新刊『マンガでわかる世界の名著』(NHK「100分de名著」制作班 監修)から『夜と霧』の勇気のメッセージを味わってみませんか。
 
 ■強制収容所へ送られ、ついに…
■アウシュビッツの壮絶な日々 
■フランクルの「生きる力」の根源 
■ 『夜と霧』に込められたメッセージ
 
 
 
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ヒトラーは、なぜ、ユダヤ人を憎悪したのか?

2025年03月04日 21時03分37秒 | 歴史的なできごと
 
ユダヤ人が約600万人も殺害 ホロコーストとその影にある理由・歴史に迫る
 
 
 
 
ユダヤ人が約600万人も殺害 ホロコーストとその影にある理由・歴史に迫る
太陽と丘
Photo by NEOM on Unsplash
 



ホロコーストとは、第二次世界大戦中にナチスドイツによって起きたユダヤ人大虐殺のこと。ヒトラーは、当時ドイツが見舞われた不況などの原因はユダヤ人にあるとし、人々の間にユダヤ人への憎しみを増大させていったのだ。では、ホロコーストはなぜ起きたのか、ユダヤ人の迫害の歴史について紹介する。




ELEMINIST Editor


エレミニスト編集部


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2023.11.08




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ホロコーストとは
「ホロコースト(holocaust)」とは、1930年から40年にかけて起きた、ナチスによるユダヤ人の大虐殺のことを言う。英語で「holocaust」は、ユダヤ人の大虐殺の意味のほかに、「大災害・大惨事・破滅」などの意味もある。


ドイツは、第一次世界大戦によって多額の負債を追うことになった。これに追い打ちをかけたのが、1929年に始まった世界恐慌。ドイツでは失業者が続出し、人々のあいだに不安感がうずまいていた。そんななか、1933年1月にドイツの首相に就任したのが、アドルフ・ヒトラーだった。ヒトラーは、「これらの問題はユダヤ人が原因」と考え、ユダヤ人であるという理由だけで、ユダヤ人を大虐殺したのだ。


ホロコーストで殺されたユダヤ人は約600万人
ヒトラーが率いるナチス党(正式名称は国民社会主義ドイツ労働者党)が1933年、選挙によって政権につき、ナチスドイツが生まれた。そしてナチスドイツは、ユダヤ人からドイツの市民権をはく奪するなど、ユダヤ人を徹底的に排除する政策を次々と打ち出したのだ。


ナチスドイツは強制収容所を各地に設け、連行したユダヤ人に過酷な労働を強制。また、強制収容所にはガス室が設けられ、毒ガスによってユダヤ人を大量殺害したことでも知られる。このようにして、ホロコーストで殺されたユダヤ人は600万人にものぼると言われている。


「ダビデの星」でユダヤ人を識別
ナチスドイツは、ユダヤ人を識別できるように、ユダヤ人には「黄色のダビデの星」をつけることを強要した。ダビデの星は、正三角形に逆向きの正三角形を組み合わせた星形で、ユダヤ教やユダヤ民族を象徴するマークだ。ユダヤ人が建国したイスラエルの国旗にも、このダビデの星が中央に描かれている。


『アンネの日記』のアンネ・フランクも
世界的に知られる書籍『アンネの日記』は、ホロコーストで犠牲となったユダヤ人の少女、アンネ・フランクがつづっていた日記だ。


ユダヤ人迫害から逃れるため、ドイツからオランダに移り住んだアンネ一家。だがユダヤ人はナチスドイツによって次々と連行され強制労働させられていったことから、一家は事務所の裏を隠れ家にした潜伏生活をはじめたのだ。2年にもおよんだ隠れ家生活での恐怖や不安、そして自由に平和に生きたいという切なる想いが、少女アンネの日記から伝わるはずだ。


だが、アンネ一家は何者かの密告により見つかり、アウシュビッツ強制収容所に送られることとなった。


場所は?
ナチスドイツによるユダヤ人迫害は、ドイツで始まったが、それだけではない。1939年にはドイツがポーランドに侵攻。これをきっかけに、第二次世界大戦がはじまり、ドイツはイタリア、ハンガリーなどと同盟を結び、ナチスドイツの支配を広げていった。


これにあわせて、ドイツ以外でもヨーロッパ各地にいたユダヤ人が迫害を受けることとなった。ホロコーストは、ヨーロッパ全土に暮らすユダヤ人に大きな影響をもたらすこととなったのだ。


なぜホロコーストが起きたのか?
なぜこれほどに大勢のユダヤ人が迫害され、殺害されるまでに至ったのか?その理由のひとつは、ナチスドイツが誕生したときのドイツの情勢にある。



第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、街が荒廃し、経済も不安定な状態にあった。それに加えて、連合国とドイツはヴェルサイユ条約を締結。ドイツが支払うべき1320億マルクもの賠償金が決まり、その負債がドイツに重くのしかかったのだ。


これに追い打ちをかけたのが、1929年から始まった世界恐慌だ。失業者がさらに増え、人々の間では不満や不安が募っていったのだ。そのようななかで人々から支持を集めて誕生したのがナチスドイツであり、「この原因はユダヤ人だ」と、人々の憎しみをあおったのだ。


ヒトラーがなぜ、これほどまでにユダヤ人に憎しみを抱いていたのかは不明だが、若いころから反ユダヤ人思想に触れていたことがきっかけのひとつだったのではないかと指摘されている。


ユダヤ人の迫害の歴史
ユダヤ人に対する差別や迫害は、ナチスドイツによるホロコーストから始まったわけではない。それよりも前から存在している。


中世ヨーロッパ
ユダヤ教を信仰する人やその子孫はユダヤ人と呼ばれるが、ユダヤ教は唯一の神「ヤハウェ」を信じている(※1)。ユダヤ教は世界でもっとも古い宗教のひとつだが、ユダヤ教をルーツとしたキリスト教が世界に広まっていくと、宗教の考え方が違うことから、ユダヤ人は差別されたり、嫌われたりすることがあったと言われている。ユダヤ人はヨーロッパ各地に広く住んでいるが、ユダヤ人を差別する思想は古くから存在していたのだ。


ホロコースト(1933~1945年)
ユダヤ人が大虐殺され、迫害がピークになったのは、ナチスドイツによるホロコーストだろう。だが、1945年に、アメリカ、イギリス、ソ連の連合国側が勝利をおさめたことで、ナチスドイツの時代は終焉を迎えた。連合国軍は、ヨーロッパ各地にあった強制収容所に閉じ込められていたユダヤ人を開放。こうして、ホロコーストは終わったのだ。


反ユダヤ運動(1946年)
10年以上にわたり続いたホロコーストが終わったものの、生き残ったユダヤ人にとってはその後の人生も過酷なものだったと想像できる。家族や仲間を失い、家や故郷を失った人もいただろう。また、大虐殺が起きたことで、反ユダヤ思想への恐怖感や不安感が続いたことは想像に難くない。実際、ポーランドのキェルツェでは1946年、ユダヤ人42人が殺害されるポグロム(虐殺)が起きている。


イスラエル建国(1948年)
ホロコーストを生き延びたユダヤ人は、自分たちの国を作ろうという気運が高まっていった。こうして、1948年に生まれたのがイスラエルだ。これまで迫害を受け続けてきたユダヤ人にとって、自分たちの国を守りぬきたいという気持ちが強いのは、そのような歴史的な背景があるからだ。


だが、イスラエル建国にともなって、もともとその地域に暮らしていたパレスチナ人は土地を追われていった。こうして生まれたのが、ヨルダン川西岸地区とガザ地区なのだ。


2023年、イスラエルとガザ地区での大規模な武力闘争が始まったのも、長きにわたる歴史的な事情が複雑に絡んでいる。




SOCIETY
学び
パレスチナ・ガザ地区とは 「どこ?なぜ問題?」をわかりやすく解説


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ホロコーストもジェノサイドもない世界へ
ホロコーストはユダヤ人であることだけを理由に大虐殺を行った凄惨なできごとだ。そして、同様に民族や人種などの特定の集団を殺害することを「ジェノサイド」という。1948年には、国連によって「ジェノサイド罪の防止と処罰に関する条約」が採択され、このような大量殺害を防ごうと世界は動いてきた。


だが、イスラエルとパレスチナの問題は、ユダヤ人がホロコーストなど迫害を受けてきた長い歴史的な背景が絡んでいる。簡単には解決できないと言われている国際問題のひとつである。だがそれでも、憎しみあい、殺しあいをするのではなく、だれもが平和に幸せな暮らしをおくれる世界を目指したいものだ。


※1 ユダヤ教|国土交通省


※掲載している情報は、2023年11月8日時点のものです。

 
 
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2023.11.08
 
 
 
 
 
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二・二六事件>昭和11年2月26日水曜日:1936年

2025年02月26日 22時03分24秒 | 歴史的なできごと
1936年2月26日水曜日の出来事です>

陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)は、「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えていたところの元老重臣さえ殺害すれば、天皇親政が実現し、諸々の政治問題が解決すると考えていた。

すでに歴史の一こまですが、



彼らは陸軍首脳を通じ、昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。






二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日(水曜日)から2月29日(土曜日)にかけて発生した、日本のクーデター未遂事件。 

皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。 





叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官・兵



2・26・2022


北一輝


野中四郎大尉

場所標的日付概要原因攻撃側人数兵器死亡者負傷者被害者犯人関与者対処

 日本 東京府
君側の奸と見なした重臣
1936年(昭和11年)2月26日-2月29日
陸軍皇道派の青年将校が1,483名の下士官・兵を率い明治維新に継ぐ、天皇を中心とする「一君万民(擬似的民主制)」復元のため「昭和維新」と称し、「君側の奸」である政府要人を襲ったクーデター未遂事件[1]
陸軍内部の皇道派と統制派の派閥対立
重臣、軍閥、財閥、政争を繰り返す政党政治・政治家への失望と憎悪[2]
1,558人(下士官・兵が多数)
重機関銃、軽機関銃、小銃、拳銃、銃剣、軍刀
松尾伝蔵内閣総理大臣秘書官事務取扱(私設秘書)
高橋是清・大蔵大臣
斎藤実・内大臣
渡辺錠太郎・教育総監
鈴木貫太郎・侍従長
警察官5名殉職、1名重傷
野中四郎、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀、香田清貞、北一輝、西田税、林八郎、池田俊彦 他
真崎甚三郎、本庄繁他皇道派将官
首謀者の裁判
処刑や禁固

概要


昭和初期、陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)は、「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えていたところの元老重臣さえ殺害すれば、天皇親政が実現し、諸々の政治問題が解決すると考えていた。 

当初、陸軍首脳もそのような青年将校運動を内閣などに対する脅しが効く存在として暗に利用していたが、あくまで官僚的な手続きを経て軍拡を目指す統制派が台頭し、陸軍と内閣の関係が良好になってくると、陸軍首脳は青年将校運動を目障りと考えるようになった。そして相沢事件もあいまって、陸軍首脳はこれら運動を主導する青年将校の多くが所属する第一師団の満州派遣を決定する。その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、青年将校たちは部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した。 


決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。 



その上で、彼らは陸軍首脳を通じ、昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。

叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく、一審制の裁判により事件の首謀者、ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間の思想家は銃殺刑に処された。これを持って、過激なクーデターやテロを目指す勢力は陸軍内から一掃された。 


事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」[3]とも呼ばれていた。
算用数字で226事件、2・26事件[4]とも書かれる。
 
Wiki

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キリスト教の聖書を書いた人は誰ですか?

2025年02月14日 03時03分57秒 | 歴史的なできごと

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」た(1テモテ3・16)
と書かれていますから、聖書の著者は神なのですが、
実際は神に導かれた人間の手によって書かれ、編集されています。


誰と特定できない、無名の多くの人が関わっています。


キリスト教の聖書を書いた人は誰ですか? - ★旧約旧約聖書正典は3... - Yahoo!知恵袋 



ベストアンサー
man********さん



2012/6/26 9:27(編集あり)


★旧約


旧約聖書正典は39個の書物で成り立っていますが、
それぞれが書かれた時代はまちまちです。
作者不明のものがほとんどです。




統一王国の時代にモーセ五書の原型が書かれ始めたようですが、
モーセ五書は四つ以上の資料を編集して作られたとされ、
今のような形に完成したのは捕囚後のペルシアの時代だと言われます。


知恵文学が書かれたのも捕囚後のこの時代のようです。


歴史書が書かれたのは王国分裂後の南王国です。
歴代誌はずっと後になって捕囚後の時代にまとめられたようです。


それらと並行して、預言者たちの活躍と共に預言書もできていきました。


旧約聖書が最初に今のような形にまとまったのは、
紀元前280年ごろエジプトのアレキサンドリアで成立した70人訳聖書ですが、
これはギリシア語訳された聖書です。

ヘブライ語の正典が確立したのはイエスの時代よりも後で、
紀元90年ごろのヤムニの宗教会議においてです。


★新約

イエス自身はなにも書き残しませんでしたから、
イエスが処刑されたあと、
弟子たちの手によって徐々に文書化されてまとめられてゆきました。
福音書にも書簡にも、著者の名が冠せられています。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ、、、






「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」た(1テモテ3・16)
と書かれていますから、聖書の著者は神なのですが、
実際は神に導かれた人間の手によって書かれ、編集されています。
誰と特定できない、無名の多くの人が関わっています。





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「私の読んだ本とは違いますね…」上皇陛下が満洲事変の解説に異を唱えたワケ

2025年02月06日 16時02分40秒 | 歴史的なできごと

「私の読んだ本とは違いますね…」上皇陛下が満洲事変の解説に異を唱えたワケ 



陛下は異を唱えた


「私の読んだ本に書いてあることとは違う」


 そのうえで半藤さんはこんな裏話も披露した。


「陸軍の中枢は、板垣や石原の動きに対して見て見ぬふりでいるつもりだったのですが、動きに気づいた元老西園寺公望や若槻礼次郎首相に『勝手な動きをするな』と厳しく注意され、南次郎陸相は、『あいつらを止めねばまずいことになる』と悟りました。そこで参謀本部の作戦部長建川美次少将を派遣してこの謀略を止めようとしたのです。


 ところが派遣された建川は、関東軍の幹部と意を通じてもいまして、まあ、本気で説得するつもりだったのかは怪しいものです。飛行機で行けばいいのに、わざわざ列車で下関まで行って関釜連絡船で大陸に渡っている。


 やっとこさで奉天に着いた建川を出迎えたのがほかならぬ板垣大佐。挨拶もそこそこに、2人はそのまま料亭菊文に出かけて酒を飲み始めた。建川は大の酒好き、これに対する板垣のあだ名も午前様。午前にならないと盃を放さないという酒豪です。最後は建川が酔い潰されてしまった。関東軍は2人が飲んでいる間に柳条湖付近で鉄道を爆破したんです」


 陛下にとっては初めて聞く話が多かったようで、「私の読んだ本に書いてあることとは違いますね」ともおっしゃる。それで私たち3人は「えっ」となった。半藤さんは「陛下はどういう本をお読みになったのでしょうか」とすかさず聞いた。こういう質問をずばりとできるのはいつも半藤さんだった。陛下よりも3歳年長ということと、長年の経験ゆえだろう。


 陛下がすっと立ち上がった。



「では、私の読んだ本を書庫から持ってきます」


 突然、部屋を出て行った陛下の行動に驚いている私たちに、美智子さまは雑談の相手をしてくださった。


陛下はどうしてこの戦前の本を


お読みになったのだろう?


「書庫は遠いのですか。どういう書庫なのでしょうか」と私が尋ねると美智子さまは、


「いえ、陛下がよく読む本は、書庫とは別のところに置いてあるんですが……」


 とおっしゃる。陛下が不在だったのは10分くらい。やはり書庫で本を探したようだった。


「この本なんですよ」


 と渡された本は厚手のハードカバーの古めかしい本だった。しかし、著者を見てもピンと来ない。半藤さんに「この人、知ってますか」と聞いたら、「知らないな」という。奥付を見てびっくりした。「昭和8年」とあるのだ。事変からまだ2年後、言論統制は太平洋戦争の時ほどではなかったとはいえ、事変の真相を書けるはずがない。しかし陛下は


「私はこれを読んだんです」


 とおっしゃる。正直なところ、私も半藤さんもあっけにとられた。内心では「満洲事変について戦後に書かれた本はたくさんあるのに、どうしてこの戦前の本をお読みになったのだろう」という疑問が湧いた。


「陛下、この本は今出ている満洲事変の本とは、事変に対する理解がまったく違います。この本はまだ軍の謀略だったことを隠しています」と半藤さんが言った。私も続いて「戦前のこの段階から研究が進み、今は真相とともに詳細な事実が次々と明らかになっています」と申し上げた。


 すると陛下はあっさりと「そうでしょうね」とおっしゃる。私たちの反応に驚いた様子はなかった。予想していたのだろうか。ではなぜわざわざあの本を持ち出されたのだろうか。両陛下は、新聞も読み、テレビも自由にご覧になって、本も自由に入手できる環境におられる。たまたま陛下の手の届くところにあったこの本を読まれ、その内容に疑問を感じ、気安く聞ける相手に見せて確認したかったのだろうか。


「それでは満洲事変は関東軍が仕掛けた謀略という理解でよろしいのですね」


 と陛下は私たちに確認された。それで間違いありませんと私たちは答えた。



田中メモランダムは


けっきょく誰が書いたのですか?


 ここで満洲事変の話はいったん終わったのだが、その次の3回目の懇談(2014年11月8日)の際、陛下の関心はさらに意外なところに向かっていることがわかった。


「ところで、『田中メモランダム』とはどういうものだったのでしょうね」


 田中メモランダム(田中上奏文)とは、1927(昭和2)年に当時の田中義一首相が昭和天皇に極秘に送ったとされる偽書だ。

「支那を取るためにはまず満蒙(満洲と内蒙古)を取り、世界を取るためにはまず支那を取れ」と書かれ、

満蒙征服の計画を具体的に示していると宣伝された。つまり日本の「満蒙侵略計画」であるかのように読める文書だが、この文書の存在を知る人はかなりの昭和史通だろう。


 1929(昭和4)年12月に中国の雑誌「時事月報」に掲載されたのが最初で、その後米国に流布された。東京裁判でも持ち出され、真偽が論争になったことはあるものの、すでに死亡していた山縣有朋が登場するなど誤りや矛盾点がいくつもあり、現在では完全なニセ文書だと確定している。


 陛下はむろんこうしたことはご存じの様子だったが、


「けっきょく誰が書いたのですか」


 と尋ねられた。


 誰が作ったものかはわからない。


 半藤さんは、田中メモランダムは偽書ではあるものの、「当時の日本の雰囲気をよく表した内容ではあったと思います」と話した。私は「推測ですが、ベースとなったメモ書きなどは日本側から流れたのかもしれません」と申し上げると、陛下はさらに関心を深められ、


「そのベースとなったメモ書きなどは誰が作ったんですかね」


 と問われた。


「いろんな説があります。政友会の田中義一に対抗していた民政党の息のかかった人たちによるものとする説、血気にはやる将校が意図的に撒いて中国を刺激しようとしたとする説、あるいは中国の謀略機関の捏造による文書などいろいろありますが、現在も判然としません」


 私はこんな説明をした。


石原莞爾はそういうところでも


関与しているんですかね?


 それでも陛下は納得されないご様子だったので、「実は、田中メモランダムをつくったメンバーとして、張作霖爆殺事件に絡んだ河本大作大佐など日本の軍人の名を挙げる人もいますね」と話した。実証されているわけではないが、そういう推測をする人がいるのは事実だったからだ。すると陛下はさらに興味を持った様子で、


「石原莞爾はそういうところでも関与しているんですかね」


 とお聞きになったことに、正直なところ私たちはかなり驚いた。半藤さんは「石原は関東軍参謀でした。最前線で満洲事変に深く関係していますから、少なくともそういうことを考えない人物ではありません。ただ、石原が書いたと断言できる証拠はありません。専門家の研究でもやはり中国側による謀略文という説が有力です」と伝えた。




『平成の天皇皇后両陛下大いに語る』 (文藝春秋) 保阪正康 著
© ダイヤモンド・オンライン

 それでも陛下は納得されないご様子で、「そうなんですかねえ」とあいまいな言い方をされた。半藤さんは少し言い訳のように、「ただ、私もすべての仮説を綿密に検証できているわけではありません」とつけ加えた。私も似たようなことを言い添えた。すると陛下は「お2人とも忙しいんですね」とおっしゃった。


 石原莞爾と田中メモランダムを結びつける発想は一般にはない。当時、対中強硬派で売り出し中の奉天総領事吉田茂(後の首相)と結びつけるならまだわかるくらいだが、石原はまだ陸軍大学教官から関東軍に赴任する前だったからだ。もしかすると石原のかかわりについては、陛下は何か核心的なことを誰かから聞いていて、もっと調べてはどうかと私たちにうながしたのではないかと思えるほどの熱心さであった。









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