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A級戦犯はなぜ太平洋に散骨されたのか 75年前の極秘文書発見 アメリカ軍は「超国家主義」の復活を恐れていた

2023年11月30日 23時08分46秒 | 歴史的なできごと


GHQが軍国主義の象徴とみなした靖国神社を見物する進駐軍兵士の一団=1945年9月12日、東京都千代田区




東条英機元首相

A級戦犯はなぜ太平洋に散骨されたのか 75年前の極秘文書発見 アメリカ軍は「超国家主義」の復活を恐れていた

11/28(火) 10:02配信



47NEWS
A級戦犯の遺骨を太平洋に散骨した理由を記した米軍の公文書(米国立公文書館新館所蔵)


 「極秘」のスタンプが押された75年前の米軍公文書が見つかった。そこには、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑となった東条英機元首相らA級戦犯の遺骨を太平洋に散骨した理由や経緯が記されていた。「英雄や受難者として崇拝される可能性を永久に排除すべきだ」。第2次大戦後の日本で軍国主義の再来を防ごうとした米軍。日本の戦時体制を指す「超国家主義」の復活を恐れ、散骨を決めた過程が鮮明に浮かび上がった。(共同通信=野見山剛)


 ▽今も昔も変わらない米軍の論理


 米軍の公文書の記述を遺族はどう受け止めるのか。東条元首相のひ孫の英利さんに連絡を取り、概要を伝えると冷静なコメントが返ってきた。


 「ビンラディン容疑者も水葬でした。米軍が遺骨を海に散骨した理由は特に驚きません」


 ビンラディンは国際テロ組織アルカイダの指導者で、2001年9月11日の米中枢同時テロの首謀者だ。米軍は2011年5月、パキスタンで殺害後、アラビア海上の空母から遺体を水葬にした。当時の米メディアの報道によると、埋葬すれば遺体を奪還するための攻撃が起きる可能性を米政府は懸念したという。





 東条元首相らは、米国など連合国が1946年5月に開廷した東京裁判で「平和に対する罪」などに問われた。1948年11月に東条氏ら7人に死刑判決が言い渡され、12月23日に東京の巣鴨プリズンで処刑。その日に横浜市に運んで火葬後、米第8軍のルーサー・フライアーソン少佐が軍用機から太平洋に散骨した。


 戦犯の海洋散骨とビンラディンの水葬は、半世紀以上の隔たりがあるものの、敵対した指導者が崇拝対象にならないよう海に葬る点が共通している。1948年に作成された公文書から、21世紀になっても変わらない米軍の一貫した論理がにじんだ。


 ▽公文書発見の端緒はネット検索の情報


 入手した公文書は、米メリーランド州の米国立公文書館新館が所蔵していた。戦後の日本占領期に、旧日本軍の戦争犯罪に関する業務を担った連合国軍総司令部(GHQ)法務局の文書の中に埋もれていた。


 取材の端緒はインターネットでの検索だった。かつて戦犯裁判に関する取材で米軍の記録に目を通した経験を踏まえ、「戦犯」「処刑」「最終処分」などの英単語を組み合わせて入力。目に留まった外国人研究者の論文の脚注などを手がかりに、東京・永田町の国立国会図書館で、関連しそうな米国立公文書館所蔵の複写文書を閲覧した。

 A級戦犯が太平洋に散骨された事実は、かつて日本大生産工学部の高澤弘明准教授(法学)が米国立公文書館で資料を入手し、判明した経緯がある。今年1月、高澤准教授に連絡を取り、他の資料とも突き合わせ、半年ほどかけて公文書の記述を精査した。


 ▽米軍の「参謀研究」に記された検討プロセス


 入手した公文書は1948年6~8月、GHQ最高司令官のマッカーサー元帥が率いる米極東軍が作成した。東京裁判が48年4月に結審した直後に当たる。判決の期日は決まっていなかったが、後は判決を待つだけの状況となっていた。


 一連の公文書で目を引いたのが、48年7月21日の「参謀研究」だ。処刑後の戦犯の遺体をどうするかについて7ページにわたり詳述。東京・丸の内に拠点を置いた米極東軍補給部のマイケル・リビスト少佐が参謀長宛てに提出し、結論部分で次のように記されていた。


 「戦犯の遺体の最終処分では、英雄や受難者として崇拝される可能性を永久に排除すべきだ。米軍の監督下で火葬し、秘密裏に散骨すれば、この目的を達成できる」


GHQが軍国主義の象徴とみなした靖国神社を見物する進駐軍兵士の一団=1945年9月12日、東京都千代田区


 東京裁判に先立つ1945年11月~46年10月、ナチス・ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判にも触れていた。ナチス死刑囚が川に散骨された措置を踏まえ「戦犯の遺骨を秘密裏に処分する先例が確立された」と明記した。


 これまで散骨の理由を巡っては、A級戦犯の処刑に立ち会ったGHQのシーボルト外交局長が著書「日本占領外交の回想」で「指導者たちの墓が将来、神聖視されることのないように、遺灰はまき散らすことになっていた」と記述していたが、公式な文書は見つかっていない。「参謀研究」により、散骨の理由に関する米軍の見解が公文書で初めて裏付けられた。


 ▽米軍が懸念した日本の超国家主義の復活


 米軍の「参謀研究」には、戦犯の遺体を巡る懸念が示されている。


 「戦犯の遺体処分に関し、いかなる形であれ、日本で超国家主義的精神の復活に利用されることを永久に防ぐ」


 米国は戦後間もない1945年9月に「初期対日方針」を公表。占領政策の目的について日本が再び脅威にならないようにするとし、具体策として超国家主義や軍国主義の除去などを掲げた。

超国家主義は当時、日本の戦時体制を分析する上でのキーワードだった。政治学者の丸山真男が1946年に発表した著名な論文「超国家主義の論理と心理」は、次のような書き出しで始まる。


 「日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の戦争に駆りたてたところのイデオロギー的要因は連合国によって超国家主義とか極端国家主義とかいう名で漠然と呼ばれている」


 米軍は日本での軍国主義の再来も警戒していた。「参謀研究」には「日本の潜在的な戦争能力を破壊する使命がある」などと強い表現が並ぶ。


 超国家主義や軍国主義の除去という占領方針に照らし、米軍が戦犯の遺体の扱いを検討した側面も見えてきた。


 ▽海洋散骨を主導したキーパーソン


 一連の公文書で起草者として頻繁に登場するのがマイケル・リビスト少佐だ。所属する米極東軍の補給部は、物資の後方支援などを担当。リビスト氏は戦没者部門で、日本で戦死した米兵の遺体回収や送還などを主な業務としていた。


巣鴨プリズンのA級戦犯とBC級戦犯の処刑跡地に建てられた記念碑=2021年12月6日、東京都豊島区


 リビスト氏は1948年7月21日の参謀長宛ての文書で、超国家主義の復活を防ぎ、戦犯を崇拝対象にしないため、火葬して遺骨を秘密裏に処分するよう求めた。8月6日の文書では「日本人は天皇に命をささげた人々を階級にかかわらず祭る傾向がある」と指摘。指導者のA級戦犯と、捕虜虐待などのBC級戦犯を一律に扱い「処刑された全ての戦犯を火葬し、秘密裏に処分することが望ましい」と提案した。


 これを受け、マッカーサー元帥は8月13日、処刑された戦犯を一律に海へ散骨する方針を決定。リビスト氏の提案が米軍の意思決定に直結した経過が明らかになった。リビスト氏が戦犯の散骨方針の青写真を描き、主導的な役割を果たしたのは間違いない。


 ▽横浜に一時埋葬されたBC級戦犯の遺体


 捕虜虐待などの戦争犯罪で裁かれ、処刑されたBC級戦犯の遺体の行方も「参謀研究」に記録されている。


 「横浜市の米軍墓地の敵兵区域に、処刑された戦犯14人の遺体を埋葬している」

1945年12月~49年10月、米軍は日本国内で唯一のBC級戦犯裁判を横浜市で開き、51人が処刑された。「参謀研究」の埋葬数は、文書作成の48年7月21日時点の数字とみられる。


 占領期、米軍は横浜市中区山手に仮設墓地を設け、日本への空襲などの際に戦死した米兵を埋葬していた。その一角に横浜裁判で処刑された戦犯が埋葬されていた事実が初めて判明した。


 米軍は1948年8月13日に決定した戦犯の海洋散骨方針で「既に埋葬している遺体はできるだけ速やかに掘り起こし、火葬して散骨することが望ましい」と命じている。


 埋葬の遺体を含め、処刑された51人は横浜市で火葬された。だがその後、実際に海に散骨されたかどうかは米軍の記録が現時点で見つかっていない。日本側は火葬場に骨や遺灰の一部が混ざった状態で残っていたとして、個人の特定はできないまま、1953年に遺族に分けて返還した。


 ▽フィリピンの墓地から消えた遺体の行方


 BC級戦犯を巡っては、米軍の「参謀研究」に「フィリピンのカンルーバン墓地に戦犯65人の遺体を埋葬している」との記述もある。


 米軍は横浜のほか、フィリピン・マニラでもBC級戦犯裁判を開廷。「マレーの虎」の異名を持つ山下奉文陸軍大将や、「バターン死の行進」の責任を問われた本間雅晴中将ら69人が処刑された。その大半がカンルーバン墓地に一時埋葬されたが、遺体は行方知れずとなっている。


 広島市立大広島平和研究所の永井均教授(日本近現代史)によると、カンルーバン墓地には旧日本軍の捕虜も埋葬されており、1948年12月下旬~49年1月初旬、約5千体の遺体が長崎県佐世保市に送還された。米軍は同墓地を撤去する計画だったため、永井教授は同じ時期に戦犯の遺骨が散骨された可能性があると指摘し、次のように語った。


 「米軍は記録を細部まで残し、上官に報告していた。今後、BC級戦犯の遺骨を散骨した記録が見つかる可能性はある」


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駐車場閉鎖の高麗神社に>防犯のためだとか

2023年11月30日 22時03分54秒 | 日々の出来事

ついに,
いつも行く神社にも犯罪の魔の手が、身近な治安が悪化してますね。

神社が被害にあうとは、世も末ですね~


11・23・2023
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木原事件》ついに捜査再開! 捜査一課の刑事が遺族の聴取を行っていた「元取調官・佐藤誠氏についての質問も…」(文春オンライン)

2023年11月30日 21時03分03秒 | 事件と事故
《木原事件》ついに捜査再開! 捜査一課の刑事が遺族の聴取を行っていた「元取調官・佐藤誠氏についての質問も…」(文春オンライン) - Yahoo!ニュース 



《木原事件》ついに捜査再開! 捜査一課の刑事が遺族の聴取を行っていた「元取調官・佐藤誠氏についての質問も…」
11/21(火) 16:12配信




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文春オンライン
副長官を退任しても岸田首相と面会を重ねる木原氏 ©時事通信社


〈「木原事件」警視庁大塚署が遺族の告訴状受理 “実名告発”の元刑事・佐藤誠氏が「取り調べをしていない人は何人もいる」《安田種雄さん遺族が失った“権利”も》〉 から続く


【画像】亡くなった種雄さん


 10月25日に警視庁に正式に受理されていた、木原事件の捜査再開を求める遺族の刑事告訴。これを受けて、11月16日、警視庁捜査一課の刑事が遺族の聴取を行っていたことが「 週刊文春 」の取材で分かった。


 2006年4月に、木原誠二前官房副長官(53)の妻X子さんの元夫・安田種雄さん(享年28)が怪死した事件。2018年に始まった再捜査も、なぜか1年足らずでストップしていた。事件をめぐっては、今年7月に露木康浩警察庁長官が「事件性はない」と発言、8月に警視庁の特命捜査第一係長が遺族と面談した際にも「18年に捜査を尽くしたが、事件性は認められない」という説明に終始した経緯がある。


 今回、警視庁管内の警察署で実施された聴取に参加したのは、種雄さんの両親と次姉の3名。遺族は、捜査一課のA刑事から、告訴状に記載された事実関係などについて詳しく尋ねられた。A刑事は、X子さんの取調べを担当した佐藤誠氏についても質問を重ねたという。


「私たちにできる協力は何でもするつもりです。A刑事には『私たちも犯人も年を取り、時間がない。最後まで責任をもって捜査をお願いしたい』と伝えました」(次姉)


 11月21日(火)12時に配信される「 週刊文春 電子版 」ならびに22日(水)発売の「週刊文春」では、A刑事が遺族に尋ねた佐藤氏に関する質問や遺族の反応、佐藤氏が分析する警察の狙いなどについて詳報している。


「週刊文春」編集部/週刊文春 2023年11月30日号

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14世紀のパンデミクス>欧州の1/3が死んだ「黒死病・ペスト」はいかに社会を変えたか【感染症、歴史の教訓】>恐ろしい疫病にも「恩恵」はあった

2023年11月30日 20時03分29秒 | 感染症のこと 新型コロナウイルス

とはいえ、悪い面ばかりではなかった。地方から都市に向かって大規模な移住が起きたため、都市は比較的速やかに回復し、商業は活気を取り戻した。田舎に残った農民は遊休地を手に入れ、土地を持つ農民の権力が増し、農村経済が活性化した。 。 

>実際、歴史学者たちは、黒死病から新しい機会や創造性や富が生まれ、そこからルネサンスの芸術や文化や概念が開花し、近代ヨーロッパが始まったと主張している。

ひるがえって、いまの新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって、何か新しい価値や社会が生まれるのだろうか。




労働力不足で社会は崩壊、それでも恐ろしい疫病に「恩恵」はあった

絵画『死の勝利』(ピーテル・ブリューゲル、1562年)には、社会に壊滅的な打撃を与えた疫病と戦争がヨーロッパ人の想像力に残した強烈な印象が描き出されている。(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM)

 またたく間に世界を大きく変えてしまった新型コロナウイルス感染症。わたしたちの暮らしや社会が今後どうなるのか心配な人は多いだろう。 関連ギャラリー:黒死病からコロナまで【感染症、歴史の教訓】画像20点  


9・28・2021

だが、世界を大きく変えたパンデミックを人類が経験するのは初めてではない。その最たる例が中世の「黒死病」だ。 

 歴史上、黒死病の大きなパンデミックは3度あった。1665年の英国ロンドンや19世紀~20世紀にかけても猛威を振るったが、史上最悪の規模となったのは1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病だ。なんと当時の欧州の人口の3分の1が命を落としたとされる。  

中世ヨーロッパでは、赤痢、インフルエンザ、麻疹、そして非常に恐れられたハンセン病など、多くの伝染病が流行した。けれども、人々の心に最も恐怖を与えたのは黒死病だ。ピーク時の数年間、黒死病は後にも先にもない速さで広がり、膨大な数の死をもたらした。

  黒死病は生き延びた人々の生活や意識を一変させた。農民も王子も同じように黒死病に倒れたことから、当時の文献には、黒死病の前では身分の差などなんの意味もないという思想が繰り返し登場する。

猛スピードで広がり、膨大な死者をもたらした恐るべき疫病

 黒死病がそれほど速く、広大な領域に広まったのはなぜか、歴史学者も科学者も不思議に思っていた。  

その正体がアジアとヨーロッパで周期的に流行する腺ペストだったことには、ほとんどの歴史学者が同意している。

「腺ペスト」はペスト菌が引き起こす3つの病型のなかの最も一般的なものにすぎない。第2の病型である「敗血症性ペスト」はペスト菌が血液中に入ったもので、皮膚の下に黒い斑点が現れ、おそらく「黒死病(Black Death)」という名前の由来となった。

「肺ペスト」では呼吸器系がおかされ、患者は激しく咳き込むので、飛沫感染しやすい。中世には敗血症性ペストと肺ペストの致死率は100%だったと言われる。

 「これだけ速く広まったのは飛沫感染したからであり、主な病型は腺ペストではなく肺ペストだった」と主張する研究者もいる。しかし、肺ペストはむしろゆっくり広がる。患者はすぐ死に至り、多くの人に広めるほど生きられないからだ。 

 大半の証拠は、中世の黒死病の主な病型は腺ペストであることを示している。海上貿易が拡大していったこの時代、食料や日用品は、国から国へと、船でどんどん長い距離を運ばれるようになっていた。これらと一緒に病原菌も1日に38kmという例のないペースで広まっていった。

ネズミのせいではなかった? 現代よりはるかに速く拡大した理由とは

ペストの「犯人」はネズミだと長い間信じられてきた。写真はジョージ・M・サットン鳥類研究センターのクマネズミ。(PHOTOGRAPH BY JOEL SARTORE, NATIONAL GEOGRAPHIC PHOTO ARK)

 ペスト菌はネズミによって拡散されたと長い間信じられてきた。新型コロナで話題になったカミュの小説『ペスト』でも、冒頭からネズミがこれからやってくる災いを象徴するように描かれている。だが、犯人は別にいたようだという研究結果が科学誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に2018年に発表されている。 

 論文によると、「犯人」はネズミではなく人間だ

実は、ペスト菌を直接媒介するのはノミやシラミだ。それをネズミや人間が運ぶことで病気は速く広がる。 

 19世紀後半から現在まで続いている腺ペストの流行では、ネズミやその他のげっ歯類がそのノミを運ぶせいで菌を拡散させていることがすでにわかっていた。加えて、中世のペスト犠牲者の遺伝子を調べた研究結果から、多くの専門家が中世の世界流行もネズミによってもたらされたと考えていた。 

 しかし、黒死病が広がった経路は別だったと主張する歴史家もいた。根拠のひとつは、新型コロナ感染症を除き、黒死病が現代のどの伝染病よりもはるかに速く欧州に広がったことだ。また、現代のアウトブレイク(大流行)の前には、ネズミの大量死がしばしば確認されているが、中世で同様にネズミが大量死したという記録は残されていない。  

ならば、黒死病はいかにして広がったのか。以前から、ノミやシラミを運んだのはネズミではなくヒトだったと考える学者はいた。感染した人間から血を吸ったノミやシラミがペスト菌も一緒に吸い取り、すぐ近くにいる別の人間に飛び移れば、その人間も感染する。  

そこで、論文の著者で、ノルウェー国立獣医学研究所に所属するキャサリン・ディーン氏のチームは、ネズミとヒトの場合のそれぞれにおける感染拡大モデルを作成し、統計的に評価した。すると意外なことに、調査対象とした9都市の7つで、ヒトのモデルの方が死亡の記録と一致したのだ。 

 ただし、ディーン氏らはさらに多くの実験データを集めて、モデルを改善する余地があるとしている。また、この研究が疫病研究者の間で論争を呼ぶだろうということも認めている。「ペストに関しては、たくさんの論争があります」というが、ディーン氏らは、自分たちは客観的な立場にいるとしている。


人口が減り各地で社会が崩壊、だがそのおかげで……

黒死病はヨーロッパの農民に大きな打撃を与え、封建制度を脅かした。英国などで羊毛の取引がさかんになったのは、黒死病による被害のせいだ。(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM)

 犯人がいずれにせよ、交易路を介して、最初に感染が広まったのは大きな商業都市だった。そこから近隣の町や村へと放散し、さらに田舎へと広がった。中世の主な巡礼路も黒死病を運び、各地の聖地は、地域内、国内、国家間の伝染の中心地になった。  


ペスト菌が人々の家庭に忍び込むと、16~23日後になってようやく発症し、その3~5日後には患者が死亡する。コミュニティーが危険に気づくのはさらに1週間後で、その頃にはもう手遅れだ。ペスト菌は患者のリンパ節に移行し、腫れ上がらせる。患者は嘔吐し、頭痛に苦しみ、高熱によりガタガタと震え、せん妄状態になる。  

当時の町では「すぐに逃げろ、急いで遠くに行け、戻るのはあとにするほどよい」と言われていた。この助言にしたがって避難する余裕ある人々の多くが田舎に逃げたため、悲惨な結果になった。避難した人々もすでに感染していたり、感染者と一緒に旅をしたりしたため、自分たちが助からなかったばかりか、それまで感染者がいなかった遠隔地の村に病気を持ち込むことになってしまったのだ。 

 黒死病の犠牲者は膨大な数に上ったと推定されているが、具体的な数字については論争がある。パンデミック前のヨーロッパの人口は約7500万人だったが、1347年から1351年までの間に激減して5000万人になったと見積もられている。死亡率はもっと高かったと見る研究者もいる。 

 人口が激減したのは、黒死病に罹患した人々が死亡しただけでなく、畑や家畜や家族の世話をする人がいなくなり、広い範囲で社会が崩壊したからだった。中世のパンデミックが終わったあとも小規模な流行は続き、ヨーロッパの人口はなかなか回復しなかった。ようやく人口増加が軌道にのってきたのは16世紀頃だ。 

 大災害の影響は生活のあらゆる領域に及んだ。パンデミック後の数十年間は労働力不足により賃金が高騰した。かつての肥沃な農地の多くが牧場になり、丸ごと打ち捨てられる村もあった。 

 英国だけで1000近い村が消えた。とはいえ、悪い面ばかりではなかった。地方から都市に向かって大規模な移住が起きたため、都市は比較的速やかに回復し、商業は活気を取り戻した。田舎に残った農民は遊休地を手に入れ、土地を持つ農民の権力が増し、農村経済が活性化した。 


 実際、歴史学者たちは、黒死病から新しい機会や創造性や富が生まれ、そこからルネサンスの芸術や文化や概念が開花し、近代ヨーロッパが始まったと主張している。

ひるがえって、いまの新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって、何か新しい価値や社会が生まれるのだろうか。災いを福に転じられるかどうかは、これからを生きるわたしたちにかかっている。

この記事はナショナル ジオグラフィック日本版とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。世界のニュースを独自の視点でお伝えします。

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病弱な升田幸三の前でわざと“大食漢”」「名人戦で負けたのに中原誠を激励」50期連続タイトル戦出場…大山康晴の盤上・盤外勝負術がスゴい

2023年11月30日 19時03分54秒 | 文化と芸能
「病弱な升田幸三の前でわざと“大食漢”」「名人戦で負けたのに中原誠を激励」50期連続タイトル戦出場…大山康晴の盤上・盤外勝負術がスゴい(Number Web) - Yahoo!ニュース

 


「病弱な升田幸三の前でわざと“大食漢”」「名人戦で負けたのに中原誠を激励」50期連続タイトル戦出場…大山康晴の盤上・盤外勝負術がスゴい
11/29(水) 11:02配信


生まれ故郷の倉敷市を訪れた際の大山康晴十五世名人 photograph by Masahiko Ishii


大山康晴十五世名人の偉大な将棋人生をたどるシリーズの第2回は「激闘編」。木村義雄名人を破って名人を初獲得、宿命のライバルの升田幸三(実力制第四代名人)との勝負、振り飛車を駆使して五冠を独占した全盛時代、盤外での勝負術、将棋界の太陽と呼ばれた中原誠(十六世名人)の台頭などについて、田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書は当時】(全3回の2回目/#3へ)


【レア写真】「殺気がエグい…」大山vs升田の“昭和の香りプンプン”な名人戦→ゴルフや囲碁して楽しそう!パジャマ姿の藤井くん6歳や“美しい和服姿”結婚式の羽生さん畠田さんら大棋士レア写真も見る


 戦後まもない1946年(昭和21)5月。名人戦の予選リーグに当たる「順位戦」の対局が始まった。従来の段位主体の制度を撤廃し、ABCのクラスで棋士を査定する新たな制度が導入された。


 第1期順位戦には、関西の木見金治郎八段門下の大山康晴六段と兄弟子の升田幸三七段がB級で出場した。升田は12勝2敗でA級に昇級し、大山も11勝3敗の好成績だったがB級に留まった。


 A級で優勝した塚田正夫八段は、1947年の名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝2敗で破り、塚田新名人が誕生した。


 常勝将軍と呼ばれた無敵の木村がついに敗れた。しかし「技術で負けたとは思わない。短時間将棋に対する不慣れが敗因だ。この制度を修業してA級でやり直す」と語り、名人復位を誓った。


大山と升田の立場の違いによって微妙な関係に
 戦前の名人戦は、3日制・持ち時間は各15時間だった。戦後まもない名人戦は、物資が不足して対局場の設営が難しい事情によって、1日制・持ち時間は各8時間に短縮された。大山は戦前の1942年に師匠の木見八段の推挙で毎日新聞社の嘱託に就いた。升田も1943年に病没した大棋士の後任として朝日新聞社の嘱託に就き、新聞社が有力棋士をその身分に遇することは昔からあった。


 大山と升田は立場の違いが生じ、後年に微妙な関係になった。


 第2期順位戦は、A級の升田八段が11勝2敗で優勝した。本来なら塚田名人への挑戦者になるところだ。しかし1年前に規約改正がされていたため、升田、A級2位・3位の棋士、B級1位の大山七段の4人で挑戦権を争うことになった。A級の成績上位者やB級の逸材にもチャンスを与えるという趣旨だった。当時の名人戦主催者は毎日新聞社で、升田は「毎日新聞は大山に都合の良い規定を作ったのだろう」と憤慨した。


 挑戦者決定三番勝負は、升田と勝ち抜いた大山が対戦した。1勝1敗で迎えた第3局は、升田が終盤で勝ち筋になったが、軽率な一手を指して逆転負けを喫した。升田は直後に「錯覚いけない、よく見るよろし」と、おどけるように嘆いた。

29歳での新名人…「箱根越え」を果たした
 1948年の名人戦で大山八段は塚田名人に初挑戦し、2勝4敗で敗退した。


 1949年頃の日本はひどいインフレで、棋士たちも生活が苦しかった。そのため日本将棋連盟は名人戦主催者の毎日新聞社に3倍増の契約金を要求した。ただ新聞社も経営が厳しい状況で、毎日の回答額はそれに満たなかった。連盟と毎日の協議は進展せず、ついに不成立となる。その後、名人戦主催者は朝日新聞社に移行した。そこには同社嘱託の升田の働きかけが影響したという。


 毎日の大山に朝日の升田と、両者は盤上だけでなく盤外でも対立する関係になっていた。


 1952年の名人戦で大山八段は、1949年に名人復位を遂げていた木村名人に再挑戦し、4勝1敗で破って29歳で新名人に就いた。敗れた木村は「良き後継者を得た」と語り、現役引退を47歳で表明した。さらに関西出身の棋士の名人獲得は初めてだったこともあり、新聞は見出しで「名人の箱根越え」と表現した。


「故郷の父からは、十五世を五つ取れと」
 大山が故郷の岡山県に戻ると大歓迎を受けた。しかし、喜びは束の間だった。次期名人戦で防衛できるのだろうかと、その不安感に悩んだという。


 大山名人は1953年と54年の名人戦で升田八段の連続挑戦を受け、いずれも4勝1敗で防衛を果たした。宿命のライバルと言われた対決を制し、それは大きな自信となった。升田の攻めを抑えた受け将棋にも磨きがかかった。ただ大山の将棋は受け一方ではなく、受けるのは攻めるための準備という戦略だった。


 大山は1956年の名人戦で防衛し、名人獲得5期によって十五世名人の永世称号を取得した。同年7月の名人就位式では、「故郷の父からは、その十五世を五つ取れと激励された。あと四つだと早くても20年かかる。そのぐらいの気持ちで精進したい」と挨拶した。


 その頃の大山は、勝つのが当たり前という気持ちだった。しかし、心の中にいつしか緩みが生じてきた……。


カメラマンの要求で大山は頭を下げる投了姿を…
 1956年の王将戦で大山王将は升田八段に3連敗し、当時の規定で失冠した。さらに第4局は香落ち戦(升田が香を落とす)が行われ、大山は名人の立場で敗れる屈辱を喫した。大山の苦難はそれに留まらず、試練の日々が続いた。


 1957年の名人戦で升田王将は大山名人を4勝2敗で破り、悲願の名人位を初めて獲得した。九段戦(竜王戦の前々身棋戦)でも大山を下したので、史上初の三冠王(名人・王将・九段)に39歳でなった。


 升田は「私が一段と強くなったわけではない。無心の境地がわかり、対局で心の平静さを保てたからだ」と、率直な心境を語った。色紙には《たどりきて未だ山麓》という文言を好んで書いた。


 大山は1956年から58年にかけて、升田とのタイトル戦で敗退を重ねた。朝日新聞社が主催する名人戦では、大山は頭を下げて投了した場面をカメラマンの要求で何回も繰り返した(現代では絶対にありえない)。



タイトル連続50期出場を支えた振り飛車と二枚腰
 大山は《忍》という文言を色紙によく書き、自身の勝負と人生でもそれを実践した。升田に負け続けてもその辛さに耐え、予選を勝ち抜いてほかの棋士に挑戦権を渡さなかった。対局が増えると体力を温存するために、序盤作戦が居飛車より割と楽な「振り飛車」を指し始めた。また、自宅で働いていたお手伝いの人に暇を出す、最寄りの駅までタクシーに乗らずに歩く、煙草をやめるなど、経済的な事情もあって身辺を整理した。


 やがて、大山は不調から立ち直った。升田からタイトルをすべて奪還し、V字回復を見事に果たした。前記の事情で用いた振り飛車を、十八番の戦法に仕立てたのだった。


 大山は1960年代前半に五冠王(名人・王将・十段・王位・棋聖)になった。以降も全盛時代を築いた。升田九段、新勢力の二上達也(九段)、加藤一二三(九段)、有吉道夫(九段)、内藤國雄(九段)らの挑戦を下した。タイトルを失っても、翌期に必ず取り返した。


 大山は1957年から1967年までの約10年間、タイトル戦に50期連続で登場し続けた。これは不滅の大記録で、2位の羽生善治九段でも「23期」であることから、その凄まじさが分かる。


 振り飛車を駆使した大山将棋の特徴は、強靭な二枚腰にあった。終盤で追い込まれても危機を逃れたので、「終盤が2回ある」といわれた。色紙に好んで書いた文言は《助からないと思っても助かっている》。


わざとたくさん食べた升田戦、麻雀も1つの手
 大山は、将棋の勝負は技術がすべてではないと思っていた。


 升田とのタイトル戦の対局では、病弱で食が細い升田に見せつけるように――わざとたくさん食べて自分の元気さを示した。


 また、タイトル戦の対局場に着くと、大山は立会人、記者など関係者と麻雀を打った。それは対局前夜、1日目の夜、終局後と連日に及んだ。対局中は控室で麻雀を打たせ、たまに立ち寄って観戦を楽しんだ。


 大山にとって麻雀は、軽い頭の体操のようなもので気分転換になった。ただ別の目的は、対局場の仕切りを自分のペースにすることだった。相手の挑戦者は、いつしか盤上でも丸め込まれてしまうことがよくあった。


 1960年代半ばから新鋭の中原誠(十六世名人)が台頭してきた。各棋戦で活躍し、棋聖、十段のタイトルを獲得するなど駒を自然に前進させて勝つ棋風は「自然流」と呼ばれた。その中原についてメディアは「将棋界の太陽」と称したほどだった。


 1972年の名人戦で中原八段は、通算18期・連続13期も名人位を保持している大山名人に挑戦した。棋界内外で新名人誕生の期待が高まっていたが、大山は百戦錬磨の強さを発揮。3勝3敗で最終局に持ち込まれた一局は激闘の末に中原が勝利して、中原が24歳で新名人に就いた。


「中原さん、もっと強くなってください」と異例の激励
 メディアは大山の敗退を「巨星堕つ」と表現し、引退をほのめかす記事もあった。しかし大山は「負ける気がしなかった」と語った。


 1972年7月の名人就位式では、大山は「中原さん、もっと強くなってください」と激励する異例の挨拶をした。 前記の言葉を言い替えたもので、名人復位を目指していた。


 大山は1973年の王将戦で挑戦者の中原に敗れた。タイトルが49歳でついに無冠となった。それでも「まだまだ指せる」と力強く語った。毎日新聞は「《ハダカ》の大山なお闘志」という見出しを載せた。


 実際に大山は、50歳以降も驚異的な活躍を続けたのだ……。


<第3回へ続く>




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