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百田尚樹氏、「人口少ない鳥取から選ばれたヤツが総理に…」発言が物議 「保守じゃない」「アベサンに恥を」疑問の声相次ぐ

2024年09月30日 21時05分51秒 | 政治のこと
暴言の極み!




百田尚樹氏、「人口少ない鳥取から選ばれたヤツが総理に…」発言が物議 「保守じゃない」「アベサンに恥を」疑問の声相次ぐ
9/29(日) 15:59配信




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中日スポーツ
百田尚樹氏


 作家で、政治団体「日本保守党」の百田尚樹代表が、自身のユーチューブチャンネルで自民党の石破茂新総裁の選出県である鳥取について述べた発言が、ネット上で物議を醸している。


 動画では、石破茂元幹事長が新総裁に選ばれたことで「自民党終了」と断じた上で、石破氏への非難を展開。その中で、百田氏は「もともと、鳥取県かなんかでしょ。鳥取県なんか人口、何人おんねんっちゅう話でしょ? ものすごい少ないですよ、鳥取県の人口なんか。何人おるのか…数十万人ぐらいでしょ。そっから選ばれとるヤツが日本の総理大臣になんねん。もういいかげんにせえよ」と発言した。


 「石破批判」を通り越して、人口が少ない鳥取県自体を軽視していると受け止められかねない発言だけに、X(旧ツイッター)上で擁護する声があまり見当たらず、「鳥取県の票で勝ったわけぢゃあるまいに」「いくら石破が気に入らんからと言って、鳥取県をバカにしたようなモノの言いようは極めて不愉快」「石破茂は嫌いだが、こんな理屈で批判できない」「その理屈からいくと東京都選出の議員しか総理大臣になれない、ということになる」などと非難する声があふれた。


 「これが保守なのか」「保守な私でもまったく支持できない。極端すぎるんだよな…」「百田尚樹って地方差別主義者なんだ」「地方差別する代表の党が保守なワケありません」「鳥取県のような地方をどうやって守っていくかは日本の将来に関わること。あなた及びあなたの党は日本でも保守でもありません」などと、日本保守党自体を疑問視する書き込みも多く上がった。


 鳥取県の人口は54万人弱で47都道府県で最も少ないが、「1票の格差」を抑えるために、小選挙区制では有権者の人口差が考慮されている。それと、百田氏が安倍晋三首相と親密な関係だったことを念頭に、「鳥取50万、山口120万どっちも田舎。少ない人に選ばれた人が総理だとダメなら21年衆議院選挙山口4区、安倍晋三80448 鳥取1区、石破茂105,441 石破茂と書いた人の方が多いですよ」「アベサンに恥をかかせるつもりか?」などの指摘も目立った。


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赤い夕焼けです>ときはめぐりて

2024年09月30日 17時03分53秒 | 日々の出来事
夕焼けの赤です❗

秋の色ですね🍀


11/15/2020
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50年前、ハンバーグはご馳走だった。受け継がれる味と思い

2024年09月30日 12時06分22秒 | 食のこと

街角にひっそりと佇む昔ながらの洋食店。



どんな街にも当たり前のようにある光景が、今。少しずつ姿を消しつつある。そんな町洋食の語り尽くせない本当のスゴさに迫る――。 

親しみやすく品格も感じられる洋食店の歴史

カウンターだけの店内。着席すると紙ナプキンが敷かれ、ナイフとフォークが置かれる



 今なおハンバーグ530円の価格を守る、高円寺の「ニューバーグ」を前回に続き紹介する。ここの50年を超える歴史は少し複雑だ。

  創業当時は別の人が経営していた。庶民にとってまだ高嶺の花だった「ナイフとフォークで食べる洋食」を大衆食堂並みの安い価格で提供したニューバーグ。店は評判を呼び、最盛期は7店舗もあったそうだ。

  ところが、ファミリーレストランなどの台頭で「気軽な洋食」はここだけではなくなった。一軒、また一軒と支店が閉店するなか、高円寺店を買い取ったのが平井誠さん。現在、店を切り盛りする平井誠一さん・仁さん兄弟のお父上だ。ニューバーグは平井家には思い入れのある店だった。

 「ハンバーグなんてご馳走、当時は滅多に食べられなかったよね。それを使い慣れないナイフとフォークで気取って食べるのが嬉しくて抜群においしくてさ」(仁さん)  
   

先代がニューバーグを買い取ったワケ

一時は惣菜の注文をこなしきれないほどだった工場を、仕込みをする工場へと転換(写真左側)。

このシステムを説明するために見せてくれた紙

 ただ先代がニューバーグを買い取った理由は、客として通った店に対する思い入れだけではない。  

当時、平井家は今のお店がある場所の近くに小さな惣菜工場を構えて、ポテトサラダやマカロニサラダなどを市場に卸していた。しかし、大手メーカーが全国に販路を広げるなか、売り上げを減らす。そこでハンバーグなどの仕込みを行えば薄利多売の店も効率的に運営できるというのが、経営判断だった。

前身の惣菜工場のルーツが残るポテトサラダもついたミニサラダ(100円)。ポテトサラダ自体も200円でメニューに掲載されている



 そして現在、その工場で仕込みを一手に引き受ける実質上の「シェフ」である誠一さん。誠一さんは、製粉会社勤務を経て、’90年に惣菜工場から洋食屋のキッチンに生まれ変わったそこの仕事を父親から引き継いだ。その1年前には弟の仁さんもお店の現場に入っており、以来二人三脚でお店を運営していく。 


 製粉会社は食品関連だが、料理人としての修業を経たわけでもない誠一さんは「思い返すと運も良かった」と言う。



50年以上受け継がれる「メキシカンソース」



私がたどり着いた現時点で最高のアレンジメニュー(790円)、ハンバーグダブル・ソースの半分をメキシカンに変更・コロッケトッピング。ソース追加は30円か60円で対応可。スパゲッティも50円で追加ができる

 ニューバーグの看板であるハンバーグ、そしてデミグラスソースとメキシカンソース、この3つのレシピは前の経営者の時代からそのまま受け継がれた。50年以上も前のレシピが、さらに父から息子へ忠実に伝承されたという。 

 その一つ“メキシカンソース”。実は、私はこのソースを避けてきた。勝手に“ケチャップ味”だと思い込んでいたからだ。ケチャップは洋食屋の陰の主役の一つだが、私はこれが前面に主張しすぎた人懐こすぎる味わいをあまり好まない。  

しかし、メキシカンソースは思い込みを完全に裏切るものだった。トマトピューレがベースの甘さのないキリッとした味わいを、タバスコの辛味と酸味が引き締める。そして、それを支える香味野菜の静かに複雑な味わい。

  ケチャップ味とは別物だし、最近主流のイタリア料理的なトマトソースとも異なる、クラシックフレンチからのいにしえの西洋料理という流れを汲む品格のあるソースだった。

 「好きな人はメキシカンソースを倍にして、ついでにスパゲッティも増量するんだよ」(仁さん)  
   

愛される料理とは“ディテールの積み重ね”

  そんな極めて現代的な“カスタマイズ”の自由度の高さもこの店の魅力だ。  私がたどり着いた現時点で最高のアレンジは「ハンバーグダブル・ソースの半分をメキシカンに変更・コロッケトッピング」である。

  レストランらしい俵形の端正な見た目、中身はあえて肉が入らない野菜のみのコロッケ。「誰も気づかないかもしれないけど、少し干し海老が入ってるんだよ」と誠一さんが教えてくれた。確かに気づかないかもしれない。文字通り「隠し味」だ。でも愛される料理とはそういうディテールの積み重ねである。 

「今どきこんな地味なコロッケ、誰も作らないよね」と誠一さんは笑うが、今となってはそういうものこそが何より貴重なのだ。そして、コロッケやサラダのドレッシングなど脇を固める料理は、知り合いだった一流ホテルの洋食コックさんのアドバイスを受けながら、なんと誠一さんの母親が作り上げたという。 「とにかく料理上手な人だったからね」と語る誠一さん。

確かにコロッケもドレッシングも、派手なところは何もないが逸品である。ドレッシングはすりおろした玉ねぎがベースの正統派の洋食店の味わいに、主張しすぎない醬油の隠し味が潜んだ品格がある。コックさんのプロの技術とお客さんの好みを推し量ったマダムの感覚がうまくバランスしたということだろうか。



カレーも隠れた名物料理

私もヤミツキになった黒カレー(600円)。なぜか店内メニューにはないが、入り口横には大きく紹介した紙が貼られている

 さらにカレー(600円)も隠れた名物料理だ。誕生当時の従業員がニューバーグのハンバーグをこよなく愛しており「僕はこのハンバーグでどうしてもハンバーグカレーを食べたい」と主張したのがきっかけだとか。  

その熱い想いを受けて最終的にカレーを完成させたのは、誠一さんの奥さまだという。「妻も料理がうまくてね」とさらっと言う誠一さんだが、そのカレーはアマチュアが一朝一夕にこしらえるようなものではない。 

 玉ねぎと挽き肉を炒めたところに、セロリ、リンゴ、人参などをミキサーでペーストにしたものとカレー粉のほか複数のスパイスをミックスして煮込まれるこのカレー。いわゆる「黒カレー」と呼ばれるタイプの東京の町洋食を象徴するような一品だが、他のどの黒カレーにも似ていない。ヤミツキになるお客さんが続出するのも納得だ。他の料理と同様、親しみやすさのなかに品格のようなものが感じられる。  
   

「嬉しそうに食べてくれるお客さんを見ると手は抜けない」
 「いろんな人がいいタイミングで関わってくれて今の味ができたんだよね。運がいいよね」と語る誠一さん。時間帯によっては仁さんに代わってお店に立つこともある。 「自分が作ったものを嬉しそうに食べてくれるお客さんを見ると手は抜けないし、もっとおいしくするにはって、自然と考えちゃうよね。じゃないと毎日面倒くさい仕込みなんてやってらんないしさ」  製造部門の分離という今日的システムを早くに確立したニューバーグ。しかし、個人店の本質とは結局のところ、こんな部分にあるのだろう。食べ手一人ひとりの表情がそのお店を形づくるのだ。




ニューバーグ
03-3339-0919
11:00~22:00


東京都杉並区高円寺北3-1-14
JR中央線高円寺駅から徒歩2分





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ススキの穂

2024年09月30日 06時05分47秒 | いろいろな出来事
ススキの季節になりますね❗




9/4/2021
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遭難した洞爺丸>「合唱のような不気味な汽笛が響いた」。さぶちゃんの同級生が記憶する洞爺丸沈没の夜 翌朝、高校の屋上から見た光景は

2024年09月30日 03時05分48秒 | 事件と事故


「合唱のような不気味な汽笛が響いた」。さぶちゃんの同級生が記憶する洞爺丸沈没の夜 翌朝、高校の屋上から見た光景は…(47NEWS) - Yahoo!ニュース 





「合唱のような不気味な汽笛が響いた」。さぶちゃんの同級生が記憶する洞爺丸沈没の夜 翌朝、高校の屋上から見た光景は…
9/25(水) 10:02配信


47NEWS


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遭難した洞爺丸


 北海道函館湾内で乗客乗員計1155人の命が奪われた、国内最悪の海難事故の旧国鉄青函連絡船「洞爺丸」沈没から9月26日で70年。約1500人が犠牲になった英国の豪華客船「タイタニック号」沈没事故(1912年)に匹敵する大惨事だった。洞爺丸沈没当時、函館市の高校生だった山岸光生(やまぎし・みつお)さん(88)=札幌市在住=はあの夜、不気味な音を聞いていたという。不安な夜が明け、見た光景は―。今回、初めてマスコミの取材に応じ、当時の出来事と洞爺丸への思いを語った。(共同通信=志田勉)


 ▽九州に上陸後、北海道へ


 洞爺丸沈没事故とは、どのようなものだったのだろうか。1954年9月、九州南端に上陸した台風15号は26日夜半、北海道南部を襲った。函館から津軽海峡を渡り青森に向かう予定の洞爺丸は台風接近で出航を見合わせた。だが午後6時半すぎ、船長の判断で出航。未曽有の受難の始まりだった。


 折からの猛烈な風と大波に襲われ、出航後に間もなく航行不能になる。函館湾七重浜沖合で約4時間後に転覆・沈没した。全国各地で被害をもたらした台風は「洞爺丸台風」と命名された。
 ▽「海峡の女王」とボートで並走


 沈没事故が起きた年、山岸さんは函館西高校の3年生だった。同級生には、後に演歌界のスターとなる「さぶちゃん」こと北島三郎(きたじま・さぶろう)さんがいた。「休み時間の鼻歌で教室がシーンと静まりかえるほどうまかった」。


 山岸さんはボート部でキャプテン。4人こぎの「ナックルフォア」で、全体のリズムをとる「ストローク」を担当した。


 放課後のボート練習は函館湾だった。観光名所の金森倉庫群近くの西波止場から函館桟橋に向かって約千メートルこいで戻ってくる。「波が穏やかで、ナックルフォアの大会と同じくらいの距離なので、ちょうど良かった」


 風を切り、水面を滑空するようにオールでこぐと、行き交う青函連絡船と約500メートル並走できた。「洞爺丸、羊蹄丸、摩周丸…。ボートで連絡船に近づくと汽笛で注意されたこともあった」。山岸さんは懐かしそうに振り返る。


 青函連絡船は最盛期に13隻で1日30往復していた。その中でも洞爺丸は別格だった。全長100メートルを超える船体と優雅なたたずまいから「海峡の女王」と呼ばれた。練習中にデッキから乗客が「頑張れ」と手を振ってくれたこともあった。

 「私にとっては『女王』というより『雄姿』かな。4本の煙突があって、格好良かったよ」。憧れは日に日に増し、いつか洞爺丸の船長にと夢が膨らんでいった。
 ▽あかね色に染まった西の空


 山岸さんは当時、函館山のふもとの教会近くに住んでいた。「あの日」は日曜日。函館市内で小間物屋を営む叔父が東京・浅草で買い付けを終え青函連絡船で帰ってくる日だった。叔母から函館桟橋に迎えに行くように頼まれた。


 午後2時過ぎ函館桟橋に行くと、青森発函館行きの大雪丸は予定時刻を過ぎても接岸していない。雨脚は弱かったが、強風だった。


 2時間以上遅れで到着した叔父の顔は青ざめていた。「津軽海峡に入ったら揺れがひどくて、ひどくて。おっかなかった」。隣の岸壁で洞爺丸が出航準備していた。


 その頃、急に西の空があかね色に染まった。山岸さんは鮮明に覚えている。「晴れ間が広がり、風も弱まった」。午後5時ごろ、函館は台風の目に入った様相を示した。


 しかし、事故後に海難事故の原因究明に当たる海難審判の裁決などによると、台風は北海道に近づくにつれ速度を落とし、津軽海峡の西方に。夕焼けは台風とは別の前線通過による現象だった。


 裁決では事故要因の一つとして「台風が通過したと認められない荒天下に運航した」と、死亡した船長の職務上の過失を認定した。「一瞬の晴れ間」が出航判断に影響したとみられている。
 ▽深夜、叔父と顔を見合わせて「なんだべや」


 その晩、山岸さんは函館桟橋近くの叔父の家に泊まった。「ピューピューと風が強くてね。トタン屋根が飛んできて、何かにぶつかり火花が出た」。五寸くぎで雨戸を固定し、台風に備えた。


 夕食を終え、くつろいでいた午後11時ごろ。不気味な汽笛が聞こえた。「1隻だけではない。何隻も一斉に『ボー、ボー』と鳴って、まるで合唱のようだった」。山岸さんは記憶の糸をたどる。「なんだべや」。叔父と顔を見合わせ、不安を抱えつつ床に就いた。

 共同通信の情報公開請求で海難審判所が開示した青函鉄道管理局と洞爺丸の通信記録によると、洞爺丸は「2226(午後10時26分)ザセウセリ(座礁せり)」と発信している。七重浜沖で沈没したのは午後10時45分ごろだった。


 洞爺丸沈没の約15分後に山岸さんが聞いた汽笛は何だったのだろうか。


 洞爺丸以外に第11青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸の青函連絡船の貨物船4隻が午後8時ごろから午後11時40分ごろにかけて相次いで同じ函館湾で沈没した。死者は約270人に上る。裁決によると、湾内で沈没船を含め十数隻の船がひしめくように停泊していた。


 荒れ狂う大波や強風で阿鼻叫喚の状況が続く中、洞爺丸の惨劇を察知した他の連絡船か、救難に向かおうとした船が一斉に汽笛を鳴らした可能性がある。


 ▽級友と目撃した白波の立つ黒っぽい船底


 事故の翌朝、叔父からたたき起こされた。「光生、洞爺丸が沈んだとラジオで言っているぞ」。山岸さんは身震いした。通っていた函館西高は観光スポットの八幡坂を登り切った高台にある。「登校途中、至る所で木が根こそぎ倒れていた」


 教室では洞爺丸の話で持ちきりだった。住宅損壊など台風被害のため欠席する生徒が多く、朝会後に授業は中止。山岸さんは級友と一緒に校舎の屋上に上がった。


 七重浜の方角に目を凝らすと、沖合で白波を立てている黒っぽい船底が見えた。洞爺丸だった。ラジオのニュースが沈没地点に言及していたので、間違いない。「あんな大きな船がひっくり返るなんて」。ボートで並走した憧れの船の無残な姿に息をのんだ。そして船とともに海中で命を落とした乗客らに思いをはせ、黙って手を合わせた。


 山岸さんは就職活動で北海道警と旧国鉄の採用試験を受けた。高校の教師から警察官を強く勧められたが、青函連絡船の船長になる夢を捨てきれなかった。


 結局、採用通知が早かった道警に入った。「警察官人生に悔いはないが、洞爺丸の雄姿と夜半に聞いた汽笛の音は忘れることができない」。青春の一ページとして心に深く刻み込まれている。











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